雨の中を、傘も差さずに歩く。
止みそうで止まない曖昧な天気は、どことなく、私の心情を表わしているような感じがした。
遮られることのない雨は確実に私の体を濡らしていく。
染み込んでいく水ももう飽和しきっていて、あとは滴っていくだけだ。
正直、寒い。
傘は、ある。
なぜ差さないのか、と聞かれても、空が灰色だったから、くらいのものだろう。
灰色の空を、見上げながら、歩く。
妖怪の山は歩いて登るには少々きついけれど、今日は飛ぶ気にもなれなくて。
ざあざあびしゃびしゃ。はあと吐き出した白い息すら、雨に打たれて消えてしまった。
きっとそんな日なのだろう。私はひとり納得して、手の中のたたまれた傘を一瞥した。
「なにやってるんですか」
そんな折、どこまでも呆れ果てたような声をかけられて足が止まる。
水溜まりを踏んだようで、べしゃりなんて音がしたけれど、不快ではない。
だって、既に濡れ鼠なのだ。今更水を踏んだところで大したことはないだろう。
「ああ、こんにちは」
一応挨拶してみると、こんにちは、と棒読みに返されてしまった。
なにやら不機嫌な体で私をじろじろと眺めている。
原因は分かっているけれど。このままだといつまでも眉をひそめてそうな彼女に声をかけた。
「文さんは何をやってたんですか?」
「……ネタ探しの、帰りです」
むすりとした低い声。
どうやら私の一言はさらに不機嫌にさせたようだった。
嘆息する文さんは言うべきか言わざるべきか悩んでいるようだ。
少しだけ天を仰いであー、と声を漏らして、ようやく文さんは私の目を見た。
「早苗は、何をやっているんですか」
「雨に打たれながら家に帰るところです」
口にすると、文さんはきょとんとした。
そのまま何らかの修業ですかね、とつぶやいたけれど、首振ってそれを否定する。
「そんなの、あるわけないか」
「ないとも言い切れませんよ」
「ないんですね」
ないのですよ。雨の日にただ外をうろつくよりは、部屋の中で精神統一でもしていた方が有意義だ。
「なら、どうしてこんなことを?」
文さんは怪訝そうに、探りを入れるような目でこちらを見た。
どうしてなのでしょう。元々意味はないのだから、答える方法もなかった。
かといってこのままごまかせば、文さんがもっと不機嫌になることも明白だった。
「……ううん、本当に、不思議ですよねぇ」
のんきな一言が漏れる。言った後に自分は何を言ってるんだろうと嘆息した。
けれど、無い袖は振れないのだ。気まぐれに理由がある方がおかしいだろう。
怒るかなあとその目を覗き込んでみるけれど、表情は読めなかった。
複雑そうで、不可解そうで。そのくせして、困っているという表現が一番合いそうな。
顔は私の方を向き続けているけれど、瞳は落ち着かなさそうにゆらゆらと揺れている。
正直、私もどう反応していいか分からない。どうしてそんな顔をするのだろう。
「ええっと」
でも、ざあざあと鳴り続ける雨に急かされて、何か言わなくてはいけない気分になる。
瞳が一転に集中して、私を見た。相槌を打つこともなく、ただ、私を見つめている。
「そのですね。今の状況は何の意味もなくて、単なる気まぐれだと思うんですが……」
その目をうまく見つめ返すことができなくて、灰色の空を見上げながらしゃべってみる。
なにかが微妙に違うような気がしたけれど、現状はそれが全てで。
なんというか、先生に怒られている子供気分だった。
嘘はついていないのに、本当のことを話し切れないもどかしさ。
「なんでもないんですよね、たぶん」
話し終わった瞬間、はあ、と嘆息される。
怒ってはいないだろうけど、まだ不機嫌そうな表情。
そのまま少しの沈黙があって、文さんは手を差し出した。
どういうことだろうと思って立ち尽くしていると、文さんはぽつりとつぶやく。
「……傘、貸してください」
「え? でも、文さん今、傘差してるじゃないですか」
「いいから。さっさと出してください」
「はあ……?」
手渡すと、その傘を開いた文さんは、私の上にそれを差し出して。
状況がよく理解できなくて、ぱちぱちと瞬きをした。
「……あー、えっと、その。今日はそんな気分ではないのですが」
「私はそんな気分になったんです」
文さんはさっきより眉を寄せて、ますます不機嫌そうな顔をしている。
むう、と唸りながら私の傘を見上げてみた。どうしたものだろう。
「なにしてるんですか」
また声をかけられて、ぱっと向き直る。
はあ、とさっきよりも深いため息をつきながら文さんは歩を進めた。
「傘を差したくないなら差したくないでいいです。私が勝手にやりますから」
一歩先。不機嫌そうで、心底呆れたような表情をしているけれど、その声は優しかった。
差し出されている傘は未だ私の頭の上に固定されている。
「ここまで濡れてたら、意味ないと思うんですけどね」
「自分でも馬鹿馬鹿しいと思いますよ」
はは、と声がした。乾いた笑い声は二人で同時に漏らしたもので。
何が面白かったのかはよく分からないけれど、とにかく少しおかしかった。
文さんが高下駄で水溜まりを踏み付ける。飛沫はやはり、不快ではない。
「まあ、この行動も早苗の言うところのなんでもない、なのかもしれません」
「そうですか。ありがとうございます」
「気まぐれにお礼を言われてもなあ」
一応受け取ってはおきますが。素直じゃない言葉が返ってきて、思わず笑ってしまう。
む、と納得のいかなさそうな顔をする文さん。
止めてやろうかなんて心中が見えたような気がしたけれど、それを言うことは結局なくて。
「……風邪は引かないようにしてくださいね」
「どうしてですか?」
「風邪なんて引いたら、なんでもなくなるじゃないですか」
ふむ、と頷いてみた。確かにそれは一理あるかもしれない。
「それに、私の努力が無駄になります」
自分の勝手って言ったくせに、文さんはそんなことを言う。
わざと引いてみようかと思ったけれど、先の言葉もあるし、善処はしよう。
「あ、そうだ。……すみません。一度だけ自分で持ってもらえますか?」
ひょい、と自分の傘を手渡されて思わず受け取る。
どうしたんだろうと様子を眺めていると、何やら手帳を取り出して。
「何か書くんですか?」
「はい。とりあえず何か書いておこうかと」
しかし内容までは考えていなかったようで、ペンを口先に添えてうーん、と唸っている。
少ししてから悩んでも仕方ないと悟ったのか、慣れた手つきで文字を綴り出した。
「――これでよし、と」
「何て書いたんですか?」
「雨が早く止みますように、とかどうでしょう?」
質問で返されても。どうやら教えてくれる気はないらしい。
こちらとしても内容よりも心配なことはあるのだけれど。
「新聞とかにはしないでくださいね?」
「ふむ。考えておきましょう」
そういう言葉は考えることのない人が言うものだ。
釘を刺しておきたいけれど、そうしたら今度こそ傘を差してくれなくなりそうなので、止めにした。
そんなことで、この状況を壊すのも、馬鹿馬鹿しいと思う。
「それじゃあ、風邪を引く前に帰りましょうか」
そうしましょう。濡れないように、文さんに合わせて歩く。
高下駄で山道を歩けるものかと思ったけれど、そんな心配は杞憂のようだ。
「自分で持ちたくなったらいつでも言ってくださいねー」
さて、どれくらいまでなら甘えてもいいものなのだろう。
ざあざあびしゃびしゃ。文さんの呆れたようなため息が雨に打たれることなく消えていった。
おもしろかったです。
なんでもない日…それが一番良いんだろうなぁ。