ある日。
天子は机に向かうと、ごめんなさいと書きなぐって苦悩し、便箋を破いて捨てた。
それから十日が過ぎて、
「はい、これ。博麗神社に届けてきて。頼んだわよ」
ようやく手紙を一枚書き終えていた。
文面に悩み、手紙を出すという行為にも、
(笑うかな?)
不安があった。
封筒を受け取った衣玖は無表情である。
「文通ですか」
「そうとも云う」
「計略があるなら破棄します。本当にそれだけですね?」
「……ひどいわね。衣玖は私を信じていないの?」
「はい」
と返事をしながらも、
「まあ良いでしょう。行って参ります」
衣玖は微笑して飛び去った。
博麗神社が地震で潰れた騒動から一年近くが経っている。
(連中と、ふつうに遊べたらなあ)
天子は変わろうとしていた。
待つこと半刻。
「総領娘様」
「あれ、もう行ってきたの?」
衣玖は戻ってきた。
「どうだった?」
「どうも、こうも、どうして貴女はそうなんですか?」
永く、溜めたものを吐露するように衣玖は言った。
「人の気持ちを理解しようとして下さい。天界の物は壊すなり盗むなり、好きにして良いから、こちらのしたことも水に流せ……では、あんまりです」
「それ……」
出した手紙の概要と云える。
追伸として、いつの日かまた博麗神社の宴会に混ざりたい――とも書いた。
「勝手に読んだのね。最低」
「違います! 一読するなり怒った巫女に、私が当たり散らされたんですよ!」
「怒った?」
「はい。強盗していいから許せと云うのでは、挑発と変わりません」
「ちぇっ」
「何ですかあ?」
(心が狭いわね)
とは口に出さなかった。
その日は説教の内に暮れる。
「あの脳天気巫女、当たり前のように略奪してたくせに……」
翌朝、天子は不満を撒き散らしながら、有頂天のだだっ広い平原を散策していた。
「衣玖も何だってのよ。普段は顔も見せないくせにさ。えらっそーに小言をくれる時だけ長々と……あーあーあー」
愚痴は尽きない。
ここは荒れていて人の来ることの少ない、天界の中では好きな場所である。遠くでざっと草っ原に波が立つと、やがて髪が浮き、風とともに後ろへ吹き抜けてゆく。
「あーあ。また夏が来るのか」
傍若無人に文句を垂れ流していると、
「いよう、天人」
突如、背後から声がした。
振り返れば小鬼がいる。
「遊びに来たよ」
「伊吹……」
「ああっはっは。まあまあ呑みねえ」
すでに萃香は酩酊しているらしい。
珍しいことではない。鬼の居場所も少ないのである。
ひとり愚痴をこぼしている時など、萃香はよく現れていた。
「呑もうか」
「おう」
この日、天子に用意があった。
踏み慣らした青草に尻を据え、二人だけの酒盛りをしていると、
(ちょっとからかってやろう)
天子は勝負ごとを持ちかけた。
「呑み競べをしない?」
「へえ。良いけど、あんたが私に勝てるとは思えないねえ」
「私が負けたら緋色の剣をやるよ」
「いいのかい?」
「ああ。何でもあげる。天界ごとくれてやってもいい」
「じゃあ、私に勝てたら瓢箪をやるよ」
そう言って持ち上げたのは、酒が無限に湧くという瓢箪、伊吹瓢である。酒狂いの萃香にとっては、またとない宝物であった。
萃香は無邪気に顔をゆるめて、
「ふふ。嬉しいね……」
手持ちの盃を一気に煽った。
それから天子へも酒を注ぐべく、伊吹瓢を掴んで身を乗り出してくる。
(馬鹿だなあ)
天子は酒を水に変える盃を使っていた。
時が過ぎて、天子は当然のように勝ち、萃香は仰向けに倒れていた。
ようやく目が醒めたところで、
「ふふん。実は、この盃に仕掛けがあってね……」
天子は説明し、
「賭けは無効でいいよ」
と言った。
萃香の目は冷たくなった。
「瓢箪、返すってば」
「……」
「何怒ってるの?」
「天人。私を謀ったな」
「だから、返すってば」
「勝ったのはあんただろ。好きにしなよ。くだらない……」
萃香は霧となって消えた。
置き去りにされた瓢箪を手にして、天子ひとりとなる。
ざあっ。
と吹き抜けた風が、妙にうるさく響いた。
「総領娘様」
「なに」
「比那名居様より、宴に顔を出して興を添えよ、とのことです」
「顔だけ出せばいいのね」
「無論、唄なりと」
「唄えばいいのね」
「舞いなりと……」
「舞えばいいのね」
天子は伊吹瓢の口を噛み、ぐっと上へ傾けた。熱流が、つうっと胃を伝う。
ずうん。
と沈んだ心地になりながら、目蓋を上げて見れば、衣玖が重たげに空気を吐き流している。
「世継ぎである貴女のためを思い、貴女を呼ばれているのですよ」
天子は失笑した。
「う、ふ、ふ。あ、は、は。
だからさ、私は出ると言ったじゃない。
それでさ、私は何度もやってぎたじゃない?
な、何が……不満なのよ!
歌えと言われれば歌うわよ。
踊れと言われれば踊るわよ!
天人は俗な感情なんて持ったらいけないから。心は雲よりも囚われない……だからさ、私はそうしている。
そうさ! そうしてるのよ……」
天子にはこれで精一杯だった。
「あ、あ、あ……!」
走っていた。
奇声をあげて奔走し、有頂天から飛び降りた。
風が疾い。
酒のせいか、体が妙に熱くて、自然と声が叫んでいた。
「あっはっは。ちっぽけな神社が見えてきた! また潰してやろうか!」
視界は滲んでいて、何も見えない。
落ちていると変なところが寒くて、
「けほっ」
咳がこぼれて、上に抜けた。
グバッ。
と下の空間が裂けて、八雲紫が現れる。
「天人崩れが……」
「やはり現れたか、妖怪」
それがなぜか嬉しくて……天子は浅い笑みを浮かべて拳を握った。
刹那、すれ違いに、全力を込めて狙い撃った拳は空を切った。
(あれ?)
期待した弾幕ではなく、目前には奇妙な皮膜が広がっていた。皮膜は鏡のように光を映して、虚空に浮かぶ天子の姿を反射した。
紫の声がする。
「そこのその猿娘さん。天を地に返し、人に孵って自身を省みなさい、な」
天子は薄膜にくるまれ、突き破り、意識を失った。
まっすぐに落ちてゆく天子は、天人としての力を失い、ただの人となっていた。
気が付くと、汚い布団の中にいた。
(夢か)
吐き気と頭痛がきつい。
天子はのそりと半身を起こして、ぼうっと辺りを見回した。
「ここは……ゴミ箱の中?」
部屋の中ではある。
床はがらくたで埋まり、テーブルには厚い書物が山と積み置かれ、壁にはカビが繁茂している。
しばらく眺めていてようやく、
(夢じゃない)
頭の整理がつき始めた。
ペッ。ペエエッ。
どこからか妙な音がした。
不快にきしむ頭を抑えながらふらふらと音を追い、外に出てみると、真上の陽光が樹々の闇を縫ってぽつぽつと差し込んでいる、暗い森林であった。
出てきた小屋の他に、家屋は見えない。
小屋の正面には看板がかけてあり、
(霧雨魔法店……?)
そう書かれている。
屋根の上にはラッパのようなものを持つ人影が見えた。
「うむ。鳴らんもんだな……レソレソラ~レシドレレ~」
ペエッ。
魔理沙である。
「どうしたんだ?」
と言ったのは、楽器を置いて降りてきた魔理沙である。
天子は言葉を返した。
「それは私が言うセリフ。霧雨魔理沙……だね。ここで何してるのよ?」
「いいや私だ。ここは我が麗しの霧雨邸だぜ。お前がいることの方が、疑問は先になる」
「ああ、もう。じゃあ聞くけど、何で私が中にいたのよ?」
「私は落ちてる物は拾う趣味だからな」
「落ちてた? 私が?」
「落ちてきた」
魔理沙はにたりと笑った。
昨日。
天子は意識を失った後、魔法の森に落ちていったらしい。
「やけにゆったりと降ってきてな。ほれ。天界の城だか邑だかのお嬢様だろ。金目の石くらい持ってると思って」
それで魔理沙に拾われて今に至る。
天子は回りくどい説明を聞きながら思案していたが、はっとして森の中を駆け出した。
「どしたあ?」
返事はしない。
(伊吹の瓢箪)
探し物はそれである。
(帽子も落とした)
長い髪を棚引かせ、いつものように走っていった。
「ぜ、ぜえ……」
わずか一分もしないうちに息切れてしまい、腰を曲げて自身の膝に両手をついた。
森の空気は肺を冷やした。鼓動が激しくなり、胸はきりきりと痛み、頭痛は針を通されたようにぞっとして治まらない。
魔理沙が軽々と走ってきて、
「こんな場所で走ってると、泥棒扱いされるぜ」
茶化して言ったが、ひどく冴えた眼で天子を見つめていた。
「本当に、どうした?」
「……」
「天人じゃないのか?」
徐々に鼓動は落ちついてゆく。
汗が冷えた。
「そうさ」
天子はすっくと体を起こして天を仰ぎ見た。
森の高い樹の隙間からきらきらと漏れる光は輝く宝石のようだった。高く、美しく、天人は貴いところに住んでいる。
(でも私は……)
ケッと咳を吐いて、天子は泣いた。
木石などに人はなれない。
胸中、どろどろと不安は押し寄せていたが、ぽつりと言った、
「私は堕ちて人間になったらしい」
声は、すっと平たく響いた。
天子は人間になった。
人間の中にも空を飛行し化け物のように戦う連中はいるが、それも出来なかった。
だが、
「そんなの出来ない」
「出来る。やれ」
「料理なんて……」
今は飛ぶどころではない。天子は昼飯を任されて、痛む頭を余計に抱えていた。
魔理沙は鼻歌混じりに部屋の片付けをしている。
「めしーまだかー」
「もう、何で私が!」
「瓢箪を返して欲しけりゃきりきり働け」
ということだった。
天子の落とした帽子と伊吹瓢は、昨日のうちに魔理沙が蒐集してしまったらしい。返せと言えば、ただじゃ返さんと返事をする。
指先で塩をつまんでぺろりと舐めた。
(からい……)
料理の経験はない。
始めは魔理沙が料理、天子が掃除をする手はずで動いていたが、
「待て、さわるな! それは捨てろ……そっちのキノコは観賞用だ」
部屋は散らかり、料理は進まない。
「チェンジ、チェンジ。食材なんて煮ても焼いても食えるんだ。味は薄めで焦がさないように頼む」
魔理沙はそれだけ指示して持ち場を替わった。
(米を炊くのは簡単)
天子は米を見つけたので、鍋に入れて茹でた。
(さて、次は味噌汁……)
味噌、と銘打たれた壷には赤黒い塊が詰まっている。
(……はて?)
不気味である。この塊から汁を搾り出すような道具を探したが、見当たらない。
溶かすことも思ったが、味噌あじの湯を沸かすようで違和感があり躊躇していた。
(これ、本当に味噌かしら?)
などと思案していると、鍋がどばっとふきこぼれて、ひどく慌てた。
(おのれ。全部茹でてしまえ)
きのこ。果実。草。食えそうなものを鍋にぶち込んだ。
蓋をすると再度ふきこぼれたので、慌てて蓋を外した途端、熱い蒸気がどっと立ち昇ってむせ返った……。
「おおう。明るい内から闇鍋とは贅沢な」
「ふっ……。天人五衰鍋と名付けたわ」
「昼寝したいのか?」
米はまともに炊き上がるはずもなく、見た目は元より味がひどい。
皮肉好きの魔理沙が、笑って文句を言いながらも、
「ごちそうさん」
結構な量を食べた。
「次はもう少し上手く作るから」
天子はあまりの不味さに、食が進まなかった。
そして夕飯も、出来たのは同じような物だった。
夜が更けた。
ほ……ほ……と梟が鳴いている。
くたびれ果てて、天子はすでに床についていた。
「霧雨魔理沙」
「魔理沙、でいい」
「魔理沙……寝ないの?」
「先に寝てろよ。私は忙しい」
書物の積み重なったテーブルに灯りを落として、静かに本を読みふけっている。
「どうして?」
「あー?」
「明日でいいじゃん。ま……何してるのか、知らないけどさ」
「……」
「そんなに急ぐことなの?」
「いや、急ぐことじゃない。単にこの十年くらいの習慣だけど……ぬう? そうか、もう十年か」
そう言うと、魔理沙は考え込んでしまった。
そして、ふと、
「いや、急ぐ。さっきのは間違いだ」
訂正すると、また深く読書へ入っていった。
天人として長く時を過ごしてきた天子には、人が何を急ぐのか分からない。
「ふわ、わ……」
あくびをすると、ごろりと頭の向きを変えて、やがて寝息を立てた。
翌、早暁。
そっと朝露に濡れた森にあって、霧雨魔法店は騒がしかった。
「さて。何から教えたものやら……」
「うるさい。ひとりで出来るってば!」
朝食の支度のことである。
天人が地上の人間に教えを乞うた、などと知れようものなら、
(恥辱だ)
天界では後々、百年千年の後も、飽きもせずに笑いの種とされるであろう。つまらぬことなりと歌に書き留め、いかに愉しみ引っ張るか、宴に花を咲かせるかが、天人として過ごすための重要な心得である。
「絶対、いや!」
叫ぶ天子は顔が紅潮し、意地になっていた。
「よし、まずはお米の研ぎ方だ。こう……」
「ぎゃおー!」
「ひとの話を聞け。食事と命はイコールだぜ。死体を己の肉にするのが料理だ」
「あー! うー!」
「聞け。料理をしなければ、人は生きられない」
「ああ……人って? それは、私も?」
「そうだ」
「本当の本当に、そうかな?」
じっと魔理沙の瞳を覗き込んだ。
「私は嘘は吐かないぜ」
「ずっと、そうかな……?」
「それより今はメシだ、メシ。始めるぞ。いいな?」
「うう……ん。そこまで言うなら、仕方ないわね。お、教えて……」
天子の声が小さくなった。
「教えてくれる?」
「あー」
そっけない。
それから二時間近くもかけて、天子は魔理沙の指示に従いながら朝食の支度を整えていった。
「食事の度にこんな面倒なことしなくちゃならないの?」
「毎日やれば違ってくるさ。いやあ楽しみだよなあ」
「面倒」
それでも、昨日に比べればかなり食事らしいものが作れたので、
(少し嬉しいかも)
思わずにんまりとした。
「ねえ魔理沙、おいしい?」
「まずい」
昼まで出かけると云う。
食器の後片付けをしている間に、魔理沙はいなくなった。
(さて。どうしてくれよう)
天人の力を失ってからというもの、自由に使える時間ができたのは初めてに思えた。
「おーい、魔理沙ぁ」
返事はない……。
そろり。
と天子は動き出し、家捜しを開始した。
外の物音に耳を傾けながら、丁寧にガラクタの山をかき分け、手当たり次第に戸を開き、中を探った。
(うん?)
伊吹瓢と帽子は、鍵穴もない机の引き出しに分かりやすくしまってあった。
「ふふん。もう用はない」
天子は帽子を被り、瓢箪を握りしめると、机を蹴っ倒して家を出た。
魔法の森は日陰を好む妖怪が多く棲みつき、さらに幻覚を見せる茸の胞子などが充ちているため、正気の人間が足を踏み入れるべきところではない。そうでなくとも、自然の森林というものは危険が多い。
(あれ? この地形は前に見たような)
天子は道に迷っていた。
「ここも、さっき通った気が……ひっ?」
にょろん。
足元に蛇が現れる。この蛇は天子の方へちろりと鎌首を向けたが、関心を引くこともなく茂みの中へと這って消えた。
だが立ち止まると、しんと這いずる物音、叫ぶ鳥、擬態した生物、静かに思えた森には目に見えぬ者たちの気配で充ちている。行く方に悩んでいると突然、ぱっ、と帽子に何か落ちてきたので、手につまんで見ると山ヒルであった。天子はぞっとしてヒルを投げ捨て、粘液を拭うと急ぎ足となり歩き出した。
時おり、
(誰かいる)
そう思って暗い背後を振り返った。
呼吸を鎮めて耳目を研ぎ澄ますのだが、ひやりと汗が伝うだけだった。
ある時、少し明るい場所に止まって闇を振り返った。
「……誰か、いないよね?」
ぽつりと呟くと、
「くす……」
笑い声が聴こえた。
陰から現れたのは妖精である。
(なあんだ)
妖精の力など、カラスやトンビなどとさほど変わらない。
「邪魔」
と言って蹴散らした。
「くすくす……」
ぞろり。
至るところから妖精が出現し、どれも同じような顔で笑っている。
「邪魔っ!」
天子が大声で威嚇すると、妖精たちの目が無邪気に光った。
ざんっ。
樹が揺れて、数十匹の妖精が襲いかかってきた。
それぞれが腕を掴み、脚を掴み、どこかへ引っ張ろうとする。必死にそれを振り払っていると、さらに多くの妖精が出現して次々と群れに加わり、笑顔でまとわりついてきた。
「あそぼーよ」
「邪魔だってば!」
「くす……」
話になる相手ではない。
天子は拳を握った。
「この!」
妖精一匹を叩き潰すと、わっと妖精たちは飛び離れて、口々に叫んだ。
「撃てー!」
構えた小さな掌から光弾が放射される。光弾の軌道は直線を描き、全て天子の中芯を一点に狙っているため、横に半歩も避ければみな外れる。
(こんなの当たるか)
ざっ。
光弾は脇腹をかすり抜けて、後ろで拡がった。
天子は寸前で横にかわし続けていたが、
「あっ」
と言って転んだ。樹の根っこに足を取られ、躓いたのだった。
妖精たちはどっと笑い、光弾の狙いを改めた。
「ま、待って!」
光弾が放射される。
同時に何者かの声がした。
「あら、地震の……」
すっ。
と一体の妖精が現れて、天子を庇うように目前へ躍り出た。全弾幕を食らい、この妖精は平然と浮いている。
よく見れば妖精ではなく、見覚えのある……、
「さすが上海。何ともないわ」
人形であった。
声のした方を見れば、魔導書を抱いた少女、アリスが眠たげな顔をして立っている。
「やっぱり地震野郎。助け損ね」
アリスはくしゃりと金髪をかきあげて、人形を操り出し、妖精を殲滅した。
魔法の森の中に建つ小綺麗な洋館がアリスの住処である。
熱い紅茶を口に含みつつ、
「実はね、私、人間になったの」
天子がそう言うと、アリスは声だけで相槌を打った。反応は他にない。
アリスの視線は膝元を向いたまま逸れることもない。時おり布がひらりと舞い上がり、針糸が尾を引いて疾る。裁縫をする指はするすると滑らかに回り、見る間に人形の服が縫いあがってゆく。
「ああ。霧雨魔理沙から、何か聞いてた?」
「聞いてないわ」
天子に対して関心がないらしい。
紅茶が冷めた。
天子の指はカップの柄を握って微かに震えている。
(助けられた? この、私が……妖精なんかにやられて)
思い返すと胃が熱くなり、アリスを見上げれば当然の如く裁縫をしたまま無言でいる。
息が乱れた。
妙に焦燥が募り、たまらず口が動いていた。
「あのさ」
「なに」
「いや、普段の私なら妖精なんて百匹でも千匹でも遊び相手にすらならないんだけどさ」
「ふうん」
「人間ってのは貧弱に出来てるね。あ、妖怪のあなたには分からないか」
「……」
「確か名前はアリスだよね。アリス、マ……なんだっけ」
「アリスでいいわよ」
アリスの声は冷たいわけではない。ただ、魔法使いという種族は趣味を究めるために生きる。興味がないとなれば愛想のかけらも表さない者が多い。
それに対して、天子は妙に饒舌になっていった。
「魔理沙が出かけたから、ちょっとした気紛れで私も外に出たんだけどね。ここまで弱っちくされたとは思わなくて……」
「へえ」
「そうだ。お腹減ってない? 何ならお昼ご飯くらい作ろうか?」
言って、視線が泳いだ。
「お構いなく」
人形が操られ、空のカップに熱い紅茶が注がれてゆく。窓の外を眺めると、思ったよりも日は浅かった。
しばらくして来客が訪れる。
「ようアリス、家捜しに来たぜ」
魔理沙である。天子はぎくりとして、そっと帽子を外した。
そしてもう一人、
「お邪魔します」
連れ立って、衣玖が入ってきた。
唇に紅茶を含み、天子は息を吐いた。
「総領娘様」
「はて……誰のこと?」
惚けた返事をすると、衣玖は沈んだ声で言った。
「偽者が現れて、総領娘様になりすましていますよ」
「えっ。なにそれ」
「言葉通りの意味です。ただ……姿は同じで、どうも、総領娘様の肉体に別の魂が入ったように思われます」
「あの妖怪、下品な真似をするわね」
「おかげで気品あふれる優しい総領娘様に生まれ変わりました」
「あ、そ」
天子は咳を吐きすて、そっぽを向いた。それから一呼吸置いて、変に明るい声を出した。
「いいよいいよ。天界ごとくれてやるって……賭けでさ、私がそう言ったんだ。賭けに負けてさ……その通りになっただけよ」
呑み競べの件と紫の術は無関係であり、屁理屈に過ぎない。
みしり。
と歯ぎしりを立てた。
それでも天子は、先ずは萃香を捜し出し、伊吹瓢を返すことを考えている。萃香に見下げられたままでいるのが、
(馬鹿なあいつに、嫌われるのは……)
ずっとつらかった。
天界への未練など、小さなものだった。
「……貴女はそれで良いのか?」
「ん?」
びくりとして衣玖を見ると、きつく睨んでいた。
睨んだまま衣玖が喋らないので、言葉をつないだ。
「親父はどうしてる?」
「……」
「いきなり変われば気付くでしょ」
「何も仰られてはいない」
「ふん。私は出来損ないだからね。むしろ喜んだかなー」
「……」
「だって、そうだよね?」
衣玖の表情は硬い。
その背後から肩をポンと叩き、魔理沙が口を挟んだ。
「連れて帰りたいなら、殺して成仏させれば早いんじゃないか?」
「……」
「睨むな。どの道、今は帰れないだろ。だからいずれ私が無責任を持って殺してやる。明日か一生先かは、誰も知らんがな。ま、経験上……」
魔理沙は大真面目な顔で言った、
「親を心配しない娘はいないぜ」
ところで、アリスがむせて、紅茶を噴いた。
詰まった息をゆるりと吐き流し、衣玖は魔理沙の方へ微笑を浮かべ、
「よろしくお願いします」
頭を下げて言った。
そして飛び去った。
雑談の内に時は過ぎて、やがて帰り支度となった。
「えと、アリス」
「なにかしら?」
「その、紅茶おいしかった」
「そう」
「……ごちそうさま」
「うむ」
「あの、ありがと」
「いいわよ。それより服の、ここ。破けてるわよ」
転んだ時、引っかけたのであろう。
アリスは裁縫道具の詰まった箱を持ってきて、天子に渡した。
「あげるわ。じゃあね」
霧雨魔法店。
天子は腰を屈め、
「よいしょっと」
蹴倒した机を元に戻すと、帽子と伊吹瓢を引き出しに入れた。
かたん。
自らの手で引き出しを閉めた。
すると胸中、連綿と続いていた天人の生が、ふつり……と断たれた気がした。
(さびしい)
天子は人として歩むことを決めた。
今は瓢箪を返すどころか、外を歩くことさえままならない。
(けれど、その程度よ)
すっと鼻で息を吸い、ゆるりと吐いた。
歯の根に力が入った。
散らかった書物や置物を拾い上げ、机に直していく。
「局地地震でもあったのか?」
にたりとして魔理沙が言った。
(なんでこいつは……)
天子は魔理沙の瞳を覗き込んだ。
黒い輝きが知れるだけである。
「ねえ」
微笑などには飽きている。
「何か、言わないの?」
「ほう」
「その、悪かったわね。元が私の物とはいえ、勝手に持ち出して、いなくなって。怒られるのは慣れてるし、何でも、聴いてあげようじゃない」
覚悟を決めると、魔理沙はつまらないことを言った。
「なにか。なんでも」
「あん?」
「聴いたろ、言ってやったぜ」
「ふん。がきんちょ」
魔理沙の笑みは子供っぽくて、真似できなかった。
苦笑して、この日は縫い物をするうちに暮れた。
(続く)
次話>>2
さあ!反応しちゃうぞ!!!読んでる最中にビックリしましたw
あの、我侭天人がどうなる事やら。続きを楽しみに待ってます!
子供に聞かせる昔話になっていそうな話ですね。
むかしむかしある所に…
これは楽しみにして待つしかない
おぉ、これはこれはもしやそういう話……続きも期待してます!