<1>
疑われることには慣れている。清潔を重んじるばかりに敏感すぎる彼らの気質を、責められる筋合いもない。
心の充足を求めるならば、まずは要らないものを切り詰めなさい。
それは誰の言葉だったか。師ならば、間違いなくそう記憶している。再生された声は、姉のものとも違ったように思う。
ともあれ。依姫は降りかぶった腕を仕方なくおろした。握力で水分の抜けたスポンジの代わりに、壁のタイルに額をあてる。吸熱効果は薄めた鎮静剤のように、多少なり感情の整理を促してくれた。
斬って捨てられるような心労なら、誰も煩わされはしない。仕事はいくらでもある。ただ、"月の使者"の本分はあくまで地上の監視の筈だ。月の民にとって、頭上に浮かぶ青い星は何にも勝る不安の種である。ならば同様に、自分たちの仕事もまた重要視されて然るべきではないのか?
武器庫の維持費は年々削減されている。確かに千年間無用の長物ではあるが、有事に埃しか吹けない鉄砲では何の意味もない。前任者が逃亡して以来中止されている行軍セレモニーの再開企画書については、現在も審議中(つまりシュレッダーの餌食になった)との事だ。ここを保育施設とでも勘違いしているのか、自称人事(つまり姉だ)はろくに運用出来ない不良兎ばかりを見繕ってくる。地域振興が目的だとかいう手作り桃ジャム配布会で出会った子供に励まされた時は流石に泣きそうになった。が。
泣くものか。依姫はいい加減壁から頭を上げて、シャワーの栓を捻った。
激しく肌を打ちつける水飛沫が時には滴り、時には小さな個室の壁に跳ねてけたたましい音色を奏でる。荒んだ表の月を潤す豪雨のように、乱暴だが心地良い。湯気に包まれたこの一時だけなら、すべてを忘れてしまっても咎められはすまい。兵隊兎たちの馬鹿面も、連中を甘やかしてやめない姉の脳天気な笑顔も、本当に、どいつもこいつも……
「ねぇちょっと。まだ支度出来ないの」
心臓の跳ね上がる勢いが骨格を伝って、依姫を振り返らせた。
扉と天井の隙間から頭を覗かせているのは、田舎くさい顔をした少女だった。子供じみたリボンで髪を飾っているわりに、表情は厳しくむくれている。容姿からすれば自分とほぼ変わらない年齢に見えるが、おそらく100年程度すら生きてはいない筈だ。何故なら彼女は、寿命を持った地上人なのだから。
向かい合って、しばらく顎を持て余したものの。絞り出した声はいかにも情けなく室内に響いた。
「なにを……してるの、あなたは!?」
「だって、あんまり遅いんだもの」
依姫を見下ろしたまま、少女は不遜に鼻を鳴らす。奇妙な構図にも思えたが、そういえばこの地上人は(何故か)宙に浮く事が出来るのだった。かといって束の間の安息を覗かれる謂れなどありはしない。ようやく視線を意識して、依姫は手で身体を隠した。ついでにシャワーを止めてから、声色を張り直して怒鳴る。
「鍵は!? 更衣室の!」
「なんか兎にもらった。合鍵だって」
少女は顔のすぐ隣に手を差し出して、もらった鍵とやらを見せてきた。無論、そんな物を作らせた覚えはない。依姫は咄嗟に兵隊兎の素行調査書を思い浮かべ、適当に容疑者を割り出した。彼女らの吐く嘘は下手の横好きだから、直に問いただせばすぐにボロを出すだろう。しかしその前に、躾けなければならないケダモノがいる。睨みつけても、少女は悪びれる素振りさえなく見返してきた。何が珍しいわけでもあるまいに。
いずれにしても、こんな場所で時間を潰していては風邪を引きかねない。仕方なく根を上げる事にして、依姫は少女を追い払うように手を振った。
「あぁもう、わかったからどきなさい。そんなところに漂われてちゃあ出られないでしょう」
「……………………」
「……何です?」
無言の視線に、依姫は眉をひそめる。少女は無遠慮にも扉のふちに肘を突くと、寄り掛かるように顔を載せた。頬が張り伸ばされたせいか、口の片端だけを歪めてにやけたように見える。というより、明らかに底意地の悪い笑顔を浮かべていた。
「……いや。姉に勝る妹はいないって事例をはじめて見た気がして」
今度は依姫の方が答えなかった。シャワーの蓮口を取り外すと、少女の眉間めがけて加減なしに投げつける。
軽い血飛沫を撒きながら少女の頭が扉の向こうに消えた。仰け反った拍子で背後のあちこちにまで激突したのか、鈍重な音色を連続で響かせながら、地上人が月面ならぬタイル張りの床に墜落したのを断末魔の悲鳴で察する。これで少しは聞き分けが良くなってくれると助かるが。
図らずも行水の時間に余裕が出来てしまった……とはいえ、少女との約束を反故にするのも忍びない。毒つきながらもシャワーを片付けて、いつもより重い扉を開ける。血痕が尾を引いてうっすらと赤い弧を描くのを、ほんの少しだけ綺麗だと思ってしまう自分がいた。
<2>
月の都でまことしやかに囁かれた、"大罪人"八意 永琳の復讐説。かつて彼女に師事していた綿月家の姉妹までが共謀者として疑われたその事件の全貌を語る事に、いまや何の意味もない。
依姫たちは自身の……ひいては師の身の潔白を確信していたし、首魁であった地上の妖怪とその一味はとうに返り討ちにしていた。月を脅かしていた侵略の影は大事なく拭いさられたと言っていい。
ただ、月人や玉兎の多くが真相を知らずにいる。事件が解決したのも、地上に隠匿する賢者(つまるところ容疑者当人)の力添えがあったからこそだというのに。
これを機に賢者の復権を訴えたかったが、賢者自身がそれを望んでいないと思い直してやめた。そもそも、まだ綿月にかけられた嫌疑さえ晴れていないのだ。その程度のけじめをつけるのにまで、賢者の知恵を頼りたくはなかったが。自分の尻くらい自分で……
「なに顔赤くしてんの」
「……してません」
見られていたとは思わなかった。こちらを覗き込んでくる少女の顔を、そっぽを向いてかわす。四人乗りの座席には余裕がある筈だが、今日に限ってはやけに窮屈だった。
またすぐ外の景色へと興味を移して、少女は依姫の膝を跨いでいく。声を上げかけるが、実力行使の方が手っとり早かった。窓から身を乗り出そうとする少女の首根っこを掴まえる。
「はしたないというに!」
「だって何あれすっごい眩しい何なのあれー!」
依姫の叱責などにべもなく、少女は嬌声をあげる。地上にだって太陽光発電くらいあるだろうに!
御者席から速度を落とすか尋ねられたが、そのまま進むよう指示した。足を振り乱してはしゃぐ少女を、錦鯉でも抱えるように座席へ引きずり込む。額に貼られた絆創膏を軽く指で突いてやると、景色から目を離さなかった少女はようやく顔を向けてきた。
「あにすんのよ?」
「自分の立場をわきまえなさいな、地上人」
綿月の姉妹が謀反を疑われた要因の一つに、依姫の持つ神々を召還し使役する力が関係している。彼女ではない何者かが勝手に神を喚び出して、真相の攪乱を介助していたのだ。その何者かこそ、この少女……地上の妖怪の手下である人間の巫女、博麗 霊夢だった。本人は故意でなかったそうだが。
依姫は霊夢を連行して、身の潔白を証明するため利用した。噂の根源は玉兎にあったから、彼らの居住区に真犯人の顔を知らしめれてやれば後は時間が解決してくれる。
問題はむしろそのあと発生した。一通りの役目を果たした地上人は、帰してくれと泣きつくどころか、ろくでもないワガママを言い出したのだ。向かいの席に大人しく座り直しながらも、霊夢は昨夜の話を蒸し返す。
「だって約束したじゃん、月の都を案内してくれるって。幻想郷に帰る事が罰で、昨日までのあれはれっきとしたお仕事なんでしょ。だったら報酬を貰わなきゃ嘘だわ」
「わかった、わかりましたから。でも牛車から頭を出すのはよして頂戴」
「牛車?乗るとき牛なんていたかしら」
「内蔵式なのですよ」
再び窓から乗り出そうとする霊夢を押さえつけながら、依姫はうんざりと返事をする。不覚は自分にあった。老獪な大妖怪の手ほどきを受けていただけあって、少女は存外に口が達者だったのだ。本来ならこういう手合いは姉の得意分野なのだが、彼女は月―地上間の開通記録の提出を迫られていて忙しい。かといって地上人の案内を兎に任せるのはあまりに心許なかった。
結局、頼れるのは己の身ばかりという事だ。膝に手を置かせて、今度こそ霊夢を行儀よく座らせる。ついでに折れ曲がったリボンや襟元を正してやりながら、くすぐったがる少女に依姫は言い聞かせた。
「もうすぐ繁華街に到着しますから。桃の串焼きでもソテーでも活造りでも何でも御馳走しますから。ね?」
「……桃しかないのってつっこみたかったけど、最後のやつにはもの凄く興味あるわ」
「そのあとは都立八意博物館と旧八意実験場公園と月都えーりんランドをご案内しますわ」
「なんであんたがちょっと嬉しそうなのさ」
「私も幼い時分はあそこで遊んだものでした」
「大丈夫か月の民」
そのあと暫くは、巫女も大人しく通り過ぎる景色を目で追って楽しんでいた。まだ都心も近くないにも関わらず、建物を指さしては依姫に解説を求めて、意外と熱心に聞いていると思えばすぐに次の"何あれ?"が飛んでくる。上空にぽっかり浮かぶ青い星を仰いだ時は、さすがに声もなく驚愕していたが。それがおかしくて笑ってしまう自身を、依姫はすぐに戒めた。
一息つき、身をよじって席に座り直す。霊夢はもう既に腰を浮つかせていたが、指摘はしなかった。その代わり、静かな牛車の中にふと呟きがこぼれる。
「……あなたを見ていると、思い出します」
「あ?」
あんぐり開けた口をそのままに、霊夢が振り向いて聞き返してきた。それでもあくまで独白のつもりで、依姫は続ける。
「昔、地上から月の都に迷い込んできた男がいたのです。彼は自分が遭難した事なんてまるで気にせず、都の色々なものに興味を示してはしゃいでいました。ちょうど、あなたみたいに」
「誰みたいにって?」
自覚がないらしい。首を傾げる霊夢から顔を隠すようにわずかに俯きながら、
「結局色々あって、彼は地上に帰してしまったけれど。そうね、もう千五百年くらい前になるんだわ」
「せっ……よくそんな昔のこと覚えてるわね。なに、その男に気でもあったって話?」
「……違うの」
独り言のはずが答えてしまった……誰に話すような事でもないというのに。今更ながら急に罪悪感が胸をひしめき、視界が青白く冷めていく。しかし小さく潜もりながらも、声は吐息のように自然と零れた。
「私は忘れていたの。彼を覚えていたのは……」
と。依姫が顔を上げると、向かいの座席に霊夢の姿はなかった。
慌てて振り向くと少女は案の定、走る牛車から半身を乗り出して外界に目を凝らしていた……だけならまだ良かったのだが。スカートの裾が落ちて露わになった足が、窓枠に引っ掛けられている。なんとはなしに、昔飼っていたペットが柵を越えて逃げていったのを思い出して。
依姫は咄嗟に霊夢の衣装の袖を掴んでいた。
が、するりと腕が抜けて。制止の声を上げる間もなく、また何を言い残す事もなく少女は景色の一部になって空へと舞い上がっていく。風船を取り損ねた子供よろしく、窓から頭を覗かせて(この時ばかりは無作法を忘れていた)しばらく呆然と眺めていた依姫だったが。
「……止めなさい!引き返して!」
瞬間的に沸騰した激昂に任せて、つい御者へ向けて怒鳴ってしまう。
牛車が急停止して座席が大きく揺れると、依姫は近くの壁に拳をついて身体を支えた。手の甲を痛めながらようやく気付く。握った掌の中には、巫女の衣装の袖がまだ残っていた。
<つづく>
後編も期待しています。
期待してます
>月都えーりんランド
ミッフィーラビットとかいるんだろうなぁ。
続きを楽しみにしておりますよ
そして妹なのにお姉さんっぽいよっちゃんがたまらん。
>姉に勝る妹はいないって事例をはじめて見た
つまりフランやメルランやリリカや穣子やこいしや夢月は
姉よりも“大きい”ということっ……!
続きが楽しみです
キャリアウーマンな依姫様が素敵
>旧八意実験場公園
立ち入り禁止区画の多そうな公園だ
依霊待ってました! 書いてくれる人を待ってましたとも!
ここまでだと良作SSだけど、これからどう依霊SSにもってくか、続き楽しみにしています。