1
沈降するイメージ。
そんなふうにシリアス気味に言ったのに、メリーはなにか卑猥な連想でもしたのか、大爆笑した。
まあ、べつにいいけどね。
なんの話かというと、潜水艦だ。
潜水艦は水にもぐる。
沈降する。
バイタルサインのような電子の音を響かせて、
ゆっくりと水葬されていくような、
そんな感じ。
潜水艦に乗っている人には悪いけれど、私の潜水艦のイメージはつまるところ沈む棺おけなのだ。
仏教的な思想なのかなと思う。
仏教って葬式で連帯するようなところがあるから。
これはもともとの教義ではなくて、おそらくは日本式の仏教のお話。
葬式で集まっていく。
死人も生きている人も葬式で戯れる。
そんなところが日本の精神風土にはあって、なんとなくおもしろい。
輪廻のわっか。
死は生の裏側にある。
そうすると、死ぬのは還ること。
どこに?
海に。
この肉体は海から創られたのだから当然だ。土からという見解もあるだろうけれど、海底には砂があるからさほど問題ではない。
砂浜も海岸にはあることだし。
ともかく――、
そんなたわいもない連想だ。
幻想郷には海がない。
つまり、幻想郷は還る場所が無い。
逆を言えば、現実には還る場所があるということなのかもしれない。
そして、私は思う。
幻想は死なないのだろうか?
2
よく晴れた日のできごと。
友人のにとりが潜水艦を作ったというので、さっそく文先輩とともに取材に行くことにした。
ボクはいわばお手伝い。
下っ端天狗のボクは、なんのかんのいっても実力者な文先輩には逆らえないのだ。
でも文先輩のことは嫌いじゃないし(時々セクハラするのを除けばだけど)、いろいろと珍しい出来事に出会えるので、経験値上昇のためにもいいと思っている。
「ふむ。しかし潜水艦ですか。興味深いところではありますけれど、沈降する場所がありませんよね。何か聞いていませんか椛」
「ボクに言われても困りますよぉ」
「海が無ければ潜水艦なんて意味ないでしょうに」
「まあ確かにそうですよね」
そんなことは言われなくてもわかっているのだ。
幻想郷には海がない。
広大な湖があるものの、あくまで湖であって、原初の生命がゆらめいていた海はどこにもない。
なんとなくだけど、懐かしい感じはするのだ。
海というシニフィアン。
つまり、うみという音に対して。
得体の知れない懐かしさと、せつなさの中間の感覚。
生命のノスタルジーなのかもしれない。
「椛?」
「いえ、なんでもないです。興味があるってだけですよ」
滝を下って、河のほとりに向かう。
朝方の太陽が、水面をキラキラと輝かせている。ボクと文先輩はゆるやかなスピードで滝の水面ギリギリを飛ぶ。
じゃば。
水面から、ちょっぴり大きなサイズの妖精さんが顔をだした。
「おつとめ、ごくろーさま」
とボクは声をかける。
そうすると、その妖精さんは驚いたらしく「んきゃ」と言って、また滝の裏側にひっこんでしまった。
んふふ。かわゆーい。
妖精さんはボクら天狗とは違う種族だけど、そこは共存共栄の関係にあるのだ。
妖精さんもなかには戦闘タイプがいて、恥ずかしがりやだけど、わりと弾幕ごっこがうまい子もいる。彼女はそんな妖精さんだ。
そんなわけで、つきました。
河のほとりのにとりハウス。
「ああ、よくきたね」
3
「ああ、よくきたね」
そんなふうに声をかけられたのは何年ぶりだろう。
白い髭をはやしたいかにも人好きのするおじいさんだった。
生きていくと、いろいろなことがわすれさられていくものだけれども、普段からメリーと挨拶を交わしたりはするけれども、まったくの他人とただなんとなく挨拶を交わしたことは、いつ以来だったか。
子どものときぐらいかもしれない。
そこは、シーハウスといって、今は昔の海の生物とかをホログラフィックに再現している場所だった。
つまりはデジタル水族館といった風情。
もちろん、本物の海の生物もいるのだが、ほとんどはデジタルで再現された映像にすぎない。
この水族館ができた当初、それはすごい賑わいだったらしい。なにしろ映像さえ作ってしまえば、あとは完全無欠の水族館。
維持費はほとんどかからない。
動物たちの体調管理に気を使う必要もなければ、繁殖に気をもむ必要もない。
それに、世界中の海の生き物が、本物と同じような迫力で見ることができる。
そもそも本物の水族館だって、ガラスの向こう側に本当に海の生き物が生きているのかわからないのだから、それでよいのだ。
けれど――、
いまは、そんな賑わいも嘘のよう。
幻のように静寂が包んでいる。
私はそんな静かな場所にまつわる物悲しさが好きだった。
物が死んでいる感じがする。
物が死んでいるのが、綺麗で、だから好きなのかもしれない。
好きというか、なくしたものを取り戻したいと願う幼い子どものような心境に近い。
それとも私が物になりたいのか。
「まるで廃墟みたい……」
「はは、最近の若いお嬢さんたちにとってはそうかもしれんな」
小さく呟いただけだったが、思いのほか、静けさのなかで声は響くらしい。
顔が火照るのを感じた。
「すいません」
「いや、悪い気はしとらん。ただ……、この寂しさも悪くはない」
「幻想は死ぬのでしょうか?」
ふと質問をしてみた。
なにげなく、誰かに問いかけてみたかったかもしれない。
「幻想が死ぬ?」
「誰にも省みられなくなって、誰も思い出さなくなって」
虚構すら、虚構へと。
幻想すら幻想へと帰するのかもしれない。
ほら――、ね?
デジタルで創られたこの世界すら、もう、幻想になっている。
4
「いつか海行きたいよねー」
にとりはそんなふうに、軽い口調で切り出した。
ボクも確かにいけることならいってみたい。どうしてかっていわれると微妙に答えにつまるんだけど、自分のルーツを知りたいっていうかそんな感じ。
海から生まれた。
だから海へ還ろうとする。
ごく自然な帰巣本能。
「おやおや、椛。尻尾ぱたぱたして嬉しそうですね」
「はい。ボク嬉しいです」
「ほんとうに椛はかわいいですねえ。ほら、もふもふ」
「や、やめてください。文先輩。尻尾は敏感なんですって!」
「わかっていてわざとそうしているのですよ」
「なおのこと悪い!」
パチパチと手を叩く音。
にとりが助け舟をだしてくれた。
「さっさと本題に移りたいんだけどね」
「あー、はい、じゃあよろしくお願いしますよ」
「説明しよう!」
にとりは帽子をぎゅっとかぶりなおすと、おもむろに白いボードを取り出してきて、バンと裏側に返した。
そこには潜水艦の全面図が緻密に製図されていた。
設計図とか見てもよくわからない。
聞きたいのはそういうことではないのは、にとりだってわかっているはずなのに。
当然、文先輩も怪訝そうな表情だ。
「あの、私としても読者の方たちにしても知りたいのは、どういうふうに作られているのかではなくて――」
「どうやって海へ行くのか、でしょう」
「ええ、そうですよ。そのとおりです」
「じゃあ、早速だけど乗ってもらおうかな」
潜水艦の形は、ちょっと扁平型のボールのようだった。ラグビーボールに似ているのを想像してもらえるとわかりやすいかも。それで、上と下の部分には、亀の頭のようにでっぱった部分があって、そこから出入りするようだ。色は、青。海に似た色。マリンブルー。
今は、いくつものワイヤーで空中につるされている。
にとりが機械を操作して、潜水艦を河へと着水させた。けれど河の深さはせいぜい一メートル程度だ。もぐれるほどの深さはないはずだけど。
「まあ潜水艦は浮くこともできるからね。このまま湖までいくもよし、今日のところは乗り心地を試してみるってのも良いかもしれないじゃないか」
にとりに促されるように、ボクと文先輩は潜水艦のなかに入った。
そこは小さくて、狭苦しくて、息が苦しくなるような、そんな密室だった。
まるで棺おけのようだとボクは思って、少しだけ怖くなった。
「おやおや、椛はもしかして閉所恐怖症ですか」
「そんなことないですよ。んもうー」
文先輩はカラカラと笑った。
「それにしてもずいぶんと狭いんですねぇ」
文先輩も同じ意見を抱いていたらしい。歯に物を着せない言いっぷりは記者魂から来るものだろう。
にとりは嫌な顔にならなかった。
むしろ、想定どおりといった表情だった。
「まあ、そういうふうにつくってるんだよ。この潜水艦。実は一人用だからね」
「え、でも席は三つありますよ」
「操舵手の席が本命で、左右にあるのはいわばサブかな。一応故障のときとかのために作っておいただけだよ」
「そうなんですか」
「ふたりには左右の席に座ってもらおう」
ボクと文先輩はにとりに言われたとおりに座った。
席はなんだか妙に体に吸い付くような感覚で、背もたれの部分が絶妙な柔らかさで気持ちよかった。
なんだかベッドのような感じだ。
「ふたりとも座った?」
「ええ」
「はい」
「ああ、シートベルトは一応しておいて」
「シートベルト?」文先輩が聞く。「なんですかそれ」
「腰のところにあるだろう。カチャと音がするまではめて、腰の部分を固定するんだよ。一応揺れるからね」
恐る恐る手を伸ばして、シートベルトで腰を固定する。
にとりはボクと文先輩がちゃんと腰をシートベルトで巻いたのを確認してから、ようやく出航のサインをだした。
「では、大海原へ繰り出しましょう」
「ないですけどね」
「ないですね~」
潜水艦は河を下っていく。
5
おじいさんに水族館のなかを案内してもらった。
完全にデジタル制御された生命たち。
イルカもアシカも、サメも、アンコウも、全部生きているかのように見える。
けれど触れない。
「見るだけではご不満かな」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
言葉に詰まってしまう。
メリーと喋るときのようにうまくいかない。
躍動する生命の姿を見れば、心が躍るはず。
けれど私はここにいる生命たちが幻想の存在であることを知っているから、哀しいと思ってしまうのかもしれない。
それは、人間もいつか滅びることを予感させてしまうから。
いつか、メリーも死んじゃうのかなと思ってしまうから。
死ぬのが怖いんじゃなくて、滅びていくのが怖い。
綺麗な幻想になってしまうのが怖い。
「お嬢さん、気分でも悪いのかな」
「いえ、そういうわけでは」じっと黙っていたから変に思われたのだろう。「そういえば、あの、あれはなんです」
会話を取り繕うように、私は空中に浮かぶ巨大な砂時計を指差した。
吹き抜けを貫くように置かれた細長い砂時計だ。
海の表象である水族館に、砂時計なんて不釣合いも甚だしい。私だったら例えば潜水艦にするだろう。
マリンブルーにぬった小さくてかわいらしい潜水艦。
「あれはいのちの表象だよ」
「そういうタイトルの砂時計なのですか」
「いや、ここはデジタル制御された生命しかいないだろう」
「ええ」
「だからすべてが嘘にならないために、ほんの少し、本当を混ぜておきたいと思ったのだろう」
「本当を?」
リアルさを?
生命のリアルさを、砂時計が保全してくれているのだろうか。
どうして?
「あの砂時計は百年の時を刻むらしい。わが国の平均寿命は知ってのとおり百年と少し程度。つまり、あの砂時計は我々の時間を刻んでいるともいえる」
「どうして普通の時計にしなかったんでしょう」
「人間にはまだ、海が必要だということなのかもしれないな」
「地球という母親が、必要ということですか」
重力があるから忘れがちだけれども、ここは、衛星軌道上に浮かぶ小さな小さな水族館。
6
潜水艦は湖の中へ沈降する。
丸い窓ガラスから水が入ってきそうで、ボクはちょっと震える。
まあちょっぴり水は苦手です。
「大丈夫ですよ。耐久性はばっちりですから。水圧で少し揺れるから、背もたれに体重預けて」
にとりに言われたとおりにする。
揺れといっても、穏やかなもので、なんだかゆりかごのようだ。
海を散策するのに、こんなに気持ちよくていいのかなと思ってしまう。
ゆらゆらゆらゆら。
ゆらゆらゆらゆら。
ゆっくりと体が揺らされる感覚。
だめだ。
とても眠い。
取材にきたのに、猛烈な睡魔が襲ってくるんだけど、文先輩がいるから、ボクはいいかなとか思ってみたり。
ふがいない後輩でごめんなさい。
ざ……ざ……ざ。
ざざざ。
ざざざざざん。ざざざざん。
そんな音が聞こえてきた。
軽い酔いに似た不明瞭な感覚とともに、ボクはゆっくりと目を覚ます。
ぼんやりとした視界。
にとりの背中。
「もうすぐ海につくよ」
海?
海は幻想郷には無い。
だから、海なんてどこにも無いはずだ。
でも、ボクはゆっくりとうなずいた。
しばらく沈黙が続いた。
文先輩は、一心に窓ガラスの中を見つめていた。
丸いガラスの外には、今は何も見えない。
薄暗い闇夜に似た暗闇があたりを覆っていて、ボクは急に怖くなる。
狭いところが怖いんじゃなくて、なんとなく動けなくなるのが怖いだけ。
「海についたら明るくなるから」
にとりは背中を向けたままだったけど、ボクの表情がわかるみたいだった。
そんなに怖がってるのが丸わかりなんだろうか。哨戒を任務とするボクとしては反省すべき点なのかも。とほほ。
突然、視界が開けた。
天壌のあたりから光が差し込むような、そんな感覚だ。
光があたることによって、ようやくここが本当に闇夜ではなくて海の中なんだなと理解できた。
「魚群だー! これは調子がいいですよ。明らかに何かがフィーバーしそうな予感です!」
いままで黙っていたのが嘘のように、テンションが一気にマックスになる文先輩。
ボクのほうにも魚の群れが見えた。
いままで見たことがないような大きな魚。
あれは絶対に河にいる魚じゃない。
つまりここは本当に海だってことで、ボクは事態の大変さがまだよく飲みこめていなかった。
ただ、魚たちが横切るときの、あのすばやい動き。
空中を跳躍しているかのような筋肉の動きは、明らかににとりの創作じゃない。
そんな技術はいかに河童の技術が優れているといっても不可能なはずだ。
だとすれば――これはいったいどういうことなのだろう。
いぶかしむよりも前に、その視覚情報に圧倒されていく。
「椛ぃ、すごいですよ……あれは文献で見たことがありますが、ブリです。あ、こっちのはハマチです。ブリ。ハマチ。ブリ。ハマチ」
踊りだしそうな雰囲気だった。
確かに、なんだかおいしそうな魚の姿もちらほらと。じゅるり。
「堪能した?」
「ん」
断言してもいい。やっぱり想像どおり海は最高だった。
「じゃあ、還ろうか」
唐突に告げられる帰還宣言。
それから、ボクはまた眠りに落ちていく。
7
幻想郷は現実のカリカチュアである。
そうだとすれば、現実の帰結として死がある以上、幻想もまた死ぬだろう。
そして、物は死に絶える。
「そんなことを考えてきたわけよ」
「なにそれおいしいの?」
メリーはあいかわらず自由人。常識人はいつだって自由人の前に敗北するのだ。
これはなんといえばいいか、王様がアホに負けるという真理と同じだといえる。
「まあ、でも……」
メリーは紅茶を優雅に飲みながら言った。
「こぼれていくものもあるけれど、死ぬことで残されていくものもあるかもしれないわね」
「そうかしら」
「ええそうよ。だって私たちだって死なないと次代を残せないじゃない」
「じゃあ永遠に生きる人間は?」
「子どもを残せないでしょうね。完結している人間は子どもを残す必要がない。死ぬから残そうとするのか。残すために死ぬのかは曖昧なところだけど」
「よくわからない話」
「単純な話よ」
「じゃあ私が死んだら何が残るの?」
「あなたが死ねば、海が残るかもしれないわね」
「どうして? 死体は焼くのよ日本では」
「そうじゃなくて――」
そうじゃなくて、とメリーは目を静かに閉じた。
「だって、きっと、泣いちゃうじゃない」
海が体内から溢れるらしい。
なんてロマンチストなんだろう。
思わず赤面してしまい、それからまともにメリーの顔を見続けることができなかった。
8
「臨死体験発生装置!?」
ボクは飛び上がって驚いた。
ネタを暴露すると、にとりが創ったこの機械は、擬似的に臨死体験させるつもりらしい。
まあ意識を無意識のなかに無理やり沈降させていって、生命としての歴史を再体験させるとか。
どこかで聞いたことのある話だけど、生命は母親の体の中で海の生命としての記憶を追体験するらしい。
その記憶をもう一度見せるという話だ。
ボクにはブリやハマチだった思い出なんて無いんだけど、もしかすると、そういう記憶が体のどこかに残っているのかもしれない。
でも、本当は素肌で海に触れてみたいとも思った。
潮風を吸って、
覚醒とは程遠い気だるい陽光のなか、ボクは全身を塩辛い水に浸す。
そして、『ただいま』って言って、それだけだよって。
そんな他愛のない会話を誰かと交わすのだろう。
沈降するイメージ。
そんなふうにシリアス気味に言ったのに、メリーはなにか卑猥な連想でもしたのか、大爆笑した。
まあ、べつにいいけどね。
なんの話かというと、潜水艦だ。
潜水艦は水にもぐる。
沈降する。
バイタルサインのような電子の音を響かせて、
ゆっくりと水葬されていくような、
そんな感じ。
潜水艦に乗っている人には悪いけれど、私の潜水艦のイメージはつまるところ沈む棺おけなのだ。
仏教的な思想なのかなと思う。
仏教って葬式で連帯するようなところがあるから。
これはもともとの教義ではなくて、おそらくは日本式の仏教のお話。
葬式で集まっていく。
死人も生きている人も葬式で戯れる。
そんなところが日本の精神風土にはあって、なんとなくおもしろい。
輪廻のわっか。
死は生の裏側にある。
そうすると、死ぬのは還ること。
どこに?
海に。
この肉体は海から創られたのだから当然だ。土からという見解もあるだろうけれど、海底には砂があるからさほど問題ではない。
砂浜も海岸にはあることだし。
ともかく――、
そんなたわいもない連想だ。
幻想郷には海がない。
つまり、幻想郷は還る場所が無い。
逆を言えば、現実には還る場所があるということなのかもしれない。
そして、私は思う。
幻想は死なないのだろうか?
2
よく晴れた日のできごと。
友人のにとりが潜水艦を作ったというので、さっそく文先輩とともに取材に行くことにした。
ボクはいわばお手伝い。
下っ端天狗のボクは、なんのかんのいっても実力者な文先輩には逆らえないのだ。
でも文先輩のことは嫌いじゃないし(時々セクハラするのを除けばだけど)、いろいろと珍しい出来事に出会えるので、経験値上昇のためにもいいと思っている。
「ふむ。しかし潜水艦ですか。興味深いところではありますけれど、沈降する場所がありませんよね。何か聞いていませんか椛」
「ボクに言われても困りますよぉ」
「海が無ければ潜水艦なんて意味ないでしょうに」
「まあ確かにそうですよね」
そんなことは言われなくてもわかっているのだ。
幻想郷には海がない。
広大な湖があるものの、あくまで湖であって、原初の生命がゆらめいていた海はどこにもない。
なんとなくだけど、懐かしい感じはするのだ。
海というシニフィアン。
つまり、うみという音に対して。
得体の知れない懐かしさと、せつなさの中間の感覚。
生命のノスタルジーなのかもしれない。
「椛?」
「いえ、なんでもないです。興味があるってだけですよ」
滝を下って、河のほとりに向かう。
朝方の太陽が、水面をキラキラと輝かせている。ボクと文先輩はゆるやかなスピードで滝の水面ギリギリを飛ぶ。
じゃば。
水面から、ちょっぴり大きなサイズの妖精さんが顔をだした。
「おつとめ、ごくろーさま」
とボクは声をかける。
そうすると、その妖精さんは驚いたらしく「んきゃ」と言って、また滝の裏側にひっこんでしまった。
んふふ。かわゆーい。
妖精さんはボクら天狗とは違う種族だけど、そこは共存共栄の関係にあるのだ。
妖精さんもなかには戦闘タイプがいて、恥ずかしがりやだけど、わりと弾幕ごっこがうまい子もいる。彼女はそんな妖精さんだ。
そんなわけで、つきました。
河のほとりのにとりハウス。
「ああ、よくきたね」
3
「ああ、よくきたね」
そんなふうに声をかけられたのは何年ぶりだろう。
白い髭をはやしたいかにも人好きのするおじいさんだった。
生きていくと、いろいろなことがわすれさられていくものだけれども、普段からメリーと挨拶を交わしたりはするけれども、まったくの他人とただなんとなく挨拶を交わしたことは、いつ以来だったか。
子どものときぐらいかもしれない。
そこは、シーハウスといって、今は昔の海の生物とかをホログラフィックに再現している場所だった。
つまりはデジタル水族館といった風情。
もちろん、本物の海の生物もいるのだが、ほとんどはデジタルで再現された映像にすぎない。
この水族館ができた当初、それはすごい賑わいだったらしい。なにしろ映像さえ作ってしまえば、あとは完全無欠の水族館。
維持費はほとんどかからない。
動物たちの体調管理に気を使う必要もなければ、繁殖に気をもむ必要もない。
それに、世界中の海の生き物が、本物と同じような迫力で見ることができる。
そもそも本物の水族館だって、ガラスの向こう側に本当に海の生き物が生きているのかわからないのだから、それでよいのだ。
けれど――、
いまは、そんな賑わいも嘘のよう。
幻のように静寂が包んでいる。
私はそんな静かな場所にまつわる物悲しさが好きだった。
物が死んでいる感じがする。
物が死んでいるのが、綺麗で、だから好きなのかもしれない。
好きというか、なくしたものを取り戻したいと願う幼い子どものような心境に近い。
それとも私が物になりたいのか。
「まるで廃墟みたい……」
「はは、最近の若いお嬢さんたちにとってはそうかもしれんな」
小さく呟いただけだったが、思いのほか、静けさのなかで声は響くらしい。
顔が火照るのを感じた。
「すいません」
「いや、悪い気はしとらん。ただ……、この寂しさも悪くはない」
「幻想は死ぬのでしょうか?」
ふと質問をしてみた。
なにげなく、誰かに問いかけてみたかったかもしれない。
「幻想が死ぬ?」
「誰にも省みられなくなって、誰も思い出さなくなって」
虚構すら、虚構へと。
幻想すら幻想へと帰するのかもしれない。
ほら――、ね?
デジタルで創られたこの世界すら、もう、幻想になっている。
4
「いつか海行きたいよねー」
にとりはそんなふうに、軽い口調で切り出した。
ボクも確かにいけることならいってみたい。どうしてかっていわれると微妙に答えにつまるんだけど、自分のルーツを知りたいっていうかそんな感じ。
海から生まれた。
だから海へ還ろうとする。
ごく自然な帰巣本能。
「おやおや、椛。尻尾ぱたぱたして嬉しそうですね」
「はい。ボク嬉しいです」
「ほんとうに椛はかわいいですねえ。ほら、もふもふ」
「や、やめてください。文先輩。尻尾は敏感なんですって!」
「わかっていてわざとそうしているのですよ」
「なおのこと悪い!」
パチパチと手を叩く音。
にとりが助け舟をだしてくれた。
「さっさと本題に移りたいんだけどね」
「あー、はい、じゃあよろしくお願いしますよ」
「説明しよう!」
にとりは帽子をぎゅっとかぶりなおすと、おもむろに白いボードを取り出してきて、バンと裏側に返した。
そこには潜水艦の全面図が緻密に製図されていた。
設計図とか見てもよくわからない。
聞きたいのはそういうことではないのは、にとりだってわかっているはずなのに。
当然、文先輩も怪訝そうな表情だ。
「あの、私としても読者の方たちにしても知りたいのは、どういうふうに作られているのかではなくて――」
「どうやって海へ行くのか、でしょう」
「ええ、そうですよ。そのとおりです」
「じゃあ、早速だけど乗ってもらおうかな」
潜水艦の形は、ちょっと扁平型のボールのようだった。ラグビーボールに似ているのを想像してもらえるとわかりやすいかも。それで、上と下の部分には、亀の頭のようにでっぱった部分があって、そこから出入りするようだ。色は、青。海に似た色。マリンブルー。
今は、いくつものワイヤーで空中につるされている。
にとりが機械を操作して、潜水艦を河へと着水させた。けれど河の深さはせいぜい一メートル程度だ。もぐれるほどの深さはないはずだけど。
「まあ潜水艦は浮くこともできるからね。このまま湖までいくもよし、今日のところは乗り心地を試してみるってのも良いかもしれないじゃないか」
にとりに促されるように、ボクと文先輩は潜水艦のなかに入った。
そこは小さくて、狭苦しくて、息が苦しくなるような、そんな密室だった。
まるで棺おけのようだとボクは思って、少しだけ怖くなった。
「おやおや、椛はもしかして閉所恐怖症ですか」
「そんなことないですよ。んもうー」
文先輩はカラカラと笑った。
「それにしてもずいぶんと狭いんですねぇ」
文先輩も同じ意見を抱いていたらしい。歯に物を着せない言いっぷりは記者魂から来るものだろう。
にとりは嫌な顔にならなかった。
むしろ、想定どおりといった表情だった。
「まあ、そういうふうにつくってるんだよ。この潜水艦。実は一人用だからね」
「え、でも席は三つありますよ」
「操舵手の席が本命で、左右にあるのはいわばサブかな。一応故障のときとかのために作っておいただけだよ」
「そうなんですか」
「ふたりには左右の席に座ってもらおう」
ボクと文先輩はにとりに言われたとおりに座った。
席はなんだか妙に体に吸い付くような感覚で、背もたれの部分が絶妙な柔らかさで気持ちよかった。
なんだかベッドのような感じだ。
「ふたりとも座った?」
「ええ」
「はい」
「ああ、シートベルトは一応しておいて」
「シートベルト?」文先輩が聞く。「なんですかそれ」
「腰のところにあるだろう。カチャと音がするまではめて、腰の部分を固定するんだよ。一応揺れるからね」
恐る恐る手を伸ばして、シートベルトで腰を固定する。
にとりはボクと文先輩がちゃんと腰をシートベルトで巻いたのを確認してから、ようやく出航のサインをだした。
「では、大海原へ繰り出しましょう」
「ないですけどね」
「ないですね~」
潜水艦は河を下っていく。
5
おじいさんに水族館のなかを案内してもらった。
完全にデジタル制御された生命たち。
イルカもアシカも、サメも、アンコウも、全部生きているかのように見える。
けれど触れない。
「見るだけではご不満かな」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
言葉に詰まってしまう。
メリーと喋るときのようにうまくいかない。
躍動する生命の姿を見れば、心が躍るはず。
けれど私はここにいる生命たちが幻想の存在であることを知っているから、哀しいと思ってしまうのかもしれない。
それは、人間もいつか滅びることを予感させてしまうから。
いつか、メリーも死んじゃうのかなと思ってしまうから。
死ぬのが怖いんじゃなくて、滅びていくのが怖い。
綺麗な幻想になってしまうのが怖い。
「お嬢さん、気分でも悪いのかな」
「いえ、そういうわけでは」じっと黙っていたから変に思われたのだろう。「そういえば、あの、あれはなんです」
会話を取り繕うように、私は空中に浮かぶ巨大な砂時計を指差した。
吹き抜けを貫くように置かれた細長い砂時計だ。
海の表象である水族館に、砂時計なんて不釣合いも甚だしい。私だったら例えば潜水艦にするだろう。
マリンブルーにぬった小さくてかわいらしい潜水艦。
「あれはいのちの表象だよ」
「そういうタイトルの砂時計なのですか」
「いや、ここはデジタル制御された生命しかいないだろう」
「ええ」
「だからすべてが嘘にならないために、ほんの少し、本当を混ぜておきたいと思ったのだろう」
「本当を?」
リアルさを?
生命のリアルさを、砂時計が保全してくれているのだろうか。
どうして?
「あの砂時計は百年の時を刻むらしい。わが国の平均寿命は知ってのとおり百年と少し程度。つまり、あの砂時計は我々の時間を刻んでいるともいえる」
「どうして普通の時計にしなかったんでしょう」
「人間にはまだ、海が必要だということなのかもしれないな」
「地球という母親が、必要ということですか」
重力があるから忘れがちだけれども、ここは、衛星軌道上に浮かぶ小さな小さな水族館。
6
潜水艦は湖の中へ沈降する。
丸い窓ガラスから水が入ってきそうで、ボクはちょっと震える。
まあちょっぴり水は苦手です。
「大丈夫ですよ。耐久性はばっちりですから。水圧で少し揺れるから、背もたれに体重預けて」
にとりに言われたとおりにする。
揺れといっても、穏やかなもので、なんだかゆりかごのようだ。
海を散策するのに、こんなに気持ちよくていいのかなと思ってしまう。
ゆらゆらゆらゆら。
ゆらゆらゆらゆら。
ゆっくりと体が揺らされる感覚。
だめだ。
とても眠い。
取材にきたのに、猛烈な睡魔が襲ってくるんだけど、文先輩がいるから、ボクはいいかなとか思ってみたり。
ふがいない後輩でごめんなさい。
ざ……ざ……ざ。
ざざざ。
ざざざざざん。ざざざざん。
そんな音が聞こえてきた。
軽い酔いに似た不明瞭な感覚とともに、ボクはゆっくりと目を覚ます。
ぼんやりとした視界。
にとりの背中。
「もうすぐ海につくよ」
海?
海は幻想郷には無い。
だから、海なんてどこにも無いはずだ。
でも、ボクはゆっくりとうなずいた。
しばらく沈黙が続いた。
文先輩は、一心に窓ガラスの中を見つめていた。
丸いガラスの外には、今は何も見えない。
薄暗い闇夜に似た暗闇があたりを覆っていて、ボクは急に怖くなる。
狭いところが怖いんじゃなくて、なんとなく動けなくなるのが怖いだけ。
「海についたら明るくなるから」
にとりは背中を向けたままだったけど、ボクの表情がわかるみたいだった。
そんなに怖がってるのが丸わかりなんだろうか。哨戒を任務とするボクとしては反省すべき点なのかも。とほほ。
突然、視界が開けた。
天壌のあたりから光が差し込むような、そんな感覚だ。
光があたることによって、ようやくここが本当に闇夜ではなくて海の中なんだなと理解できた。
「魚群だー! これは調子がいいですよ。明らかに何かがフィーバーしそうな予感です!」
いままで黙っていたのが嘘のように、テンションが一気にマックスになる文先輩。
ボクのほうにも魚の群れが見えた。
いままで見たことがないような大きな魚。
あれは絶対に河にいる魚じゃない。
つまりここは本当に海だってことで、ボクは事態の大変さがまだよく飲みこめていなかった。
ただ、魚たちが横切るときの、あのすばやい動き。
空中を跳躍しているかのような筋肉の動きは、明らかににとりの創作じゃない。
そんな技術はいかに河童の技術が優れているといっても不可能なはずだ。
だとすれば――これはいったいどういうことなのだろう。
いぶかしむよりも前に、その視覚情報に圧倒されていく。
「椛ぃ、すごいですよ……あれは文献で見たことがありますが、ブリです。あ、こっちのはハマチです。ブリ。ハマチ。ブリ。ハマチ」
踊りだしそうな雰囲気だった。
確かに、なんだかおいしそうな魚の姿もちらほらと。じゅるり。
「堪能した?」
「ん」
断言してもいい。やっぱり想像どおり海は最高だった。
「じゃあ、還ろうか」
唐突に告げられる帰還宣言。
それから、ボクはまた眠りに落ちていく。
7
幻想郷は現実のカリカチュアである。
そうだとすれば、現実の帰結として死がある以上、幻想もまた死ぬだろう。
そして、物は死に絶える。
「そんなことを考えてきたわけよ」
「なにそれおいしいの?」
メリーはあいかわらず自由人。常識人はいつだって自由人の前に敗北するのだ。
これはなんといえばいいか、王様がアホに負けるという真理と同じだといえる。
「まあ、でも……」
メリーは紅茶を優雅に飲みながら言った。
「こぼれていくものもあるけれど、死ぬことで残されていくものもあるかもしれないわね」
「そうかしら」
「ええそうよ。だって私たちだって死なないと次代を残せないじゃない」
「じゃあ永遠に生きる人間は?」
「子どもを残せないでしょうね。完結している人間は子どもを残す必要がない。死ぬから残そうとするのか。残すために死ぬのかは曖昧なところだけど」
「よくわからない話」
「単純な話よ」
「じゃあ私が死んだら何が残るの?」
「あなたが死ねば、海が残るかもしれないわね」
「どうして? 死体は焼くのよ日本では」
「そうじゃなくて――」
そうじゃなくて、とメリーは目を静かに閉じた。
「だって、きっと、泣いちゃうじゃない」
海が体内から溢れるらしい。
なんてロマンチストなんだろう。
思わず赤面してしまい、それからまともにメリーの顔を見続けることができなかった。
8
「臨死体験発生装置!?」
ボクは飛び上がって驚いた。
ネタを暴露すると、にとりが創ったこの機械は、擬似的に臨死体験させるつもりらしい。
まあ意識を無意識のなかに無理やり沈降させていって、生命としての歴史を再体験させるとか。
どこかで聞いたことのある話だけど、生命は母親の体の中で海の生命としての記憶を追体験するらしい。
その記憶をもう一度見せるという話だ。
ボクにはブリやハマチだった思い出なんて無いんだけど、もしかすると、そういう記憶が体のどこかに残っているのかもしれない。
でも、本当は素肌で海に触れてみたいとも思った。
潮風を吸って、
覚醒とは程遠い気だるい陽光のなか、ボクは全身を塩辛い水に浸す。
そして、『ただいま』って言って、それだけだよって。
そんな他愛のない会話を誰かと交わすのだろう。
幻想側と現実側の話をどちらもスルスル読めた。
こういうロマンチックなお話はいいなあ。
素晴らしい雰囲気ですな
あとボクっ娘かわいいよボクっ娘