さとりを筆頭とした地霊殿の住人達は、ピクニックに出かけていた。
行き先は、地上だ。
地霊殿の皆――お燐やおくうだけでなく、他のペット達も連れての日帰り旅行だった。
誰もが慣れない陽光を浴び、その体験に浮かれ立っていた。緑色の風に吹かれて、その心を震わせていた。飛び跳ねて喜びを表現する者もいたし、そのまま飛び立っていく者もいた。
さとりも気分が良くなっていた。周りの者達の明るくなった心に当てられたのかもしれない。
まるで今にも歌い出したくなるような気分だった。
「……まあ歌いはしないんですけどね」
今、一行は自分を先頭にして歩いている。何気なく後ろを振り返ると、はしゃぎ過ぎて白目を向いて痙攣している者の姿が目に入った。解脱しかけているのだろうか。気味が悪いので触れないでおこう。
総じて彼らは浮かれていた。
ピクニックが決まった時からそうだ。そして、それは十段重の弁当を拵えていた自分にも当てはまるのだろう。
皆はピクニックを心の底から楽しんでいる。準備も、最中の今でも。
けれど、と思う。
……だったら、地上を住処に選べば良いんじゃないかしら?
私は、決して彼らに地霊殿に住むことを強制しているわけではない。彼らは自由に選ぶことが出来る。
今でもそうだ。
願うならこのまま、この群から抜け出せばいい。そして、どこか別の安寧を得られる場所を見つければいい。種によっては地上の陽の光を好ましく思うものだっているだろうから。
帰るときに頭数が減っていてもそれはいいことなのかもしれない。
私はそんなことを考えていた。
ペット達の喧騒に背中を押されながら、どこまで行けばいいのか分からず、ただ歩みを進めていた。
□
そのうちに一行は広い野原に出た。
さとりはその光景にはっと気付き、歩みを止めた。見れば、日がかなり高い。もう昼なのだ。
「ここでお弁当にしましょう」
そう言って解散を促すと、皆は思い思いに散っていった。さとりの周りに残ったのは、お燐やおくうの他、普段から懇意にしている大人しい犬や鹿だけだった。数にして10もいない。
……弁当を共有するのには丁度いい頭数かしら。
他の者はそれぞれで弁当を持ってきているのだろう。耳には皆の思い思いの声が聞こえた。
「わあ、美味しそうだな」と言って小さな弁当箱を漁る者がいる。他にも、遠くでは土の付いたままの野菜に齧り付き「うめぇ、うんめぇ!! ありがてぇ……っ!!」とか「へへっ、久しぶりの飯だぜ」とか聞こえるが食事中にふざけるのは良くないことだと思う。こういう場合は食事を抜いて躾けなければならないな……。
「さとり様、さとり様」
自らを呼ぶ声に意識を戻す。
見れば、お燐が心配そうな目で私を見ていた。確かに余所見をして、ぼんやりしていた。
弁当箱はまだ包みを開かれてもいない。弁当を食べるのを待たせてしまっているらしかった。それを証拠づけるようにおくうも付け加える。
「さとり様、早く早く」
「ええ、わかっています」
私は弁当箱から包みを脱がせる。その間、おくうは食い入るように弁当箱を見ていた。目をギラギラと輝かせて、今か今かと待ち望んでいる。
それが分かった私は、わざと動きを緩慢にする。すると、おくうも耐えられず前傾姿勢の身体を左右に揺らす。
どうにも食欲の方が前に出ているようだ。
「早く……もう駄目っ、私っ、我慢できない――っ!」
「そんなに急がなくたって弁当は逃げませんよ」
白目を剥きかけたのでここらで諌めておく。なるようになったら廃棄物処理に困るし。
私の言葉に、おくうは左右の動きを止めて顔を上げる。何を思ったのか、彼女はとても不思議そうな表情で、問う。
「逃げるものもあるのですか?」
それはとても純粋で無垢な質問だ。
私は少し考えて、
「あります」
「ええぇっ!!」
おくうは驚き、自分の目の前にある弁当箱をまじまじと見つめていた。もしかして信じているのだろうか。
まあ、そのうちに忘れてしまうだろうから実害はあるまい。可愛げのあるものだ。
その間に、私は弁当箱を広げ終わる。
「それじゃあ頂きましょう」
私の言葉に続いて「頂きます」と周りが合唱する。
その時だ。
私はふと気配を感じた。反射的にそちらに目を遣る。
すると脇の弁当箱の一段が、私が置いた位置より離れていた。
「……?」
最初は錯覚とも思ったが、しかし良く見ると、それは距離が徐々に広がっていることに気づく。
それも、誰の手伝いもなく、一人手に。
その弁当箱は私の視線を知ってか知らずか、そろりそろりと周りを伺いながら距離を取り、少し行ったところで一気に駆け出した。
弁当箱は野原を駆けていく。私以外には誰もそのことに気づいた様子はなかった。
弁当箱は人知れずこの場から離れていく。
私は凝然として、弁当箱が見えなくなるまでその光景を眺めていた。
……私は思う。
きっとあの弁当箱は逃げ出したのだろう。
弁当箱――ここでは仮に彼としよう――彼は、私の元から離れていくつもりなのだろう。
何も言わず、この地上を自分の居場所にすることを決めたということだ。
それは、もう私の元に戻ってくるつもりがないということだ。
……そうですか。
一人納得する。
予想通り、離反するものが出たな、と。
寂しくないといえば嘘になる。
けれど、離れることが幸福になるかもしれない。逃げ出すことを自分から考えて行っているのだから、私はそれを認めてあげたいと思う。
そして、帰るときに、いや、もっと後かもしれないが。周りの皆が、いなくなっていることに気づくのだろう。その時には、彼はもう連れ戻せないほど遠くにいるのだろう。
それはそれでいいことなのかもしれない。
そのときは、私は淡くそう思った。
□
その後もピクニックは恙無く進行し、無事終了した。
が、さとりはずっと上の空だった。地霊殿に戻ってきてからも、さとりはずっと考え事をしていた。
考えるのは、自分の元を離れて行ったあの弁当箱のこと。
――どうして去って行ったのだろうか。私に至らない部分があったのだろうか。それとももっと別の理由からだろうか。
――今はどうしているのだろうか。一人になっても大丈夫なのだろうか。立派に生きていけているだろうか。
考えても答えの出ない問いだ。考えるだけ無駄なことだ。
それでも引きずってしまうのは何故だろうか。
それは、恐れているからだ。
「失ってしまったことが。そしてこれからも失うのかもしれないということが、怖いんでしょうね」
例えるなら、手の平に掬い取った砂が零れ落ちていることに気付いたようなものだ。
砂が指の隙間から零れ落ちている。少しずつ、しかし確実に。
私はそれを止められず、全て失くしてしまうのだ。
それが怖い。
いつの間にか、ペット達は私に取って必要なものになっていたのだ。
寂しい。
嫌だ。
「嫌だよぉ……」
帰ってきて欲しい。
弁当箱……。
反射的に込み上げてくるものを感じ、顔を両手で覆う。そのまま目を閉じ、口を塞ぎ、耳さえも聞こえないようにして、失うことに気付かないように過ごしたい。そう思った。
その時だ。さとりは足音を聞いた。
見る。
そこには、こいしが立っていた。いつものように放浪から帰ってきたのかと思ったが、しかし着ている衣服が汚れていないことからそうではないことに気付く。
さらに、こいしがあるものを抱えていることに気付いた。
それは。
「弁当箱……!」
□
「玄関の前に居たのを見つけたんだよ」
言って、こいしは弁当箱を床に離した。彼はゆっくりとさとりの足元に行き、身体を擦り付けるような動きをした。
「お姉ちゃん。弁当箱は帰ってきたんだよ……」
さとりはしばらくこいしと弁当箱を見比べてぼんやりとしていたが、
「そう、ですか」
……私は失わなかったのですね。
手の平から零れ落としてはいなかったのだ。そのことに安堵を覚えたのか、無意識のうちに大きく息を吐いた。
そして、笑みが出る。
「お姉ちゃんニヤついてて気持ち悪い」
「うるさい」
私は足元の弁当箱を抱え上げる。
随分と軽い。こんなに軽いものなのか、と驚いてしまう。
弁当箱そのものも、細かい傷が付いていたり、泥が付いていたりして悲惨なものだった。ここに戻ってくる道程がどんなものだったのか、想像せずにいられなかった。
きっと辛いものだっただろう。
もしかしたら、彼は地上から逃げ帰ってきたのかもしれない。
それでも良かった。ここが彼の帰る場所になっていた。私はその事実だけで満足だった。
……そうだ。手の平の砂は零れ落ちるだけじゃないんだ。
砂は憶えている。ここに居たことを憶えていて、また私の手元に戻ってくることが出来る。
まるで、砂時計のように。
砂は手の平の上じゃない。砂時計なのだ。それも小さなものではない。茫洋たる大きな流れの中にある。
そんな簡単なことだったのだ。何も心配に思うことはない。
私は、弁当箱の目を見て、はっきりと告げる。
「お帰りなさい」
もしもこれが途方もなく大きな砂時計なら。
私はその途方もなく長い時間を感じることが出来るだろうか。
……出来ればいいですね。
まずは汚れた弁当箱を洗ってあげなければならないな。私はそう思った。
第三の目ならぬ弁当箱の目とな
断言する、いい話だ
……………ん?