森。
午後だった。
咲夜は、目を覚ました。
万に一つか、千に一つ。
そんな確率だったとは思う。
いくら、相手が、あの魔理沙だったとはいえ、ふだんの咲夜は、弾幕ごっこでヘマをするようなことはない。
だものだから、それも、ほんの偶然のことだったと思う。
「うん……?」
と、咲夜は目を覚まして、身じろいだ。
気絶していたらしい。
どれくらいの時間だろうか。
とんでもない失態だった。
咲夜はちょっと恥じ入って、めくれていたスカートの裾をなおした。
辺りをうかがう。
どこかの崖の影か。
そこらじゅうがすり傷で傷む。
出血は、と探って、咲夜は、自分の身体の様子を眺めた。
右の足首に、重たい違和感がある。
ひねるかなにかしたらしいが。
あれだけの高所からこんなところまで落下しておいて、このくらいで済んだのは、幸運かもしれない。
どうやら、それ以外に、目立つ外傷はないようだ。
(油断したわ……もう)
なまってたかしらね、と忌々しく思う。
それから、咲夜は立ち上がろうとして、急にがくんと崩れ落ちた。
いきなり走った激痛に、顔が引きつった。
「いっ……つ」
声にならない悲鳴を上げて、足首を押さえる。
さっき違和感のあった、右の足首である。
痛みは、意識すると、襲ってくるようだった。
いったん、激痛を感じると、洒落にならないほど、痛みはじめた。
へたをすると、涙もこらえられないほどの痛みだ。
イメージとしては、脳に、どろどろの灼熱を流し込まれたような感じだろうか。
必死で痛みが過ぎ去るのを待って、咲夜は、涙のにじんだ目をあげた。
木々の間から、空が、申しわけ程度に見える。
何を考えていたのかしら、と一瞬思って、咲夜は、気を持ち直した。
とりあえず、飛んでみなければ。
かるく意識を集中して、身体を立ち上がらせようとする。
ゆっくりと。
もがくように必死で。
「くっ……」
どうにか、近くの岩場を支えにして、身体を持ち上げる。
足首には、負担をかけるまでもなく、へし折られるような痛みがぎりぎりと走りつづけている。
だめだ。咲夜は思った。
激痛で意識が集中できない。
これでは、飛ぶなんて冗談ではないし、歩くことも危うい。
(冗談じゃないわね……ああ、もう)
動けない、と咲夜は思った。
「冗談でしょ……?」
咲夜は、呟きつつ、横たえた身体を呆然と眺めた。
冗談ではない。
こんなところで。
昼過ぎ。
出かけようとしていた咲夜を、後ろから呼び止める声があった。
「あ。メイドさーん」
咲夜は、ふり返った。
見ると、後ろから、ぱたぱたと羽根をはばたかせて、小悪魔が一匹飛んでくる。
パチュリーの私有図書館に棲みついている者の一匹で、咲夜も顔を見知っている一匹だった。
小悪魔は、追いついてきて、地面に降りた。
ふう、と息をしつつ、言う。
「すみませんね。ノーレッジ様からちょっと言づてするように言われまして。えーと、道具屋に行くんなら、なにかめぼしい本がないか探して来てくれってことでしたけど」
「そう。わかりましたって伝えておいて」
「はいはいと……あーしんどい」
「あなたも大変なのね」
「ええ、そうなのよ。ノーレッジ様ったら、まったく毎度偉そうに人をこき使ってさ。私は別に、あの人の使い魔でもなんでもないってのに、もー」
「はっきり言ってみれば?」
「え。あ、いや、まあそれも怖いしね、うん。ああ。それじゃどうも」
そそくさと飛び立って、小悪魔は、屋敷のほうへ戻っていった。
咲夜も出かけることにした。
外は、朝から降りつづいた雨で湿っている。
魔法の森。
入り口には、すぐに着いた。
少し入り口から分け入っていく。
古道具屋は、あいかわらずの有様でそこに建っている。
扉を開ける。
店の中からは、いつも独特の、乾いた木の匂いが漂ってくる。
店に入ると、いつも聞こえてくるはずの、店主の声がない。
目を配ってみると、誰もいない。
番台にも、店主の姿がない。
咲夜は、声をかけた。
「ご免下さい」
声をかけると、店の奥で、音がした。
がたり。
ごと、ごとん、と物音が鳴る。
店の奥の、障子戸が開かれる。
「いらっしゃい。いや、すみませんね」
と、言いながら、店主が出てきた。
珍しく、ごほ、ごほ、と、咳をしている。
見ると、いつもの青い服の上から、半纏を羽織っている。
風邪だろうか。
「風邪ですか?」
咲夜は、聞いた。
店主は、ちょっと気まずそうに答えた。
「ええ。いえ、こんなことは滅多にないんですが……」
言いつつ、軽く咳をしながら、店主は番台についた。
たしかに、なんだかいつもより、顔色が悪い。
顔も、ほんのり紅潮しているようだ。
具合が悪いというのは、本当らしい。
咲夜は、言った。
「まあ、番台に出てこれるようなら、商売は出来るわよね。それじゃあ、すみませんけど」
「君は、人に優しくするように、閻魔から説教されたと聞いたんだが、その様子だと、まだ、ほど遠いようだね」
「その言い分を聞くようだと、あなたにそうなるのは、確かにほど遠いわね」
ちょっと憎まれ口を叩く。
店主は、それ以上絡んでこなかった。
たしかに、いつもの余裕はないようだ。
やや喋りすぎの気があるから、ちょうどいいのかもしれないが。
咲夜は、店主に断って、商品を見て回りはじめた。
屋敷の仕事では、小物の消耗がわりと激しい。
妖精メイドは、仕事をしないが、物だけはよく壊す。
咲夜も、実はやらないわけではない。
やっても、あまり表には出さないが。
(まあ、能力の有効活用よね)
割れたカップの代わりを探して、咲夜は、商品を見て回った。
ここの商品は、日用品については、品揃えは並である。
店主に商売への熱気がないから、仕方がない。
ただ、里にはない、めずらしいものが見つかるのと、人里よりは、足を運びやすい、というのもある。
咲夜の主は、あれで、めずらしいものが好きである。
たとえ、ガラクタのようなものでも、変わったものであれば、たちまち目をきらきらとさせる。
そこが可愛らしい、と咲夜は思う。
友人のパチュリーは、もう少し違う意見らしい。
「あれは可愛らしいんじゃなくて、変態って言うんだと思うわ」
などと言う。
変人の魔女に、それを言われたくない、と主は言うだろうが。
カップを手にとって眺める。
二つほど、めぼしい物が定まった。
安ければ買いたいけど。
そう思いながら、ふと、咲夜はちらり、と脇に目をやった。
カップを手にしながら、顔を寄せる。
カップや、小物類が並べてある棚の脇に、場違いな物がある。
小さなナイフだ。
いや、それはナイフとも呼べなかった。
刃の部分は妙に小さい。
握りも、最低限、どころか指二本ぶんほどしかない。
実用的な形とは、ほど遠いようだ。
柄の先端に、鎖がついている。
ペンダントかなにかだろうか。
咲夜は、その小さいナイフを手に取った。
随分軽い。
見た目以上に頼りない。
ちゃんと刃が入っているのか、と思い確かめる。
ちょっと指の先に当ててみると、意外にも刃は鋭い。
(綺麗ね)
手先でいじくりながら、咲夜は眺めた。
そう、綺麗だった。
装飾は凝ってある。
豪華とは言えないが、控えめで、そして鋭い。
咲夜の目には、そのさまが、とても美しく見えた。
目を引かれるというか。
(おっと)
我に返って、咲夜はナイフを置いた。
ちょっと恥じ入って、髪を梳く。
なんだろ。
見とれてしまうなんて。
(嫌ね)
と、横手から声がかかった。
「それが欲しいのかい?」
「え?」
と、咲夜は、店主のほうを見た。
見ると、店主の視線はじっとこちらに向けられている。
咲夜は、ちょっと気まずく思った。
さっきの様子も、どうやら見られていたらしい。
「……いや、ずいぶん熱心に見ていたものだからね。君のそういう顔は珍しいし」
「……まるで、いつもよく見ているような言い方だけど」
咲夜は、少しきつめに言った。
店主は、ちょっと肩をすくめるようにした。
悪びれた様子もない。
「お客のことは、いつでも見てるよ。商売の基本だもの」
店主は言って、指で眼鏡を直した。
「君が欲しいって言うんなら、譲ってもいいよ。代金もいらない」
「……なに? それ」
咲夜は、素の口調に戻って聞きかえした。
急に意外なことを言ってきた。
店主は、とくに動じた様子もない。
しれっとして言ってくる。
「そんなに驚く事じゃないと思うけどな」
「あなた、道具屋でしょう? 商売する気も無くしたの?」
「そうだよ。道具屋っていうのは、のぞむところに望まれるものを提供してあげるのが、至上の目的だと思うんだけど。そういう観点で言ったら、僕の言っていることは、まったく理に外れていないよ」
「意味がよくわかりませんけど」
「そんなに絡むような事じゃないよ。正直それは売れる見込みがないから処遇に困ってただけの話だよ。君が欲しいなら持っていって良いよ。なにか気に入るものがあったんだろう?」
「いくらなんでもただでは貰えませんよ」
「払う見込みのない君から、そんなガラクタ同然の物で搾り取ろうとは思わないよ」
咲夜は、ちょっと眉をひそめた。
「がらくた?」
「拵えは立派だけど、骨董品としては、ほとんど価値のない物だよ。なにか呪的な効果があるわけでもないし、言うなれば、本当にただの飾りかな。外の世界ならともかく、こっちでは、そういう装飾品というのは、必要とされないからね。幻想郷の者というのは、外面も内面も、飾り立てない者が多いらしい。君は外の人間だから、興味を引かれたんじゃないか? 正直、僕も、そいつには、興味がわかないようだ」
店主は、そっけなく言う。
咲夜は、考えこむように、店主を見た。
それも、ほんのわずかの間だった。
咲夜は、棚のナイフを取り上げた。
正直を言えば、店主の言うことは、当たっていた。
「じゃあ……いただきますけど。後で返してくれと言われても困りますよ」
「ええ、どうぞ」
日が暮れて、辺りは、とっぷりと暗くなった。
幸いにも、夜になっても、何も起こらなかった。
しかし、まだ季節は春先である。
何のけなしに巻いてきたマフラーが、唯一、救いだった。
寒い。
雨でも降ったら、へたをすると、そのまま死んでしまう。
当たり前ではある。
人は死ぬもの。
死んだら死んだで、それはそれ。
だから、あっさり死ぬのだ、というわけでもないだろうが。
少なくとも、そうなりかねない。
そういう要素は、いくらでもある。
幻想郷の外では、人の力はあまりに無力だ。
考えが、下へ、下へと下っていくのを、わずらわしく思いつつ、咲夜は、じっと身を潜めて、うずくまっていた。
ずくずくと、足の痛みはひどくなる。
熱まで出てきた。
意識が、もうろうとする。
獣よけの火さえ、ろくに焚けていない。
獣か、それこそ妖怪にでも襲われたら、逃げるしかないが、はたして逃げられるだろうか。
(考えるな)
失いそうな意識を、必死で保つ。
咲夜は、じっとこらえつつ思った。
こらえることは、得意だった。
苦痛を感じないわけでもないが。
一分一分が、長く感じる。
どこからか、海鳴りの音が聞こえてくる。
幻聴だろう。幻想郷には、海はない。
今は、何時だろう。
手元の時計を、もうずいぶんと確かめていない。
海鳴りの音が、聞こえてくる。
波打の音は、ここにはない。
ざあん、ざあん、と揺すぶられる意識の中、しだいしだいに、咲夜は、気を遠のかせた。
波打の音は、ここにはしない。
ふと、目を覚ました。
鐘の音が聞こえる。
紅魔館の鐘楼かな、と思ったが、違うようだ。
どうしてそう思ったのかは分からない。
音が違う。
これは、教会の鐘だ。
(教会って……なんだったかしら)
咲夜は、うっすらと目を開いた。
教会の、長い椅子に座っていた。
正面を見ると、教壇がある。
ステンドグラスからは、日の光が降りそそいでいる。
日の光を遮って、牧師が立っていた。
何か言っている。
静かな声だ。
椅子に座っているのは、自分だけではなかった。
老人、若い女の人、男の人。
自分と同じ年くらいの、小さな子供も。
(同じ……とし?)
そこで、やっと気づいた。
なんだろう。
自分は、今の自分の年を、不自然に思ってしまっていた。
教会の中は、荘厳で明るく、光が柔らかい。
牧師様のお話は、有り難いけれど、眠くなってくる。
目をこすっていると、脇の母に肩を揺られた。
慌てて、姿勢を正して、話を聞こうとする。
でも、どうしても眠くなってしまう。
教会の中に満ちる光は、暖かい。
神様の膝に抱かれているみたいだ。
自分は、神様を見たことがない。
でも、教会の、牧師様の後ろに立っている人は、とても温かくて、優しそうな顔をしている。
「あの人は、神様じゃないのよ」
と、母に言ったら、笑って答えてくれた。
「じゃあ、神様は、どこにいるの? 教会の中にいるんじゃないの?」
聞いたら、わからない、と答えた。
誰にも分からないらしい。
牧師様にも、分からないらしい。
だから、聞いちゃ駄目よ。
母は言った。
「神様は、教会の中……」
きい、と後ろで扉の開く音がした。
教会の、大きな扉だ。
かつ、かつ、かつ。
足音が響く。
「屋根の上には、黒と白の小鳥たち……」
軽やかな歌声が、教会の中に響いてくる。
なんだろう。
牧師様のお話中は、歌なんて歌っちゃいけないのに。
かつ、かつ、かつ。
「地の底の蛇は、紅い舌を出し……」
その女の人は、長い長い銀色の髪に、真っ赤なドレスを身にまとっていた。
とても綺麗。
見た瞬間、心臓が高鳴って、目がはなせなくなるくらいに。
とても綺麗で、優雅で、繊細で。
とても怖い。
「黙ったままの羊たちを、じっと見つめている……」
牧師様がなにか言った。
私の耳には、届かなかった。
紅い女の人が、答えて言う。
「ええ、すみません。けれどね牧師様。この中には悪魔が紛れ込んでいるのです。あなたはお気づきでないだろうけど。悪魔というのはね。実に巧妙に紛れ込む。気がつかないのも無理はないわ」
涼しげな声には、柔らかくて、まるで硬い刃物のような響きもあって、耳に心地よく届いた。
牧師様が、何か言った。
大きな声だった。
――悪魔め!
と、それは聞こえたけど、私には何を言っているのか分からない。
女の人が笑った。
「あら。悪魔だなんて心外ですね。私はそんなものではないわ。そんな下賤なものと一緒にされては、我が血統が穢れるというもの。私を呼ばわるなら、どうぞこのように。偉大なるスカーレットの姉。ブラドの末裔、誇り高きツェペシュの末裔と」
牧師様が、また大きな声をあげた。
私は、怖くなって母にしがみついた。
でも、その女の人からは、目が離せない。
女の人は、まだ笑って言う。
「だから、言ってるでしょ? 悪魔っていうのはもっと身近にいるものなのよ。私たちは卑しい身分の者ではないし、人間なんかとは滅多に交わらないから、姿を見ないけどね。そう、悪魔というのは、必ずしも、完璧な姿ではない」
女の人は、赤い靴を鳴らした。
かつ、かつ、かつ、とこちらへ近づいてくる。
牧師様が、また大きな声をあげる。
でも、なんて言っているのか、私には分からなかった。
思わず、隣の母を見上げる。
母は首をうなだれさせて、眠っているみたいだった。
女の人が、こちらへ近づいてくる。
教会の真ん中にある通路を通って。
かつ、かつ、かつ。
足を止める。
こつん。
女の人と、私の目が合った。
吸いこまれそうな紅い瞳。
女の子みたいな可愛い唇を開いて、女の人は言った。
「さあ。あなた、お立ちなさい。いつまでそこに座っているの? そこは、あなたのいるべき場所じゃないのよ。あなたのいるべき場所は、こっち」
女の人が、手に持っていた鏡を差し出してくる。
綺麗な鏡だ。
くれるのだろうか。
私はうながされるまま、鏡を手にとってのぞいた。
牧師様が、また大きな声をあげた。
私は、鏡から目が離せなかった。
顔が映っているはずのところには、なにも映っていない。
なにも。
喉の奥から、蝙蝠のような金切り声がした。
波打ちの音が、ひとつ大きく鳴った。
咲夜は、目を覚ました。
ぐわん、ぐわん、と頭が揺れている。
咲夜は、海鳴りの音を聞きながら、あれは夢だ、と思った。
いつ見たのかもわからない、夢だ。
おーい、と波打ちの音が聞こえる。
咲夜さーん、と。
こんな森の中で。
大声で、自分を呼んでいる声。
(……いや)
おーい。
また、声が聞こえた。
おーい。
咲夜さーん。
聞き慣れた声が、自分を呼んでいる。
咲夜は、はっきりと目を覚ました。
いますかあー。
もしもーし。
「……」
聞き覚えのある声。
よく張りのある声だ。
(美鈴……?)
自分の働く屋敷の門番を、思い浮かべる。
おーい。
咲っ夜さーん。
また、声が聞こえた。
「……う」
咲夜は、身じろいで、顔を上げた。
声をあげなければ。
今、自分が居るのは、岩場の影だ。
「うっ……つっ……う!」
しかし、身体が言うことを聞かない。
咲夜は、我慢を重ねて、足を引きずった。
岩場に手をついて、ずるり、と身体を持っていく。
目立つところにいかないと。
喉を動かそうと、力をこめてみる。
しかし、痛みで上手く動かない。
声を出すのも、難儀なようだ。
(言ってる場合じゃないでしょ?)
咲夜は、無理に振り絞って、叫んだ。
「美鈴!!」
あまり大きな声にはならない。
もともと、大きな声を出すのは慣れていない。
しかし、とにかく、声をあげないと。
咲夜はもう一度、声を振り絞った。
「……美鈴っ!! ここよ!」
森に、静けさが戻ってきた。
いつのまにか、美鈴の声も聞こえなくなっている。
自分の声が、森に反響したように聞こえた。
駄目か?
そう思った。
腹に力を入れた分、疲れが、どっとのしかかってくる。
と、思いがけない方向から、声が聞こえた。
「咲夜さん! ――あー、よかったー」
あまり近くから聞こえたので、咲夜は内心で心臓を跳ねさせた。
美鈴は軽やかな足どりで、こちらに駆けよってくる。
立って迎えようか、とも思ったが、無理だった。
まあいいか、たまには。
自分に言い訳をする。
私は人間だものね。
美鈴は、こっちに駆けよって、ひざまずいた。
「ああ。動かないで良いわよ。大丈夫? 怪我してない?」
美鈴は、手早くこちらの身体を、手近な場所へ横たえた。
様子を見て、右足の怪我にはすぐ気づいたようだ。
「ちょっと失礼します」
と、足の具合を確かめて、咲夜が痛がるのを見ると、ふむ、と呟く。
それから、水筒を取りだした。
蓋を外すと、咲夜の身体を支えて、口を当ててやる。
手を添えようとすると、やんわりと止められた。
「あ。駄目駄目。熱でのどがやられてるでしょ? ゆっくり飲んで」
面子の問題なんだけどね。
正直な話、そう思った。
館を取り仕切る立場上、あまり世話を焼かれるのも困る。
美鈴は、背負っていたデイパックを下ろした。
それほど大きくない袋だ。
そこから、包帯だの添え木だの、ひょいひょいと取りだす。
用意のいいことだ。
靴下を脱がして、添え木を当てる。
足は無惨に腫れ上がっていた。
あまりに苦しかったので、靴は脱いでいたのだが。
美鈴が触れると、びくりと痛みが走った。
「はい、ちょっとご免なさいね」
美鈴は慣れた様子で言う。
そのまま、くるくると、器用に包帯を巻いていく。
もっと優しい手つきをしているかと思ったら、意外に荒っぽい。
咲夜はちょっと顔をしかめてから、口を開いた。
「助かったわ……」
ひどい声だ、とは思った。
さっきよりは、幾分ましだが。
美鈴が答えてくる。
「ええ、危ないところだったわね。ここらへんは獣もいるし。本当、早くに見つかってよかったわ」
「……もしかして、魔理沙が知らせたの?」
「あー。えーと。ええ、まあ」
と、美鈴は、微妙げな顔である。
ちょっと気まずげに、説明する。
「……実はね、昨日の夜になって、お嬢様が起きてこられたんですけど。そのときに、咲夜さんが呼んでも出てこないってことで騒ぎになって。そこでちょうどよく魔理沙が来て、まだ咲夜さんが帰ってこないってことを、パチュリー様から聞いたんですよ。
それで、もう夜だったんで、私が探しに出たんだけど……思ったより手こずっちゃって。ここって気も通じにくくて、私の力も通りにくくてねー」
咲夜は話を聞いて、だいたい納得した。
つまり、夜になるまで、誰も咲夜の不在には気がつかなかったと言うことらしい。
それで気まずそうにしているのだろう。
咲夜は特に気にしなかったが。
(まあ、仕方ないか)
助かったのだから、どうでもいい。
「……もういいわ。帰りましょう」
主に心配をさせたお詫びを言わないとならない。
仕事も溜まっているだろうし。
結局、足は骨折していた。
屋敷に帰って、改めて見てみると、だいぶひどいことが分かった。
予想よりも、治療に時間がかかるらしい事を告げられた。
全治、三週間。
絶望的な数字である。
いったい、そのあいだに、どれだけ仕事が溜まると思っているのか。
とはいえ、無理をすれば治りがひどくなるだけだ、とは言われた。
すでに遭難した段階で、無理をかけてしまっている。
空を飛ぶのも、まずいらしい。
つまりは、ほとんど何もせずに、寝ころがっているだけになるということか。
それでも、これはずいぶんましな方らしかった。
咲夜のように鍛えているのでなければ、もっと治りが遅くなっていただろう、という。
医者が帰った後。
館の一室。
療養のために、咲夜は、この部屋の使用を許可された。
今は、にがにがしい思いで、ベッドに横たわっている。
枕元には何もない。
「ふう」
咲夜は、ため息をつき、布団を見下ろした。
気が、何となく落ち着かない。
何もすることがなかった。
三週間だ。
果てしなく、長い。
(ふう)
心の中でも、ため息をつく。
溜まる仕事の事やらなんやら、考えるときりがない。
こうして寝ているのが、身体に悪く思えるほどだ。
実際、今回のことで、咲夜は結構落ち込んでいる。
大人しくしていると、よけいに暗い気持ちが増してくる。
(なにやってんのかしら……)
なにせどう考えても、大失態である。
弾幕ごっこといえば、多少危険とはいえ、遊びではないか。
それで油断して、怪我を負い、仕事もろくにできない有様だ。
ほとほと、主には、合わせる顔がない。
どの面下げてお会いするのかしらね、と思う。
もちろん、この面の他にはないわけだが。
そこは割り切るしかない。
たぶん、主は、今回のいきさつを、快く思っていないだろう。
どっちみち、立場的にまずければ、それなりの筋を通さないといけないのが、自分と主の関係だ。
今さら言うことでもない。
咲夜はもの思いにふけっていた。
そのとき、ドアがこんこん、と鳴って、声がした。
「咲夜? 入るよ」
レミリアの声だ。
かちゃり、と質素なドアが開けられる。
返事をするヒマもない。
もちろん、メイドである咲夜には、基本的に人権はないが。
レミリアは、我が物顔で、とたとたとベッドの脇に近づいてくる。
「お嬢様……」
「ああ、そのままでいい」
レミリアは、とくに表情も浮かべず、平然として言った。
ベッドの脇に立って、じろじろと咲夜の様子を眺める。
「……派手にやったな。みっともない様だ」
「申しわけありませんでした。こんな失態を――」
咲夜は深々と頭を下げた。
レミリアは、眉をひそめて、鼻息をついた。
不機嫌そうだが、これは本当に不機嫌なわけではない。
腰に手を当てて、ふんぞりかえったまま、言う。
「まったくだな。遊びなんかで大けがして騒ぎになってさ。おかげで魔理沙にもからかいのネタなんか与えちまうし。従者失格だよ? お前」
「はい」
咲夜は、一言も言い返さずに、レミリアの言葉を聞いた。
「私はお前のことは、人間にしては、少しは使える奴だと思っているんだ。お前も、完全だの、瀟洒だの、言われるんなら、そのちょっとばかりの信頼ってものを裏切らないようにして欲しいもんだな。いいかい、咲夜。お前は他の誰でもない。このレミリアの従者なんだよ。最近、そのことを忘れてるんじゃないか? 少したるんでるぞ、お前」
「はい。大変申しわけありませんでした」
ふん、とレミリアは鼻息をついた。
「……まあ、なんにせよ、無事で良かったよ。お前の紅茶がもう飲めないとなると、面白くないしさ」
咲夜は頭を下げたまま、じっとしていた。
「紅茶の入れ方を、あの役立たずの妖精どもに教えることは出来るか?」
「はい」
「じゃあ、あとでやっておけ。三週間も不味い紅茶を飲んでると、頭頂が薄くなってきそうだよ」
「はい」
「早く治せよ。三週間なんてかかりすぎだ。せめて三日にしろ」
「はい」
「馬鹿。なにがはいだ。いくらお前でもそんなもんで治るわけ無いだろ。適当なこと言わないで、大人しく寝てろ、いいから」
「はい」
咲夜は答えた。
レミリアは、それを見て、しかめ面になる。
「さっきからはい、ばっかりだな。馬鹿の一つ覚えか、お前は」
「はい、申しわけありません」
ひとしきり言うと、レミリアは黙りこんだ。
それで終わりか、と思った。
ふと気づくと、主は、じとっと、こちらを見ている。
「……ねえ、咲夜」
「はい」
レミリアは、表情のない目をむけてきていた。
咲夜は、見えはしなかったが、気配で察した。
「お前の血を吸ってもいいか?」
「……。いいえ」
咲夜は、はっきりと答えた。
レミリアは、更に言ってくる。
「どうして? 人間の身体は、不便だよ。今回のことだって、お前運が良かっただけだよ。私は全部聞いてるんだ。あんな遊び程度のことでも、ころっと死んじゃうのが、人間なんだぞ?」
「そうですわ。私は人間ですよ。人間はそういうものです」
「吸血鬼になれば、そんなことはないよ。そんな怪我も、負うことはなくなる。痛いのは嫌だろ? お前だって、不便なのは嫌だろ?」
「私は人間としてお嬢様にお仕えします」
「それはもう聞いたよ。でもね、わからないんだよ、咲夜。お前の言ってることは、私には分からない。お前も、私の言ってることがわからないだろ? 同じことだよ……」
ふと、きし、と、ベッドが鳴り、薫りが濃くなった。
レミリアの匂いだ。
咲夜は、内心で怯みつつも、頭を上げなかった。
きし、と、ベッドが鳴る。
レミリアの匂いが、さらに濃くなった。
上質なミルクのような、甘くて濃密な香りがする。
すぐ鼻先で。
咲夜は、反射的に、身を強ばらせた。
「あのときだって、言ったじゃない……」
囁くように、声が聞こえる。
「顔を上げなさい」
咲夜は、言われたとおりに、顔を上げた。
その頬に、主が指を伸ばして、そっと撫でる。
主が、咲夜のベッドに上がってきていた。
ちょうど、ふざけて母親の寝床に乗っかる子供のように。
飼い主の腹に、図々しく乗り込む猫のように。
四肢を四つんばいにして、投げ出している。
顔が、鼻先にある。
きらりときらめく牙もある。
ぞっとするような近さだった。
紅い目が、妖しい光を含んで、輝いていた。
禍々しい。
そして、魅力的だった。
悪戯っぽい、とは、とても言えない。
それをする子供からは、これは、完全にかけ離れている。
「あのときもそう」
じっと、獲物を定めるように、ぬらりと瞳を輝かせて、レミリアは言った。
顔は笑っている。
この上もなく恐ろしい、吸血鬼の見せる笑顔。
「あの薬を飲んでいれば、こんな怪我はすぐに治ったわ。だから言ったのに」
レミリアは、顔を近づけた。
開いた口に、唾液が光っているのが見える。
咲夜の首筋に。
咲夜は、そこに、ぞっとするような視線を感じた。
(『吸われる』……?)
ねっとりと、からみついてくる視線。
食欲に飢えた、純粋な獣の瞳。
血を。
吸われる。
鼻先が、吐息のかかるほど近づいた。
主は止まらない。
止まる気が、微塵もない。
本気で?
レミリアは、止まらない。
咲夜は、シーツに置いていた手を、胸元にのばした。
「……」
主の動きが、ぴたりと止まった。
ねぶるような吐息が、動悸を伝えてくるようだ。
そのままの姿勢で、主は止まっている。
恐れた、と言うわけではないと思う。
首筋に、小さな刃物が添えられている。
ちっぽけな刃。
このうえなく役に立たない、小さな飾りの短剣。
魔犬の牙。
ちっぽけなナイフ。
それが、吸血鬼の、白い首筋に当てられている。
じっと、それを見下ろすような視線。
咲夜は、震えそうになる息をこらえた。
口を開く。
「お嬢様……悪ふざけは、悪ふざけは、おやめ下さい」
主はじっとしたまま、動かない。
恐れている、というわけではないだろう。
こんなナイフなど、蚊に刺されたようなものだ。
人間の持つ普通の刃物。
そんなものに、吸血鬼が恐れを感じるわけがない。
「怪我を、なさいます」
咲夜は言った。
必死で。
手の中の小さなナイフに、すがりつくようにして。
いささか、きつく握りすぎて、指が白くなっている。
主には、気づかれているだろうか。
恐怖していることを。
浅ましく、よりにもよって自分を恐怖していることを。
吸血鬼を恐れていることを。
ふん、と主の目がわずかにほそまった。
よく見ないと、分からない程度に。
レミリアは、笑っていた。
そのまま、こちらを見上げるようにして、顔を近づけてくる。
刃が、薄く皮を削いで刺さる。
その寸前で、思わず咲夜はナイフを引いてしまった。
主は、そのまま、ぬる、と、咲夜の首に、舌の先を当ててきた。
「……っ」
ぴちゃり、とした、粘質な舌の感触が、肌を這う。
舌を押しつけたまま、ちゅ、と吸うように唇が押し当てられる。
咲夜は身を固くして、シーツを、ぎり、と握りしめた。
レミリアは、そこから舌を当て、ねっとりと、肌に沿って、舌先をゆっくり滑らせていく。
(嫌)
咲夜は、かすかに身を引いた。
主の姿から、目を逸らした。
主は動きを止めない。
何度も咲夜の肌にくちづけ、味わうように体皮を舐め取っていく。
しきりに、小さな唾の音がした。
ぴち。
ぴちゃり。
嫌らしく、唾液の粘る音。
舌はただ、肌を這っているだけだ。
それだけだ。
「……っ」
レミリアは、咲夜の強ばる身体を押さえつけた。
襟を掴み、引いていく肌を逃さないよう、舌を這わせる。
咲夜は、逃げられない。
手首を握るレミリアの腕には、それほど力は籠もっていない。
こちらの動きなど見透かしているような目で、唇を淡々と押し当て、小さな舌をねぶる。
そのまま、嫌悪にのけぞっているところを、たくみに押し倒し、ベッドに押さえつける。
咲夜は、背筋をのけぞって耐えた。
恐怖で身体がすくみ、愁眉が寄る。
暑くもないのに、じわりと汗が滲んだ。
主は、あくまで、唇を這わせているだけ。
あくまで、舌を這わせているだけ。
そこに何の意味もない。
ただ、単にそれは、獲物を、長くなぶるためだけの行為だった。
レミリアは、愉しんでいる。
時折、嫌らしく、唾の鳴る音が響く。
咲夜は、声を出さないように堪えていた。
「……、う!」
かり、とかるく歯を立てられる。
噛まれてはいない。
血がでない程度に、鋭い痛みが、肌に走る。
咲夜はこらえきれずに、うめいた。
呼吸が速くなっている。
動悸が、押さえられない。
レミリアは、そこでようやく、身体を離した。
身を起こして、最後に、咲夜の肌に口づける。
「……、あっ!! ……!」
きゅ、と強く吸われ、咲夜は声をあげた。
レミリアは、身体を離した。
身を起こして、ベッドから降りる。
口元の唾液を、指でこする。
意味のない動作で、湿り気のついた指を見下ろす。
「人間なんて、不便だよ。お前は今、私が怖かっただろ。血を吸われれば、そんなことも無くなるのにさ」
レミリアは、静かな足どりで、絨毯を渡っていった。
「おやすみなさい、咲夜」
ぱたん、と、扉が閉じる。
咲夜は、目をこすった。
温かいものが、指先に感触を残す。
泣いていた。
何年も、泣いた記憶なんかなかったのに。
怖かった。
とても。
咲夜は、また泣いた。
自分が情けない。
そう思った。
心の底から、情けない。
怖かった。
怖かったじゃないのよ。
怖かったじゃない。
主が。
吸血鬼が。
怖かった。
二週間がすぎた。
過ぎてみれば、あっという間だった。
時の流れは、早い。
そして、咲夜には休んでいるヒマはない。
仕事が溜まっていた。
それも、山ほど。
たとえ二週間といえど、この屋敷には、咲夜以外、ろくに働く者がいない。
働く者がいなければ、仕事も片付かない。
よって片付かない仕事は、放置される。
主に掃除。
そして洗濯。
どうせ、食わなくても死なないような連中の集まりだ。
身の回りを気にかける事なんて、するはずがない。
パチュリーはまだましだ。
あれでも、最低限身の回りには気をかける。
自分の美しい髪を自慢のたねにするような輩だし、そこらへんはうるさい。
持病持ちなのも、理由の一つだ。
だが、レミリアとフランドールに至っては、世話をする者がいないと、平気で一週間は服を着っぱなしにする。
吸血鬼に汚れなんてつかない、などと、レミリアは言うが、吸血鬼はそうでも、服はそうはいかない。
まあ、着替えていないだろう。
そういう咲夜の予想は当たっていた。
せめて、下着くらいは替えてください。
言ったが、レミリアは、「わかったよ」といって、聞く気はないようだった。
仕方なしに、咲夜は、起き上がれるようになると、高速で働き続けた。
紅魔館内の埃は、ひとつぶに至るまで取り払う。
目覚めた咲夜は、妙に淡々としたやる気に満ちていた。
動き回っていると、もやもやした気が晴れた。
その咲夜の様子には、気がつく者はいなかったが。
ぱん、とシーツが広がる。
雨上がりの空だ。
少しの湿気を含んで、あとは、からっと晴れていた。
咲夜は、竿にかけたシーツを張った。
ぱたぱたと、湿った風が、吹きぬける。
シミの一つもない、シーツが揺れる。
咲夜は、散らばりかけた髪を、指で撫でた。
胸元の鎖が、小さく音を立てる。
さすがに物騒だから、下げているのは服の中だ。
胸の間より、少し上の位置。
そこには、吸血鬼の唇が触れた痕があった。
もう今は、消えてしまっている。
それでも、ひりひりと痛むような錯覚がある。
ナイフを下げていたのは、はじめはそれを隠したかったから。
それでも、あれからなんとなく、肌身離さず持っていた。
何の役にも立たないナイフ。
持っていても、なんにもならないナイフ。
(意味がない)
咲夜は思った。
こういう装飾品が、こっちで流行らないわけだ、と咲夜は思った。
身を守ることも、ろくに出来ないナイフ。
役に立たない、使えない刃物。
(ほんと使えない)
でも、けして意味がないんじゃない。
咲夜は思った。
服の上から、ナイフをそっと撫でる。
ふと、庭の端を見た。
どこかの門番中華小娘の姿が、なぜか庭園にちらちらと見える。
咲夜は、半眼になった。
(やれやれ)
洗濯ものの籠を、両手に抱えて、持ち上げる。
注意するために、ゆったりした足どりで、そちらに近づいていった。
風がまた、シーツを揺らしている。
「魔犬の牙、っていうそうだよ。それの銘だけど」
ナイフを渡すときに、店主が言った。
「なんだか、ずいぶん大仰な名前なのね」
「ふれこみだと、本当に魔犬と呼ばれた犬の骨から削りだしたって言う話だけど。まあ十中八九どころか、九厘ほど嘘だろうね」
「残りの一厘はなんなの?」
「名前に恥じない意味や歴史なんていうのは、あとから与えられるものだよ。石は名づけられなければ石じゃなかった。ということは、ただのナイフを、魔犬の骨からけずりだしたものだと呼んだって、持っている人間には、本当にそうであるかもしれない。持っていない人間には、言わずもがなだろ」
店主は言った。
「君はその名前に意味を持たせることが出来るかな」
味のある文章…
なかなかに巧い文を書く人だなと思っていましたが、私の中でまた評価があがってますw
正直な話、凄いとしか感想が出てきません。
本当にすげえ!
表現も丁寧で、浮き沈みもせず漂う感じが素敵でした
文章に相当のセンスをお持ちと見ました
無言坂さんですね、素晴らしい幻想郷をお持ちです。
これからも面白い作品を期待しています!