昼下がりだった。
天界の某所である。
衣玖は釣りをしていた。
竿の先から、糸が垂れている。
「おや?」
その背後から、鬼の伊吹がやってきた。
竿をかついで、魚籠をくくりつけている。
衣玖に気づくと、声をかけてきた。
「なんだ、永江じゃないか。おーい」
衣玖は反応しない。
伊吹は怪訝な顔をした。
すたすたと近寄ってくる。
「?」
脇に立って見やる。
衣玖は目を閉じていた。
静かな横顔である。
見ていると、こくっと舟をこいだ。
どうやら眠っているらしい。
「はあ。なんだい。暢気だね。釣りをしながら眠っちまう奴がいるかね……」
伊吹は起こしてやろうとして、肩に手をのばした。
「うん?」
しばしして、今度は天人の天子がやってきた。
これも同じように、竿と魚籠を持っていた。
座っている衣玖の背中に気づき、そちらに近寄っていく。
「衣玖?」
天子は、声をかけながらのぞきこんだ。
衣玖は目をつむっていた。
見ていると、整った丘のような鼻梁が、こくっと船をこぐ。
どうやら眠っているらしい。
「……なにこいつ。暢気ねー」
ふんと天子は鼻で笑った。
そのまま特に気にせずに、衣玖から少し離れて座る。
針に餌を刺して、適当な場所に竿をのばす。
天子は水面を見つめた。
「……」
ぷらーと糸の先が、ゆっくり流れていく。
天子は、ゆっくりとそれを眺めた。
「……」
ぴちゃ、ぱちゃん、とどこかで水音がした。
「……」
ぴよ。ぴよ。と、鳥の声がした。
「……」
天子はちら、と衣玖のほうを見た。
衣玖は、変わらず目を閉じている。
ずいぶんとよく寝ているようだ。
寝不足かなにかだろうか。
見ていると、また舟をこいだ。
「……」
天子は近くに落ちていた小石を、そっと拾い上げた。
ころころ、とかるく手の平でころがして遊ぶ。
水面を見つめると、まだ引きは来ていない。
天子は、衣玖の方をちら、と見た。
小石をぽいと放る。
かつ、と石は帽子に当たって、はね返った。
衣玖は起きなかった。
こくっとまた舟をこいだ。
天子は、水面を見てから、もう一度石を拾い上げた。
また同じようにして、小石を放る。
かつ、と石は帽子に当たって、はね返った。
衣玖はまだ起きない。
「……」
天子は、もう一度石を拾い上げた。
ひゅっ、と小石を放る。
また帽子に当たった。
衣玖はやはり起きない。
天子は、ちょっと楽しくなってきたらしい。
ひょい。
ぽい。
ひょい。ぽい。
ひょい。
ぽい。
と、何度もしつこく繰り返す。
小石は外れたり、帽子に当たったりするのだが、衣玖は全然起きる気配がない。
天子は、釣りの片手間に、しばらくそれを繰り返した。
が、やがて飽きた。
今日は、魚もさっぱりかからないようだ。
「あーあ」
天子は呟いた。
成果が無いと、すぐに飽きる。
天子の悪いくせである。
天子は、やがて竿を引き上げた。
糸を引き寄せて、餌を外す。
餌が無駄になるのも癪だったが、仕方ない。
天子はぽい、と餌を水面に投げ入れた。
ぽちゃん、と波紋が広がる。
帰ろう。
そう思い、天子は竿を肩に担ぎ、衣玖の方をちらりと見た。
そして、お。と気づいた。
衣玖の持っている釣り竿の糸が、くくく、と引いている。
いい当たりだ。
衣玖を見ると、いまだに眠っているようだ。
ここでいつもの天子なら、知らないふりをしていたが、この日はたまたま親切心が起きた。
釣れなかったこともある。
自分が釣れないと、相手が魚を見逃すのが気になって仕方がない。
天子は、衣玖に近寄って、肩に手をかけた。
「ちょっと、――」
「うん?」
衣玖は、ぱちりと目を開いた。
ぼや、と睫の長い寝ぼけ眼をあげ、水面を見やる。
意識の方は、いままで釣りをしていたつもりだった。
「ああ……いけない。寝ちゃったのね……」
衣玖は目をこすった。
眠りながらも、釣り竿は握りっぱなしだったらしい。
なかなか呆れたものだ。
衣玖は、自分で自分にちょっと呆れて、目を瞬いた。
目の前の水面では、今しがた、なにかがじたばたもがいていたかのような波紋が広がっていたが、特に気にしなかった。
天界の昼下がりは平和である。
あれれれれ?