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「あっ、一番星だ!」
ふと見上げた夕方の空に、覚束なく輝く星を見て、メディスン・メランコリーは声を上げた。
太陽は山の稜線に顔を隠しつつある。今日も鈴蘭と戯れているうちに、彼女の一日は終わった。
やっと一番星を見ることが出来た、と、彼女は天上に一つだけ輝くそれを見上げて感慨に耽る。
平生、彼女が空を見る頃には、既に数多の星が光り輝いているのである。
一番星を見てみたい、という思いは常々彼女の心の中にあった。
けれど、それよりも鈴蘭と一緒にいることに夢中になって、すっかり忘れてしまうのだった。
何せ、星と違って、鈴蘭はいつもメディスンの傍にいてくれるわけではないのだから。
満天の星もいいけど、こうして一番星をじっと眺めるのでも、メディスンは幸せな気分になれた。
光と闇の合間、橙色と藍色が混在する、神秘的な空に浮かぶ一抹の光輝。
幻想的なその光景に、暫く彼女は心奪われた。
ぽつり、ぽつりと、星が一つ、また一つと増えてくる。
辺りは暗くなって、月の周りをおぼろげな白光が包む。
心許ない月光が、無名の丘を照らし出す。メディスンはその場で、仰向けになって倒れこんだ。
くしゃり、と音がして、この場に咲き誇る幾多の鈴蘭が、彼女の体躯を支える。
こうして、鈴蘭のベッドに寝転ぶのが、彼女の一番の至福の瞬間だった。
鈴蘭の甘い香りに包まれ、鈴蘭たちを一番間近で感じ取れることの出来る場所。
鈴蘭の毒によって生まれた彼女にとって、それは言わば、母のような温もりで、幸福と同時に安心感も覚える。
「……今夜は星が一杯だね、スーさん」
その温かさに眠気を誘われ、まどろんだ声でメディスンが呟いた。
今日は雲ひとつ無い、清澄を湛えた空であった。空の至るところ全てに、星が瞬いている。
数えても、一晩じゃあ数え切れないくらいの星に、メディスンは微笑む。
「空にたくさんキラキラしてて……まるでスーさんみたい……」
小さくて、しかし負けじと輝いている、一面の鈴蘭、満天の星。
鈴蘭の芳香に抱かれて、無量の星に見守られて、彼女はゆっくりと目を閉じて、心地よい眠りの中へと沈んでいくのであった。
★
鈴蘭の時期が終わると、メディスンは決まって、鈴蘭と遊ぶ夢をよく見た。
彼女は余り、その夢を見るのが好きではなかった。
夢の中でそうして、鈴蘭と一緒にいる間はとても幸せだ。
けれど、目を覚ませば鈴蘭はおらず、ただ殺風景とした丘があるのみ。
スーさんがいない、という現実。それによって襲い掛かってくる寂しさは、格別に強く、メディスンの心を締め付けた。
だから、彼女は鈴蘭の夢を見るたびに、涙を流す。あらかじめ泣いて、悲しい気持ちになっておけば、目を覚ましたときに襲い来る寂寥の波も、幾分かは耐えられることが出来た。
鈴蘭が再び咲くまでの間、彼女は近辺を散策することによって時間を潰している。
丘に生えた野草や、近場の森に自生している植物に毒が無いか探しては、どういった効果を秘めているのか調べている。
発見した毒は、後々人間を襲うときに有効活用する魂胆だ。
散策とは言っても、決して遠出はしない。
外に出れば、自分よりも強い妖怪がいるのは知っているし、自分のいない間に、丘が荒らされると思えば、離れたくても離れることが出来なかった。
後は、丘を訪れた虫たちを追い掛け回したり、丘の土に巣食った蟻の列をしげしげと眺めていたり、空を見上げることで一日を過ごしていた。
背後からこっそり忍び寄ったはずなのに逃げていく虫たち。
自分の体の何倍もある虫の死骸を運んでいく強健たる蟻。
東から西へゆっくりと動いていく太陽。
メディスンは好奇心旺盛だから、それらを何度眺めても、飽きが来ることは無かった。
けれども、どこか物足りない。
楽しいけれど、やっぱりスーさんがいないと面白くない。メディスンはそう、鈴蘭に思いを馳せるのであった。
★
ふぅ、と、体にのしかかる疲労感に溜息を吐いて、メディスンは土の上に倒れこんだ。
とん、と音がして、硬質な丘の土壌が彼女の躯体を支える。丘に点々と生える草たちは、彼女のベッドにもなってくれない。
砂粒の角が、ちょっと痛いけれど、それももう慣れっこだ。
早く鈴蘭のいない一日が過ぎることを願って、普段ならメディスンは早々に目を瞑るのだが、今日はどうしても寝つきが悪かった。
今日は新種の毒を見つけたので、その興奮が未だ冷めてくれないようである。
思えば、星なんてめっきり見ることもなくなったなあ、と、夜空を見上げて彼女は思う。
雲に覆われても、星は依然として数多輝いていた。その星の輝きに、メディスンは安心感を覚える。
何故安心感を覚えたのか、そのときの彼女には分からなかった。
そしてそれは、鈴蘭の上に身を委ねたときの感情にも似ていた。
そういえば、とメディスンは思い出す。
前に、この星たちがスーさんと似ている、と言ったことがあった。
あのときは、ふと思い立ったことが口を衝いただけで、何の思慮も無しに言ったけれど、よく考えてみても、鈴蘭と星はよく似ていた。
小さくて、一輪、一個あるだけじゃ見落とされてしまう存在。
けれど、そんな儚き存在を互いに支えあっているかのように、それらは集まって、とても大きな一つの集合となっている。
それに、星の光の色は、スーさんの花と同じ、白色をしている――
「スー、さん?」
意図せずに、そんな言葉が漏れた。
星はスーさんと似ている。
というよりも、星はスーさんそのものじゃないのか。
だから、星空を見上げたとき、私はスーさんに対して抱いた安心感を、覚えたんじゃないのか。
遠い空の彼方で自分を俯瞰する星に、メディスンは鈴蘭の姿を重ねる。
「そっか――」
メディスンは、涙をこぼした。
「――スーさんはいつも、私のこと、見守ってくれてるんだね」
鈴蘭の芳香もなければ温もりも無い、閑寂の世界に、確かに彼女は鈴蘭の存在を感じた。
遥か遠く、手を伸ばしても届きはしない場所で、彼女に届く煌き。その光の温もりを、メディスンは捉え、空っぽの心が幸福に満ちていく。
潤んだ目尻をごしごしと拭って、もう一度彼女は空を見た。
どこまでも広がる闇空の上で、誇らしげに咲く輝きに、メディスンはまた明日も、これからも、頑張ろうと決意をする。
いつだって、鈴蘭と一緒だから。
鈴蘭が見守っているのなら、丘に独りぼっちでも、彼女はもう寂しくなんかなかった。
※
枯れたスーさんは、星になる。
勝手にメディスンが編み出したその結論は、彼女の大きな支えとなってくれた。
さすがに太陽の光の前では、星の輝きは見えなくなってしまうけど、その間にも星は輝いている。そう思うと、極光に負けじと光るそれらをついつい応援したくなった。
そして、空を支配していた太陽が一休みしだす頃を見計らって、メディスンは空を仰視する。
まだか、まだかと空を見つめて、不意に浮かび上がる一番星に表情を明るくさせた。
広い広い空に、独りだけぽつんと光る一番星。
それに呼応するように、次々と空に現れる二番星、三番星……気づけば一番星の周りには、何千何万もの星が瞬いている。
それはメディスンに、どんなときでも決して一人ではないと、鈴蘭が彼女にメッセージを送っているかのようだった。
でもやはり、すぐ傍に鈴蘭がいない、というのは、些か寂しいものがあった。
けれど、そんなちょっとした寂しさも、もう少しすればひとまずの終わりを迎える。
メディスンは星たちを迎え入れるかの如く、両手を空に差し出して、柔く微笑んだ。
「もうすぐ会えるね、スーさん」
寂として声なき空間に、そっと甘い声が駆け巡っていく。
メディスンの頭上の星たちが、彼女の元へ降りていくその時はそう遠くは無い。
――今、彼女に再会せんと、一陣の流れ星が空を過ぎっていった。