お嬢様が好む天気は夜を除いてほとんど無い。
吸血鬼という制約上晴れと雨を嫌うことに加え、その中間の曇りは非常に移ろいやすい。
ふとした瞬間に日差しが雲間からこぼれてきたり何の前触れも無く雨へと変わったりするからだ。
生憎と今日の天気は後者のようであった。
気を使う程度の能力を持つゆえ、こういった天候の変化には敏感で、普段ならば庭にある小さな詰所でのんびり時間を潰すのである。
ところが、お嬢様が今日のあなたは外にいるのが吉だなどと言うものだからこうして門前に一人佇んでいる。
上を見上げると暗い雲が重く空を覆っていた。
あまりにも低くそのまま降りてきて地面の上にあるもの全て押し潰してしまいそうにも思える。
ひゅうと吹いた風は湿り気と雨の匂いを運んできていて、いつ降り出してもおかしくはない。
雨が降り始めたら詰所に戻る、心の内でそう決めた。
お世辞でも暖かい季節とはいえない上にそこそこの風もある。
この中で濡れるがまま立っていたら間違いなく風邪を引く。
吹雪の中一晩中門番をしていてもクシャミで済んだのはこの際置いておくとして、だ。
そう決めたはずであったのだが大きな雨粒が幾度か体を打っても結局まだ外にいる。
命令というわけではない。
戻ったとして特に何かあるわけでもない。
それでも言葉がどこか頭の片隅に引っかかってここに私を留まらせていた。
今までも言うとおりにすると大抵よい結果に転んでいた。
辛酸を舐めさせられたことが無いとは言い切れないものの、既に信用するだけの重みはある。
とりあえず今度も前に倣って従ってみることにした。
考えたところで雨粒が鼻先へ当たる。
それを皮切りにして疎らだった雨は勢いを増し、本降りになろうとしている。
服に吸い込んだ水の重さを感じるようになってきた。
加えて肌に濡れた布の感触が伝わってきた。
早くもくじけそうだ。
懐にしまっておいた合羽でも出そうとしたところ、植え込みの陰にいる誰かと目が合った。
左右で色の違う瞳と大きな一つ目、ぎょっとした私を見ると嬉しそうに近くへやってきた。
茄子色の化け傘を持った淡い青色の少女、妖怪であろう。
ふわふわと飛んできてちょこんと隣に着地した。
私の肩ほどもない背格好にどうにも不釣合いな大きな傘、それを高く掲げる。
そうして持っていた傘を私の上にもかぶせてくれる。
冷たい雨はざあざあと音だけの姿に変わって、幸いにも私は濡れ鼠になることを避けることができた。
少女の顔を見るとこちらが眺めているのに気づいてはにかみながら邪気のない笑みを浮かべた。
思わずその笑顔につられて顔が緩む。
きっとメイド長にみられたらだらしない顔しないなんて怒られてしまうんだろう。
でもこの傘の下は二人しか入れない二人だけの空間だった。
激しく降り続ける雨はカーテンとなって広い世界と狭いここを区切っている。
お互いに笑みをこぼしたあとはなんだか気恥ずかしくなって二人とも顔を合わせず、言葉もかけなかった。
何も話さなかったとはいえ雰囲気はとても柔らかく優しいものであった。
少女は精一杯傘の役目を果たしていた。
私にできることはただそれを存分に享受するだけであって、それで彼女にも充分であったのだろう。
雨の中、二人で立ち尽くしていたのだけれども、寒さより温かさが勝っていたのはそういった幻想の均衡が成り立っていたからだと思う。
肩と肩の距離も遠すぎず近すぎず、相手がそこにいるのが見なくても感じ取れる間。
知り合って半刻と経たないのに奇妙な安心感が周りに流れている。
勢いを強め大地を穿とうとするかのような雨の中で、私たちは傘以上のものに包まれていた。
永遠にも続くかに感じた時間は烈風によって終わりを告げた。
突然の強風で大きく彼女は姿勢を崩した。
慌てて少女の背中と傘の持ち手を支える。
吹き続ける風のせいで二人で傘を持つ珍妙な姿になってしまっていたが、彼女は楽しそうであった。
私も楽しくなかったといえば嘘になる。
痛いくらいの横殴りの雨に傘を傾けて立ち向かうのは心が躍った。
子供が台風の中、外へと飛び出していく理由がよくわかる。
そこにあるのは普段体験できない非日常、幻想の世界で非日常を味わうというのは当然だが全世界共通の非日常にはそんなこと関係ない。
豪雨に彩られた世界は確かに家の中では迫ってくることはない。
外にいても楽しむことができなくては別世界にはなりえない。
まるであどけない子供のように私と少女は感じていた。
桶をぶちまけたような水の散弾を、体が浮くような風を、肌に。
決して飽きることのない風景を、姿を一瞬として留めず移り行く世界を、心に。
茄子色の傘は雨を受けるという役目をもはや果たせていなかったが、裏返ったりせず形を保っている。
持ち主の少女にとっては良いことなのだろうが、おかげで私が踏ん張る苦労が増し増しだ。
強く抱きしめているために肩と肩との距離は今や皆無となっている。
彼女の体温がじんわりと伝わる。
どこから来るのか予測できない風雨で髪も服ももうずぶ濡れだ。
それでも尚、温かい。
すぐ隣となった少女の顔は雨に濡れても輝きを失っていなかった。
むしろより魅力を感じさせている。
濡れた髪は翡翠のように艶を放ち、目はくりくりと土砂降りの光景に反応し煌いている。
水を得た魚、いや雨を得た傘なんだろう。
その姿を見てもう少し元気が湧いてくる。
「私ねー、多々良小傘―!」
突然少女は大声をあげる。
雨音が激しいので大声をあげたのだろうがこの距離なら五月蝿いくらいだ。
でも私も負けじと声を張り上げる。
「私は紅美鈴―!!」
「今っ! すごい楽しー!」
「同じくー!」
二人で叫びながら雨と風を浴びる。
他人が見てもわからない楽しさで満ちていた。
「私、化け傘だけどっ。妖怪の、自信、失くしてたのー! でもっ! こんなふうに雨を楽しめるから! やっぱり妖怪でよかったー!」
妖怪というものは非常に長命だ。
そんな長い生のうちでは精神的な喜びが不可欠の快楽となる。
だから妖怪は子供のようにありとあらゆるものを楽しんでゆく心をも抱えているのだろうか。
ふとそんなことを思った。
慌しく生き急ぐ人間は楽しみをどんどん高度なものに仕立て上げていって、すこし羨ましいと考えた事もあるけれど……、こんな何でもない少しの非日常を全力で楽しめるから、私は。
「妖怪でっ、よかったー!」
次の日、初めて風邪を引いた。
小傘も風邪を引いた。
メイド長に看病されながら、あなたたちは本当に妖怪なのかしらなんて言われたので、二人でニヤリとしたら変な目で見られた。
最後の締めの部分で「小傘も風を引いた。」になってたのがちょっと残念。
なんか大島弓子作品の薫りがした。
無邪気に楽しんでる様子は読んでるこちらも楽しくなります。
俺も妖怪が良かったー!