主人の様子がおかしくなったのは、何も唐突に始まったわけでもなければ、予期していた事態でもあった。それを逐一監視するのが、ナズーリンに課せられている役割なのだから。
実のところ、最初からろくに期待などしていなかった。地を這う妖獣風情を毘沙門天の代理に据えるという冒涜が許されたのは、推薦人である僧侶の信仰心と理念が評価されたからに過ぎない。当人らは黙認されたなどと嘯いているが、その傍らでは常に"本当の"毘沙門天の配下が目を光らせていた。妖怪の蔓延る山寺がいつまで保つものか、仲間の鼠たちと博戯に興じながら。
とはいえ、寅丸 星は予想に反して優秀だった。真面目一徹な仕事ぶりで異名に恥じないだけの信仰を人々から集め、本家を感心させたほどだ(どちらかといえば、彼が賞賛したのは僧侶の人選りだったが)。妖怪らしからぬ篤実な振る舞いと、人間に比べて奸智に劣る性格が、借りた威も相まって神徳のように映えるのだろう。それを僧侶が崇めれば、周りの者も頭を垂れずにはいられまい。
ただ。誰より拍子抜けしたのは、彼女の素行を探っていたナズーリンだった。食肉目の獰猛な気性については経験上よく心得ている。虎の妖怪に仕えるよう仰せつかった時は、左遷どころの話ではないと悲嘆に暮れたものだったが。毘沙門天の弟子を名乗るのに充分な資質の持ち主であると判断した翌日、戸棚に隠してあった茶菓子の行方すら探せない愚鈍の権化だという事も発覚した。
犯人(賭けに負けてチーズ絶ちを強いられていたのだから仕方あるまい)を目の前にして首を傾げる星に唖然としながらも、ナズーリンは監視を強化する必要性を感じた。彼女はいつかとんでもない失態をしでかす……誰かが傍で見張っていなければ。
そして今、主人はゆるやかに心身を腐らせつつある。たかがお守りの鼠がその原因を悟ったところで、時間という毒素の侵食を止めようはない。
ずっと見ている。だから知っている。信仰が乖離し、日毎に寂れゆく山寺の守護に追われながら、星もまた信じるべき寄る辺を見失っている事を。
僧侶……聖 白蓮が法界に封印されてから、千年近くが経とうとしていた―――
「ご主人様。ただいま戻りました」
呼びかけてから、いつも不安を覚える。これは生存確認だった。
「……あぁ、入りなさい。ナズーリン」
幸い、返事はあった。か細く擦れた声色に、決して安堵など出来なかったが。ナズーリンは天井の覗き窓から、室内へと飛び降りた。音もなく着地する筈が、素足の爪先が床をわずかに軋ませる。千年の歳月、それを実感させる響きだった。
水底のように深い暗闇も、黴臭く淀んだ空気も。すべては長い歳月を掛けて降り積もった負債であり、それを掃う者もいない。かつては山寺を賑わせていた人間達は、僧侶を悪魔と弾糾するだけに飽き足らず、彼女が匿っていた妖怪までを疎み、地上世界から追放した。毘沙門天の加護より僧侶の法力に縋った彼らは、自身の手でそれを裏切り、寺を後にした。
報復を訴えるナズーリンに、星は困ったように笑った。
あまり寒さを感じなかったのは、外の気温と大して差がない為だった。宝塔の淡い光明だけが、部屋の四隅をかろうじて浮かび上がらせている。そして、灯と向かい合って座禅を組む星の背中も。つかづ離れずの位置に佇んだまま、ナズーリンは彼女が振り返るのを待った。
が。姿勢を微動だにすら崩さないまま、星は尋ねてくる。
「首尾は?」
「……申し訳ありません。賊の一人を逃しました。捕らえた仲間に根城を吐かせれば、盗品を捌かれる前に事を治められます」
住職不在となった山寺に残されたのは、成り上がりの毘沙門天と彼女の元に集った財宝の数々だった。人手不足とはいえ、噂を聞きつけて襲い来る盗人を度々返り討つのは、ナズーリンには荷が勝ち過ぎる。言い訳ではないが、彼らは鼠よりも小賢しい。
星はしばらく黙考したものの、再び紡いだ口調は呑気なものだった。
「どうせあのまま倉に仕舞っていては、宝の持ち腐れだわ。結果として、その者は毘沙門天から財宝を得た事になる。それもまた僥倖です」
あろうことか、くすりと微笑を漏らしつつ、後を続ける。
「虜囚も放しておやりなさい。お前に痛めつけられれば、もう懲りたことでしょう」
「ご主人様、ですが……」
「なにか不満が?」
「同志達が腹を空かせています」
「……お好きになさい」
溜息混じりの了承を受けて、ナズーリンは頭上に一瞥をくれた。小刻みな足音が天井裏を這い回り、すぐさま消える。しまった、と気付く……自分の分を残しておくよう言い含めるのを忘れていた。
後悔を拭って、視線を戻す。用件は済んだと思ったのだろう、星は黙想を再開したようだった。その後ろ姿は鼠のである自分を省みても、小さくみすぼらしい。それは彼女を照らす宝塔の光量が、日に日に弱まっているせいもあるだろうが。
ナズーリンは喉の奥で声を作り変えて―――というより元に戻して、呟いた。
「……で? 君はいつから何も食べていないんだい、ご主人」
「食べましたよ。ほら、お前に無理矢理、生野菜ねじ込まれました」
「私の記憶が正しければ、その話は三桁ほど年を遡る筈だがね」
「あー。もうそんなにかー」
うんざりと皮肉(事実でもある)をこぼすも、星には応えた素振りすらない。彼女が生臭と縁を絶ったのは僧侶に仕えてからの事だそうだが、仲間の妖怪達までが排斥されてからというもの、食事の機会すら滅多に減らしてしまった。本人曰く、
「私腹を肥やしている暇などありませんからね。毘沙門天としての力を高め、一刻も早くこの寺を再興せねば」
穏やかだが、あくまで意志は固く。それはどちらかといえば自戒を唱えているかのようだった。
修練と称して暗室に籠もり日夜、宝塔の功徳を求めて光芒を浴び続けてはいるが。お世辞にも、毘沙門天の力とやらが増した様子は見受けられない。それどころか、星自身は衰弱していく一方だった。いくら指摘したところで彼女はまともに取り合おうとしないが、このままではそのうち悪い意味で解脱してしまう恐れもある。
「すべては聖のために……」
何より。消え入りそうなまでに虚ろな宣誓に、否応なく不安を煽られる。まさかこの女、本当にこの廃寺と共に朽ちてしまいたいなどと思ってはいるまい?
「……もうよしたまえよ、ご主人」
かぶりを振って、ナズーリンは呻いた。
「聖 白蓮はもういない。魔界がどんなところか聞いた事くらいあるだろう? いくら彼女でも生きていられるものかよ。ムラサ船長も、一輪たちも。地底の鬼どもからきっと酷い目に遭わされている。皆ばらばらになってしまった。もう誰も帰ってはこれない」
「帰ってきますよ」
さも当たり前のように、星は言葉を返す。ただそれは、小鳥が空を飛ぶのを見て羨ましがるような、夢想家の譫言にしか聞こえなかった。あるいは彼女の瞳には、そんな光景が本当に映っているのかも知れない。過ぎ去った記憶ではなく、訪れる筈のない未来が。
「必ず帰ってきます。ここは皆の家なのですから。私が守らねばなりません。人間達とだって、きっとわかり合える。聖は間違ってなどいません」
「ご主人……」
「私の力が足らないばかりに、お前には苦労をかけてしまっているね、ナズーリン。すまないと思う」
耐えきれず、ナズーリンは駆け出していた。
唐突に響いた足音を怪訝に思ってか、星はようやく振り返ってくる。逆光に照らされたその表情は、正直いって酷い有様だった。頬は干涸らびたように痩け、光に眩まされて目の焦点も合っていない。おそらくこちらの挙動も見えていなかっただろう。ナズーリンは星の間近まで迫ると、その額を思いきり蹴り上げた。
「ぎにゃ!?」
奇声を上げて、星はなすすべなく吹き飛んだ。あまりに手応えのない感触にぞっとしながら、ナズーリンはなおも追い縋る。
衝撃で床を転がった宝塔が、ほんの一瞬、部屋全体を明滅させる。その間に、ナズーリンは仰向けに倒れた相手の上へ馬乗りに覆い被さっていた。
頭部を痛めたせいもあるだろうが、星はいまだ呆気にとられて目をぱちくりさせている。彼女の襟首を掴んで持ち上げると、ナズーリンもまた顔を寄せて囁いた。
「あの女のことはもう忘れろよ」
「ナズーリン? 何を……」
くぐもった吐息を間近に受けて、星は狼狽える。両腕ごと押さえつけているため、痩せ衰えた今の彼女に逃げる術はない。尻尾で撫でてやると、その身体はいっそう過敏に跳ねた。が、無駄だ。
顔と顔。あとわずかな距離に、言葉を挟んで、肌へと触れる。
「それとも、私からの労りなんて煩わしいだけかい?」
こうなる事はわかっていた。聖 白蓮がいなくなれば、星は使命感から自制を失い、いずれ身を滅ぼすだろう。ただそれは、仮に白蓮が封印されなくても同じ事だった。腹の底に何を抱えていたかは知れないが、彼女の行為は妖怪を惰弱させているに等しい。一匹の虎が牙を削がれ、盲信の徒と化していく様子を、ナズーリンはずっと見ていた。だから知っていた。
白蓮が星を毘沙門天として拝するように、星もまた白蓮を信仰している。その主従の環に、微塵にでも隙が生じる事などありえない。ありえない筈だった、それが……どうだ?
「私では駄目かい、ご主人……」
「あ、あのね、ナズ君? ひとまずどいて欲しいんですけど。苦しいし、近いし」
渇いた愛想笑いを浮かべながら、星はひたすら身じろぎしている。泳がせた視線をこちらに向けようともしない。そのままならない態度に苛立ちを募らせて、ナズーリンは思わず口走っていた。
「聖 白蓮の所業がどうして露見したと思う?」
「――――――」
途端、星が足掻きをやめて、身体を強張らせるのが伝わってくる。見上げる眼差しに感情の色はないものの、意味が理解出来なかったわけでもあるまい。ナズーリンは小さく舌舐めずりした。満足と、辛酸とを味わって表情を歪ませる。なるたけ嘲っているふうに努めながら、
「わかってくれなければそれでいい。軽蔑するならしておくれ。けれどね、君を見ているだけというのは、とても辛かった」
「…………」
「腹ぺこだよ。もう限界なんだ……」
口から零れ出るのは、しかしむせぶような吐露だった。別離の挨拶を交わしているわけでもあるまいに。……否、これで終りになるというなら、それでも構わない。もはや抵抗の意思すらくじかれたように、星は動かなかった。言葉を持て余すようにうっすらと開いた唇から、かすかな呼吸音が漏れてくる。
ナズーリンは星を掴んでいた手を離した。代わりに、更に低く頭を下げる。懐かしい顔がいくつも浮かんでは消えた。が、邪魔する者はもういない。野暮な鼠達も、今夜は一鳴きさえしない。身に染みて思い知る。本当に、何もなくなってしまった……
「ナズーリン」
口を塞ぐよりも先に。星が紡いだ言葉に、はっと動きを止める。
「嘘をつくのはおやめなさい」
「……なんだと?」
「お前はそんな事をする娘ではありません。毘沙門天が授けてくだすった、大切な部下だもの。私にはわかります」
刹那。
激昂に喉を震わせながら、ナズーリンは星の身体から飛び退いていた。宝塔の灯りが届かない位置で踏みとどまると、荒い息を吐く。が、そのせいか身体の筋が緩んで、背後の壁へとしなだれてしまう。
頭をさすりながら、星が上体を起こすのが見えた。ついでに立ち上がろうとしたらしいが、よろめいてその場に尻餅をつく。
「こ、こんなに弱っているとはなぁ……」
ぼやきながら左右を見渡し、暗がりに佇むナズーリンと視線を合致させると。彼女は微笑んだ。
穢すことを躊躇わせる透明な眼差しは、凛然とナズーリンを捉えながら。映し重ねるように、別の誰かを見つめているようで。そんなものは妄想に過ぎないと、振り払うことの出来ない圧迫感が胸にひしめく。それは紛れもない失望だった。
認めてしまった……世界の果てに封じられた千年前の女に、私は敵わない。
ナズーリンは力なくうなだれた。冷たく張りつめた仄闇の中、素知らぬ様子で星が喋るのを聞く。それが、こちらへ話しかけてきたのだと気付くのには一拍を要した。
「こんなザマでこの寺を守れるはずがないのに。ひょっとしたら、私は諦めてしまっていたのかも知れないな。けれど、ナズーリン……お前を信じることで、私は私と、皆を信じることが出来るんだ」
「違う」
「目が覚めたよ、ありがとう。やはりお前がいないと私は駄目だな」
「違うんだ……」
口に出したつもりだったが、喉を伝って漏れるのは意味を成さない喘ぎ声だった。制止することの出来ない星の告白が、鞭打つように優しくナズーリンの心臓に刻まれる。
そんな言葉が聞きたかったわけではない。こんな苦痛が欲しかったわけではない。それでも……遮ることなど出来ない。彼女のこの純真こそが。聖 白蓮によって見出され、毘沙門天から命じられた、私の探し物だった。手に入れる事の叶わない理想の体現だった。
ナズーリンは顔を上げた。陰にまぎれて、目元にうっすら浮かんだ涙を拭う。床にこぼれ落ちたところで、鼠を描くほどにも足りないだろうが。無理やり思い浮かべた皮肉に頬を引きつらせながら、捨て鉢にささやく。
「……そうだな。駄目なご主人様に、一つだけ忠告してやるよ」
「はい?」
「いつか、君は失くし物をするだろう。誰にどれだけ泣きつこうと、決して取り返しのつかないものをね」
たとえ仮初めの主従であっても。
私があなたのものである限り、あなたは私のものだから。
「せいぜい手放さないよう気を付けておくんだな」
「えっと、何の話ですか?」
「……知らないよ、馬鹿」
熱くなった顔を隠しつつ背中を起こして、ナズーリンはそのまま踵を返した。と、部屋から立ち去ろうとしたところで星に呼び止められる。
「駄目ついでに、一つ頼みがあります。ナズーリン」
「聞こうか」
「お腹が減りました。ご飯を炊いておくれ」
快活で情けない物言いに、うんざりと肩を落とす。この廃屋のどこに食料が残っていると思うのか、怒鳴って問いただしてやっても良かっただろうが。米の一俵やニ俵なら、近隣の村から都合できない事もない。今頃は満腹であろう同志達なら、道中で荷を摘み喰い尽くす事もないだろう。
まったく。部下使いの荒さも、往生際の悪さも、上司譲りときたらない。
苦い―――あるいは甘い―――笑みを浮かべて、ナズーリンは後ろ手に手を振った。
「お粥にしときな」
千年近くが経とうとしている―――
結局、それから少しも経たないうちに、原因不明の間欠泉によって地底の仲間達はあっさりと帰還を果たす事となる。星と合流した一同は、晴れて聖 白蓮の復活の為に活動を開始した。大恩ある僧侶に対する彼女らの忠誠心に感心しつつ、全てを杞憂で片づけてしまうことには抵抗を感じたものの。
諦められるのなら、きっと、とうの昔にそうしていた。それだけの事なのだろう。
ナズーリンは空を駆ける。妖精と、飛宝と、ついでに巫女だの魔女だのが飛び交って、極彩色にきらめく雲の上を。けれど、決して惑わされはしない。諦めはしない。どれだけ遠く儚くとも、追い求めるものはいつまでも変わりはしない。
だから。
別の意味で的中したあの忠告に従って泣きついてきた上司の、気安い微笑みを再び探し当てるまで。聖 白蓮にはもうしばらくだけ眠っていてもらう事にしよう。いや、悪いがね。
<おしまい>
最高でした。
ほんと、好きなカプほどなんとやらですわw
鼠はやっぱ草食系じゃおさまらんぜ!!
虎ちゃんはもっと肉食系になれ!!