それは雲一つ無い空に、満月が輝く夜のことだった。
静かな森の中で佇む一つの人影。月光を浴びて艶やかに映える金色の九尾。
世の人々が畏れる妖狐の前に、空間を裂いて一人の女性が現れた。
「お久しぶりです、“八雲紫”」
「お久しぶりね。突然呼び出すなんて、今さら何の用かしら?」
狐はとても嬉しそうに微笑み、対する妖怪はひどく面倒くさそうに尋ねる。
「八雲紫、私と勝負して下さい」
「……本気?」
妖獣と妖怪はとても親しい間柄だった。かつては寝食を共にし、笑い合い、偉業を成し遂げたこともあった。
しかし“とあること”をきっかけに、二人は疎遠となってしまっていたのだ。そして久々の再会で告げられた言葉は、「自分と本気で戦って欲しい」である。
二人は長く共にいながら、実はお互い本気で勝負したことは一度も無かった。闘うまでも無く、互いの力量差ははっきりしていたからだ。
しかしそれはあくまで昔の話。今ならどちらが勝つかわからない。
「お願いします」
「――全力でいくわ」
大地を揺るがす轟音。木々にとまっていた鳥たちが一斉に夜空に羽ばたいた。
十数分の後、地に伏したのは妖怪の方であった。
境界を操る力は、あまりに強力な妖力で封じられ、純粋な肉弾戦となった末に敗北した。
「私の負け、ね」
「紙一重でした」
お互いに身体の損傷が酷く、再生にもまだ少し時間が掛かりそうだった。妖狐も仰向けに倒れ込み、息も絶え絶えに言った。
「私の命はもうすぐ尽きます」
「っ、何ですって!?」
その言葉に、満身創痍の筈の紫は無理矢理体を起こし、妖狐の傍へと這っていった。
「嘘でしょう? あなたが死ぬなんてっ」
「仕方ありません、寿命です。若作りしてますが、いい加減生き過ぎましたかね」
「そんな……か、勝ち逃げするつもり!?」
「ふふっ、そういう事になりますかね。死ぬ前にどうしてもあなたと全力で闘ってみたかったんです」
妖狐の勝手な言い分に、紫は唇を噛んだ。
「そんな顔をしないで下さい、怖いです。これじゃあもう一つのお願いが出来ないじゃないですか」
「まだ何かあるの?」
睨む紫に、妖狐は非常に申し訳無さそうな顔をして言った。
「私の娘を、あなたに託したいのです」
『本気なの?』
『はい、私はあの方と共に生きます』
『私たち、仲良くやってきたじゃない。どうして!?』
『……ごめんなさい』
かつて盟友であった九尾の狐は、自分よりも己の恋を優先した。それがきっかけで二人は仲違いした。
それ以来、初めて呼び出されて「何事か」と思って応じてみれば、突然決闘を申し込まれ、あまつさえその相手に「子供を預かって欲しい」などと言う。
「あなた、私を裏切ったのよ!? どこまで自分勝手なのっ」
「本当にごめんなさい。でも、あなたより信頼出来る人はいません。あなただからこそお願いしているのです」
どこまでも真剣な顔で見据えてくる妖狐に、しばらくして紫は大きな大きな溜め息を吐き、
「――わかったわ」
諦めたように呟いた。
休息を取り、回復した妖狐は一度その場を離れ、戻って来た時には腕に小さな赤子を抱いていた。
包んだ布の隙間から小さな金色の尻尾が一本、垂れている。
紫は妖狐からすやすやと眠る赤子を受け取ると、訪ねた。
「この子の名前は?」
「それはあなたにお任せします。その子はもう私の子ではありません。これからはあなたの“式”になるのですから」
「こんなチビを渡しといてよくもまぁ。式として役に立つのは何千年後かしらね」
紫は少し考える仕草をすると、
「……では、“藍”と名付けさせて頂こうかしら」
「藍――良い名前ね。……ただ、これだけは言っておきます」
妖狐は嬉しそうに微笑えんでいたが、不意に表情を引き締めた。
「その子はいつか必ず強くなりますよ、絶対です。それこそ私よりもずっと、ずっと強くです」
そしてまた顔をほころばせ、「だから勝ち逃げする訳じゃありませんよ」と言った。
その言葉に紫は一瞬きょとんとしたが、その意味を理解した途端、「上等じゃない」と不敵な笑みを浮かべた。
二人はそのまま数秒見つめ合い、無言のままどちらともなくその場を去っていった。
「おはようございます、紫様」
「……おはよう」
深夜、マヨヒガの寝室で目覚めた紫は、自分の式である九尾の妖狐――“八雲藍”と軽い挨拶を交わし、体を起こした。
「どうしました? 何やらダルそうですが」
「別に。ちょっと昔の夢を見ていただけよ」
「そうですか」
そう、今のはただの夢。しかし過去に実際にあった出来事――数千年前の懐かしい思い出。
「今日は特に用事も無いから、あなたは寝てもいいわよ」
「わかりました」
寝間着を着替える最中に藍から結界の状況や変わった事件などを聞き、着替えが完了する頃にはその報告も終わる。
その間、藍もただ喋っているだけではなく、紫の蒲団を畳んで自分の蒲団を敷き直し、自らも寝間着に着替えるのだ。主である紫が“朝は寝る妖怪”なので、その代わりとして働く藍が寝るのは夜になる。それでも藍が眠るのは週に二日程ぐらいだが。
紫と入れ替わるようにして眠った藍の姿を、襖の隙間から射し込む月明かりが照らす。
その光を遮って中を覗いた紫は、暗闇の中に藍が静かに横たわっている様をぼんやりと眺めると、そっと襖を閉じた。
(藍――あなたが“彼女”を越えた時、そのあなたを私が越える。そして今度はあなたがまた私を越えるのよ)
八雲紫は、とても楽しそうに笑った。
今宵は満月。空には雲一つ無い。
私もいつかあの壁を越えてゆきたい…。
場違いな発言かもしれませんが、ちょうどこれを読んだ後でゴルフの丸山茂樹プロが見事優勝しましたが、石川遼に対して同じようなことを言っていたみたいなのです。
もっと努力して自分が若い奴の目標となるような存在にならなければいけないと。