ぐらぐらと湯の煮え滾る音が耳朶を顫わす――これは新手の追儺であろうか。
伊吹萃香の眼前には地獄の大釜がぽっかりと顎門を拡げ、今まさに一匹の小鬼を銜え込もうとして虎視眈眈と目を光らせている。
爆ぜる湯玉は涎の様に下垂り落ちては土間を穿って、俎上の鯉は只戦戦兢兢とするより外に取る路はない。
「れ、霊夢う――私、どうしてこんなことになっちゃったのかなあ」
「――その答えを見つけるのは、萃香自身よ」
萃香は声を上げて泣いた。怖い! 助けて!
歯車が――何処かで狂ってしまった。萃香はほんのさゝやかな仕合わせを願ったゞけに過ぎない筈なのに。傍らにはその釜にせっせと火を焼べるおくうが――。
「うにゅゥン! 私はまるで少女核融合炉だ!」
釜プレイ――そう言うのもあるのかアッー!
* * *
「馬鹿、馬鹿、霊夢の馬鹿!」
伊吹萃香が怒りに任せて博麗神社を飛び出したのは、第百廿三季日と冬と木の年の朱夏であった。
特別何か諍いがあったと言う訳ではない。いや寧ろ喧嘩が原因ならば萃香はどんなにか幸福であったに違いない――。
そもそも始めから望みなど、持ち合わせてはいけなかったのだ。幻想郷を身を以て体現する博麗の巫女は、総てを受け容れる。そう言う性質の存在に過ぎないと言うことに逸速く気附いていれば――萃香が斯様な傷心を味わうこともなかったのであろう。
結局のところ、博麗霊夢はその行為自体に露許りの感慨も持ってはいまい。しかし済し崩しに作り上げられた既成事実――神社での寝泊りを見咎めないこと――に見当違いを引き起こしたとて、それは由ないことでありはしないか。
「そうだよッ! 仕方ないじゃないかア!」
ショーケース越しに只眺めることしか適わなかったキュートな霊夢――それが思いも掛けず手の届く存在として認知されゝば、萃香が隴得て蜀を望むは当然至極の成行きであろう。故に萃香は同族をこゝ幻想郷に恢復させると言う悲願を打ち捨てゝまで、霊夢への思慕を貫いた――まるで奢刹利の英雄を見初めた魔女、メーディアの様に。
唯一異なる点は、焦がれていたのは萃香一人に過ぎなかったと言う現実――そう、霊夢は何一とつ萃香を裏切ってなどいない。徹頭徹尾――萃香に対して、関心などゝ言うものは持ち合わせてはいなかったのだ。そしてその解釈は萃香にとって、到底赦せるものではなかったのである。
――今更地下には戻れない。萃香を上天させたのは半ば自暴自棄めいた肚立ち紛れが理由であった。我が軍勢は一にして百万の夢幻也。しかしそう嘯き乍ら進み入っては見たものゝ、立ちはだかったのは不良天人只一人と言う、そのことの次第には、萃香としても些か拍子抜けの感は拭えなかった。
聞けばこの天人――比那名居天子も萃香と同類の異端児であった。何しろ自らの被虐慾求を満足させんが為だけに、地上へ異変を企てたと言う度し難い変態である。歌い踊りの日常に飽いてしまったと言うこの総領娘には不楽本座の傾向も見て取れる。そしてそんな下らぬ理由の為に、博麗神社は家屋全壊の憂き目を見たと言うではないか!
あゝ、比那名居の――君の本懐は見事に成就せしむるであろう。後は五体の満足を冀い奉る許りである。
霊夢は――今どうしているのか。一時の激情に駆られ逐電しては見たものゝ、やはり霊夢なしではいられぬこの身。嫌みの一とつも言う為であると自らを誤魔化し乍ら、有頂天を発ち神社に参じた。果たして萃香は霊夢を認める。
嘗て神社であった瓦礫の側に彳む霊夢。その意気銷沈とする様は、アルゴー船の残骸に押し潰されて白玉楼中の人と成り果てたと言う、彼の傑人を自然萃香に呼び起こさせた。
こんな霊夢は見たくはない。萃香は考えるより先に霊夢の背後に忍び寄り――顕わになった腋窩を経由し、その控えめな双丘を力任せに揉みくたしていた。
「霊夢! 霊夢! 霊夢! 霊夢うわあゝん! 霊夢霊夢霊夢うゝわあゝ! クンカクンカ! クンカクンカ! スーハースーハー! スーハースーハー! 好い匂いだなくんくんはあ! 博麗霊夢たんのみどりの黒髪をクンカクンカしたいお! クンカクンカ! あゝ! 間違えた! モフモフしたいお! モフモフ! モフモフ! 髪髪モフモフ! カリカリモフモフ……きゅんきゅんきゅい! 私の想いよ霊夢へ届け! 幻想郷の霊夢へ届け!」
絹を引き裂く霊夢の嬌声――否さ悲鳴が周囲に響き渡った。
「――す、萃香!? ちょっとあんた好い加減にしなさいってば! て言うか今まで一体何処をふらふらしてたのよ!」
「ふ、はふン、私の身を案じてくれてたって、そう言う積り? 随分白白しいじゃないッ」
捨鉢であった萃香は、そう口を叩いて霊夢の反駁を漸う待ち構えたのであった。
「心配、してたわよ。だって、いきなりいなくなっちゃうんだもの」
――意外、である。
萃香の心臓は思わず逆蜻蛉を打つ。全身の血潮が逆流したかの様な衝撃はまるで海嘯――いけない、また、覬覦を霊夢に抱いてしまう。しかし抗えぬ。どうしても抗えぬのだ。有象無象の妖怪変化とは違う――鬼には自身を滅する敵手の存在、それが必要にして不可缺なのだ。
一方的な懸想であることくらいは萃香も骨身に沁みて理解している。霊夢は譬え萃香が存在せずともこれっぽっちも意に介さぬであろう。人攫いと鬼退治などゝ言う共生は、こゝザナドゥに於いてさえ既に喪われた幻想に過ぎぬのである。
――息も絶え絶えになり乍ら、それでも萃香は言葉を返した。
「嘘、だよ。だって、――霊夢は私のことなんて結局何とも思っちゃいないんだから!」
霊夢は鳩が豆鉄砲を食った様に須臾ぽかんとした後――堪えきれずに噴き出して、到頭くつくつと笑い出してしまう。
「やあねぇ、じゃあなあに? それが家出した理由? 萃香は寂しかったんだ――」
萃香は圖星を指されて言句に窮した。
――最早退路は存在しない。しかし進退これ谷まって、遂に萃香の覚悟は定まった。復是凄風疎雨天――単純明快をモットーとする疎雨の幼女に、肚の探り合いなど性に合わぬ。当たって砕けよ、今日が伊吹の鬼の命日よ! 我が仇、御旗楯無もこの匹夫の勇をどうか御照覧あれ! そう心中で大言壮語し、言説による一刀を霊夢の正中目掛け、大上段より打ち下ろす――。
「私と一緒に所帯を作ろう! れいみゅッ!」
――噛んだ。噛んでしまった。
この一世一代の大事な場面でよもや発音為損なうとは何たる、不覚!
「あゝ、そのことだけど、どうやら雲の上にその犯人が居るらしいから、そいつに直させることにしたわ」
「いや神社を建て直すとかそう言う話と違うから! しかも二重の意味で聞き流すとか! 突っ込んでよオ! そうだよ寂しかったんだよッ! 突っ込んでくれないと寂しいんだよれいむうッ!」
そして萃香は只啜り泣く。決死の覚悟であったのに。こうも肩透かしを食うと二の句も継げぬ――。
「萃香――だったらもう、勝手に居なくなったりしないでよ。それじゃあ鳥渡出掛けてくるから、潰れた神社をお願いね」
「えっ!? ちょ、ちょっと今、何て言ったの!? 霊夢! れいむう!」
茫然自失と見送り乍ら――萃香は或る病的な楽観論に魅入られてしまう。それは淡泊に見えた霊夢の態度は総て萃香の誤謬であったと言う仮説――いや明かな願望であった。
霊夢は何かに執心すると言うことがない。それは身辺は常に軽快にを旨とする――宛ら明治の軍人めいたプリンシプルがその理由であると、萃香は当初そう得心しシンパシーすら覚えていたのだ。譬えばあれほど様様な人妖が集い泊まる神社に於いてさえ、寝具の用意は纔か一と組を数えるのみである。
けれども事実は全く異なっていた。霊夢は溺れることが怖かったのだ。故に万事に於いて必要以上に蹈み込むことを善しとしない――只それだけのことに過ぎぬのである。
そう断じてみると、やゝ、何と――今まで霊夢にすげなくされた数数の思い出が、総ておかずとして俄に立ちのぼってくるではないか!
その仕合わせな妄想は、しかし萃香にとっては既に真理と成り果せていた。斯くして萃香の世界は覆り、胸中深くに厳重に封印していた筈の情炎は、蓋し爆轟としか表現できぬ、圧倒的な衝撃波を以て萃香のあらゆる旧弊を切り伏せ、薙ぎ倒し、灰燼に帰してその心象風景を一瞬間に紅白二色で染め抜いたのだ。そして萃香は、その二色が混ざり合って遂に桃色に昇華したことを思い知る。
「ばんざあい! ばんざあいッ! これでまた神社で噂の腋姉妹だよオ! 霊夢おねえちゃん! 霊夢おねえさまアッ! あふっ、うおーんッ!」
戀は盲目――名立たる人妖を悉皆虜にしてしまう、げに恐ろしきは博麗の巫女の魔力であった。
* * *
博麗神社の二度目の遷宮を滞りなく終えた伊吹萃香は、まさに我が世の春を謳歌していた。あの総領娘には感謝してもしきれない。あゝも露骨に仕込みをすれば、霊夢の後見人を僭称するあのスキマ妖怪が一体どう言う手段に出るか――それは火を見るよりも明かであろう。
再再建を任されるに当たり萃香が用いた謀りごと――それは人一人入るのがやっとであった五右衛門風呂を、二人用にして据え附けること只一とつである。
慾望には本当に際限がない。萃香は疎になって霊夢を窃視――否さ見守るだけではもう満足出来ぬ躰であったし、故にそろそろ合意の上での直接行為――否さ背中を流すと言うステージに進んでも決してバチは当たらぬであろうと、目を皿の様にして時宜を計っていたのである。まさしく渡りに船であった。
そうして萃香の思惑通りに霊夢はその提案――入浴時の色色なスキンシップを最早撥ね附けようとすることはない! 何しろ霊夢は一切合切を餘すところなく受け容れる――そう言う種類の存在なのである。それによもや、第二次性徴前の萃香の躰内に斯様な下心が渦巻こうとは――如何に霊夢と雖も見透すことは適わぬであろう。博麗の巫女、与し易し! 萃香は得意の極みにあった。
しかし、その蜜月に等しき月日も、矢庭に終わりを告げることゝなる――。
第百廿三季日と冬と木の年も押し迫った頃、博麗神社近隣に突如として噴き上がった間歇泉は、神社の風呂釜を瞬く間に斜陽の下へと追い遣ってしまう。異変自体は萃香が肝胆を砕いた甲斐もあり、ほどなく解決に至ったものゝ、その副産物である間歇泉は、実碍なしとして野放しにされた。
何しろ神社の直ぐ目と鼻の先に、効能豊かな温泉が滾滾と湧き出しているのである。萃香の五右衛門風呂など、わざわざ用る者はない。
――斯様な狼藉、決して赦してはおけぬ。萃香は掻き毟りたいほどの怒りに顫え、神社に入り浸っていた異変の首謀者、おくうこと霊烏路空に涙乍らに訴えたのである。
その内容は霊夢に関する殆ど猥談に等しいものであったので、平生あっけらかんとしたおくうも頬をみるみる紅潮させて萃香の弁に熱心に耳を傾けた。そして到頭共感は勝ち得られ、萃香とおくうは二人抱き合って、好かった、好かったア、などゝ噎び泣いたのであった。
「ほ、本当にどうしようもない変態ねッ!」
――唯一の誤算は、その一部始終を霊夢に見られていたことにある。
「ほらアッ! そんなにお風呂が好いなら、望み通り釜茹でにしてあげるわよ!」
或はこれは、嘗て喬治亜の魔女が愛憎の果てに用いたと言う、烹煮刑の因果応報やも知れぬ。
その後の霊夢からの仕置が如何に筆舌に盡くし難い快楽であったかは――敢えてこゝでは物語るまい。
(了)
午後ティー噴いたw
「読みにくッ」とか最初は思いましたが、流れと勢いに乗ればなんのことはない。
すいれいむは素晴らしいということですね。
すいかれいむは良い物です
出直してきます――
>あとがき
貴方はっ……分かってるっ!
>>1様
有難うございます!
正直、前回のこともありましたので、その一言だけで救われた様な思いです!
――但し、たとえこう言う作風であっても、もっと読みやすくする工夫が必要ですよね。
今後も課題です!
>>2様
文学的!? あわわ有難うございます! そうですね、萃霊をもっと世に広めたいです!
地霊殿の「私(さとり)を倒せば萃香を満足させられる」云云のなど台詞が良質の燃料になっておりますw
>>3様
パロネタ濫用乙と言われそうでこれも不安でしたw
勿論、元ネタが解らなくても問題ない様なクオリティの作品に仕上げたいです!
>>4様
ひい! うつくしい、と、そう仰っていただけるのですね!?
本当に嬉しいです! 有難うございます!
>>5様
地霊殿では萃香のZUN様絵も見ることが出来て、大満足です!
紫ルートでは、地上の妖怪(紫)を信頼しているとさとりんに指摘される! としてゆかれいむ派は大興奮と言うのは解るのです。
ただ同時に見ず知らずの鬼(勇儀)のこともホイホイ信じちゃうくらいに、萃香に調教されていると言う部分に何故誰も突っ込まないのか!
と、寧ろ既出であったら良いと思いますw ゆかれいむはお母さんとの関係――ってもう、これはものすごい強敵ですよね。
自分もうっかりすると揺らいでしまいそうになりますw
ですが、霊夢ラヴァーズの中では唯一の「見た目が年下属性」として戦っていけるのではないのかと!
>>6様
へ、変態!
萃香は愛、故に変態的な行為を働くのだと自分はそう理解しております!
勿論、萃夢想のカリスマ溢れた萃香も大好きですっ。
>>7様
「風呂ってのはね! もっと桃色として然るべきなんだよ!
二人で艶美で色っぽく! 風呂釜の中で密着した霊夢といつ行為が始まってもおかしくない! 差しつ差されつ!
そんな官能的な雰囲気が良いんじゃないかッ! デカイだけの温泉はすっこんでろ! お風呂も躰も小さい方が良いんだよ!
べ、別におくうのスタイルが妬ましいとかそう言うことじゃないんだからね!」
――途中で何か混ざりましたw ところで「差しつ差されつ」と言う単語なのですが、子供の頃にこれはエロワードに違いないと、
とんでもない勘違いをしていたことを思い出します。
記憶が確かであれば、「世界ふしぎ発見!」でアインシュタインが芸者と差しつ差されつというくだりで衝撃を受けた思い出が――
ここはiceの日記帳じゃないんです本当に申し訳御座いませんッ!
同人誌とかで神社にユニットバスついてたりするとがっかりするたちなのでw
もうひとつレスに指摘で申し訳ないんですが
>霊夢ラヴァーズの中では唯一の「見た目が年下属性」として
れみりゃ(´・ω・`)
感謝感激です!
>>10様
うわあああ大変失礼致しました!
レイレミは紛う方なく一大派閥でございます!
ぱちゅれみぃでちゅっちゅ妄想ばかりしてるからこんなことに……。
三月精の御蔭もあって、神社の間取りは或る程度明らかになってますよね。
それと萃香は色んな物を霊夢に貢いでそうです。
P.S
萃香の心情の描写が面白おかしくも、己が心なれど抑えられないという激しさが伝わってきて素晴らしかったです。
しかし間違っていたのは貴方じゃなかった。
成就せしむる、は文語サ行変格活用の動詞「成就す」の未然形「成就せ」に使役の助動詞「しむ」の連体形「しむる」が附いたもので正しい日本語です。
白玉楼中の人の部分は、イアソーンが勉強も芸術も何でもござれなインテリ英雄だっての最近知った。