天暦七年。
白蓮は再び、遊行へと出立し、再び東を目指した。
そこで、
「聖……一つ、よろしいですかな?」
聖がそう言われて振り向いた先には、一人の翁が立っていた。その翁が、申し訳なさそうに口を開く。
「実は、妖怪を退治して欲しいのですが……」
聖は、二つ返事で了承した。
その二日後。
聖が街道から少し外れた道を歩いている。なんでも、退治をして欲しい妖怪というのはこの近辺によく出没するらしく、ならば聞き込みをしよう、と思いたったわけだ。
「……。見当たりませんねぇ」
だが、いささか道から外れすぎたらしく、人っ子一人見かけなくなってしまった。狩をしている人間や、その人間に使われている狩猟用の動物でも見かけたのならまだ話は変わるのだろうが、そういう気配もない。
そろそろ足首が痛くなってきた頃、白蓮の頭上から声が聞こえてきた。
「あぶなーい!」
巨大な鉄拳が飛んできた。家の一軒や二軒ぐらいなら一緒に押しつぶせてしまうぐらい巨大な鉄拳が白蓮めがけて飛んできた。
「えぇぇぇぇぇぇ……!」
脱兎のごとく走り出す白蓮。嵐や病気の類ならまだなんとでもなるが、家ぐらいはある鉄拳だけでは加持祈祷の類で対処する方法は知らない。
ただでさえ痛い足首に命令して、走り続ける。
(まだ逃げれない……)
鉄拳がガケの上から落下する巨石かのような速度で落ちてくるので、逃げても逃げても追いかけられている印象すらある。
徐々に巨大な鉄拳が押し寄せてくる。
近づけば近づくほどにわかるのだが、巨大、などという水準で物を考えていた自分を少し恥ずかしく思った。
壁に近い鉄拳。ツメの部分だけで人間の顔ぐらいある大きさの鉄拳が、ゴゴゴゴゴゴゴ……、と空気をこじ開けながら押し寄せて来て、白蓮を押しつぶそうとする。
「早く……逃げないと……!」
できるだけ早く逃げているが、追いつかれそうな気配さえある。これより早く走る事もできるけども、誰が見ているのかわからない現状ではそれも使えない。
その時、聖の視界に黒い穴が見える。
「洞窟――!?」
正確には洞穴に近い大きさだ。聖が入るのが精一杯だろう。だが、選んでいるヒマはない。突入しなければ壁のような鉄拳が白蓮に命中する。
(飛び込むしかないわね……っ!!)
覚悟を決めて、洞穴の中に飛び込む。
(狭い……)
白蓮の体が入るだけしか大きさがなかった。
ゴゥンッ、と鉄拳が白蓮のすぐ背後に着弾した。大きな拳が地面を揺さぶり、着弾の瞬間に地面が大きくえぐれて行く。白蓮の背中や腰が外気に晒されて、石やら岩やら朽木やらなんやらが破片として飛んでいくのが実感できる。
地震のような振動が終わった頃。
「……止んだようね」
モソモソと周囲の環境を伺いながら、白蓮が洞穴の中から出てくる。
すると、
「なーんだ」
と、残念そうな声が上空から聞こえて来た。
先ほど、白蓮に注意を呼びかけたのと同じ声だった。白蓮が上を見ると、一人の少女が空を浮かんでいた。
「貴方ね」
少女の風体は、道中で出会った翁の発言と合致していた。
少し高い身長、利発そうな顔立ち、スラリと通った柳眉に、自身まんまんな態度。それら全部が見事に混ざり合って、男っぽく見える印象すらある。反面、雲のように柔らかな髪がフワリと舞っている事に強烈な印象を覚える。
「この辺で悪さをしている妖怪、というのは」
「だからなんだっていうのさ」
妖怪少女が高笑いでもしそうなぐらい自信満々で答える。その妖怪少女に、白蓮はゆっくりと近づく。自分の目の前に出てきて、そっと手を差し伸べた。
「な……何がしたいのさ」
「貴方を更生したいのですよ。私は、貴方の味方ですから」
ニコリ、と笑って差し伸べられた手を食い入るように見ながら、妖怪少女は思った。
(何かに利用できるかもしれない)
内心ほくそ笑みながら、妖怪少女は白蓮の手を取った。
「名前は……?」
「一輪」
翌朝まで待って、大きな街道に戻ってきた二人。
人里が近いのか往来も激しく、多くの行商や役人が下るための伝馬も歩いている。地方へ出向する者、人里から人里へと渡り歩く者、伝馬の子供を連れて歩く飼い主……様々な人たちが往来している。
いつになっても雨も降らないし風に流されない入道雲に首をかしげながら歩いている。
「で、まずは何をするの?」
一輪の問いに、白蓮は地面に鉢を置いた。
「タクハツをします」
「はぁ?」
顔をしかめる一輪をよそに、鉢の前に座る白蓮。
「さぁ、あなたも座ってください。足を伸ばさなければ好きに座っていいですから」
白蓮に促されて、一輪は白蓮の隣に座る。
「お布施が投じられますので、両手を合わして、頭を下げてください」
「それだけ?」
「本当は色々とあるのですが、今はそれだけで十分ですよ」
そのまましばらく待っていると、ザッ、と誰かが立ち止まった。
「やぁ、お坊さん」
一輪が顔を向けると、大きな荷物を持った男の行商人が立っていた。物腰の低そうな柔和な笑みを向けている。その手には白い球根を持った植物を持っている。
「すまんね、今のワシは大蒜(おおひる)しかないんだ」
そういって大蒜を鉢に入れる行商に向かって、白蓮は何も言わずに頭を下げた。それにつられて、一輪も形だけ頭を下げる。
そこで、一つ思った。
(……面白くないっ)
誰かが鉢に何かを置く。
そうしたら頭を下げる。
意味不明にしか思えなかった。
(それにまた臭い)
外見自体は何一つ問題なかったのだが、一輪はその匂いが少し嫌いだった。イガラっぽくて顔を背けたくなるような匂いである。吸血鬼も逃げ出しそうな匂いだ。
そこで、一つ妙案を思い浮かんだ。
「ねー、白蓮」
白蓮がコチラを見て、行商人もコチラを見る。
「これ臭いから捨てようよ」
空気が固まった。
白蓮も、行商人も、ピシィッ!! とでもいうような音が聞こえるぐらいの硬さに固まってしまった。
(よし……!)
内心ほくそ笑む一輪。
(なかなか急だったけど、旨いこと行った……)
行商人も白蓮を同時にハメるイタヅラだった。こうすれば二人は驚くと思ったし、事実驚いた顔をしている――ハズだった。
「あっはっはっはっは……!!」
行商人に笑われた。
むんず、と頭を捕まれて、
「まだこんな小娘には、大蒜の味がわからんか」
と、言われながら頭をワシャワシャと乱暴に撫でられた。
(失敗したな)
相棒が話しかけてくる。彼女――雲居一輪は元来、人間を驚かす妖怪である。自由自在に形を変える相棒と一緒に計画を立てては、人間を驚かして心を食べて生きている妖怪である。
「そんな事言ってもさぁ、あそこで言うのが一番驚かせれるじゃん」
白蓮には聞こえないようにボショボショと返事をする一輪。周囲からは一人ブツブツ言っているように見えてうす気味悪く見えるだろうが、この際大きく気にしていられない。
(ちゃんと考えを煮詰めないからだ)
「いやはや、計画性のある人は違うねぇ」
「なぁ、お嬢さん」
頭をワシャワシャと撫でていた行商人に呼ばれて、上目遣いで見る。
「そんなに豪華なのが欲しければココの荘官様に言えばいいさ」
「荘官……?」
聞き覚えのない単語に眉をしかめる一輪。
「ここいら一帯を管理している領主様さ。イイ着物着てるからわかるだろうさ。なんでも、とても珍しい薬を作りたがっていて、その材料を集めているようだ」
「珍しい薬……ですか」
「ワシも話を聞いただけなんで、それ以上はなんともなぁ……」
そう言って手をヒラヒラと振って、その行商人は去っていった。
「一体なんなんでしょうね? 珍しい薬って」
「それより。いいですか、一輪。もうあんな事を言ってはいけませんよ」
白蓮がそういうと「は~い」と言う一輪のやる気のない返事に、白蓮は呆れ顔を見せる。
別段、朝護孫子寺でなくても、小さなお堂――場合によっては廃屋や馬小屋でも問題はない。屋根のある場所にさえ行けば、何とでもできる。だがいかんせん、形式さえしていればヨシとして最初に托鉢から始めさせたが、というのは問題があったかと自省する。
「やぁ」
白蓮と一輪、二人が顔をあげると、黒髪の少女が立っていた。
「あら、妹紅さん」
「お久しぶりで」
少し目つきの悪い少女だった。背もそこまで大きくはなかった。いつも人を攻撃していそうな様相を見せる反面、白蓮に見せる快活な笑みは人を幸せに導ける顔だった。この一年で少しは柔和な雰囲気を手に入れた、と白蓮に成長を思わせる顔になった。
「知り合いですか?」
「去年あたりにね、いろいろとあって知り合いました」
白蓮はどこか嬉しそうに、一輪の返事をしていく。一輪は二人の間に何があったのかは知らないが、自分のその中に入るのだろうか、と思った。
「どうしたの?」
「いや、なに。通りすがらに顔を見たんで挨拶に」
妹紅はチラッと、一輪を見る。
一輪も、妹紅を見返して目線を合わせる。
そのまま、数秒の時間が経つ。
瞬間、
「動くなっ!!」
「――っ!?」
妹紅の怒号と一緒に飛んできた拳が一輪の顔面に命中する。殴られた一輪はその場で後ろにバタリと倒れてしまった。一輪も、白蓮も――往来の人々も、何が起きたのかわからない顔で妹紅を眺めていた。
「おい、何があったんだ? 嬢ちゃん」
「うるさい、黙ってて」
「理由ぐらい教えろよ」
「うるさい」
野次馬まじりに理由を聞き出そうとする一般人に、妹紅は吐き捨てるように一蹴した。一輪は頭上の入道雲を見上げながら、一般人にはわからない理由を自覚していた。
(しょうがないか)
殴られた鼻を触って確認する――問題ない。
打ち付けた頭を触って確認する――問題ない。
(妖怪だもんね)
諦念の感すら感じながら、一輪は起き上がる。一方で、妹紅が一輪の正体を言い出さない事に疑問を抱いていた。
実の所、妹紅が一輪の正体を理解していた。何かしらの理由で妖怪との付き合いが長くなると、妖怪か人間かというのをわかるようにはなる。だが一重に、妹紅が持っていた白蓮への感謝の念が、一輪の正体を明らかにするというのを避けていた。
「さぁ」
だがしかし、白蓮への感謝の念と、妖怪を野放しにすることは別であった。
ザッ、と妹紅が一歩大きく踏み込む。一般人はもう完全な野次馬となって、歓声を上げている。その歓声を小耳に挟みながら、妹紅は握り拳を硬く握り締めた。
「もう一発――!!」
妹紅が握り拳を振りかぶり、一輪めがけて振りぬいた。
パシィッ!!
乾いた破裂音が周囲に響いた。
「……?」
破裂音を聞いた一輪が目を白黒させた。一輪は、何一つケガを追っていない。一方の妹紅は、忌々しげに言い放った。
「邪魔をしないで!! 白蓮!!」
妹紅の放った拳を、素手で受け止めたのは他の誰でもない白蓮であった。
「ごめんなさいね、うちの弟子なもので」
「おおおおおお……!!」「すげー、最近の坊さんはケンカもできるのか」「いいぞー!! やれー!! もっとやれー!!」「坊さんガンバレー」
一瞬にして周囲が沸いた。
「……つまんないの」
小さく舌打ちしてから、妹紅は白蓮の手を振りほどいた。そのままケンカを続けてもいいのだが、白蓮に対する感謝の念がどうしても邪魔してしまう。そして何よりも、目の前の妖怪――一輪同様に、妹紅自身もまた有名になりすぎる事は望んでいなかった。
「またね、お坊さん」
内心舌打ちをしながら、妹紅は白蓮に挨拶してどこかへと去ろうと足を一歩踏み出した。
「一つ、よろしいですか? 妹紅さん」
白蓮が妹紅を呼び止める。
「何? ケンカの続きでもしたいの?」
「いいえ」
それを白蓮が言った瞬間、「あーあー」「つまんねぇなぁ、オイ」一瞬で沸いた観衆の声は残念そうな声だけがその場に残る。もうケンカがないとわかると、観衆はチリジリになって、何事もなかったかのように日常に戻っていった。
「ここの荘官……領主様が珍しい薬を作っているとお伺いしたのですが、何かご存知ありませんか?」
白蓮としては、ある程度情報を入手したい話であった。なぜなら、『珍しい薬』の材料を集めている、とは聞いたが、その材料が何かまでは聞かなかったのだ。そしてその材料が、妖怪の遺体を使っている可能性すらあり得る。
そうなると、白蓮は是非にでも止める必要があった。
そんな白蓮の思惑を知ってか知らずか、妹紅は嘲笑気味に笑った。
「教えてあげるわ。ここの領主が作りたいのはね、■■■■なのよ」
白蓮は耳を疑った。
「実際に■■■■ができるかどうかは知らないわよ? ただ、どうもその薬を作りたがっているという話よ。何も知らない病気だらけの老獪が、『長生きしたい』なんていうだけの理由で■■■■を作ろう、なんていう愚かしい話よ」
幸か不幸か、妖怪の遺体を材料にする、という話は聞かない。
白蓮自身の事を振り返ると、その荘官領主の事を悪く言う事はできなかった。
「領主に会うならどうぞ。まぁ、お互いケンカしないようにしましょうね」
今度こそ、妹紅は呼び止められる事なく去っていった。
「どうしたの? 白蓮」
一輪が青い顔をしている白蓮を気にかける。
「会いますよ……荘官様に」
一輪は目を白黒とさせていた。微妙におかしいと思っていたのだ。物に執着が薄いかと思えば、珍しい薬は見たがるという。ただの物好きかとは思ったが、どうにも違うようだ。
「何でです? 良いじゃないですか。そんな薬作らせておけば」
話の流れを読むと、長生き領主が病気を治したいだけにしか聞こえない。
「貴方には馴染みが薄いから、いらないでしょうね。でも、人間が口にするには恐ろしい薬があるのです」
「名前は?」
「――蓬莱の薬」
一輪は未だに首をかしげていた。その一輪に向かって、白蓮は説明を続ける。
「変化を拒絶し、今ある体を永遠に続ける薬です」
「それじゃあ、人間にはよっぽど良い薬じゃないですか……!!」
「生きる事を強制されて、死ぬ事からは拒絶されます。輪廻転生の輪から外れる、と言えば聞こえはいいですが、その実、輪から出て行くのではなく、輪から追い出される外法中の外法。下手に手を出せば、植物にも似た、殺せない生きる屍が出来上がるだけです」
「……」
「私が以前、会った事のある人は、こうも言いました」
白蓮が言葉を続ける。
「あれは、『蓬莱』いう名前しか与えられていない禁忌。穢れを持つ者からも、穢れを持たない蓬莱人からも受け入れられない最悪の薬。蓬莱の薬を飲むと、それだけで永遠の孤独が約束され、同じ薬を飲んだ者でしか慰めあえなくなる薬である、と――」
一輪には細かい言葉の意味がわからなかった。ただ、その薬に手を出せば、それだけで悲しい結末が訪れる、というのはわかった。
「どうするの? 止めるの?」
「私自身、未熟なので止める事は不可能です。ですが、蓬莱の薬を飲むに値する人間かどうかは判断しなければならないでしょう。そして、必要とあらば、薬の材料を奪います」
白蓮の発言に、一輪は首をかしげる。
「どうしてそこまでやるんですか?」
放っておけばいい。話の概要はわからないが、できるかどうかもわからない薬だ。
白蓮はそこまでわかっているのか、ニコリと笑顔を作ってこう答えた。
「人間も、妖怪も、皆等しく、顕界に生きているのです。それ即ち、悲しみを抱えていると同時に、幸せになる事ができるのです」
ズキリ、と一輪の心に傷が入る。
「ですから、私は顕界の衆生を、多く幸せにしたいだけなのです」
この人は、本当にそう考えているのだろう、と思った。でなければ、妹紅の鉄拳も防がなかった筈なのだ。
だからこそ一輪は、
「白蓮……どうすれば、幸せになれますか?」
もう少し、見届けたくなった。
「そうですね。まず最初にする事は、正直になる事です」
だからもう少し、『弟子ごっこ』をする事にした。
「だからと言って、何でも正直に言えば良い、というのではありませんよ? それでは逆に痛い目を見ますからね」
相棒の入道雲が「妖怪の矜持が」「日ごろの機転はどうした」だの叫んでいるが気のせいにしておいた。
その後は、半日かけて適当な宿を、夜を明かした。
(正直に、ねぇ)
一輪は、妖怪の自分では、その機会の方が少ないと感じた。
翌、早朝。
遠淡湖――今の浜名湖――を超えてさらに遠く、平安京直轄である国府がある盤田を通り越しての山道である。ここからさらに東に行けば、富士山が見える。
白蓮と一輪は、再び街道に出て托鉢を始めた。
「領主様に会うからといって、今日明日会えるわけではありませんから」
言って、何事もなく托鉢を始めたのだから一輪は頭を抱え始めた。
「人っ子一人いないじゃないですかぁ……」
泣き言のように言う一輪。昨日のような街道ならまだしも、人っ子一人通らない場所である。時間的なものもあるのだろうが、実はそれだけではなかった。
京都平安京を中心にして東海道が東へと流れていく。その道中にいるのだが、十年ほど前に起きた平将門が起こした『平将門の乱』で家を焼け出された一般人の多くがあえなく盗賊となり、治安は悪化していた。
むしろ、白蓮らが未だに盗賊に会っていないのが不思議なぐらいの状況なのだ。
(まぁ、この人の事だから盗賊も助けよう、とか考えるんだろうなぁ」
そこで一輪はふと、思い出した。
「そういえば白蓮」
「なんですか?」
「なんで正直に生きるのが幸せなのさ」
一晩考えたが、あまり繋がる物ではなかった。むしろ、口八丁手八丁で生きていった方が幸せな事が多い妖怪の生活が長いせいか、正直に生きる事に苦労しか考えられない。
「一つ、ウソをつけば、そのウソを隠すために、もう一つウソをつく事になります。そうやって延々とウソをつくことになれば、やがて自分にもウソをつく事にもなります。そして行く末は、自分も他人も信用できない生活がやってくる事になります」
訥々と、白蓮は語り始めた。
「ですが、正直に生きれば他人からの信用も得ることができます。少なくとも、自分は信用する事ができるのです。それができないのは一重に、心が『ウソをつく』という病に冒されているからでしょう。一回でもウソをつけばそのまま、ウソをつき続けます」
最後に、「ですから、正直に生きましょうね」と締めくくった。けれど、一輪にはどうにもこうにも、現実感がなかった。
そう、思っていた時だった。
くぅ~……
と、一輪の腹が僅かになる。
最後の『食事』は何日か前だ。白蓮を驚かした奴も、前日に白蓮と行商人を驚かした奴も、間食程度で満足にはなっていない。
そこへ、薄い青色の狩衣を身に着けた翁が馬に乗って、カポッ、カポッ、と少し抜けた音を鳴らしながら、二人の前にやってくる。護衛か部下だと思われる人間が四名、少し貧相な狩衣姿の人間が弓や刀剣を持って武装している。
「これ、聖」
「あら、一体なんの御用でしょう?」
狩衣姿の翁が馬上から降りて、白蓮に話しかける。その翁は年齢を大きく重ねており、遠目でもわかりそうなぐらい、目じりや口元に大きなシワが出来ていた。
「一つ、聞きたいことがある」
白蓮は笑顔を作って待つ。
「蓬莱の薬というものがある。聖、何か作り方を知らんか?」
白蓮も一輪も目を見開いた。
二人とも、まさか相手からやってくるとは思わなかったのだ。その慌てふためいている様子を見ていると、蓬莱の薬を欲しがる壮年は自ら名前を名乗りだした。
「ワシはここいら一帯の管理をしている荘官。質侶(シドロ)ノ荘大領(カミ)・朝生部ノ君忠臣」
(この人が……)
禁忌を再現しようとしているのだと思うと、白蓮は自然と身構えた。
一方、目の前の朝生部ノ君忠臣もそれを理解したのか、あわてて口を開いて取り繕いだした。
「ほっほっほ……。まぁ、待ちなされ。何か知らんか、と聞いただけじゃないか。教わっても殺すだとかなんだとか、聖を悪いようにはせんよ」
その言葉が信じられないようで、白蓮は未だに警戒していた。
「あれは『竹取物語』にしかない物、だという風に考えております。実際にあったとしても、どんな理由であっても、あれは人間の手には負えない代物だというのを、少しはご理解いただければ幸いに存じます」
「そうは言ってもだな、もう八十近いワシには、時間がなさすぎるのだよ」
「ですが、果たしてそれがこの世の理から外れてでも行うような代物だとは思えないのです」
「いやいや聖。人間、何かを始めるのに遅いというのはないのだよ。すなわち、時間などいくらあっても足りないのさ」
若干の口論が始まる。
「蓬莱の薬を飲んで蓬莱人になったとして、貴方は何をするというのですか?」
蓬莱人を何人か見てきた。妹紅もその仲間で、孤独に生きた人間である。実際に口にした事情は聞かなかったが、何かしらの孤独を抱えているのはわかっている。同じ道を安易な理由でたどろうというのが、白蓮は気に食わなかった。
「平安を望む。いくらかの犠牲は出ても、手に入れる価値のある平安というのがある」
一方の荘官、朝生部ノ君忠臣もまた、引いてはいられなかった。
以前よりそれなりに圧制をしいて作人・下人を困らせているとは知っていた。だが、五十年程前、延喜二年に発布された『延喜の荘園整理令』により、朝生部ノ君忠臣は多くの荘園領土を失った。
多くの土地を取り戻し、荘園のうち幾らかの土地は、京都公家との癒着によって無税化し、それを保護してもらっているが、自分の目標値で考えれば十分ではない。
蓬莱の薬を願う理由の一つに、安定や発展を思えばこそ、という思いはあった。
「聖!!」
一輪が唐突に叫んだので、白蓮はそちらの方を見る。
「上!!」
見れば、人間大の大きさをしたあの拳が飛んできた。ただし、今度は壁のような鉄拳ではなく、雨あられのように降ってきている。
(この子は――!!)
一度見たことのある白蓮には、一輪の仕業だとはすぐにわかっていた。しかし、そんな事は今言うべきではない、と反応する。
鉄拳の最初の一発が、地面に着弾する。
木を叩き折ったような音と一緒に、地面が人間大の穴に削れる。
「なんだとぉぉ!?」
「荘官さま!!」
雨あられのように降ってくる鉄拳を見て、朝生部ノ君忠臣もその部下も、動揺の色を隠せないでいた。
「しゃがんで!!」
白蓮の声が響く。その声に反応できたのは部下の一人だけで、朝生部ノ君忠臣やその他に三名が立ち尽くしている。それとは相反するように、馬は一人で大きく暴れている。
(――っ)
内心で舌打ちしながら、聖は自分の体に力を込める。
(助ける――)
その本心で白蓮は体を何かに跳ね飛ばされたかのように反応する。
足の指が地面を捕らえて、可能な限り大きく一歩踏み出した。
まずは、もう命中しそうな部下から守る。平手打ちの準備をして、大きく一歩踏みこんで、空から落ちてくる鉄拳に向かって疾風迅雷の平手打ちを放つ。
パァンッ!!
誰かの頬を叩いたような乾いた音が、隣の山にも聞こえそうな大音声で鳴り響く。白蓮の耳に大音声が突き刺さり、顔をしかめるが、それ所ではなかった。部下の頭をつかんで地面に叩きつけるようにしてしゃがませる。
(次――!!)
体を反応させて、もう一人も同じようにしゃがみこませる。視線をずらして部下を確認すると、白蓮が二人助ける間にしゃがみこんだようで、白蓮が助ける必要というのはなくなった。大きく暴れ始めた馬の横を通り抜ける。
(最後――!!)
視線の中心に朝生部ノ君忠臣を捕らえる。
だが、遠い。距離自体はさして遠いものではない。しかし、鉄拳が頭上すぐ近くに着ている。朝生部ノ君忠臣もそれはわかっているようなのだが、目で追えても体の反応が追いつかないらしく、棒立ちになっている。
先の二人が一番危なかったので先に助けたのが仇になってしまったようだ。
振りかぶるのも遅い、と白蓮にはわかった。
「ぐぅっ!?」
ずさぁ、と突き飛ばした白蓮と、大きく突き飛ばされた朝生部ノ君忠臣が、頬を土で汚していく。頬と服を大きく汚してはいるが、大きな怪我はなかったらしく、すぐに起き上がった。
(助け)
白蓮がそう思った瞬間だった。
大きな影が白蓮の半身を覆った。
馬の蹄が迫っている。
朝生部ノ君忠臣を突き飛ばした折に、白蓮もまた倒れこんだ。それは問題ない。ただ、暴れ出した馬が身を捩った結果、白蓮の上に来てしまった。
(ああ……マクワウリを半分に切ったみたい)
僅かに見えた馬の蹄が、奇妙にもそう思えてしまった。楕円形のマクワウリを半分に切って、弟と一緒に食べた記憶をうすぼんやりと思い出す。
そして、馬が着地する。
バキャンッ!!
と、マクワウリを地面に叩きつけたような音がハッキリと聞こえた。
「ガッ……!!」
右の肺臓に激痛が走る。肺臓の痛みが、白蓮の意識を削っていく。
肋骨も何本か折れているらしく、息がまともにできない。呼吸もろくにできないまま歯を食いしばることになる。
ひょっとしたら、肺臓も潰れているのかもしれない。そう思うと、どんどんと息苦しくなっていく感覚に陥っていく。
「白蓮!!」
一輪の言葉もろくに聞こえない。
暴れ馬が、もう一度大きく跳ねる。
「……ッ!!」
もう悲鳴もろくに出ない。
死んでしまいそうになる位の激痛が白蓮を襲うが、歯を食いしばって痛みをこらえ終わった瞬間に、馬の蹄が降りてくる。
「白蓮!!」
鉄拳の雨あられもある。あまり大きくは動けないのだが、一輪自身もまた、白蓮を見ていて混乱状態に陥っている。
「ほら、落ち着け」
部下が降り注ぐ鉄拳の中、何とかして手綱を握る。とはいえ、鉄拳を避けながらなのでなんとも上手く行かない。
「落ち着け、落ち着け」
馬の首筋を何度か、優しく叩いて落ち着かせようとする。
「もういい!! 雲山、止めなよ!!」
一輪が叫んで、雲山はしぶしぶ止める。それに合わせるかのように、馬も落ち着いたらしく、僅かないななきを喉から出しながら、白蓮から離れていく。
「妖怪がいるぞ!! 今のうちに逃げるぞ!!」
部下の一人がそう叫んで、部下と共に一目散に逃げ出した。ダカラ、ダカラ、と馬の蹄の音と一緒に、朝生部ノ君忠臣の姿が徐々に遠くなっていく。
「白蓮、大丈夫!?」
後には、何度も足蹴にされた白蓮の痛々しい姿が残る。
「一……り……」
白蓮が蚊が鳴くような声と一緒に、震える手を伸ばす。
一輪がそれに駆けつける。
「白れ」
瞬間、最後の鉄拳が、ゴシャン、と白蓮の手を押し潰す。
「……」
「……」
二人が永遠とも思える一瞬の間、目を見開く。
「アァァァァァァァァァァァァァァァァァァ……!!」
白蓮の悲鳴で、一輪が忘我の状態から我に戻る。耳に劈く白蓮の悲鳴が大きく響く。
今度は、一輪にも鈍い音が聞こえた。
間違いなく、指の骨も折れた。
「雲山!!」
叱責したい気持ちもあった。驚かす事を主体にしていた雲山からしてみれば、あまりにもらしくない行動である。だがその一部に、自分の『弟子ごっこ』が混ざっている事を考えると、叱責しようにもできなかった。
「この人を運ぶ!! 手伝って!!」
言われた雲山はおずおずと降りてきて、一輪の隣につく。
「事故だ」
「わかったから、早く運ぶよ」
雲山が、その鉄拳を開いて、僅かなうめき声を上げている白蓮をそっと持ち上げる。
「急ごう!! 雲山!!」
結局、山一つ超えた先にある小屋だった。
照明もろくにない小屋で、僅かながら月光が差し込むだけの小屋。天井を壊して作った簡素な寝床に、一輪は白蓮を寝かせた。
「ぐ……」
一輪が大きく顔を歪ませる。何度も何度も馬に踏まれたせいか、多くの骨が折れて、口から血を流して、全身が醜い紫色に変色してしまっている。顔全体や、特に唇の辺りを青紫色にして、苦しそうに息をしている。
この時代、馬は西洋馬との繁殖はされておらず、小型品種しかいない状況であった。実際、白蓮を踏みつけた馬も、その頭は白蓮の胸あたりで終わっていて、お世辞にも大きいとは言いがたい。しかし、重量は十九俵(三百八十キログラム)近い。
その重量が支えられている足に踏みつけられたのだから、むしろ生きている事自体がすでにありえない出来事なのかもしれない。
だが、それももう、時間の問題かもしれない。
(……やれることはしよう)
まずは、白蓮の口元を拭った。
何度も何度も馬に足蹴にされて、肺を始めとする幾つかの臓物が潰れてしまっているのかもしれない。そして、喉を逆流してきた血液が、白蓮の顔を汚していた。
(……)
罪悪感が押し寄せる。
次は、服を脱がせる。知ったかぶりの知識でもしないよりはマシ、と踏んだのだ。
しかし、一輪にはもう、祈ることしかできなかった。
折れに折れて『九十九折り』とも呼べるぐらいに二つ、三つ、それ以上に骨が分断されて、皮膚を突き破って一輪にその顔を覗かしている。その他、やけに血色のいい袋状の何かが見え隠れしている。
それが何かは、わかりたくなかった。
(ごめんなさい)
心の中で謝りながら、白蓮の体を刺激しないように、少しずつ袋状の物を体の中に戻していく。
不思議と、白蓮を食べる気にはならなかった。
人間を文字通り食べてしまう妖怪もいる。一輪にそういう趣味はなかったが、矜持として人間を食べる事はできたし、そういう趣味を持った妖怪を連れてくる事もできた。
事実、白蓮は高僧なのだろう、という推測は立っていた。
目の前にいる瀕死の白蓮を食べれば、妖怪としての格も上がるだろうというのも、想像に容易かった。
だが、罪悪感だけが、押し寄せてきた。
手を血で真紅にも赤黒くにも濡らしながら、今度は骨を戻していく。
小さく顔を覗かせた白い骨を押し出し、あるいは取り出して、できるだけ元の形に戻るように治していく。
雲山に言って添え木を取って来て貰ってはいるが、どうやって固定しようかと思っている時だった。
「一輪……」
白蓮のか細い声が聞こえる。
「白蓮!!」
大急ぎで白蓮の声を聞こうと、顔を近くに寄せる。白蓮の震える手がわずかに一輪に向けられる。一輪がその手を握ろうとしたが、その手は――相棒・雲山に叩き潰された指だった。
黒く腫れあがって、場所によっては指がありえない方向に向いている手から目を背けたくなる。
「ぃぃ……ですか?」
「はい!!」
「正直に……生きていきなさい」
その言葉を聞いて、一輪は搾り出すように「はい」と返事をした。
同時に、一輪は心の底から後悔した。
指が変形していても、骨が顔を覗かしていても、『瀕死の高僧』という妖怪の大好物を目の当たりにさせても――それでも、彼女は妖怪を気遣ってくれたのだ。
最初に会った時に、白蓮は言った。
『貴方を更生したいのですよ。私は、貴方の味方ですから』
つまりあれは、白蓮の本心だったのだ。
本心を包み隠さずに自分と顔を会わしていたのだ。そしてその相手に向かって、一輪は欺き続けた――裏切り続けた。
「白蓮、待っていて下さい。助けます!」
言って、一輪は小屋を飛び出した。
同夜。
朝生部ノ君忠臣の自邸で、一人の少女が招かれていた。京都平安京にあるような寝殿造りではないものの、広い庭や池、四季折々に花を咲かせる木々など、豪邸と呼ぶにはふさわしい家だった。
「お前、名前は?」
少女からは姿が見えない。
「妹紅」
だからというわけではないが、少しぶっきらぼうに返す。
「で、何の御用でしょう?」
妹紅からしてみれば、荘官・朝生部ノ君忠臣から呼ばれてきたのだが、あまり良い顔はできなかった。蓬莱の薬を再現しようなどという人間がいるのは仕方ないとも思うが、完成は可能な限り阻止した方がいい。
そう、考えていた。
「今日、妖怪に襲われてなぁ。妖怪退治屋らしいお前の力を頼りたい」
本当はそんな気概で動いているわけではないのだが、そういう風に受け取れる行動をしているのだからしょうがない。
「妖怪、ですか」
「ああ。大きな握り拳が雨あられのように飛んできた」
そんな事ができる妖怪は数少ない。
「入道ですね。ろくに何もできないくせに人間を脅かす、性根の悪い妖怪ですわ」
「やはりそうか。とある聖がその妖怪の餌食になった。生きているかもわからん。ひょっとしたら、その妖怪に食われたかもしれない」
妹紅は聖とだけ聞いて、白蓮を思い出していた。妹紅が知る限り、白蓮が死ぬわけはない、と保障できるぐらいには思っていた。少なくとも、それだけの畏敬の念と義理を持っていた。
続けて、朝生部ノ君忠臣は言う
「そこでだ。お前には、その入道を退治していただきたい」
「わかりました」
その『依頼』を妹紅は、二つ返事で引き受けた。妖怪退治そのものに、快感だとか遣り甲斐だとか、そういった物を持っているわけではない。
忌まわしき蓬莱人・輝夜の持ってきた薬を口にしてから以降、孤独に過ごしてきた。その恨みを八つ当たりでぶつけて何一つ問題ない相手が、たまたま妖怪という種族だったというだけの話だ。
人の依頼だろうが何だろうが、妖怪を殴れるのなら、何でもよかったのだ。相手は知らなくても、そんな自分に依頼をするというのだから報いたい、というのが、妹紅のなけなしの人情でもあった。
そう思って、妹紅が一歩踏み出した瞬間、
「これ」
と、何を思ったのか、朝生部ノ君忠臣は妹紅を呼び止めた。
「こっちへ来い」
妹紅が僅かに警戒する。だが、多少の行いは抵抗できる、と踏んで、妹紅は階段をのぼって簀子(すのこ)廊下に上がる。
「もっとだ」
簀子の奥にある帳を超えて庇(ひさし)の中に入る。中には馴染みの薄い調度品が幾つかある。
「もう一つだ」
調度品を避けながら、声のする方へと行く。
「失礼しますね」
陰に隠れている朝生部ノ君忠臣に会う、最後の調度品を通り越す。
その瞬間、
ビュッ
と、首元にナイフが突きつけられる。
「――何を!!」
「ワシのいう事を聞いてもらおうか」
その直後。
「荘官様!!」
一輪が大きく叫ぶ。色々な問題があったのか、濡れてから半乾きになった湿気を含んだ服を着て、額を大きく切って流血させている一輪が、簀子の下――地面に両手をついている。
「荘官様!! 聖がケガを負っています!! どうか、荘官様の持っている薬の材料をお分けください!!」
まだ、朝生部ノ君忠臣は出てこない。しかし、叫び続けないと出てこない。
「荘官様!!」
そう言った時、帳の向こうから朝生部ノ君忠臣が庇の方へ出てくる。
「……なんだ、お前か」
朝生部ノ君忠臣が言う。
「聖はどうだ?」
「骨がいくつも折れて、口から血も吐いております。ですが、荘官様の求めている薬、その薬を作る材料さえあれば、聖の体も何とかなるかと思い、参りました」
もう、これが最後の手段だ。
人里に行って追い返された。泥水もかけられて、石もぶつけられて、罵詈雑言もぶつけられた。大した事もできないけど、なけなしの知識で何とかしていきたい、と心底思っている。
「ふむ……」
朝生部ノ君忠臣も簀子に座り込んで、返答を始める。
「ワシも、聖を助けてやりたい。あの時の妖怪に助けられた恩を返してやりたい」
朝生部ノ君忠臣の言葉が、一輪の心に突き刺さる。
「しかし、どこの誰ともわからないお前に、大事な薬は渡せんな」
面識はあっても、自己紹介はしていない二人だ。朝生部ノ君忠臣が素性を知りたがるのは当然の事だ。
「お前はあの妖怪を、雲山、と呼んだ」
一輪は体を大きく震わせる。
白蓮を守るために言ったあの言葉が、自分の首を絞めていく。
「お前は、あの妖怪の仲間か?」
朝生部ノ君忠臣の言葉が、一輪の言葉に突き刺さる。自分の行動が、自分を助けようとした人間の心を裏切ったのだと、心底後悔している。
だから、これからの長い時間、後悔しないために白蓮の教えを守る。
「――はい」
これまでの後悔も、これからの決心も、全部を吐き出すような、力強い声だった。
「……ふん」
朝生部ノ君の反応がわからない。何せ一輪は妖怪だ。一体どういう反応をされるのかがわからない。殴られるか蹴飛ばされるのか、それとも切り伏せられるのか。死ぬ事はないだろうが、大怪我を負うのは想像に容易い。
だが、一輪にはその全部を受け入れる勇気もあった。
「お前と、あの聖との関係は?」
「私は……」
言葉に詰まってしまう。
どう答えても、おそらくは良い結果にならないだろう。自分の好みの答えを言うのも簡単だが、白蓮のための薬を手に入れるための答えを模索する。
「私は……」
だが、それと同じ天秤でかけなければならないのが一つあった。
白蓮の教えだ。
命を懸けてまで、他人の――種族の違う相手の心配をできる人間はそうそういない。そしてそういう人間だからこそ、一輪もその教えに応えたいと思ったのだ。
朝生部ノ君忠臣の期待する答えがわからないからこそ、今まさに消えんとする白蓮の命と『正直に生きなさい』という白蓮の教えが、同じ天秤にかけられる。
そして、
「私は……」
一輪は、
「あの僧の――」
ウソをついた。
「弟子にございます」
不幸が約束されても良い、だなどと思ってしまった。白蓮の犠牲に比べれば、永遠に逃げる日々も、万の罵りも、千の弓にも耐えれると思ってしまった。
これまで、何度もウソをついた事はあるが、これほどまでに後悔するウソはなかった。
「……」
朝生部ノ君忠臣が立ち上がって、帳の裏に隠れていった。
どうなるかはわからない。切り伏せられるのか、まったく別の物を渡されるのかがわからない。
(どうなるかはわからないけど、どうにかするしかないか)
そう、思っていると、朝生部ノ君忠臣が帳をくぐって出てくる。
「ワシも、聖に助けられた。その礼はしたい」
言って、朝生部ノ君忠臣は簀子の上に幾つかの材料を置く。
蓮の種、五加皮(ウコギ)の根、乾燥したカキの葉、ホウキギの種……。
「ワシにできるのはこういった事でしかない。聖には是非元気になってもらいたい。ここにある物をすべて貰っていって欲しい」
僅かに光明が差し込む。
具体的に何がどうこう、というわけではないが、白蓮回復へ向けて、大きな一石を投じる事にはなった。一輪は大急ぎで、大きな一枚布を取り出した。
「では、古路毛都々美(ころもつつみ)で頂いていきます」
いそいそと、急ぎながら、古路毛都々美の中に入れていく。
(これは白蓮に効くだろうか)
若干、心が躍ったのは紛れもなく真実だ。恩を返せる事が、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
キュッ、と全部を片付けてしまうと、一輪はその包みを持つ。
「それでは、荘官様。ありがとうございます!」
一輪がそう言って去ろうと、一歩踏み出す。
「これ」
朝生部ノ君忠臣が一輪を呼び止める。
一輪が立ち止まる。
「ワシは、聖を助けたい」
訥々と、言い始める。
「しかし同時に、妖怪を捨て置くわけにはいかんのだ」
その言葉に反応して、屋敷の裏から、檜皮(ひわだ)葺き屋根の上から、屋敷の檜皮の屋根を持つ二本柱の表門から――四方八方から、ガチャガチャと音を鳴らしながら、武装した多くの部下が現れる。
手にはマサカリ、反りの入った刀、真っ直ぐな旧式の剣、鉾。中には弓を持っている物もいる。朝生部ノ君忠臣に仕えている作人や下人が、武装してきた。
「……聖を助けたいのでは?」
「妖怪は見捨てておけないのでな」
朝生部ノ君忠臣は、言い放った。
「さぁ、せいぜい逃げて楽しませてくれ」
とびっきりに汚らしい笑みを浮かべて、だ。
「うぉりゃあああああああ!!」
作人の一人が勢い良く切りかかってくる。手には刀だけで、ろくに防御をしようともしていない。
(戦いたくはない)
一輪はそう思って、宙に浮いた。作人の刀は空を切る。
「飛んだ……」「本当に、妖怪だった」「喰われる……」
一輪は、自分の足元でそう呟いているのを聞いた。
「俺が討ち取ってやる!!」
屋根の上から、一人の作人が弓を引いているのが見える。迎撃だけならたやすい。だが、屋根から落ちたら助かりはしないだろう。そう考えると、迎撃の一つもできやしない。
そう、一輪が考えていた時だった。
(任せろ)
「雲山……」
妖怪・入道である相棒、雲山が話しかけてきた。それも、妖怪の矜持を忘れた自分を助けようというのだ。
「いいの?」
一輪の目の前にある雲が、大きく変化していくのが見える。
(あの女坊主は、儂らを助けてくれていた。あの女の子に殴られそうになった時も助けてくれた。その礼をしなければ……心が病気にかかる!!)
日頃は、こんな事をいう相手ではなかった。
一輪と一緒に計画を立て、文字通りの広い視野で見はるかし、物理的に絶対的安全を確保したまま、最低限の労力で最大限の恐怖を誘う相棒であった。
そして、一輪の出した計算の整合性を信頼し、共闘戦線ともいうべき信頼関係を破棄しないように、一輪は自分で考えた計画でもって雲山から注意を受ける事も多々あった。
「雲山」
今はただ、口うるさい相棒がありがたく思える。
「ありがとう」
一輪が礼を言うと同時に、天を覆うような巨大な顔が、怒りの形相で眼下の人間を見下ろしている。
「うわあああああああああ!!」
「なんだ……なんだアレ!?」
「入道だ……妖怪だ……」
「おれ達、取って喰われるぞ!!」
「逃げろ……逃げろおおおおおお!!」
次々と武器を手放して、阿鼻叫喚の地獄絵図、と言ったていで逃げ回る作人達。
「こら……!! お前ら……戦え……!! 戦わぬか……!!」
朝生部ノ君忠臣が怒気を含んだ声を出す。しかし、怒り顔の入道が頭上から見下ろしている状況では、作人を統制する能力は何もなかった。
「なぜだ……なぜ戦わぬ……!!」
小さい群落ながらも行われた、朝生部ノ君忠臣の政治。重労働の代わりに多大な報酬を約束してはいた。しかし、『延喜の荘園整理令』や、京から赴任されてきた国司の都合によって振り回された結果、多くの報酬が失敗し、結果として圧政になっていた。
いずれいずれ、と先のばしにして、多くの報酬が払えず――結果、誰もいなくなってしまった。
「くそぅ……!! 絶対に……絶対に飲んでやる……」
朝生部ノ君忠臣の野心は止まらない。
「蓬莱の薬……絶対に飲んでやる!!」
筈だった。
「ねぇ、荘官様」
朝生部ノ君忠臣が後ろを振り向くと、そこには妹紅が立っていた。
その手には、さっき恐喝に使った短刀が手にある。
「古人の糟魄(そうはく)」
朝生部ノ君忠臣が、妹紅の意図を知る。
「ただでさえ長生きした残りカスの貴方が、蓬莱の薬なんていう長寿の毒を欲しがる必要はないでしょう?」
短刀が、ギラリと光る。
朝生部ノ君忠臣が、寒空の中にでもいるかのように、歯をガチガチと震わせる。
「さようなら」
大きな悲鳴が響いた。
数日後。
小屋の中で白蓮は二人に笑みを浮かべながら礼を言う。
「ありがとう、一輪。それに、雲山も」
看病の甲斐あってか、白蓮の容態は快復していた。相変わらず添え木だらけの体だし、時折青い唇を見せて苦しそうに呼吸している。けれど、一見した感じでは何一つ問題は見受けられなかった。
「いや……白蓮が煎じ方とか知っててくれたからですよ。それに、良く効く薬だったらしいですね、白蓮もすぐに治ってしまったし」
誉められ慣れてないのか、僅かに引きつった笑顔で言う一輪。照れくささに耐えきれなかったのか、雲山は雲隠れしてしまった。
本当は違うんだけどね、と白蓮は内心苦笑したが、黙っておいた。
「そ、それで……その……言わないと、いけない事が……」
「何かしら?」
白蓮は笑顔を向けていた。だが、一輪の奇妙な空気を感じ取ると、僅かに身構えをしてしまう。
「私は……ウソをつきました」
空気が僅かに張りつめる。
正直に生きなさい、という教えを守る為に、今ここで正直に吐いてしまおう、という腹だ。白蓮に殴られるのか、罵られるのか、それとも、軽蔑の眼差しが飛んでくるのか、それはわからない。
ただ、白蓮の快復までは、周囲を守りきる覚悟があった。
「どういう、ウソを?」
「貴方の……」
そこで、言葉が濁ってしまった。
「弟子、だと」
消え入る様な声で、内容を告白した。
「そう……」
白蓮は、そう言った。
そして、
「治るまで、看病を願いますね」
とも。
一輪は、二つ返事で了承した。
晴れた日には小屋の近くで托鉢をしたり、適当な種や花を採ってきては、白蓮が自分で選り分けて、白蓮の指示の元でそれを煎じて、白蓮に飲んでもらった。
雨の日には、苦労の末に火を点けて白蓮の体を温めた。それでも寒そうにしている日には、炎を大きくして温まりやすいように気をつけた。勢いあまって、火事になりかけた事もあった。
風が強い日には、雲山の力を借りて逆風を起こした。その結果、空気の流れが変になって折れた木が小屋に激突してきた日もあった。
誰かがやってくる気配がすると、大急ぎで小屋から飛び出して、聞き耳を立てて白蓮の様子を伺っていた。隠れる暇もなかった時は、『弟子ごっこ』を再開して、急にやってきた人間を欺き続けた。
日の光が強い日は、雲山に頑張ってもらって過ごしやすいように頑張った。
そんなこんなで、二週間が過ぎた。
白蓮が快復した。
小屋の中で、快復した白蓮が身支度をして、荷物を確認する。
療養中に、暇つぶしとして作った杖を渡してある。使用回数が少なかった薬や、後から集めてきた花や種も、何かあった時の薬として持っている。
一輪も使った鉢は、近くの小川でキレイに洗ってきた。とても大事な鉢らしく、十分に洗ってほしい、と言われた鉢だった。
出立の準備が出来た白蓮が一輪の方を向いたので、一輪はウソをついた事への処罰を覚悟した。
そして、白蓮は口を開いた。
「さぁ、行きますよ? 一輪」
何もなかった。
罵りも、殴打も、軽蔑も、何もなかった。何もなさすぎて、一輪は呆気に取られてしまう。
「ごめんなさいね、看病を任せてしまって。これからは、どんなケガも病気もしないようにしますね」
そんな一輪の心を知ってか知らずか、白蓮は事も無げに言う。
だから思わず、一輪は言ってしまった。
「え、良いんですか? ウソをついてしまったのに」
「だって」
最初に会ったのと同じような笑顔を向けながら、白蓮は手を差し伸べて言った。
「貴方は私の弟子じゃないですか」
たとえ天地がひっくり返っても、この人には頭が上がらないんだろう。と、思ってしまった。
だから一輪は、
「ありがとうございます。何があっても……絶対に、ついていきます――」
その手を取った。
「姐さん」
心から、感謝しながら――。
白蓮は再び、遊行へと出立し、再び東を目指した。
そこで、
「聖……一つ、よろしいですかな?」
聖がそう言われて振り向いた先には、一人の翁が立っていた。その翁が、申し訳なさそうに口を開く。
「実は、妖怪を退治して欲しいのですが……」
聖は、二つ返事で了承した。
その二日後。
聖が街道から少し外れた道を歩いている。なんでも、退治をして欲しい妖怪というのはこの近辺によく出没するらしく、ならば聞き込みをしよう、と思いたったわけだ。
「……。見当たりませんねぇ」
だが、いささか道から外れすぎたらしく、人っ子一人見かけなくなってしまった。狩をしている人間や、その人間に使われている狩猟用の動物でも見かけたのならまだ話は変わるのだろうが、そういう気配もない。
そろそろ足首が痛くなってきた頃、白蓮の頭上から声が聞こえてきた。
「あぶなーい!」
巨大な鉄拳が飛んできた。家の一軒や二軒ぐらいなら一緒に押しつぶせてしまうぐらい巨大な鉄拳が白蓮めがけて飛んできた。
「えぇぇぇぇぇぇ……!」
脱兎のごとく走り出す白蓮。嵐や病気の類ならまだなんとでもなるが、家ぐらいはある鉄拳だけでは加持祈祷の類で対処する方法は知らない。
ただでさえ痛い足首に命令して、走り続ける。
(まだ逃げれない……)
鉄拳がガケの上から落下する巨石かのような速度で落ちてくるので、逃げても逃げても追いかけられている印象すらある。
徐々に巨大な鉄拳が押し寄せてくる。
近づけば近づくほどにわかるのだが、巨大、などという水準で物を考えていた自分を少し恥ずかしく思った。
壁に近い鉄拳。ツメの部分だけで人間の顔ぐらいある大きさの鉄拳が、ゴゴゴゴゴゴゴ……、と空気をこじ開けながら押し寄せて来て、白蓮を押しつぶそうとする。
「早く……逃げないと……!」
できるだけ早く逃げているが、追いつかれそうな気配さえある。これより早く走る事もできるけども、誰が見ているのかわからない現状ではそれも使えない。
その時、聖の視界に黒い穴が見える。
「洞窟――!?」
正確には洞穴に近い大きさだ。聖が入るのが精一杯だろう。だが、選んでいるヒマはない。突入しなければ壁のような鉄拳が白蓮に命中する。
(飛び込むしかないわね……っ!!)
覚悟を決めて、洞穴の中に飛び込む。
(狭い……)
白蓮の体が入るだけしか大きさがなかった。
ゴゥンッ、と鉄拳が白蓮のすぐ背後に着弾した。大きな拳が地面を揺さぶり、着弾の瞬間に地面が大きくえぐれて行く。白蓮の背中や腰が外気に晒されて、石やら岩やら朽木やらなんやらが破片として飛んでいくのが実感できる。
地震のような振動が終わった頃。
「……止んだようね」
モソモソと周囲の環境を伺いながら、白蓮が洞穴の中から出てくる。
すると、
「なーんだ」
と、残念そうな声が上空から聞こえて来た。
先ほど、白蓮に注意を呼びかけたのと同じ声だった。白蓮が上を見ると、一人の少女が空を浮かんでいた。
「貴方ね」
少女の風体は、道中で出会った翁の発言と合致していた。
少し高い身長、利発そうな顔立ち、スラリと通った柳眉に、自身まんまんな態度。それら全部が見事に混ざり合って、男っぽく見える印象すらある。反面、雲のように柔らかな髪がフワリと舞っている事に強烈な印象を覚える。
「この辺で悪さをしている妖怪、というのは」
「だからなんだっていうのさ」
妖怪少女が高笑いでもしそうなぐらい自信満々で答える。その妖怪少女に、白蓮はゆっくりと近づく。自分の目の前に出てきて、そっと手を差し伸べた。
「な……何がしたいのさ」
「貴方を更生したいのですよ。私は、貴方の味方ですから」
ニコリ、と笑って差し伸べられた手を食い入るように見ながら、妖怪少女は思った。
(何かに利用できるかもしれない)
内心ほくそ笑みながら、妖怪少女は白蓮の手を取った。
「名前は……?」
「一輪」
翌朝まで待って、大きな街道に戻ってきた二人。
人里が近いのか往来も激しく、多くの行商や役人が下るための伝馬も歩いている。地方へ出向する者、人里から人里へと渡り歩く者、伝馬の子供を連れて歩く飼い主……様々な人たちが往来している。
いつになっても雨も降らないし風に流されない入道雲に首をかしげながら歩いている。
「で、まずは何をするの?」
一輪の問いに、白蓮は地面に鉢を置いた。
「タクハツをします」
「はぁ?」
顔をしかめる一輪をよそに、鉢の前に座る白蓮。
「さぁ、あなたも座ってください。足を伸ばさなければ好きに座っていいですから」
白蓮に促されて、一輪は白蓮の隣に座る。
「お布施が投じられますので、両手を合わして、頭を下げてください」
「それだけ?」
「本当は色々とあるのですが、今はそれだけで十分ですよ」
そのまましばらく待っていると、ザッ、と誰かが立ち止まった。
「やぁ、お坊さん」
一輪が顔を向けると、大きな荷物を持った男の行商人が立っていた。物腰の低そうな柔和な笑みを向けている。その手には白い球根を持った植物を持っている。
「すまんね、今のワシは大蒜(おおひる)しかないんだ」
そういって大蒜を鉢に入れる行商に向かって、白蓮は何も言わずに頭を下げた。それにつられて、一輪も形だけ頭を下げる。
そこで、一つ思った。
(……面白くないっ)
誰かが鉢に何かを置く。
そうしたら頭を下げる。
意味不明にしか思えなかった。
(それにまた臭い)
外見自体は何一つ問題なかったのだが、一輪はその匂いが少し嫌いだった。イガラっぽくて顔を背けたくなるような匂いである。吸血鬼も逃げ出しそうな匂いだ。
そこで、一つ妙案を思い浮かんだ。
「ねー、白蓮」
白蓮がコチラを見て、行商人もコチラを見る。
「これ臭いから捨てようよ」
空気が固まった。
白蓮も、行商人も、ピシィッ!! とでもいうような音が聞こえるぐらいの硬さに固まってしまった。
(よし……!)
内心ほくそ笑む一輪。
(なかなか急だったけど、旨いこと行った……)
行商人も白蓮を同時にハメるイタヅラだった。こうすれば二人は驚くと思ったし、事実驚いた顔をしている――ハズだった。
「あっはっはっはっは……!!」
行商人に笑われた。
むんず、と頭を捕まれて、
「まだこんな小娘には、大蒜の味がわからんか」
と、言われながら頭をワシャワシャと乱暴に撫でられた。
(失敗したな)
相棒が話しかけてくる。彼女――雲居一輪は元来、人間を驚かす妖怪である。自由自在に形を変える相棒と一緒に計画を立てては、人間を驚かして心を食べて生きている妖怪である。
「そんな事言ってもさぁ、あそこで言うのが一番驚かせれるじゃん」
白蓮には聞こえないようにボショボショと返事をする一輪。周囲からは一人ブツブツ言っているように見えてうす気味悪く見えるだろうが、この際大きく気にしていられない。
(ちゃんと考えを煮詰めないからだ)
「いやはや、計画性のある人は違うねぇ」
「なぁ、お嬢さん」
頭をワシャワシャと撫でていた行商人に呼ばれて、上目遣いで見る。
「そんなに豪華なのが欲しければココの荘官様に言えばいいさ」
「荘官……?」
聞き覚えのない単語に眉をしかめる一輪。
「ここいら一帯を管理している領主様さ。イイ着物着てるからわかるだろうさ。なんでも、とても珍しい薬を作りたがっていて、その材料を集めているようだ」
「珍しい薬……ですか」
「ワシも話を聞いただけなんで、それ以上はなんともなぁ……」
そう言って手をヒラヒラと振って、その行商人は去っていった。
「一体なんなんでしょうね? 珍しい薬って」
「それより。いいですか、一輪。もうあんな事を言ってはいけませんよ」
白蓮がそういうと「は~い」と言う一輪のやる気のない返事に、白蓮は呆れ顔を見せる。
別段、朝護孫子寺でなくても、小さなお堂――場合によっては廃屋や馬小屋でも問題はない。屋根のある場所にさえ行けば、何とでもできる。だがいかんせん、形式さえしていればヨシとして最初に托鉢から始めさせたが、というのは問題があったかと自省する。
「やぁ」
白蓮と一輪、二人が顔をあげると、黒髪の少女が立っていた。
「あら、妹紅さん」
「お久しぶりで」
少し目つきの悪い少女だった。背もそこまで大きくはなかった。いつも人を攻撃していそうな様相を見せる反面、白蓮に見せる快活な笑みは人を幸せに導ける顔だった。この一年で少しは柔和な雰囲気を手に入れた、と白蓮に成長を思わせる顔になった。
「知り合いですか?」
「去年あたりにね、いろいろとあって知り合いました」
白蓮はどこか嬉しそうに、一輪の返事をしていく。一輪は二人の間に何があったのかは知らないが、自分のその中に入るのだろうか、と思った。
「どうしたの?」
「いや、なに。通りすがらに顔を見たんで挨拶に」
妹紅はチラッと、一輪を見る。
一輪も、妹紅を見返して目線を合わせる。
そのまま、数秒の時間が経つ。
瞬間、
「動くなっ!!」
「――っ!?」
妹紅の怒号と一緒に飛んできた拳が一輪の顔面に命中する。殴られた一輪はその場で後ろにバタリと倒れてしまった。一輪も、白蓮も――往来の人々も、何が起きたのかわからない顔で妹紅を眺めていた。
「おい、何があったんだ? 嬢ちゃん」
「うるさい、黙ってて」
「理由ぐらい教えろよ」
「うるさい」
野次馬まじりに理由を聞き出そうとする一般人に、妹紅は吐き捨てるように一蹴した。一輪は頭上の入道雲を見上げながら、一般人にはわからない理由を自覚していた。
(しょうがないか)
殴られた鼻を触って確認する――問題ない。
打ち付けた頭を触って確認する――問題ない。
(妖怪だもんね)
諦念の感すら感じながら、一輪は起き上がる。一方で、妹紅が一輪の正体を言い出さない事に疑問を抱いていた。
実の所、妹紅が一輪の正体を理解していた。何かしらの理由で妖怪との付き合いが長くなると、妖怪か人間かというのをわかるようにはなる。だが一重に、妹紅が持っていた白蓮への感謝の念が、一輪の正体を明らかにするというのを避けていた。
「さぁ」
だがしかし、白蓮への感謝の念と、妖怪を野放しにすることは別であった。
ザッ、と妹紅が一歩大きく踏み込む。一般人はもう完全な野次馬となって、歓声を上げている。その歓声を小耳に挟みながら、妹紅は握り拳を硬く握り締めた。
「もう一発――!!」
妹紅が握り拳を振りかぶり、一輪めがけて振りぬいた。
パシィッ!!
乾いた破裂音が周囲に響いた。
「……?」
破裂音を聞いた一輪が目を白黒させた。一輪は、何一つケガを追っていない。一方の妹紅は、忌々しげに言い放った。
「邪魔をしないで!! 白蓮!!」
妹紅の放った拳を、素手で受け止めたのは他の誰でもない白蓮であった。
「ごめんなさいね、うちの弟子なもので」
「おおおおおお……!!」「すげー、最近の坊さんはケンカもできるのか」「いいぞー!! やれー!! もっとやれー!!」「坊さんガンバレー」
一瞬にして周囲が沸いた。
「……つまんないの」
小さく舌打ちしてから、妹紅は白蓮の手を振りほどいた。そのままケンカを続けてもいいのだが、白蓮に対する感謝の念がどうしても邪魔してしまう。そして何よりも、目の前の妖怪――一輪同様に、妹紅自身もまた有名になりすぎる事は望んでいなかった。
「またね、お坊さん」
内心舌打ちをしながら、妹紅は白蓮に挨拶してどこかへと去ろうと足を一歩踏み出した。
「一つ、よろしいですか? 妹紅さん」
白蓮が妹紅を呼び止める。
「何? ケンカの続きでもしたいの?」
「いいえ」
それを白蓮が言った瞬間、「あーあー」「つまんねぇなぁ、オイ」一瞬で沸いた観衆の声は残念そうな声だけがその場に残る。もうケンカがないとわかると、観衆はチリジリになって、何事もなかったかのように日常に戻っていった。
「ここの荘官……領主様が珍しい薬を作っているとお伺いしたのですが、何かご存知ありませんか?」
白蓮としては、ある程度情報を入手したい話であった。なぜなら、『珍しい薬』の材料を集めている、とは聞いたが、その材料が何かまでは聞かなかったのだ。そしてその材料が、妖怪の遺体を使っている可能性すらあり得る。
そうなると、白蓮は是非にでも止める必要があった。
そんな白蓮の思惑を知ってか知らずか、妹紅は嘲笑気味に笑った。
「教えてあげるわ。ここの領主が作りたいのはね、■■■■なのよ」
白蓮は耳を疑った。
「実際に■■■■ができるかどうかは知らないわよ? ただ、どうもその薬を作りたがっているという話よ。何も知らない病気だらけの老獪が、『長生きしたい』なんていうだけの理由で■■■■を作ろう、なんていう愚かしい話よ」
幸か不幸か、妖怪の遺体を材料にする、という話は聞かない。
白蓮自身の事を振り返ると、その荘官領主の事を悪く言う事はできなかった。
「領主に会うならどうぞ。まぁ、お互いケンカしないようにしましょうね」
今度こそ、妹紅は呼び止められる事なく去っていった。
「どうしたの? 白蓮」
一輪が青い顔をしている白蓮を気にかける。
「会いますよ……荘官様に」
一輪は目を白黒とさせていた。微妙におかしいと思っていたのだ。物に執着が薄いかと思えば、珍しい薬は見たがるという。ただの物好きかとは思ったが、どうにも違うようだ。
「何でです? 良いじゃないですか。そんな薬作らせておけば」
話の流れを読むと、長生き領主が病気を治したいだけにしか聞こえない。
「貴方には馴染みが薄いから、いらないでしょうね。でも、人間が口にするには恐ろしい薬があるのです」
「名前は?」
「――蓬莱の薬」
一輪は未だに首をかしげていた。その一輪に向かって、白蓮は説明を続ける。
「変化を拒絶し、今ある体を永遠に続ける薬です」
「それじゃあ、人間にはよっぽど良い薬じゃないですか……!!」
「生きる事を強制されて、死ぬ事からは拒絶されます。輪廻転生の輪から外れる、と言えば聞こえはいいですが、その実、輪から出て行くのではなく、輪から追い出される外法中の外法。下手に手を出せば、植物にも似た、殺せない生きる屍が出来上がるだけです」
「……」
「私が以前、会った事のある人は、こうも言いました」
白蓮が言葉を続ける。
「あれは、『蓬莱』いう名前しか与えられていない禁忌。穢れを持つ者からも、穢れを持たない蓬莱人からも受け入れられない最悪の薬。蓬莱の薬を飲むと、それだけで永遠の孤独が約束され、同じ薬を飲んだ者でしか慰めあえなくなる薬である、と――」
一輪には細かい言葉の意味がわからなかった。ただ、その薬に手を出せば、それだけで悲しい結末が訪れる、というのはわかった。
「どうするの? 止めるの?」
「私自身、未熟なので止める事は不可能です。ですが、蓬莱の薬を飲むに値する人間かどうかは判断しなければならないでしょう。そして、必要とあらば、薬の材料を奪います」
白蓮の発言に、一輪は首をかしげる。
「どうしてそこまでやるんですか?」
放っておけばいい。話の概要はわからないが、できるかどうかもわからない薬だ。
白蓮はそこまでわかっているのか、ニコリと笑顔を作ってこう答えた。
「人間も、妖怪も、皆等しく、顕界に生きているのです。それ即ち、悲しみを抱えていると同時に、幸せになる事ができるのです」
ズキリ、と一輪の心に傷が入る。
「ですから、私は顕界の衆生を、多く幸せにしたいだけなのです」
この人は、本当にそう考えているのだろう、と思った。でなければ、妹紅の鉄拳も防がなかった筈なのだ。
だからこそ一輪は、
「白蓮……どうすれば、幸せになれますか?」
もう少し、見届けたくなった。
「そうですね。まず最初にする事は、正直になる事です」
だからもう少し、『弟子ごっこ』をする事にした。
「だからと言って、何でも正直に言えば良い、というのではありませんよ? それでは逆に痛い目を見ますからね」
相棒の入道雲が「妖怪の矜持が」「日ごろの機転はどうした」だの叫んでいるが気のせいにしておいた。
その後は、半日かけて適当な宿を、夜を明かした。
(正直に、ねぇ)
一輪は、妖怪の自分では、その機会の方が少ないと感じた。
翌、早朝。
遠淡湖――今の浜名湖――を超えてさらに遠く、平安京直轄である国府がある盤田を通り越しての山道である。ここからさらに東に行けば、富士山が見える。
白蓮と一輪は、再び街道に出て托鉢を始めた。
「領主様に会うからといって、今日明日会えるわけではありませんから」
言って、何事もなく托鉢を始めたのだから一輪は頭を抱え始めた。
「人っ子一人いないじゃないですかぁ……」
泣き言のように言う一輪。昨日のような街道ならまだしも、人っ子一人通らない場所である。時間的なものもあるのだろうが、実はそれだけではなかった。
京都平安京を中心にして東海道が東へと流れていく。その道中にいるのだが、十年ほど前に起きた平将門が起こした『平将門の乱』で家を焼け出された一般人の多くがあえなく盗賊となり、治安は悪化していた。
むしろ、白蓮らが未だに盗賊に会っていないのが不思議なぐらいの状況なのだ。
(まぁ、この人の事だから盗賊も助けよう、とか考えるんだろうなぁ」
そこで一輪はふと、思い出した。
「そういえば白蓮」
「なんですか?」
「なんで正直に生きるのが幸せなのさ」
一晩考えたが、あまり繋がる物ではなかった。むしろ、口八丁手八丁で生きていった方が幸せな事が多い妖怪の生活が長いせいか、正直に生きる事に苦労しか考えられない。
「一つ、ウソをつけば、そのウソを隠すために、もう一つウソをつく事になります。そうやって延々とウソをつくことになれば、やがて自分にもウソをつく事にもなります。そして行く末は、自分も他人も信用できない生活がやってくる事になります」
訥々と、白蓮は語り始めた。
「ですが、正直に生きれば他人からの信用も得ることができます。少なくとも、自分は信用する事ができるのです。それができないのは一重に、心が『ウソをつく』という病に冒されているからでしょう。一回でもウソをつけばそのまま、ウソをつき続けます」
最後に、「ですから、正直に生きましょうね」と締めくくった。けれど、一輪にはどうにもこうにも、現実感がなかった。
そう、思っていた時だった。
くぅ~……
と、一輪の腹が僅かになる。
最後の『食事』は何日か前だ。白蓮を驚かした奴も、前日に白蓮と行商人を驚かした奴も、間食程度で満足にはなっていない。
そこへ、薄い青色の狩衣を身に着けた翁が馬に乗って、カポッ、カポッ、と少し抜けた音を鳴らしながら、二人の前にやってくる。護衛か部下だと思われる人間が四名、少し貧相な狩衣姿の人間が弓や刀剣を持って武装している。
「これ、聖」
「あら、一体なんの御用でしょう?」
狩衣姿の翁が馬上から降りて、白蓮に話しかける。その翁は年齢を大きく重ねており、遠目でもわかりそうなぐらい、目じりや口元に大きなシワが出来ていた。
「一つ、聞きたいことがある」
白蓮は笑顔を作って待つ。
「蓬莱の薬というものがある。聖、何か作り方を知らんか?」
白蓮も一輪も目を見開いた。
二人とも、まさか相手からやってくるとは思わなかったのだ。その慌てふためいている様子を見ていると、蓬莱の薬を欲しがる壮年は自ら名前を名乗りだした。
「ワシはここいら一帯の管理をしている荘官。質侶(シドロ)ノ荘大領(カミ)・朝生部ノ君忠臣」
(この人が……)
禁忌を再現しようとしているのだと思うと、白蓮は自然と身構えた。
一方、目の前の朝生部ノ君忠臣もそれを理解したのか、あわてて口を開いて取り繕いだした。
「ほっほっほ……。まぁ、待ちなされ。何か知らんか、と聞いただけじゃないか。教わっても殺すだとかなんだとか、聖を悪いようにはせんよ」
その言葉が信じられないようで、白蓮は未だに警戒していた。
「あれは『竹取物語』にしかない物、だという風に考えております。実際にあったとしても、どんな理由であっても、あれは人間の手には負えない代物だというのを、少しはご理解いただければ幸いに存じます」
「そうは言ってもだな、もう八十近いワシには、時間がなさすぎるのだよ」
「ですが、果たしてそれがこの世の理から外れてでも行うような代物だとは思えないのです」
「いやいや聖。人間、何かを始めるのに遅いというのはないのだよ。すなわち、時間などいくらあっても足りないのさ」
若干の口論が始まる。
「蓬莱の薬を飲んで蓬莱人になったとして、貴方は何をするというのですか?」
蓬莱人を何人か見てきた。妹紅もその仲間で、孤独に生きた人間である。実際に口にした事情は聞かなかったが、何かしらの孤独を抱えているのはわかっている。同じ道を安易な理由でたどろうというのが、白蓮は気に食わなかった。
「平安を望む。いくらかの犠牲は出ても、手に入れる価値のある平安というのがある」
一方の荘官、朝生部ノ君忠臣もまた、引いてはいられなかった。
以前よりそれなりに圧制をしいて作人・下人を困らせているとは知っていた。だが、五十年程前、延喜二年に発布された『延喜の荘園整理令』により、朝生部ノ君忠臣は多くの荘園領土を失った。
多くの土地を取り戻し、荘園のうち幾らかの土地は、京都公家との癒着によって無税化し、それを保護してもらっているが、自分の目標値で考えれば十分ではない。
蓬莱の薬を願う理由の一つに、安定や発展を思えばこそ、という思いはあった。
「聖!!」
一輪が唐突に叫んだので、白蓮はそちらの方を見る。
「上!!」
見れば、人間大の大きさをしたあの拳が飛んできた。ただし、今度は壁のような鉄拳ではなく、雨あられのように降ってきている。
(この子は――!!)
一度見たことのある白蓮には、一輪の仕業だとはすぐにわかっていた。しかし、そんな事は今言うべきではない、と反応する。
鉄拳の最初の一発が、地面に着弾する。
木を叩き折ったような音と一緒に、地面が人間大の穴に削れる。
「なんだとぉぉ!?」
「荘官さま!!」
雨あられのように降ってくる鉄拳を見て、朝生部ノ君忠臣もその部下も、動揺の色を隠せないでいた。
「しゃがんで!!」
白蓮の声が響く。その声に反応できたのは部下の一人だけで、朝生部ノ君忠臣やその他に三名が立ち尽くしている。それとは相反するように、馬は一人で大きく暴れている。
(――っ)
内心で舌打ちしながら、聖は自分の体に力を込める。
(助ける――)
その本心で白蓮は体を何かに跳ね飛ばされたかのように反応する。
足の指が地面を捕らえて、可能な限り大きく一歩踏み出した。
まずは、もう命中しそうな部下から守る。平手打ちの準備をして、大きく一歩踏みこんで、空から落ちてくる鉄拳に向かって疾風迅雷の平手打ちを放つ。
パァンッ!!
誰かの頬を叩いたような乾いた音が、隣の山にも聞こえそうな大音声で鳴り響く。白蓮の耳に大音声が突き刺さり、顔をしかめるが、それ所ではなかった。部下の頭をつかんで地面に叩きつけるようにしてしゃがませる。
(次――!!)
体を反応させて、もう一人も同じようにしゃがみこませる。視線をずらして部下を確認すると、白蓮が二人助ける間にしゃがみこんだようで、白蓮が助ける必要というのはなくなった。大きく暴れ始めた馬の横を通り抜ける。
(最後――!!)
視線の中心に朝生部ノ君忠臣を捕らえる。
だが、遠い。距離自体はさして遠いものではない。しかし、鉄拳が頭上すぐ近くに着ている。朝生部ノ君忠臣もそれはわかっているようなのだが、目で追えても体の反応が追いつかないらしく、棒立ちになっている。
先の二人が一番危なかったので先に助けたのが仇になってしまったようだ。
振りかぶるのも遅い、と白蓮にはわかった。
「ぐぅっ!?」
ずさぁ、と突き飛ばした白蓮と、大きく突き飛ばされた朝生部ノ君忠臣が、頬を土で汚していく。頬と服を大きく汚してはいるが、大きな怪我はなかったらしく、すぐに起き上がった。
(助け)
白蓮がそう思った瞬間だった。
大きな影が白蓮の半身を覆った。
馬の蹄が迫っている。
朝生部ノ君忠臣を突き飛ばした折に、白蓮もまた倒れこんだ。それは問題ない。ただ、暴れ出した馬が身を捩った結果、白蓮の上に来てしまった。
(ああ……マクワウリを半分に切ったみたい)
僅かに見えた馬の蹄が、奇妙にもそう思えてしまった。楕円形のマクワウリを半分に切って、弟と一緒に食べた記憶をうすぼんやりと思い出す。
そして、馬が着地する。
バキャンッ!!
と、マクワウリを地面に叩きつけたような音がハッキリと聞こえた。
「ガッ……!!」
右の肺臓に激痛が走る。肺臓の痛みが、白蓮の意識を削っていく。
肋骨も何本か折れているらしく、息がまともにできない。呼吸もろくにできないまま歯を食いしばることになる。
ひょっとしたら、肺臓も潰れているのかもしれない。そう思うと、どんどんと息苦しくなっていく感覚に陥っていく。
「白蓮!!」
一輪の言葉もろくに聞こえない。
暴れ馬が、もう一度大きく跳ねる。
「……ッ!!」
もう悲鳴もろくに出ない。
死んでしまいそうになる位の激痛が白蓮を襲うが、歯を食いしばって痛みをこらえ終わった瞬間に、馬の蹄が降りてくる。
「白蓮!!」
鉄拳の雨あられもある。あまり大きくは動けないのだが、一輪自身もまた、白蓮を見ていて混乱状態に陥っている。
「ほら、落ち着け」
部下が降り注ぐ鉄拳の中、何とかして手綱を握る。とはいえ、鉄拳を避けながらなのでなんとも上手く行かない。
「落ち着け、落ち着け」
馬の首筋を何度か、優しく叩いて落ち着かせようとする。
「もういい!! 雲山、止めなよ!!」
一輪が叫んで、雲山はしぶしぶ止める。それに合わせるかのように、馬も落ち着いたらしく、僅かないななきを喉から出しながら、白蓮から離れていく。
「妖怪がいるぞ!! 今のうちに逃げるぞ!!」
部下の一人がそう叫んで、部下と共に一目散に逃げ出した。ダカラ、ダカラ、と馬の蹄の音と一緒に、朝生部ノ君忠臣の姿が徐々に遠くなっていく。
「白蓮、大丈夫!?」
後には、何度も足蹴にされた白蓮の痛々しい姿が残る。
「一……り……」
白蓮が蚊が鳴くような声と一緒に、震える手を伸ばす。
一輪がそれに駆けつける。
「白れ」
瞬間、最後の鉄拳が、ゴシャン、と白蓮の手を押し潰す。
「……」
「……」
二人が永遠とも思える一瞬の間、目を見開く。
「アァァァァァァァァァァァァァァァァァァ……!!」
白蓮の悲鳴で、一輪が忘我の状態から我に戻る。耳に劈く白蓮の悲鳴が大きく響く。
今度は、一輪にも鈍い音が聞こえた。
間違いなく、指の骨も折れた。
「雲山!!」
叱責したい気持ちもあった。驚かす事を主体にしていた雲山からしてみれば、あまりにもらしくない行動である。だがその一部に、自分の『弟子ごっこ』が混ざっている事を考えると、叱責しようにもできなかった。
「この人を運ぶ!! 手伝って!!」
言われた雲山はおずおずと降りてきて、一輪の隣につく。
「事故だ」
「わかったから、早く運ぶよ」
雲山が、その鉄拳を開いて、僅かなうめき声を上げている白蓮をそっと持ち上げる。
「急ごう!! 雲山!!」
結局、山一つ超えた先にある小屋だった。
照明もろくにない小屋で、僅かながら月光が差し込むだけの小屋。天井を壊して作った簡素な寝床に、一輪は白蓮を寝かせた。
「ぐ……」
一輪が大きく顔を歪ませる。何度も何度も馬に踏まれたせいか、多くの骨が折れて、口から血を流して、全身が醜い紫色に変色してしまっている。顔全体や、特に唇の辺りを青紫色にして、苦しそうに息をしている。
この時代、馬は西洋馬との繁殖はされておらず、小型品種しかいない状況であった。実際、白蓮を踏みつけた馬も、その頭は白蓮の胸あたりで終わっていて、お世辞にも大きいとは言いがたい。しかし、重量は十九俵(三百八十キログラム)近い。
その重量が支えられている足に踏みつけられたのだから、むしろ生きている事自体がすでにありえない出来事なのかもしれない。
だが、それももう、時間の問題かもしれない。
(……やれることはしよう)
まずは、白蓮の口元を拭った。
何度も何度も馬に足蹴にされて、肺を始めとする幾つかの臓物が潰れてしまっているのかもしれない。そして、喉を逆流してきた血液が、白蓮の顔を汚していた。
(……)
罪悪感が押し寄せる。
次は、服を脱がせる。知ったかぶりの知識でもしないよりはマシ、と踏んだのだ。
しかし、一輪にはもう、祈ることしかできなかった。
折れに折れて『九十九折り』とも呼べるぐらいに二つ、三つ、それ以上に骨が分断されて、皮膚を突き破って一輪にその顔を覗かしている。その他、やけに血色のいい袋状の何かが見え隠れしている。
それが何かは、わかりたくなかった。
(ごめんなさい)
心の中で謝りながら、白蓮の体を刺激しないように、少しずつ袋状の物を体の中に戻していく。
不思議と、白蓮を食べる気にはならなかった。
人間を文字通り食べてしまう妖怪もいる。一輪にそういう趣味はなかったが、矜持として人間を食べる事はできたし、そういう趣味を持った妖怪を連れてくる事もできた。
事実、白蓮は高僧なのだろう、という推測は立っていた。
目の前にいる瀕死の白蓮を食べれば、妖怪としての格も上がるだろうというのも、想像に容易かった。
だが、罪悪感だけが、押し寄せてきた。
手を血で真紅にも赤黒くにも濡らしながら、今度は骨を戻していく。
小さく顔を覗かせた白い骨を押し出し、あるいは取り出して、できるだけ元の形に戻るように治していく。
雲山に言って添え木を取って来て貰ってはいるが、どうやって固定しようかと思っている時だった。
「一輪……」
白蓮のか細い声が聞こえる。
「白蓮!!」
大急ぎで白蓮の声を聞こうと、顔を近くに寄せる。白蓮の震える手がわずかに一輪に向けられる。一輪がその手を握ろうとしたが、その手は――相棒・雲山に叩き潰された指だった。
黒く腫れあがって、場所によっては指がありえない方向に向いている手から目を背けたくなる。
「ぃぃ……ですか?」
「はい!!」
「正直に……生きていきなさい」
その言葉を聞いて、一輪は搾り出すように「はい」と返事をした。
同時に、一輪は心の底から後悔した。
指が変形していても、骨が顔を覗かしていても、『瀕死の高僧』という妖怪の大好物を目の当たりにさせても――それでも、彼女は妖怪を気遣ってくれたのだ。
最初に会った時に、白蓮は言った。
『貴方を更生したいのですよ。私は、貴方の味方ですから』
つまりあれは、白蓮の本心だったのだ。
本心を包み隠さずに自分と顔を会わしていたのだ。そしてその相手に向かって、一輪は欺き続けた――裏切り続けた。
「白蓮、待っていて下さい。助けます!」
言って、一輪は小屋を飛び出した。
同夜。
朝生部ノ君忠臣の自邸で、一人の少女が招かれていた。京都平安京にあるような寝殿造りではないものの、広い庭や池、四季折々に花を咲かせる木々など、豪邸と呼ぶにはふさわしい家だった。
「お前、名前は?」
少女からは姿が見えない。
「妹紅」
だからというわけではないが、少しぶっきらぼうに返す。
「で、何の御用でしょう?」
妹紅からしてみれば、荘官・朝生部ノ君忠臣から呼ばれてきたのだが、あまり良い顔はできなかった。蓬莱の薬を再現しようなどという人間がいるのは仕方ないとも思うが、完成は可能な限り阻止した方がいい。
そう、考えていた。
「今日、妖怪に襲われてなぁ。妖怪退治屋らしいお前の力を頼りたい」
本当はそんな気概で動いているわけではないのだが、そういう風に受け取れる行動をしているのだからしょうがない。
「妖怪、ですか」
「ああ。大きな握り拳が雨あられのように飛んできた」
そんな事ができる妖怪は数少ない。
「入道ですね。ろくに何もできないくせに人間を脅かす、性根の悪い妖怪ですわ」
「やはりそうか。とある聖がその妖怪の餌食になった。生きているかもわからん。ひょっとしたら、その妖怪に食われたかもしれない」
妹紅は聖とだけ聞いて、白蓮を思い出していた。妹紅が知る限り、白蓮が死ぬわけはない、と保障できるぐらいには思っていた。少なくとも、それだけの畏敬の念と義理を持っていた。
続けて、朝生部ノ君忠臣は言う
「そこでだ。お前には、その入道を退治していただきたい」
「わかりました」
その『依頼』を妹紅は、二つ返事で引き受けた。妖怪退治そのものに、快感だとか遣り甲斐だとか、そういった物を持っているわけではない。
忌まわしき蓬莱人・輝夜の持ってきた薬を口にしてから以降、孤独に過ごしてきた。その恨みを八つ当たりでぶつけて何一つ問題ない相手が、たまたま妖怪という種族だったというだけの話だ。
人の依頼だろうが何だろうが、妖怪を殴れるのなら、何でもよかったのだ。相手は知らなくても、そんな自分に依頼をするというのだから報いたい、というのが、妹紅のなけなしの人情でもあった。
そう思って、妹紅が一歩踏み出した瞬間、
「これ」
と、何を思ったのか、朝生部ノ君忠臣は妹紅を呼び止めた。
「こっちへ来い」
妹紅が僅かに警戒する。だが、多少の行いは抵抗できる、と踏んで、妹紅は階段をのぼって簀子(すのこ)廊下に上がる。
「もっとだ」
簀子の奥にある帳を超えて庇(ひさし)の中に入る。中には馴染みの薄い調度品が幾つかある。
「もう一つだ」
調度品を避けながら、声のする方へと行く。
「失礼しますね」
陰に隠れている朝生部ノ君忠臣に会う、最後の調度品を通り越す。
その瞬間、
ビュッ
と、首元にナイフが突きつけられる。
「――何を!!」
「ワシのいう事を聞いてもらおうか」
その直後。
「荘官様!!」
一輪が大きく叫ぶ。色々な問題があったのか、濡れてから半乾きになった湿気を含んだ服を着て、額を大きく切って流血させている一輪が、簀子の下――地面に両手をついている。
「荘官様!! 聖がケガを負っています!! どうか、荘官様の持っている薬の材料をお分けください!!」
まだ、朝生部ノ君忠臣は出てこない。しかし、叫び続けないと出てこない。
「荘官様!!」
そう言った時、帳の向こうから朝生部ノ君忠臣が庇の方へ出てくる。
「……なんだ、お前か」
朝生部ノ君忠臣が言う。
「聖はどうだ?」
「骨がいくつも折れて、口から血も吐いております。ですが、荘官様の求めている薬、その薬を作る材料さえあれば、聖の体も何とかなるかと思い、参りました」
もう、これが最後の手段だ。
人里に行って追い返された。泥水もかけられて、石もぶつけられて、罵詈雑言もぶつけられた。大した事もできないけど、なけなしの知識で何とかしていきたい、と心底思っている。
「ふむ……」
朝生部ノ君忠臣も簀子に座り込んで、返答を始める。
「ワシも、聖を助けてやりたい。あの時の妖怪に助けられた恩を返してやりたい」
朝生部ノ君忠臣の言葉が、一輪の心に突き刺さる。
「しかし、どこの誰ともわからないお前に、大事な薬は渡せんな」
面識はあっても、自己紹介はしていない二人だ。朝生部ノ君忠臣が素性を知りたがるのは当然の事だ。
「お前はあの妖怪を、雲山、と呼んだ」
一輪は体を大きく震わせる。
白蓮を守るために言ったあの言葉が、自分の首を絞めていく。
「お前は、あの妖怪の仲間か?」
朝生部ノ君忠臣の言葉が、一輪の言葉に突き刺さる。自分の行動が、自分を助けようとした人間の心を裏切ったのだと、心底後悔している。
だから、これからの長い時間、後悔しないために白蓮の教えを守る。
「――はい」
これまでの後悔も、これからの決心も、全部を吐き出すような、力強い声だった。
「……ふん」
朝生部ノ君の反応がわからない。何せ一輪は妖怪だ。一体どういう反応をされるのかがわからない。殴られるか蹴飛ばされるのか、それとも切り伏せられるのか。死ぬ事はないだろうが、大怪我を負うのは想像に容易い。
だが、一輪にはその全部を受け入れる勇気もあった。
「お前と、あの聖との関係は?」
「私は……」
言葉に詰まってしまう。
どう答えても、おそらくは良い結果にならないだろう。自分の好みの答えを言うのも簡単だが、白蓮のための薬を手に入れるための答えを模索する。
「私は……」
だが、それと同じ天秤でかけなければならないのが一つあった。
白蓮の教えだ。
命を懸けてまで、他人の――種族の違う相手の心配をできる人間はそうそういない。そしてそういう人間だからこそ、一輪もその教えに応えたいと思ったのだ。
朝生部ノ君忠臣の期待する答えがわからないからこそ、今まさに消えんとする白蓮の命と『正直に生きなさい』という白蓮の教えが、同じ天秤にかけられる。
そして、
「私は……」
一輪は、
「あの僧の――」
ウソをついた。
「弟子にございます」
不幸が約束されても良い、だなどと思ってしまった。白蓮の犠牲に比べれば、永遠に逃げる日々も、万の罵りも、千の弓にも耐えれると思ってしまった。
これまで、何度もウソをついた事はあるが、これほどまでに後悔するウソはなかった。
「……」
朝生部ノ君忠臣が立ち上がって、帳の裏に隠れていった。
どうなるかはわからない。切り伏せられるのか、まったく別の物を渡されるのかがわからない。
(どうなるかはわからないけど、どうにかするしかないか)
そう、思っていると、朝生部ノ君忠臣が帳をくぐって出てくる。
「ワシも、聖に助けられた。その礼はしたい」
言って、朝生部ノ君忠臣は簀子の上に幾つかの材料を置く。
蓮の種、五加皮(ウコギ)の根、乾燥したカキの葉、ホウキギの種……。
「ワシにできるのはこういった事でしかない。聖には是非元気になってもらいたい。ここにある物をすべて貰っていって欲しい」
僅かに光明が差し込む。
具体的に何がどうこう、というわけではないが、白蓮回復へ向けて、大きな一石を投じる事にはなった。一輪は大急ぎで、大きな一枚布を取り出した。
「では、古路毛都々美(ころもつつみ)で頂いていきます」
いそいそと、急ぎながら、古路毛都々美の中に入れていく。
(これは白蓮に効くだろうか)
若干、心が躍ったのは紛れもなく真実だ。恩を返せる事が、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
キュッ、と全部を片付けてしまうと、一輪はその包みを持つ。
「それでは、荘官様。ありがとうございます!」
一輪がそう言って去ろうと、一歩踏み出す。
「これ」
朝生部ノ君忠臣が一輪を呼び止める。
一輪が立ち止まる。
「ワシは、聖を助けたい」
訥々と、言い始める。
「しかし同時に、妖怪を捨て置くわけにはいかんのだ」
その言葉に反応して、屋敷の裏から、檜皮(ひわだ)葺き屋根の上から、屋敷の檜皮の屋根を持つ二本柱の表門から――四方八方から、ガチャガチャと音を鳴らしながら、武装した多くの部下が現れる。
手にはマサカリ、反りの入った刀、真っ直ぐな旧式の剣、鉾。中には弓を持っている物もいる。朝生部ノ君忠臣に仕えている作人や下人が、武装してきた。
「……聖を助けたいのでは?」
「妖怪は見捨てておけないのでな」
朝生部ノ君忠臣は、言い放った。
「さぁ、せいぜい逃げて楽しませてくれ」
とびっきりに汚らしい笑みを浮かべて、だ。
「うぉりゃあああああああ!!」
作人の一人が勢い良く切りかかってくる。手には刀だけで、ろくに防御をしようともしていない。
(戦いたくはない)
一輪はそう思って、宙に浮いた。作人の刀は空を切る。
「飛んだ……」「本当に、妖怪だった」「喰われる……」
一輪は、自分の足元でそう呟いているのを聞いた。
「俺が討ち取ってやる!!」
屋根の上から、一人の作人が弓を引いているのが見える。迎撃だけならたやすい。だが、屋根から落ちたら助かりはしないだろう。そう考えると、迎撃の一つもできやしない。
そう、一輪が考えていた時だった。
(任せろ)
「雲山……」
妖怪・入道である相棒、雲山が話しかけてきた。それも、妖怪の矜持を忘れた自分を助けようというのだ。
「いいの?」
一輪の目の前にある雲が、大きく変化していくのが見える。
(あの女坊主は、儂らを助けてくれていた。あの女の子に殴られそうになった時も助けてくれた。その礼をしなければ……心が病気にかかる!!)
日頃は、こんな事をいう相手ではなかった。
一輪と一緒に計画を立て、文字通りの広い視野で見はるかし、物理的に絶対的安全を確保したまま、最低限の労力で最大限の恐怖を誘う相棒であった。
そして、一輪の出した計算の整合性を信頼し、共闘戦線ともいうべき信頼関係を破棄しないように、一輪は自分で考えた計画でもって雲山から注意を受ける事も多々あった。
「雲山」
今はただ、口うるさい相棒がありがたく思える。
「ありがとう」
一輪が礼を言うと同時に、天を覆うような巨大な顔が、怒りの形相で眼下の人間を見下ろしている。
「うわあああああああああ!!」
「なんだ……なんだアレ!?」
「入道だ……妖怪だ……」
「おれ達、取って喰われるぞ!!」
「逃げろ……逃げろおおおおおお!!」
次々と武器を手放して、阿鼻叫喚の地獄絵図、と言ったていで逃げ回る作人達。
「こら……!! お前ら……戦え……!! 戦わぬか……!!」
朝生部ノ君忠臣が怒気を含んだ声を出す。しかし、怒り顔の入道が頭上から見下ろしている状況では、作人を統制する能力は何もなかった。
「なぜだ……なぜ戦わぬ……!!」
小さい群落ながらも行われた、朝生部ノ君忠臣の政治。重労働の代わりに多大な報酬を約束してはいた。しかし、『延喜の荘園整理令』や、京から赴任されてきた国司の都合によって振り回された結果、多くの報酬が失敗し、結果として圧政になっていた。
いずれいずれ、と先のばしにして、多くの報酬が払えず――結果、誰もいなくなってしまった。
「くそぅ……!! 絶対に……絶対に飲んでやる……」
朝生部ノ君忠臣の野心は止まらない。
「蓬莱の薬……絶対に飲んでやる!!」
筈だった。
「ねぇ、荘官様」
朝生部ノ君忠臣が後ろを振り向くと、そこには妹紅が立っていた。
その手には、さっき恐喝に使った短刀が手にある。
「古人の糟魄(そうはく)」
朝生部ノ君忠臣が、妹紅の意図を知る。
「ただでさえ長生きした残りカスの貴方が、蓬莱の薬なんていう長寿の毒を欲しがる必要はないでしょう?」
短刀が、ギラリと光る。
朝生部ノ君忠臣が、寒空の中にでもいるかのように、歯をガチガチと震わせる。
「さようなら」
大きな悲鳴が響いた。
数日後。
小屋の中で白蓮は二人に笑みを浮かべながら礼を言う。
「ありがとう、一輪。それに、雲山も」
看病の甲斐あってか、白蓮の容態は快復していた。相変わらず添え木だらけの体だし、時折青い唇を見せて苦しそうに呼吸している。けれど、一見した感じでは何一つ問題は見受けられなかった。
「いや……白蓮が煎じ方とか知っててくれたからですよ。それに、良く効く薬だったらしいですね、白蓮もすぐに治ってしまったし」
誉められ慣れてないのか、僅かに引きつった笑顔で言う一輪。照れくささに耐えきれなかったのか、雲山は雲隠れしてしまった。
本当は違うんだけどね、と白蓮は内心苦笑したが、黙っておいた。
「そ、それで……その……言わないと、いけない事が……」
「何かしら?」
白蓮は笑顔を向けていた。だが、一輪の奇妙な空気を感じ取ると、僅かに身構えをしてしまう。
「私は……ウソをつきました」
空気が僅かに張りつめる。
正直に生きなさい、という教えを守る為に、今ここで正直に吐いてしまおう、という腹だ。白蓮に殴られるのか、罵られるのか、それとも、軽蔑の眼差しが飛んでくるのか、それはわからない。
ただ、白蓮の快復までは、周囲を守りきる覚悟があった。
「どういう、ウソを?」
「貴方の……」
そこで、言葉が濁ってしまった。
「弟子、だと」
消え入る様な声で、内容を告白した。
「そう……」
白蓮は、そう言った。
そして、
「治るまで、看病を願いますね」
とも。
一輪は、二つ返事で了承した。
晴れた日には小屋の近くで托鉢をしたり、適当な種や花を採ってきては、白蓮が自分で選り分けて、白蓮の指示の元でそれを煎じて、白蓮に飲んでもらった。
雨の日には、苦労の末に火を点けて白蓮の体を温めた。それでも寒そうにしている日には、炎を大きくして温まりやすいように気をつけた。勢いあまって、火事になりかけた事もあった。
風が強い日には、雲山の力を借りて逆風を起こした。その結果、空気の流れが変になって折れた木が小屋に激突してきた日もあった。
誰かがやってくる気配がすると、大急ぎで小屋から飛び出して、聞き耳を立てて白蓮の様子を伺っていた。隠れる暇もなかった時は、『弟子ごっこ』を再開して、急にやってきた人間を欺き続けた。
日の光が強い日は、雲山に頑張ってもらって過ごしやすいように頑張った。
そんなこんなで、二週間が過ぎた。
白蓮が快復した。
小屋の中で、快復した白蓮が身支度をして、荷物を確認する。
療養中に、暇つぶしとして作った杖を渡してある。使用回数が少なかった薬や、後から集めてきた花や種も、何かあった時の薬として持っている。
一輪も使った鉢は、近くの小川でキレイに洗ってきた。とても大事な鉢らしく、十分に洗ってほしい、と言われた鉢だった。
出立の準備が出来た白蓮が一輪の方を向いたので、一輪はウソをついた事への処罰を覚悟した。
そして、白蓮は口を開いた。
「さぁ、行きますよ? 一輪」
何もなかった。
罵りも、殴打も、軽蔑も、何もなかった。何もなさすぎて、一輪は呆気に取られてしまう。
「ごめんなさいね、看病を任せてしまって。これからは、どんなケガも病気もしないようにしますね」
そんな一輪の心を知ってか知らずか、白蓮は事も無げに言う。
だから思わず、一輪は言ってしまった。
「え、良いんですか? ウソをついてしまったのに」
「だって」
最初に会ったのと同じような笑顔を向けながら、白蓮は手を差し伸べて言った。
「貴方は私の弟子じゃないですか」
たとえ天地がひっくり返っても、この人には頭が上がらないんだろう。と、思ってしまった。
だから一輪は、
「ありがとうございます。何があっても……絶対に、ついていきます――」
その手を取った。
「姐さん」
心から、感謝しながら――。
姐さんと呼ぶ一輪は少し変わった出会いをしてそうですよね。
一輪の話もっと増えないかなぁ
まずは執筆の労に対して一言、お疲れ様です。
妹紅と白蓮に接点、実にありえる話ですね。
一輪と白蓮の出会いの話。ん~、良かったです。
一輪と聖がどう出会ったのかのかは気になりますよねー。
こんな話があってもいい。それと一輪関連の話がもっと増えればいいなと。