寿命とかの話。
齢そろそろ百を数える上白沢慧音は考えた。自分はいつに朽ちるのだろうと。
目をやる先には、鮮やかな黄緑が白に映える葉物。それを、使い続けて長いなっきり包丁で、ざくんざくんと一口大に切り刻んでいく。
手に取るものこそ違えど、もうウン十年と繰り返してきたこの作業。多少の懸案が指に傷を作ろうはずもなく、傍目には真剣に料理に取り組んでいるようにも見える。が、その実弁当のような帽子の下では、博識さと明晰さを備えた頭脳が自らの生について思いをめぐらせているのだ。
「――妹紅、これで足りそうですか」
居間で既に鍋をつついている少女を呼ぶ。今手にあるものは、追加分なのだ。妹紅と呼ばれた彼女は、口に含んだ白菜を飲み込む暇すら惜しんで、文字通り飛んで馳せた。行儀が悪いと、慧音が睨めつけることは織り込み済みで、厳しい眼差しなぞなんのそのだ。
「はふはふ、あー、うん、ひゅうふんひゅうふん」
一抱えもある笊を嬉々として運び出した。嫌がらせの量なのに、気付いてすらいない。お代わりのリザレクションは延々と続き、いい加減鬱陶しくなって、なればいっそ食べきれないほどの、見ただけで満腹になる量を持っていってやろうと思っていたのだった。目論見は残念ながら外れたが、まあいいと気を取り直す。
(食べきるまで、夕餉も朝餉も同じ献立にしてやる)
慧音は普段、例えば子どもの前などでは、立ち居振る舞い言葉の数々、中性的に振舞ってはいるが、実の所非常に女性的な感覚を持つ。関白亭主に過剰な塩分摂取で仕返しを目論む女房のように、地味で気付かれない腹癒せで溜飲を下げることができるのだった。それが才ではあっても、幸いであるかはわからないが。
ふうと息をつき、窓の向こうの空を仰げば、山の向こうで立ち上がる冬雲が見える。あの雲だって、矢庭に空を霞め出でたかと思えば、いつとはなしに霧消する。時折顔をのぞかせる太陽は、それでも夜には暮れ、完全に姿を隠す。夜は夜で、月も出でてはその身を細らせ、いつかには全く消えてしまう。そも、生まれゆくものはすべて死ぬ(例外が将にすぐそこに存在するとはいえ)。なれば自分はいつなのか。
問いが生まれてからこの方、一考といわず思いを馳せた。されどわからず、浮かびもせず。なんせ、日頃の生活のいずれにも、一向に死の気配はない。未来を余生なんて言うはずもない悪童と、死こそ裸足で逃げ出す蓬莱人の友が、主な慧音の日常である。まあ、このようなことを考えるようになったことが、足裏に潜む黄泉路を暗喩するのかもしれないが。
濡れた手を布巾で拭い、居間へ戻る。鍋を挟んで向かいに、妹紅のにやにやとした、意地の悪い顔が見えた。
「また難しい顔してる」
「してません」
「折角の食事時なのに?」
「生まれつきの顔ですよ、兎角」
心ここに在らずとも、老成(ひね)た貴人の戯言を軽くいなすことぐらいはできる。スカートの裾が皺にならないよう手で押さえながら、妹紅の前に正座する。
そう、取り立てて悲観的になるでもなく、何かしらの諦観があるでもない。ただ気にかかっているだけなのだ。半獣の寿命は人間より少し長い程度、とは言うものの、具体的にはどのくらいなのだろうか? と。
外見は残念ながら、二十歳を超えて変化がなくなった。葉物と刃物を持つ指は、使い古された表現ではあるが正しく白魚のごとくである。これで、半世紀を優に超えて生きているのだ。
また、麗しいことは何も皮膚の上に限らず、この半獣の矍鑠たること、竹林の薬師がお墨付きであり、血も肉も、骨でさえ、一切の澱みがないらしかった。
「健康にこしたことないんだから、いいじゃない」
妹紅の言うとおり、半分妖しと言えど残り半分は人の子である。恐らくはその僥倖に感謝すべきなのであろうが、『残念ながら』の言葉どおり、これは慧音にとり大きな悲しみをもたらした。かねてより美しい老いというものに憧れていたものだから、皺を刻めるは眉間のみとわかるやいなや、三日三晩泣きはらしたものだった。
「っていうか、その時のこと御存知ですよね」
「年取ると物忘れがねー」
くははと笑ってとぼけるは、こちらの懊悩など露知らず、腹の虫にばかり気をやっている薄情者。さっきから、そわそわと蓋を開けたり閉めたりしている。白菜なんてもっと早く煮えるはずなのに、要らないことをしているから中々火が通らない。そんなこと、それこそ永い永い生活の中で知っているだろうに。三尸ならぬ四尸、幾ら菜っ葉を与えても飽くことのない青虫でも飼っているのだろうか。
「またあのこと?」
「生憎、『また』あのことです」
「うんうん、私としてはまあ、三百くらいは生きて欲しいかな。あと六百はせめて、手料理を食べておきたいし」
また無茶な冗談を言う、と小言のひとつをぶつけてやろうかと思っていたら、逃げ足だけは脱兎の不死人、煮えた葉を椀によそう。「ほらこれ慧音のね」なんてよこしてきたのを受取っている間に、いったらきまーす、などと無邪気さを装って食み始めた。その様子もまた、兎のように見える。
考えれば、彼女もまた年末でもないのに歳を忘れさせる誘因のひとつである。老いない身体に老いない知友、寺子屋に来る児輩であっても、人はかわれど年の頃はさして動かない。よくない響きを持つかもしれないが、何というか、停滞しているのだ。急流の中とどまれば激しいしぶきも見えるだろうが、流れのない川では――そもそれは川とは呼べないのだろうが――ろくな波が立ちはせぬ。
「妹紅は人の話を聞きませんね」
「なんたる悪罵」
「そこまで言ってません!!」
「いいじゃんもう。早く食べようよ」
目の前の御仁が頼みを受けたからこそ、未だにこの口は空を食んでいるのですよ――などと皮肉が浮かんだが、口の中で苦虫とともに噛み潰す。どうせそらとぼけられるのだろうし、直接物理的な手段を講じたほうがよいのか、いやしかし……などと一考している間に、妹紅はいち早く戦線離脱。頬を膨らませ咀嚼し「んまい」などとのたまっている。
慧音は少し気にかかることがあると、ついそこに思考も心も傾けてしまう癖がある。気をとられているうちに話題を変えてしまえば、ある程度毒気が抜かれてしまって、この半獣は押し黙ってしまう。妹紅は勿論、寺子屋の子ども達ですら、平静より慧音のその癖をとらえては、説教コースを免れているのだった。
だが今は、どうせ顔に表れる憂鬱を隠すことができないのだから。目を伏せ、嘆息するまではいつも通りだったが、その口は珍しく話題を続けて語る。
「――心の準備ができないのですよ。いずれ死ぬるという心構えが」
夏の前には春があり、冬の前には秋がある。人生を四季に例えるとするなら、春に誕生を冬に末期を迎えるのだろうと思われる。
しかし慧音にとって、仲冬の頃であるはずの今は、何というか、常春なのだ。例え冬の旬に舌鼓を打とうとも、若芽も揃わぬ青い季節を生きている気がする。
しかしいずれは、今生に訪れる冬の終わり。そこには、春が続くことがない。しかも慧音にとって、それは遠からず、近い話になる。春の陽だまりが、突如雪原に覆われるような、闇に包まれるような、目の前が見えなくなるような出来事が、いつか、必ず、やってくる。
一人の時も、誰かといる時も、軽く目を閉じただけで目の前にぶら下がる。刹那に音も匂いも、五感の何もかもが消えうせて、その身がさらさらと砂になってしまうような、そうでなければ目の前が代わりに砂塵と化してしまうような、そんな――
「怖いってこと?」
「うぐ」
何気なく妹紅が言う。何の気もなし、だから邪気など全くない。
だが、慧音にはそれが、図星となって心痛をもたらす。もしも事実なのだとしたら、まっすぐに対峙するには躊躇を挟むような、不面目なことに思われたのだ。知識の半獣と言われて、自らもそれを疑わず生きてきて、それなりに多くの者が頭を垂れるを当然としてきた。そのくせ、誰もが知る、死だとか老いだとかを、結局自分は知らなかったのだ。
生と同時に取り付けた約束を、予定を、自分だけは関係がないかのように思っていた。そして今更、本当に今更、いつか訪れるその日を予感して、思わず足が竦んでしまっていた。
――そう、“気にかかって”などとごまかせど、本質は変わりはしない。これは、恐怖だ。
カラン、と箸が転がった。グラスの氷が溶けたときのような、少し寂しい音だった。
「かも、しれません、うん……」
だから何となく恥ずかしくなって、そしてそれは悲しさになって、椀を持つ手が卓上に力なく落ちてしまったのだ。昔ながらの木造建築、隙間風が汁も野菜も、慧音の心も冷やしてしまっていた。卓も鍋も妹紅でさえも、遠くにやって、離れた分だけ熱が冷めた気さえする。
「そのあたりは、ねえ。難しいね。死に対しては、私には憧憬しかないのだし」
そして妹紅は、冷たくなってしまった空気の中、そろそろ冷やかしもしまいにしたほうがいい、と顔を引き締める。口内に残る白菜を嚥下し、俯く慧音を一瞥し、言う。
「だから私は何を言ってあげることもできないけど、きっと何を言ってもらったからといって、あなたの煩悶はなくなるわけではないのでしょう。話は、聞いていないのではなくて、聞きようがないだけ」
言葉はいっそ、冷ややかにすら感じられた。
だが、慧音にはわかっている。妹紅は、わからないことには答えない。生きて生きて死なぬが故に、理解を諦めることがない。だからわからないことは、いつかわかるようになってから答えてくれる。今答がもらえなければ慧音にそれを知る術はないのだろうけれど、だからと言って妹紅が慧音の言を軽んじたわけではないことは、これまでの付き合いで察せられるところであった。
「老いることも死ぬこともないから、その恐怖には付き合って上げられない。黄泉で盲(めしい)になったあなたの隣で、辿る道を教えてあげることもできない。永久の闇を行くあなたの寒心は、如何ばかりか、わかりもしない」
むしろ、わからないであろうことを知っていて、そしてその問いは少なからず彼女に心痛をもたらすであろうことすらわかっていて、けれど真摯に向き合う彼女の心を欲して、余りに手前勝手なことを零してしまったことが、遅れて後悔として、慧音の頭にずんとのしかかる。自分は、何と悪辣な人間なのだろう。
もうもうと鍋は湯気を吐き、殆ど具の消えただし汁だけがくたくたと音を立てて煮えている。出でてははじける泡沫を見つめ、我も消えてしまいたいとまでに、慧音が自省した、その時だった。
「――けれど私も、あなたがいなくなった現世で、同じ時間をまた生きていくわ。道は違えど、私とあなたは、同じ時間に、不安と思い出を抱いて歩んでいくのだと思う」
続けられた妹紅の言葉に、全身の血が沸騰しそうな激昂を覚えた。
言いおわるが早いか、激するが早いか、瞬間、慧音は立ち上がりそうになって、そしてそれを懸命に堪えた。
膝の上で、強く拳を握る。
(…………!)
身勝手な怒りで、身体が跳ねてしまいそうだった。けれど身勝手だから、それはわかっているから、湧き上がる憤りを抑えられないならせめて、顕わにすることだけは避けなければならない。しかし、それすらかなわない。
肩を震わせながら、こっそり覗くように妹紅を伺い見る。おそらく、気付いていないわけがない。感情の乗らぬ瞳は、何を考えているかはわからないけれど――結局、妹紅はそのまま、慧音の様子には触れずに言を続けた。
「そう考えると、生きることも死ぬことも、大して変わりがないように思えてくるね。ならもしかしたら、私の憧憬もあなたの畏怖も、本質は同じなのかもしれない」
慧音は幼かった。妹紅に比べれば、それこそ赤子の歳にすら及ばない。妹紅に無理を強いて、鷹揚なことに甘えて悪事を働いたことを悔いていた所に、やはり妹紅は優しさでもってたしなめてくるのだ。それが歯痒く、そして素直に受け入れがたく、辛く思う。
だから、思わず駄々をこねそうにはなる。――それは、世界に我ら二人しかいなければの話ではないのか。死出の旅には連れ立ちなくとも、貴女は誰ぞの影をふみながらその先を行くことができるではないか。我らは、私と貴女は、決して、決して同じなどでは、ない――。
喉まで溢れて、しかしあまりに醜い、卑しい心根の程を知り、慧音は涙ぐむ。今の自分は説諭に骨の折れる児輩そのものだ、優しく諭されれば言い訳だけが胸中で渦巻いて、妹紅の言葉に上面で噛み付いている。そして知る、死の恐ろしさは、全くの断絶もさることながら、それを目前として泰然といられない自らの矮小さを思い知らされる所にあると。
慧音は、幼かったのだ。黄昏に、見知らぬ影に、孤独を癒せるはずもないのに、己の寂しさで手一杯で、別れる相手の胸中を慮ることができない。術を知らない。幼くも、賢いが為に、心を砕こうとつとめるのに、納得することができない。
「……ねえ慧音。だからさ、きっと素直に感じればいいんだと思うよ。私の憧れは決して具体化しないけれど、それでも抱いてしまうことは、しょうことない。あなたの恐れも、抱いてしまうことは、しょうことない。きっとそれが、生きるということ、生きる苦しさ」
けれど、納得できなければ受け入れない、と言い切れるほどに愚直ではなかった。理解はできない、されど否定もできない、それは彼女が目の前の友人に、はかることのできないほどの好意を傾けているからだ。理屈だけではないことは、理屈だけではない慧音のこの感情にも、改めて適当される。
しかしそこに、諦めを差し挟みたくはなかった。だが、諦め、というと語弊があるかもしれない、それは諦観でしかないがために。
だから、匙を投げるような意味ではなく、覚悟を決めるという形にしたい。あるものはあるのだから、いずれ目の当たりにするそれに背を向けて震えるより、しっかと刮目し、受け止めたい。誰もが、そう願っている。そして慧音も。
その為の心の準備を、残念ながら慧音はできなかったし、今妹紅の話を聞いたからとて、易々と至れるところではない。しかし、目を開くことがかなわなくても、恐れに目蓋を震わせながらも、前を向くことだけはできるのだ。……そう、できる、はずなのだ。
「ああもう。また難しい顔してる」
「すみませ、ん」
できるはず。だから今のは、していないだけだ。喉の奥で、言葉を吸われてしまったように、きゅうと小さな痛みを感じる。けれど言葉を返さねば。妹紅は、なかったことにしてくれている。なかったことにするのは、本当は自分の仕事だ。
「折角の食事時なんだし」
「すみません……」
「いや、そこは済ませてもらわないと、兎角」
くだらない洒落で、眉間をほぐそうと試みたが、そううまくはいかない。どころか、気付かれてすらおらず、慧音の指に力が入る。冷たくなった器を包んで、手の平が白く色づいていく。ぽたぽたと、その上を水が滴り、そして冷えていく。
「妹紅、あげる、食べて」
立ち上がり、向かいに座する妹紅のもとへ寄る。皺を気にすることもできず、崩れ落ちるように座り込んだ。二つの腕を弱弱しく、縋るようにその胸に預ける。ま白い指が、かすかに震え、妹紅の熱で冷えを癒す。そのあたたかさに、目頭の熱が一層溢れて零れた。
「いや、もう大分食べたし」
「でも」
「兎や角言わない。せめて、よそってあげた分くらい片付けなさい」
「…………うん……」
涙には触れず、ぽんと頭に置かれるは、慧音とさほど変わらない手のはずだった。
しかし、過ごしてきた時間が比べ物にならないからなのだろうか、慧音はこの掌に里の老人達と同じものを覚えた。
変わらぬように思えても、それでもこの少女は、こう見えて老獪なのだ。海も山も、文字通り千以上を数え、今でこそ背丈だけは追い越したものの、このように子ども扱いされることもしばしばあった。
「はい。落としたのはもう置いといて、私のを使えばいいよ」
慧音の、椀を持たぬ空いている手に、妹紅は箸を握らせてやる。正真正銘、慧音が童であった頃に、よく大人たちはこうして、菓子やら玩具やらをくれた気がする。あたたかいことも、つめたいことも、大きいことも、小さいこともあった。勿論、若い手も、老いた手も。
しかし全ての手は、優しく慧音を導き、諭し、そして育てた。あの時、その数多の手を愛した慧音は誓ったはずなのだ、自分もこうして、心安んじることのできる手を持たなければと。
幼くとも、死ぬ時は死ぬ。飢饉、天災、流行り病。皆平等に降り注ぎ、犠牲となった教え子もいた。生死の境目に、準備が整うことを待つなんて、そんな親切はありはしない。心の構えを持つことができるというのは、僥倖なのだ。
あの頃と今と、何もかわっていない。この難題は、今だからあるわけではない。あの頃から、いや、あの頃よりもずっと前から、我が身の前で息を殺していたのだ。
「あーでも、冷たい? 冷えちゃってるよね? やっぱこれやめて、新しくつごうか? って、もうないからもう一度湯がかなきゃいけないけど」
「いえ、大丈夫です。こちらをいただきます」
妹紅の申し出を、やんわりと断って、慧音は改めて箸を持ち直した。
考えてみれば、今食しているこの白菜だって、一期目のものか、二期目のものかなんて、わかりはしない。寿命を全うしたかなんて慧音には知る由もないし、そもそんな理由など関係なく、一切合財が腹の中だ。運命なんてそんなもの、己だけが違うなどと、誰が言えよう。
もう大分冷たくなってしまった白菜を口へ運んだ。しゃく、と音はするものの、葉の方は完全に茹だってしまっているし、何より冷えすぎて、お世辞にも美味しいとは思えない。
二口目を運ぶ。あたたかいままを食べていた妹紅は、実に美味しそうにしていた。鍋が美味しくないのではない、時間が経ちすぎたのだ。違いといえば、それだけだ。
しかしその違いが、同じ鍋に入りながら、至福とともに喉を通り、顔をほころばせられるものと、砂を噛むように顔をしかめられるものとを別つ。それは白菜にも自分にも、選択する余地を残してはいない。
死とは、それほどまでに絶対的な存在なのだ。
不満も憤懣も全て関知しない現象であることが、じわじわと慧音に得心を迫る。老いようが老いまいが、必ず終える。足掻きも抗いも全て関係なく、その終末に吸い込まれる。
自らの肉体が灰になるよりもずっと虚ろな、これまでが塵になってしまうような絶望が、胃の中に落ちてくる。
より精細な終わりの心象に、慧音の涙も血も、静かに引いて、そして凍り付いてしまうような感覚を、覚える。
「――ああ、そしてね」
今将に凍えからこの生を終えてしまうのか、と危惧した所。
唐突に妹紅が、軽い口調で沈黙を破った。
「私は結構にこれを食べて、さっきからずっとお腹の苦しさを感じてるわけ。これも、生きているが故のことですね」
あははと笑って、さして出てもいない腹をさする妹紅に、強張っていた顔が、呆気にとられた。ようやっと満腹になったのか、流石に底無しではなかったのか、と思考を逸らされ、気付けば氷が溶けるように、慧音の身体から、心から、力がゆるりと抜けていく。
「何か沢山食べた気がする。二株くらい食べちゃった? ね、慧音」
ふと、自分はまた、この不死人に助けられたのであろうことを悟る。
慧音は食べていただけだ。難しい顔はいつものこと。
なのに妹紅はいつも、慧音の怯えを瞬時に察知して、そして少しだけ見守って、耐えられない所で助けてくれる。
「……くす。二株どころか、三株目に入ったんですよ」
「うひゃあ、結構食べたのねぇ。そりゃ苦しいわけだわ」
「結構、なんてものじゃないです。それに、まだ残ってる」
「もう無理よ、少し食休みしなきゃ。だから膝枕ー」
言うが早いか、妹紅は綺麗に畳まれている慧音の太股に、ゆっくりとその銀糸を預けた。後ろ頭に柔らかい感触が伝わり、妹紅は、ああ、慧音がお婆ちゃんだとしても構わないけれど、この感触は若さならではだなあ――なんて、助平なことを呟いている。
先ほどまでのいい話が、あっという間に台無しになってしまうようなこの不死人の言動が、しかし慧音は嫌いではなく、むしろ今はありがたい。器は卓に置き、まだすこし乾かぬ目尻をそっと拭って、その手で妹紅の散らばった髪の毛を集め、梳く。身体を冷やすかもしれないと考えたけれど、転寝程度なら大丈夫だろう。
「それは構いませんけど……食べてすぐ寝ると牛になりますよ」
「慧音になるの? そりゃいい」
「お腹バッチンしますよ」
「それはご勘弁」
「そもそも、私は白沢ではありますが、牛そのものでは……」
「ふぁああ、おやすみ……」
慧音の薀蓄は長くなる、とは妹紅に限らず、彼女に関わる者全ての言。
そしてもうひとつ、慧音が言葉を重ねられるなら、それは彼女が元気を取り戻した証である。長く連れ立った妹紅には、それがよくわかっている。
だからもういい、もう大丈夫だ、とばかりに、わざとらしい欠伸ひとつで、早々に話を切り上げる。慧音はそれに、全くもう、と思いながらも、常にうまく下駄を履かせて、気付かぬうちにそれを取り去るこの少女に、舌を巻きつつ、ささやかながらの仕返しを目論む。その程度に、落ちていた気分は慰撫されていた。
死は恐ろしい。その恐怖は克服されてなどいない。考え出せば、またこの身は竦んでしまうだろう。怖くて怖くて、そしてこの大切な友人に、複雑な思いを抱いてしまうことだろう。
――けれど、兎角、今はもう、いいのだ。何かが解決しているということはないけれど、いいのだ。考えたって、しょうことないのだから。
「寝てる間に私が死んでても知りませんよ」
「あとにねんはだいじょぶ、たぶん」
「え?」
「はくさいたべたし……んむ」
「それの何が関係して――――」
喉をこじ開けるようにこみ上げてくる眠気が、両目を潤した。噛み殺せない欠伸に、はしたなくも小さく口を開いてしまったが、今は誰が見ているわけでもなし、気にしないことにする。
瞬いて、その長い睫毛に水滴が付くも、消えぬ雫は視界をにじませたままだ。気付けば握られ、自由をなくした手では、拭うことすらできない。
そして何より、膝を貸しているこのままでは、この眠気に素直に従うこともできない。
けれどそれすら、もう構わない気がする。
「ああ、私も寝ちゃおうかしら」
一切が白菜のこの鍋を、百歳と千歳が囲んだ昼餉が終わる。薄雲にけぶる空の下、おだやかなまどろみへと溶けて変じた。焦燥も愛憎も錯綜も、全てをごた混ぜにして。
晴れ上がりきらぬ柔らかな日差しは、だからこそ午睡を邪魔せず丁度よいのかもしれない。慧音の目蓋も、いつしか重力に従っていた。
齢そろそろ百を数える上白沢慧音は考えた。自分はいつに朽ちるのだろうと。
目をやる先には、鮮やかな黄緑が白に映える葉物。それを、使い続けて長いなっきり包丁で、ざくんざくんと一口大に切り刻んでいく。
手に取るものこそ違えど、もうウン十年と繰り返してきたこの作業。多少の懸案が指に傷を作ろうはずもなく、傍目には真剣に料理に取り組んでいるようにも見える。が、その実弁当のような帽子の下では、博識さと明晰さを備えた頭脳が自らの生について思いをめぐらせているのだ。
「――妹紅、これで足りそうですか」
居間で既に鍋をつついている少女を呼ぶ。今手にあるものは、追加分なのだ。妹紅と呼ばれた彼女は、口に含んだ白菜を飲み込む暇すら惜しんで、文字通り飛んで馳せた。行儀が悪いと、慧音が睨めつけることは織り込み済みで、厳しい眼差しなぞなんのそのだ。
「はふはふ、あー、うん、ひゅうふんひゅうふん」
一抱えもある笊を嬉々として運び出した。嫌がらせの量なのに、気付いてすらいない。お代わりのリザレクションは延々と続き、いい加減鬱陶しくなって、なればいっそ食べきれないほどの、見ただけで満腹になる量を持っていってやろうと思っていたのだった。目論見は残念ながら外れたが、まあいいと気を取り直す。
(食べきるまで、夕餉も朝餉も同じ献立にしてやる)
慧音は普段、例えば子どもの前などでは、立ち居振る舞い言葉の数々、中性的に振舞ってはいるが、実の所非常に女性的な感覚を持つ。関白亭主に過剰な塩分摂取で仕返しを目論む女房のように、地味で気付かれない腹癒せで溜飲を下げることができるのだった。それが才ではあっても、幸いであるかはわからないが。
ふうと息をつき、窓の向こうの空を仰げば、山の向こうで立ち上がる冬雲が見える。あの雲だって、矢庭に空を霞め出でたかと思えば、いつとはなしに霧消する。時折顔をのぞかせる太陽は、それでも夜には暮れ、完全に姿を隠す。夜は夜で、月も出でてはその身を細らせ、いつかには全く消えてしまう。そも、生まれゆくものはすべて死ぬ(例外が将にすぐそこに存在するとはいえ)。なれば自分はいつなのか。
問いが生まれてからこの方、一考といわず思いを馳せた。されどわからず、浮かびもせず。なんせ、日頃の生活のいずれにも、一向に死の気配はない。未来を余生なんて言うはずもない悪童と、死こそ裸足で逃げ出す蓬莱人の友が、主な慧音の日常である。まあ、このようなことを考えるようになったことが、足裏に潜む黄泉路を暗喩するのかもしれないが。
濡れた手を布巾で拭い、居間へ戻る。鍋を挟んで向かいに、妹紅のにやにやとした、意地の悪い顔が見えた。
「また難しい顔してる」
「してません」
「折角の食事時なのに?」
「生まれつきの顔ですよ、兎角」
心ここに在らずとも、老成(ひね)た貴人の戯言を軽くいなすことぐらいはできる。スカートの裾が皺にならないよう手で押さえながら、妹紅の前に正座する。
そう、取り立てて悲観的になるでもなく、何かしらの諦観があるでもない。ただ気にかかっているだけなのだ。半獣の寿命は人間より少し長い程度、とは言うものの、具体的にはどのくらいなのだろうか? と。
外見は残念ながら、二十歳を超えて変化がなくなった。葉物と刃物を持つ指は、使い古された表現ではあるが正しく白魚のごとくである。これで、半世紀を優に超えて生きているのだ。
また、麗しいことは何も皮膚の上に限らず、この半獣の矍鑠たること、竹林の薬師がお墨付きであり、血も肉も、骨でさえ、一切の澱みがないらしかった。
「健康にこしたことないんだから、いいじゃない」
妹紅の言うとおり、半分妖しと言えど残り半分は人の子である。恐らくはその僥倖に感謝すべきなのであろうが、『残念ながら』の言葉どおり、これは慧音にとり大きな悲しみをもたらした。かねてより美しい老いというものに憧れていたものだから、皺を刻めるは眉間のみとわかるやいなや、三日三晩泣きはらしたものだった。
「っていうか、その時のこと御存知ですよね」
「年取ると物忘れがねー」
くははと笑ってとぼけるは、こちらの懊悩など露知らず、腹の虫にばかり気をやっている薄情者。さっきから、そわそわと蓋を開けたり閉めたりしている。白菜なんてもっと早く煮えるはずなのに、要らないことをしているから中々火が通らない。そんなこと、それこそ永い永い生活の中で知っているだろうに。三尸ならぬ四尸、幾ら菜っ葉を与えても飽くことのない青虫でも飼っているのだろうか。
「またあのこと?」
「生憎、『また』あのことです」
「うんうん、私としてはまあ、三百くらいは生きて欲しいかな。あと六百はせめて、手料理を食べておきたいし」
また無茶な冗談を言う、と小言のひとつをぶつけてやろうかと思っていたら、逃げ足だけは脱兎の不死人、煮えた葉を椀によそう。「ほらこれ慧音のね」なんてよこしてきたのを受取っている間に、いったらきまーす、などと無邪気さを装って食み始めた。その様子もまた、兎のように見える。
考えれば、彼女もまた年末でもないのに歳を忘れさせる誘因のひとつである。老いない身体に老いない知友、寺子屋に来る児輩であっても、人はかわれど年の頃はさして動かない。よくない響きを持つかもしれないが、何というか、停滞しているのだ。急流の中とどまれば激しいしぶきも見えるだろうが、流れのない川では――そもそれは川とは呼べないのだろうが――ろくな波が立ちはせぬ。
「妹紅は人の話を聞きませんね」
「なんたる悪罵」
「そこまで言ってません!!」
「いいじゃんもう。早く食べようよ」
目の前の御仁が頼みを受けたからこそ、未だにこの口は空を食んでいるのですよ――などと皮肉が浮かんだが、口の中で苦虫とともに噛み潰す。どうせそらとぼけられるのだろうし、直接物理的な手段を講じたほうがよいのか、いやしかし……などと一考している間に、妹紅はいち早く戦線離脱。頬を膨らませ咀嚼し「んまい」などとのたまっている。
慧音は少し気にかかることがあると、ついそこに思考も心も傾けてしまう癖がある。気をとられているうちに話題を変えてしまえば、ある程度毒気が抜かれてしまって、この半獣は押し黙ってしまう。妹紅は勿論、寺子屋の子ども達ですら、平静より慧音のその癖をとらえては、説教コースを免れているのだった。
だが今は、どうせ顔に表れる憂鬱を隠すことができないのだから。目を伏せ、嘆息するまではいつも通りだったが、その口は珍しく話題を続けて語る。
「――心の準備ができないのですよ。いずれ死ぬるという心構えが」
夏の前には春があり、冬の前には秋がある。人生を四季に例えるとするなら、春に誕生を冬に末期を迎えるのだろうと思われる。
しかし慧音にとって、仲冬の頃であるはずの今は、何というか、常春なのだ。例え冬の旬に舌鼓を打とうとも、若芽も揃わぬ青い季節を生きている気がする。
しかしいずれは、今生に訪れる冬の終わり。そこには、春が続くことがない。しかも慧音にとって、それは遠からず、近い話になる。春の陽だまりが、突如雪原に覆われるような、闇に包まれるような、目の前が見えなくなるような出来事が、いつか、必ず、やってくる。
一人の時も、誰かといる時も、軽く目を閉じただけで目の前にぶら下がる。刹那に音も匂いも、五感の何もかもが消えうせて、その身がさらさらと砂になってしまうような、そうでなければ目の前が代わりに砂塵と化してしまうような、そんな――
「怖いってこと?」
「うぐ」
何気なく妹紅が言う。何の気もなし、だから邪気など全くない。
だが、慧音にはそれが、図星となって心痛をもたらす。もしも事実なのだとしたら、まっすぐに対峙するには躊躇を挟むような、不面目なことに思われたのだ。知識の半獣と言われて、自らもそれを疑わず生きてきて、それなりに多くの者が頭を垂れるを当然としてきた。そのくせ、誰もが知る、死だとか老いだとかを、結局自分は知らなかったのだ。
生と同時に取り付けた約束を、予定を、自分だけは関係がないかのように思っていた。そして今更、本当に今更、いつか訪れるその日を予感して、思わず足が竦んでしまっていた。
――そう、“気にかかって”などとごまかせど、本質は変わりはしない。これは、恐怖だ。
カラン、と箸が転がった。グラスの氷が溶けたときのような、少し寂しい音だった。
「かも、しれません、うん……」
だから何となく恥ずかしくなって、そしてそれは悲しさになって、椀を持つ手が卓上に力なく落ちてしまったのだ。昔ながらの木造建築、隙間風が汁も野菜も、慧音の心も冷やしてしまっていた。卓も鍋も妹紅でさえも、遠くにやって、離れた分だけ熱が冷めた気さえする。
「そのあたりは、ねえ。難しいね。死に対しては、私には憧憬しかないのだし」
そして妹紅は、冷たくなってしまった空気の中、そろそろ冷やかしもしまいにしたほうがいい、と顔を引き締める。口内に残る白菜を嚥下し、俯く慧音を一瞥し、言う。
「だから私は何を言ってあげることもできないけど、きっと何を言ってもらったからといって、あなたの煩悶はなくなるわけではないのでしょう。話は、聞いていないのではなくて、聞きようがないだけ」
言葉はいっそ、冷ややかにすら感じられた。
だが、慧音にはわかっている。妹紅は、わからないことには答えない。生きて生きて死なぬが故に、理解を諦めることがない。だからわからないことは、いつかわかるようになってから答えてくれる。今答がもらえなければ慧音にそれを知る術はないのだろうけれど、だからと言って妹紅が慧音の言を軽んじたわけではないことは、これまでの付き合いで察せられるところであった。
「老いることも死ぬこともないから、その恐怖には付き合って上げられない。黄泉で盲(めしい)になったあなたの隣で、辿る道を教えてあげることもできない。永久の闇を行くあなたの寒心は、如何ばかりか、わかりもしない」
むしろ、わからないであろうことを知っていて、そしてその問いは少なからず彼女に心痛をもたらすであろうことすらわかっていて、けれど真摯に向き合う彼女の心を欲して、余りに手前勝手なことを零してしまったことが、遅れて後悔として、慧音の頭にずんとのしかかる。自分は、何と悪辣な人間なのだろう。
もうもうと鍋は湯気を吐き、殆ど具の消えただし汁だけがくたくたと音を立てて煮えている。出でてははじける泡沫を見つめ、我も消えてしまいたいとまでに、慧音が自省した、その時だった。
「――けれど私も、あなたがいなくなった現世で、同じ時間をまた生きていくわ。道は違えど、私とあなたは、同じ時間に、不安と思い出を抱いて歩んでいくのだと思う」
続けられた妹紅の言葉に、全身の血が沸騰しそうな激昂を覚えた。
言いおわるが早いか、激するが早いか、瞬間、慧音は立ち上がりそうになって、そしてそれを懸命に堪えた。
膝の上で、強く拳を握る。
(…………!)
身勝手な怒りで、身体が跳ねてしまいそうだった。けれど身勝手だから、それはわかっているから、湧き上がる憤りを抑えられないならせめて、顕わにすることだけは避けなければならない。しかし、それすらかなわない。
肩を震わせながら、こっそり覗くように妹紅を伺い見る。おそらく、気付いていないわけがない。感情の乗らぬ瞳は、何を考えているかはわからないけれど――結局、妹紅はそのまま、慧音の様子には触れずに言を続けた。
「そう考えると、生きることも死ぬことも、大して変わりがないように思えてくるね。ならもしかしたら、私の憧憬もあなたの畏怖も、本質は同じなのかもしれない」
慧音は幼かった。妹紅に比べれば、それこそ赤子の歳にすら及ばない。妹紅に無理を強いて、鷹揚なことに甘えて悪事を働いたことを悔いていた所に、やはり妹紅は優しさでもってたしなめてくるのだ。それが歯痒く、そして素直に受け入れがたく、辛く思う。
だから、思わず駄々をこねそうにはなる。――それは、世界に我ら二人しかいなければの話ではないのか。死出の旅には連れ立ちなくとも、貴女は誰ぞの影をふみながらその先を行くことができるではないか。我らは、私と貴女は、決して、決して同じなどでは、ない――。
喉まで溢れて、しかしあまりに醜い、卑しい心根の程を知り、慧音は涙ぐむ。今の自分は説諭に骨の折れる児輩そのものだ、優しく諭されれば言い訳だけが胸中で渦巻いて、妹紅の言葉に上面で噛み付いている。そして知る、死の恐ろしさは、全くの断絶もさることながら、それを目前として泰然といられない自らの矮小さを思い知らされる所にあると。
慧音は、幼かったのだ。黄昏に、見知らぬ影に、孤独を癒せるはずもないのに、己の寂しさで手一杯で、別れる相手の胸中を慮ることができない。術を知らない。幼くも、賢いが為に、心を砕こうとつとめるのに、納得することができない。
「……ねえ慧音。だからさ、きっと素直に感じればいいんだと思うよ。私の憧れは決して具体化しないけれど、それでも抱いてしまうことは、しょうことない。あなたの恐れも、抱いてしまうことは、しょうことない。きっとそれが、生きるということ、生きる苦しさ」
けれど、納得できなければ受け入れない、と言い切れるほどに愚直ではなかった。理解はできない、されど否定もできない、それは彼女が目の前の友人に、はかることのできないほどの好意を傾けているからだ。理屈だけではないことは、理屈だけではない慧音のこの感情にも、改めて適当される。
しかしそこに、諦めを差し挟みたくはなかった。だが、諦め、というと語弊があるかもしれない、それは諦観でしかないがために。
だから、匙を投げるような意味ではなく、覚悟を決めるという形にしたい。あるものはあるのだから、いずれ目の当たりにするそれに背を向けて震えるより、しっかと刮目し、受け止めたい。誰もが、そう願っている。そして慧音も。
その為の心の準備を、残念ながら慧音はできなかったし、今妹紅の話を聞いたからとて、易々と至れるところではない。しかし、目を開くことがかなわなくても、恐れに目蓋を震わせながらも、前を向くことだけはできるのだ。……そう、できる、はずなのだ。
「ああもう。また難しい顔してる」
「すみませ、ん」
できるはず。だから今のは、していないだけだ。喉の奥で、言葉を吸われてしまったように、きゅうと小さな痛みを感じる。けれど言葉を返さねば。妹紅は、なかったことにしてくれている。なかったことにするのは、本当は自分の仕事だ。
「折角の食事時なんだし」
「すみません……」
「いや、そこは済ませてもらわないと、兎角」
くだらない洒落で、眉間をほぐそうと試みたが、そううまくはいかない。どころか、気付かれてすらおらず、慧音の指に力が入る。冷たくなった器を包んで、手の平が白く色づいていく。ぽたぽたと、その上を水が滴り、そして冷えていく。
「妹紅、あげる、食べて」
立ち上がり、向かいに座する妹紅のもとへ寄る。皺を気にすることもできず、崩れ落ちるように座り込んだ。二つの腕を弱弱しく、縋るようにその胸に預ける。ま白い指が、かすかに震え、妹紅の熱で冷えを癒す。そのあたたかさに、目頭の熱が一層溢れて零れた。
「いや、もう大分食べたし」
「でも」
「兎や角言わない。せめて、よそってあげた分くらい片付けなさい」
「…………うん……」
涙には触れず、ぽんと頭に置かれるは、慧音とさほど変わらない手のはずだった。
しかし、過ごしてきた時間が比べ物にならないからなのだろうか、慧音はこの掌に里の老人達と同じものを覚えた。
変わらぬように思えても、それでもこの少女は、こう見えて老獪なのだ。海も山も、文字通り千以上を数え、今でこそ背丈だけは追い越したものの、このように子ども扱いされることもしばしばあった。
「はい。落としたのはもう置いといて、私のを使えばいいよ」
慧音の、椀を持たぬ空いている手に、妹紅は箸を握らせてやる。正真正銘、慧音が童であった頃に、よく大人たちはこうして、菓子やら玩具やらをくれた気がする。あたたかいことも、つめたいことも、大きいことも、小さいこともあった。勿論、若い手も、老いた手も。
しかし全ての手は、優しく慧音を導き、諭し、そして育てた。あの時、その数多の手を愛した慧音は誓ったはずなのだ、自分もこうして、心安んじることのできる手を持たなければと。
幼くとも、死ぬ時は死ぬ。飢饉、天災、流行り病。皆平等に降り注ぎ、犠牲となった教え子もいた。生死の境目に、準備が整うことを待つなんて、そんな親切はありはしない。心の構えを持つことができるというのは、僥倖なのだ。
あの頃と今と、何もかわっていない。この難題は、今だからあるわけではない。あの頃から、いや、あの頃よりもずっと前から、我が身の前で息を殺していたのだ。
「あーでも、冷たい? 冷えちゃってるよね? やっぱこれやめて、新しくつごうか? って、もうないからもう一度湯がかなきゃいけないけど」
「いえ、大丈夫です。こちらをいただきます」
妹紅の申し出を、やんわりと断って、慧音は改めて箸を持ち直した。
考えてみれば、今食しているこの白菜だって、一期目のものか、二期目のものかなんて、わかりはしない。寿命を全うしたかなんて慧音には知る由もないし、そもそんな理由など関係なく、一切合財が腹の中だ。運命なんてそんなもの、己だけが違うなどと、誰が言えよう。
もう大分冷たくなってしまった白菜を口へ運んだ。しゃく、と音はするものの、葉の方は完全に茹だってしまっているし、何より冷えすぎて、お世辞にも美味しいとは思えない。
二口目を運ぶ。あたたかいままを食べていた妹紅は、実に美味しそうにしていた。鍋が美味しくないのではない、時間が経ちすぎたのだ。違いといえば、それだけだ。
しかしその違いが、同じ鍋に入りながら、至福とともに喉を通り、顔をほころばせられるものと、砂を噛むように顔をしかめられるものとを別つ。それは白菜にも自分にも、選択する余地を残してはいない。
死とは、それほどまでに絶対的な存在なのだ。
不満も憤懣も全て関知しない現象であることが、じわじわと慧音に得心を迫る。老いようが老いまいが、必ず終える。足掻きも抗いも全て関係なく、その終末に吸い込まれる。
自らの肉体が灰になるよりもずっと虚ろな、これまでが塵になってしまうような絶望が、胃の中に落ちてくる。
より精細な終わりの心象に、慧音の涙も血も、静かに引いて、そして凍り付いてしまうような感覚を、覚える。
「――ああ、そしてね」
今将に凍えからこの生を終えてしまうのか、と危惧した所。
唐突に妹紅が、軽い口調で沈黙を破った。
「私は結構にこれを食べて、さっきからずっとお腹の苦しさを感じてるわけ。これも、生きているが故のことですね」
あははと笑って、さして出てもいない腹をさする妹紅に、強張っていた顔が、呆気にとられた。ようやっと満腹になったのか、流石に底無しではなかったのか、と思考を逸らされ、気付けば氷が溶けるように、慧音の身体から、心から、力がゆるりと抜けていく。
「何か沢山食べた気がする。二株くらい食べちゃった? ね、慧音」
ふと、自分はまた、この不死人に助けられたのであろうことを悟る。
慧音は食べていただけだ。難しい顔はいつものこと。
なのに妹紅はいつも、慧音の怯えを瞬時に察知して、そして少しだけ見守って、耐えられない所で助けてくれる。
「……くす。二株どころか、三株目に入ったんですよ」
「うひゃあ、結構食べたのねぇ。そりゃ苦しいわけだわ」
「結構、なんてものじゃないです。それに、まだ残ってる」
「もう無理よ、少し食休みしなきゃ。だから膝枕ー」
言うが早いか、妹紅は綺麗に畳まれている慧音の太股に、ゆっくりとその銀糸を預けた。後ろ頭に柔らかい感触が伝わり、妹紅は、ああ、慧音がお婆ちゃんだとしても構わないけれど、この感触は若さならではだなあ――なんて、助平なことを呟いている。
先ほどまでのいい話が、あっという間に台無しになってしまうようなこの不死人の言動が、しかし慧音は嫌いではなく、むしろ今はありがたい。器は卓に置き、まだすこし乾かぬ目尻をそっと拭って、その手で妹紅の散らばった髪の毛を集め、梳く。身体を冷やすかもしれないと考えたけれど、転寝程度なら大丈夫だろう。
「それは構いませんけど……食べてすぐ寝ると牛になりますよ」
「慧音になるの? そりゃいい」
「お腹バッチンしますよ」
「それはご勘弁」
「そもそも、私は白沢ではありますが、牛そのものでは……」
「ふぁああ、おやすみ……」
慧音の薀蓄は長くなる、とは妹紅に限らず、彼女に関わる者全ての言。
そしてもうひとつ、慧音が言葉を重ねられるなら、それは彼女が元気を取り戻した証である。長く連れ立った妹紅には、それがよくわかっている。
だからもういい、もう大丈夫だ、とばかりに、わざとらしい欠伸ひとつで、早々に話を切り上げる。慧音はそれに、全くもう、と思いながらも、常にうまく下駄を履かせて、気付かぬうちにそれを取り去るこの少女に、舌を巻きつつ、ささやかながらの仕返しを目論む。その程度に、落ちていた気分は慰撫されていた。
死は恐ろしい。その恐怖は克服されてなどいない。考え出せば、またこの身は竦んでしまうだろう。怖くて怖くて、そしてこの大切な友人に、複雑な思いを抱いてしまうことだろう。
――けれど、兎角、今はもう、いいのだ。何かが解決しているということはないけれど、いいのだ。考えたって、しょうことないのだから。
「寝てる間に私が死んでても知りませんよ」
「あとにねんはだいじょぶ、たぶん」
「え?」
「はくさいたべたし……んむ」
「それの何が関係して――――」
喉をこじ開けるようにこみ上げてくる眠気が、両目を潤した。噛み殺せない欠伸に、はしたなくも小さく口を開いてしまったが、今は誰が見ているわけでもなし、気にしないことにする。
瞬いて、その長い睫毛に水滴が付くも、消えぬ雫は視界をにじませたままだ。気付けば握られ、自由をなくした手では、拭うことすらできない。
そして何より、膝を貸しているこのままでは、この眠気に素直に従うこともできない。
けれどそれすら、もう構わない気がする。
「ああ、私も寝ちゃおうかしら」
一切が白菜のこの鍋を、百歳と千歳が囲んだ昼餉が終わる。薄雲にけぶる空の下、おだやかなまどろみへと溶けて変じた。焦燥も愛憎も錯綜も、全てをごた混ぜにして。
晴れ上がりきらぬ柔らかな日差しは、だからこそ午睡を邪魔せず丁度よいのかもしれない。慧音の目蓋も、いつしか重力に従っていた。
この乙女っ。
二人の関係上、孤独で荒みきった妹紅を放っておけずお節介を焼く慧音が多いけど、
妹紅の方がはるかに年上なんだから妹紅に諭される慧音というのも良い。