「もっと活動範囲を広げるべきなのよ、私たちは」
始まりはリリカの提案だった。
個々での演奏をどれだけこなしても、楽団として活動しなければ団として何の意味もない。ならば押し掛けでもいいから出張演奏を行い、自分たちの存在を確かなものにしていこう――彼女の言葉にメルランは二つ返事で賛同し、ルナサも一理ありと見て首を縦に振った。その裏でリリカはライブの開催による収入やら売名やらを目論んでいたのだが、二人の姉はその事に気づかないので三人の関係は安泰のままであった。
かくして積極的な音楽活動をしようと心に決めたプリズムリバーの初仕事は、白玉楼での宴会芸に飛び入りする事だった。積極的とはいえ無謀極まりない行為であるが、そこでの演奏が宴の主宰である幽霊に気に入られ、やがて彼女たちは宴会芸の常連メンバーとして定着した。
そこから彼女たちの活動は徐々にその場を広げていった。
ある時は吸血鬼の館で演奏を行い、ある時は魔法の森や人間の里で野外ライブを行った。伝統的に余所者の進入を拒む妖怪の山にも『特例』として招待され、数多の妖怪を熱狂させた事もあった。聴衆の熱狂こそが彼女たちにとって最高の報酬であり、普段はテンションの低いルナサも、邪な気持ちを持っていたリリカも、そして言うまでもなくメルランもこの成功に酔いしれ、いつしか幻想郷一有名な楽団としてプリズムリバーの名は人妖を問わず広く知れ渡っていた。
そして今宵、彼女たちは深い竹林の奥にある屋敷に招かれていた。
ステージを設え、永遠亭や竹林の住人を聴衆として招くには永遠亭の建物といえども些か狭かった。やむなく屋敷の庭を特設野外ステージに仕立て上げ、それでも庭は妖怪と妖精で埋め尽くされすし詰めという有様だ。楽団冥利に尽きるというものだろう。
「みんなー! 私たちのライブに来てくれてありがとー!」
ステージの中央でメルランが威勢よく声を張り上げる。元気な声に呼応して歓声が巻き起こり、会場の熱を一気に上げていく。
メルランの挨拶でライブの幕を上げるのが三姉妹のお約束となっていた。三人の中で一番目立ち、性格も明るい彼女にはうってつけというわけだ。その両脇でルナサとリリカは楽器の機嫌を確認し、演奏のイメージを頭の中で固めていく。
いつも通り、何も問題ない。
竹の葉擦れの音は演奏と歓声で全て飲み込んでしまえる。
聴衆を前にしての緊張なら何度も経験し、もはや演奏を妨げる障害と呼べるほどではない。
――メルラン、リリカ、行くよ。
ルナサから二人の妹へ目配せが走り、姉妹の周辺のみ空気が徐々に張りつめていく。
集中に集中を重ね、竹林を震わす大歓声も彼女たちにとっては雑音を遮る心地よいベールへと変貌していく。
しかし、それでも笑顔と余裕は忘れない。
「今夜も最後まで帰さないから、みんなついて来てねー!」
再び、メルランの声に応じて聴衆のテンションが上がる。
プリズムリバー、永遠亭ライブの幕が今上がった。
* * * * *
この日もライブは大盛況だった。
メルランはご機嫌な躁の音で観客席のあちこちで弾幕ごっこを誘発し、そのたびにルナサの鬱の音で弾幕ごっこの仲裁に入る。
リリカは二人の姉の音のやり取りを見て、二十手三十手先を読み音と音の仲裁に入る。
素人耳には、三人の演奏は楽譜に忠実に従ったものにしか聴こえないであろう。だが彼女たちの演奏における複雑怪奇で高度な駆け引きは、最前列の客にさえ分からぬ物なのであった。
すぐ近くで先程までライブが行われていたとは思えない、まるで幻想郷から切り離されたような清閑な部屋にルナサは通されていた。
ライブ終了後、帰り支度をしていた三人の元に永遠亭の主が訪れルナサを指名したのだ。メルランはありがたいお話が聞けるのかもと語り、リリカはどうせならありがたいお宝の方がいいと茶化していたが、ルナサはそのどちらも正解であり間違いであるように感じていた。
話があるのなら、報酬があるのなら、三人が揃っている時に用を済ませればいいではないか。なのに彼女一人を指名するには何らかの理由があるのかも知れないが、思い当たる節はない。貴人の考える事は理解し難いなとため息をつき、ルナサは慣れない正座で膝を折っていた。
「演奏お疲れ様でした。噂には聞いてたけど凄い盛り上がりだったわね」
濡れ烏の髪の少女がルナサに微笑んだ。
こちらもまた、静かな畳の間と釣り合いのとれた優美な佇まいでルナサと相対して座っている。ルナサとは対照的に正座の姿が牡丹のごとく映えるこの少女こそ永遠亭の主、輝夜だった。
「イナバ達ったら興奮しっ放しで大変よ。熱気を抜くには一晩中かかりそうなくらい」
「……も、申し訳ない事を」
「いいのいいの。あの子達が望んであなた達の演奏を聴きに来たんだし、興奮してるって言ってもそんなに殺伐とはしてないわよ」
「はぁ」
「むしろ、演奏だけであそこまで心を揺さぶるあなた達の力量こそ評価されるべきだと思うわ」
「ど、どうも……」
再び、微笑がルナサに向けられる。
演奏を素直に楽しんでもらえたのならこの言葉だけでも立派な報酬といえる。リリカあたりが渋い顔をするだろうが、ルナサにとってはこれだけでも充分であった。
「さあさあ、冷めてしまわないうちにどうぞ」
目の前に差し出された茶を勧められ、程よい熱さの茶を一口二口啜る。
……何かが違う。
形容しがたい違和感を感じ、ルナサは眉をひそめた。
「あの、これは……」
「うふっ、慣れない方にはちょっとお口に合わないかもねえ」
苦い。とにかく苦い。
緑茶を飲む機会が少ないルナサでもこれは違うとすぐに分かり、口に含んだ分だけをどうにか飲み下し慌てて湯呑を置いた。
茶の渋味とはまた違う。かといって珈琲のような鋭い酸味と苦味でもない。口の中にわだかまり、そこらを刺し貫き染み入るような重く熱い苦味、そして痺れ。例えるならそれは、急速に体を蝕むような……輝夜の微笑がいっそ不気味に見えてくる。
「これ、見た事あるかしら」
後ろに隠し持っていたのであろう、輝夜はいつの間にか草束を手に取っており、ルナサに見えるようかざした。
青紫色の花弁に星型の葉。その優美な姿に、幸か不幸かルナサは見覚えがあった。騒霊として顕現する前、すなわち人間ルナサ・プリズムリバーだった頃、植物図鑑だか何かの本で全く同じ草を見た事があったのだ。世の中にはこんなに恐ろしい植物があるのかと、妹たちと共に震えていたあの時の記憶が甦る。
「……トリカブト」
「ご名答、知ってるのなら話は早いわね。これの根を削った物をほんの少しだけお茶に……」
「うぷっ……ぇぇっ……!」
目の前にあるのが世にも恐ろしい毒草であると認識し、それがこの茶に盛られていると確信した瞬間、ルナサは顔を引きつらせ背を小さく丸めていた。
吐かなければ死ぬ。
吐かなければ死ぬ。
吐かなければ死ぬ。
吐けば助かるかも。
吐けば助かるかも。
吐けば助かるかも。
吐いても手遅れかも。
吐いても手遅れかも。
吐いても手遅れかも。
吐かなければ、吐けば、吐いても。
吐かなければ、吐けば、吐いても。
吐かなければ、吐けば、吐いても。
人間の頃に得た恐怖とたった今得た絶望が、彼女の中で無限の二重螺旋を描いていく。
この姫はなぜ毒など盛ったのか、自分は何か不手際でもしたのか。そんな事を考えている余裕など全くなかった。
「大丈夫、こんな物で死にはしないわ」
「……え?」
「だってあなた、生きてさえいないんだし」
……
「あっ」
「霊をも殺せる毒なんて、ウチの天才にも作れないんじゃないかしらね」
「……!」
そういえばそうだった。自分は霊体、毒などで死ぬ(消える)筈などあるわけがないではないか。
自分の在り方を改めて認識させられると途端に口腔を蹂躙していた苦味が消え、同時に体のあちこちから熱が湧き上がる。自身の在り様をすっかり手玉に取られた事への恥ずかしさの現れであり、輝夜の涼しげな笑みが追い打ちをかけるようにルナサの体を灼いていく。顔から火が出るどころか、この屋敷を竹林ごと灰に返し屋敷に棲む兎達をウェルダンにしてしまえそうな勢いである。ルナサは体の熱を堪え、輝夜から逃げるように視線を伏せてしまった。
「毒を盛った事は謝るわ。あなたは騙されやすい子だって聞いてたから、ちょっと試したくなったの」
「はぁ……ていうか本当に本物を盛ったんですか」
「偽薬を使って口先三寸でもよかったんだけど、幸いな事にトリカブトはウチで栽培しているものだから安上がりな方で」
さらりと恐ろしい事を言ってのける輝夜がルナサは恐ろしかった。
「……そう、あなたはこんな物では死なない」
不意に、輝夜の笑顔が引き締まった。
しかめっ面というほどではないし威圧感もないが、たった今までの茶化した雰囲気は既にない。彼女に一杯食わされたと知り安堵に浸っていたのも束の間、ルナサは今一度張りつめた空気に晒され自然と背筋を正していた。
「あなたは知ってるかしら? 私もあなた達と同じ、死なない存在だってこと」
「え?」
「ここだけの話ね、私も死なないの。もっとも、あなた達とは違って死そのものがないわけじゃない。死ぬけど死ねない、殺せないの。ついでに寿命も遠い昔に捨ててきちゃったわ。だからこのお茶を飲んだりなんかしたら、さんざん苦しみ悶えた末に倒れるけどいつの間にか起き上がってるという寸法よ。自分でその様子を眺められないのが惜しいけどね」
にわかに信じがたい事を輝夜はさらりと言ってのける。
だが、輝夜は茶に口を一切つけていなかった。ルナサが一口啜るのを眺めて楽しんでいたに過ぎない。
ならば彼女の話は真実なのか?
自分の茶には毒など盛っておらず、不死というのも実はハッタリなのではないのか?
飲めと言われれば目の前の……毒入りの茶であっても飲むというのか?
ようやく思考力も元に戻り、ルナサの中で早速疑念が湧き上がる。
「私が本当に死ねないかどうか……気になるんでしょう?」
「……!」
「飲めと言われれば私は飲むわ。あなたが口をつけた方のお茶を」
「え、いや別に、そこまで……」
「そう? それはありがたいわね、私としてもお客様の前で醜い姿は晒したくないし」
「はぁ……」
まるで心を読まれていたかのようなタイミングで釘を刺され、ルナサの思考は乱されてしまう。だが、輝夜の言葉は自身の真実を裏付ける物であった。
死んでも甦るというのであれば好奇心で見てみたい気もするが、だからといってそれを強要するほどルナサに残酷趣味はないし、輝夜本人も毒を仰ぐ事をやんわりと拒んでいる。ならばこの件にはこれ以上触れるべきではないのだ。
奇妙な安心感を覚え、ルナサは背筋をほんの少しだけ丸くした。
「死ねないあなたと、殺せない私……ふふ、似てると言えば似てるわよね」
遠い目をして輝夜が呟く。自嘲か諦観にも似た、儚い笑顔と共に。
「あなたは幽霊みたいなものなんでしょう? いつかは成仏とかしたりするのかしら」
「いつ成仏してもおかしくないんですよ、実は。私達の拠り所は既に朽ちてますし」
「でも、明日になったらいきなり消えてるとかそんな事はないわよね?」
「さぁ……こればかりは消えてしまう際になってみないと」
「……この先幻想郷はどうなるか、あなた想像した事はある?」
「どう、って?」
「考えてもみなさい。一年、十年、百年、千年……いえ、もっともっとそれ以上。人間はおろか妖怪でさえ生きてはいられないでしょう。私のような者を除いて、ね。もちろん、人間も妖怪も時と営みによって新たな命が生まれてくるけど、遅かれ早かれ必ず死ぬ。私と知り合う者は多く現れても、私の事を深く知り得る者などそれこそ私の十指を超えるかどうか……」
「……」
「もう一度訊くわ。あなたは、明日になったらいきなり消えてるなんて事はないわよね?」
輝夜は少しずつルナサに近づいていたらしい。気がつけば、互いに腕を伸ばせば手を取り合える程度の距離まで輝夜はにじり寄っていた。
儚げな笑顔は徐々に神妙な面持ちに変わっていき、声の調子も華やかさを潜め静かな力強さが顔を覗かせる。こんな大きな屋敷の姫様が、たかが騒霊一匹の何を愁い何を思っているというのか。相変わらず貴人の考えている事にはついていけず、輝夜の質問に明確な回答を用意できず、しかし輝夜につられてルナサも眉をしかめまじまじと輝夜を見つめていた。
「私と対等に付き合っていける者がね、この幻想郷には二人いるの。一人は私の事を心の底から慕ってくれいて、私もとても信頼してる。この屋敷の永琳よ」
そういえば銀髪の女性が輝夜に付き従っていたのをルナサは思い出した。永琳というのは彼女の事なのだろう。
「もう一人は私の事を心の底から憎んでいて……私と心が通じ合ってる」
「え、あなたの事を憎んでいるのに?」
「だからこそ、よ。そいつは千年もの間憎しみを絶やさず、律義に会いに来ては私と戦りあってるの。そしてこれからもずっと……私を忘れた事なんてただの一日もないでしょうね。疎遠になるよりよっぽど素敵な間柄だと思わない?」
和解せず喧嘩を続けている関係がいい物だとはルナサには到底理解できない。
だが、ルナサの反論を待たず輝夜はさらに言葉を続ける。
「そこであなたよ。あなたさえ良ければ……あ、いえ、たまに演奏をしに来てくれる程度でもいいの。この先も『末永く』お願いしたいの」
「定期演奏の契約、という事でしょうか」
「そんな堅っ苦しいものじゃないわ。もっとこう……そう、お友達よ、お友達。虫のよすぎるお願いかも知れないけど……」
「お友達……」
恥ずかしそうに声を潜める輝夜を見て、ルナサはようやく理解した。
この言葉こそが輝夜の真実だったに違いない。彼女の事情はルナサには図り難いが、対等の存在が従者と宿敵だけならば確かに両極端であり、そして毒を盛るなどという不可解な行為にもなるほど納得がいく。手段にこそ問題があったが、彼女の意図は実に純粋な物だったのだ。不死の貴人といえども人外の化物などでは決して、ない。
それを理解するや否や、ルナサの表情がふっと和らぐ。
「私の演奏は……少しばかり昏いですよ? それでもよろしければ」
「……! ありがとう……」
ルナサの手に、輝夜の両手がそっと添えられた。
白く細い指は白魚と例えるに相応しく、そして温かく、彼女の気品が表れているようでもある。
これで千年も戦い続けているなど、作り話なのではないかと思うほどだ。
「お礼と言ってはアレだけど、今度は『本物の』お茶を御馳走させていただくわ」
「ええ、ありがたく」
「妹さん達には内緒にね」
輝夜の微笑みが、今では優美というよりとても温かく、柔らかいもののように思えた。
――彼女の為に、私はまだ演奏を続ける事ができる。
始まりはリリカの提案だった。
個々での演奏をどれだけこなしても、楽団として活動しなければ団として何の意味もない。ならば押し掛けでもいいから出張演奏を行い、自分たちの存在を確かなものにしていこう――彼女の言葉にメルランは二つ返事で賛同し、ルナサも一理ありと見て首を縦に振った。その裏でリリカはライブの開催による収入やら売名やらを目論んでいたのだが、二人の姉はその事に気づかないので三人の関係は安泰のままであった。
かくして積極的な音楽活動をしようと心に決めたプリズムリバーの初仕事は、白玉楼での宴会芸に飛び入りする事だった。積極的とはいえ無謀極まりない行為であるが、そこでの演奏が宴の主宰である幽霊に気に入られ、やがて彼女たちは宴会芸の常連メンバーとして定着した。
そこから彼女たちの活動は徐々にその場を広げていった。
ある時は吸血鬼の館で演奏を行い、ある時は魔法の森や人間の里で野外ライブを行った。伝統的に余所者の進入を拒む妖怪の山にも『特例』として招待され、数多の妖怪を熱狂させた事もあった。聴衆の熱狂こそが彼女たちにとって最高の報酬であり、普段はテンションの低いルナサも、邪な気持ちを持っていたリリカも、そして言うまでもなくメルランもこの成功に酔いしれ、いつしか幻想郷一有名な楽団としてプリズムリバーの名は人妖を問わず広く知れ渡っていた。
そして今宵、彼女たちは深い竹林の奥にある屋敷に招かれていた。
ステージを設え、永遠亭や竹林の住人を聴衆として招くには永遠亭の建物といえども些か狭かった。やむなく屋敷の庭を特設野外ステージに仕立て上げ、それでも庭は妖怪と妖精で埋め尽くされすし詰めという有様だ。楽団冥利に尽きるというものだろう。
「みんなー! 私たちのライブに来てくれてありがとー!」
ステージの中央でメルランが威勢よく声を張り上げる。元気な声に呼応して歓声が巻き起こり、会場の熱を一気に上げていく。
メルランの挨拶でライブの幕を上げるのが三姉妹のお約束となっていた。三人の中で一番目立ち、性格も明るい彼女にはうってつけというわけだ。その両脇でルナサとリリカは楽器の機嫌を確認し、演奏のイメージを頭の中で固めていく。
いつも通り、何も問題ない。
竹の葉擦れの音は演奏と歓声で全て飲み込んでしまえる。
聴衆を前にしての緊張なら何度も経験し、もはや演奏を妨げる障害と呼べるほどではない。
――メルラン、リリカ、行くよ。
ルナサから二人の妹へ目配せが走り、姉妹の周辺のみ空気が徐々に張りつめていく。
集中に集中を重ね、竹林を震わす大歓声も彼女たちにとっては雑音を遮る心地よいベールへと変貌していく。
しかし、それでも笑顔と余裕は忘れない。
「今夜も最後まで帰さないから、みんなついて来てねー!」
再び、メルランの声に応じて聴衆のテンションが上がる。
プリズムリバー、永遠亭ライブの幕が今上がった。
* * * * *
この日もライブは大盛況だった。
メルランはご機嫌な躁の音で観客席のあちこちで弾幕ごっこを誘発し、そのたびにルナサの鬱の音で弾幕ごっこの仲裁に入る。
リリカは二人の姉の音のやり取りを見て、二十手三十手先を読み音と音の仲裁に入る。
素人耳には、三人の演奏は楽譜に忠実に従ったものにしか聴こえないであろう。だが彼女たちの演奏における複雑怪奇で高度な駆け引きは、最前列の客にさえ分からぬ物なのであった。
すぐ近くで先程までライブが行われていたとは思えない、まるで幻想郷から切り離されたような清閑な部屋にルナサは通されていた。
ライブ終了後、帰り支度をしていた三人の元に永遠亭の主が訪れルナサを指名したのだ。メルランはありがたいお話が聞けるのかもと語り、リリカはどうせならありがたいお宝の方がいいと茶化していたが、ルナサはそのどちらも正解であり間違いであるように感じていた。
話があるのなら、報酬があるのなら、三人が揃っている時に用を済ませればいいではないか。なのに彼女一人を指名するには何らかの理由があるのかも知れないが、思い当たる節はない。貴人の考える事は理解し難いなとため息をつき、ルナサは慣れない正座で膝を折っていた。
「演奏お疲れ様でした。噂には聞いてたけど凄い盛り上がりだったわね」
濡れ烏の髪の少女がルナサに微笑んだ。
こちらもまた、静かな畳の間と釣り合いのとれた優美な佇まいでルナサと相対して座っている。ルナサとは対照的に正座の姿が牡丹のごとく映えるこの少女こそ永遠亭の主、輝夜だった。
「イナバ達ったら興奮しっ放しで大変よ。熱気を抜くには一晩中かかりそうなくらい」
「……も、申し訳ない事を」
「いいのいいの。あの子達が望んであなた達の演奏を聴きに来たんだし、興奮してるって言ってもそんなに殺伐とはしてないわよ」
「はぁ」
「むしろ、演奏だけであそこまで心を揺さぶるあなた達の力量こそ評価されるべきだと思うわ」
「ど、どうも……」
再び、微笑がルナサに向けられる。
演奏を素直に楽しんでもらえたのならこの言葉だけでも立派な報酬といえる。リリカあたりが渋い顔をするだろうが、ルナサにとってはこれだけでも充分であった。
「さあさあ、冷めてしまわないうちにどうぞ」
目の前に差し出された茶を勧められ、程よい熱さの茶を一口二口啜る。
……何かが違う。
形容しがたい違和感を感じ、ルナサは眉をひそめた。
「あの、これは……」
「うふっ、慣れない方にはちょっとお口に合わないかもねえ」
苦い。とにかく苦い。
緑茶を飲む機会が少ないルナサでもこれは違うとすぐに分かり、口に含んだ分だけをどうにか飲み下し慌てて湯呑を置いた。
茶の渋味とはまた違う。かといって珈琲のような鋭い酸味と苦味でもない。口の中にわだかまり、そこらを刺し貫き染み入るような重く熱い苦味、そして痺れ。例えるならそれは、急速に体を蝕むような……輝夜の微笑がいっそ不気味に見えてくる。
「これ、見た事あるかしら」
後ろに隠し持っていたのであろう、輝夜はいつの間にか草束を手に取っており、ルナサに見えるようかざした。
青紫色の花弁に星型の葉。その優美な姿に、幸か不幸かルナサは見覚えがあった。騒霊として顕現する前、すなわち人間ルナサ・プリズムリバーだった頃、植物図鑑だか何かの本で全く同じ草を見た事があったのだ。世の中にはこんなに恐ろしい植物があるのかと、妹たちと共に震えていたあの時の記憶が甦る。
「……トリカブト」
「ご名答、知ってるのなら話は早いわね。これの根を削った物をほんの少しだけお茶に……」
「うぷっ……ぇぇっ……!」
目の前にあるのが世にも恐ろしい毒草であると認識し、それがこの茶に盛られていると確信した瞬間、ルナサは顔を引きつらせ背を小さく丸めていた。
吐かなければ死ぬ。
吐かなければ死ぬ。
吐かなければ死ぬ。
吐けば助かるかも。
吐けば助かるかも。
吐けば助かるかも。
吐いても手遅れかも。
吐いても手遅れかも。
吐いても手遅れかも。
吐かなければ、吐けば、吐いても。
吐かなければ、吐けば、吐いても。
吐かなければ、吐けば、吐いても。
人間の頃に得た恐怖とたった今得た絶望が、彼女の中で無限の二重螺旋を描いていく。
この姫はなぜ毒など盛ったのか、自分は何か不手際でもしたのか。そんな事を考えている余裕など全くなかった。
「大丈夫、こんな物で死にはしないわ」
「……え?」
「だってあなた、生きてさえいないんだし」
……
「あっ」
「霊をも殺せる毒なんて、ウチの天才にも作れないんじゃないかしらね」
「……!」
そういえばそうだった。自分は霊体、毒などで死ぬ(消える)筈などあるわけがないではないか。
自分の在り方を改めて認識させられると途端に口腔を蹂躙していた苦味が消え、同時に体のあちこちから熱が湧き上がる。自身の在り様をすっかり手玉に取られた事への恥ずかしさの現れであり、輝夜の涼しげな笑みが追い打ちをかけるようにルナサの体を灼いていく。顔から火が出るどころか、この屋敷を竹林ごと灰に返し屋敷に棲む兎達をウェルダンにしてしまえそうな勢いである。ルナサは体の熱を堪え、輝夜から逃げるように視線を伏せてしまった。
「毒を盛った事は謝るわ。あなたは騙されやすい子だって聞いてたから、ちょっと試したくなったの」
「はぁ……ていうか本当に本物を盛ったんですか」
「偽薬を使って口先三寸でもよかったんだけど、幸いな事にトリカブトはウチで栽培しているものだから安上がりな方で」
さらりと恐ろしい事を言ってのける輝夜がルナサは恐ろしかった。
「……そう、あなたはこんな物では死なない」
不意に、輝夜の笑顔が引き締まった。
しかめっ面というほどではないし威圧感もないが、たった今までの茶化した雰囲気は既にない。彼女に一杯食わされたと知り安堵に浸っていたのも束の間、ルナサは今一度張りつめた空気に晒され自然と背筋を正していた。
「あなたは知ってるかしら? 私もあなた達と同じ、死なない存在だってこと」
「え?」
「ここだけの話ね、私も死なないの。もっとも、あなた達とは違って死そのものがないわけじゃない。死ぬけど死ねない、殺せないの。ついでに寿命も遠い昔に捨ててきちゃったわ。だからこのお茶を飲んだりなんかしたら、さんざん苦しみ悶えた末に倒れるけどいつの間にか起き上がってるという寸法よ。自分でその様子を眺められないのが惜しいけどね」
にわかに信じがたい事を輝夜はさらりと言ってのける。
だが、輝夜は茶に口を一切つけていなかった。ルナサが一口啜るのを眺めて楽しんでいたに過ぎない。
ならば彼女の話は真実なのか?
自分の茶には毒など盛っておらず、不死というのも実はハッタリなのではないのか?
飲めと言われれば目の前の……毒入りの茶であっても飲むというのか?
ようやく思考力も元に戻り、ルナサの中で早速疑念が湧き上がる。
「私が本当に死ねないかどうか……気になるんでしょう?」
「……!」
「飲めと言われれば私は飲むわ。あなたが口をつけた方のお茶を」
「え、いや別に、そこまで……」
「そう? それはありがたいわね、私としてもお客様の前で醜い姿は晒したくないし」
「はぁ……」
まるで心を読まれていたかのようなタイミングで釘を刺され、ルナサの思考は乱されてしまう。だが、輝夜の言葉は自身の真実を裏付ける物であった。
死んでも甦るというのであれば好奇心で見てみたい気もするが、だからといってそれを強要するほどルナサに残酷趣味はないし、輝夜本人も毒を仰ぐ事をやんわりと拒んでいる。ならばこの件にはこれ以上触れるべきではないのだ。
奇妙な安心感を覚え、ルナサは背筋をほんの少しだけ丸くした。
「死ねないあなたと、殺せない私……ふふ、似てると言えば似てるわよね」
遠い目をして輝夜が呟く。自嘲か諦観にも似た、儚い笑顔と共に。
「あなたは幽霊みたいなものなんでしょう? いつかは成仏とかしたりするのかしら」
「いつ成仏してもおかしくないんですよ、実は。私達の拠り所は既に朽ちてますし」
「でも、明日になったらいきなり消えてるとかそんな事はないわよね?」
「さぁ……こればかりは消えてしまう際になってみないと」
「……この先幻想郷はどうなるか、あなた想像した事はある?」
「どう、って?」
「考えてもみなさい。一年、十年、百年、千年……いえ、もっともっとそれ以上。人間はおろか妖怪でさえ生きてはいられないでしょう。私のような者を除いて、ね。もちろん、人間も妖怪も時と営みによって新たな命が生まれてくるけど、遅かれ早かれ必ず死ぬ。私と知り合う者は多く現れても、私の事を深く知り得る者などそれこそ私の十指を超えるかどうか……」
「……」
「もう一度訊くわ。あなたは、明日になったらいきなり消えてるなんて事はないわよね?」
輝夜は少しずつルナサに近づいていたらしい。気がつけば、互いに腕を伸ばせば手を取り合える程度の距離まで輝夜はにじり寄っていた。
儚げな笑顔は徐々に神妙な面持ちに変わっていき、声の調子も華やかさを潜め静かな力強さが顔を覗かせる。こんな大きな屋敷の姫様が、たかが騒霊一匹の何を愁い何を思っているというのか。相変わらず貴人の考えている事にはついていけず、輝夜の質問に明確な回答を用意できず、しかし輝夜につられてルナサも眉をしかめまじまじと輝夜を見つめていた。
「私と対等に付き合っていける者がね、この幻想郷には二人いるの。一人は私の事を心の底から慕ってくれいて、私もとても信頼してる。この屋敷の永琳よ」
そういえば銀髪の女性が輝夜に付き従っていたのをルナサは思い出した。永琳というのは彼女の事なのだろう。
「もう一人は私の事を心の底から憎んでいて……私と心が通じ合ってる」
「え、あなたの事を憎んでいるのに?」
「だからこそ、よ。そいつは千年もの間憎しみを絶やさず、律義に会いに来ては私と戦りあってるの。そしてこれからもずっと……私を忘れた事なんてただの一日もないでしょうね。疎遠になるよりよっぽど素敵な間柄だと思わない?」
和解せず喧嘩を続けている関係がいい物だとはルナサには到底理解できない。
だが、ルナサの反論を待たず輝夜はさらに言葉を続ける。
「そこであなたよ。あなたさえ良ければ……あ、いえ、たまに演奏をしに来てくれる程度でもいいの。この先も『末永く』お願いしたいの」
「定期演奏の契約、という事でしょうか」
「そんな堅っ苦しいものじゃないわ。もっとこう……そう、お友達よ、お友達。虫のよすぎるお願いかも知れないけど……」
「お友達……」
恥ずかしそうに声を潜める輝夜を見て、ルナサはようやく理解した。
この言葉こそが輝夜の真実だったに違いない。彼女の事情はルナサには図り難いが、対等の存在が従者と宿敵だけならば確かに両極端であり、そして毒を盛るなどという不可解な行為にもなるほど納得がいく。手段にこそ問題があったが、彼女の意図は実に純粋な物だったのだ。不死の貴人といえども人外の化物などでは決して、ない。
それを理解するや否や、ルナサの表情がふっと和らぐ。
「私の演奏は……少しばかり昏いですよ? それでもよろしければ」
「……! ありがとう……」
ルナサの手に、輝夜の両手がそっと添えられた。
白く細い指は白魚と例えるに相応しく、そして温かく、彼女の気品が表れているようでもある。
これで千年も戦い続けているなど、作り話なのではないかと思うほどだ。
「お礼と言ってはアレだけど、今度は『本物の』お茶を御馳走させていただくわ」
「ええ、ありがたく」
「妹さん達には内緒にね」
輝夜の微笑みが、今では優美というよりとても温かく、柔らかいもののように思えた。
――彼女の為に、私はまだ演奏を続ける事ができる。
輝夜視点の話も読んでみたい。ごっつぁんでした、ことよろ
月と月か三月精のルナも絡めれそうですね。
次に期待!!
癖になりそうw
いやでも話自体の雰囲気も良かったです。
蓬莱人は“長く付き合える相手”を求めるのですねぇ。