多々良小傘の片の目は幻想郷の今ではなく、過去に映り過ぎたモノクロの人々を今も鮮明に焼き付けていた。
トーキー、かつて映画とは音声を乗せる技術がなく、ストーリーラインを弁士と呼ばれた人間が説明していく、という形式で流していた。爆発的人気を誇った映画文化が発展していくにつれ、廃れていったそれでも、ある。
幻想郷にそれが大量のフィルムが流れ着き、里にはそういったものを流す小屋も作られたが、台本のそれが見つからない。
従って、おのおのの解釈で白黒の人々を眺めるのが、幻想郷における映画の楽しみ方だった。
おかねを持っていないけれど、映画が見たい。
驚かせるぐらいしか能がない化け傘妖怪。小屋の管理者である男は今回限りという約束で小傘を映画小屋へと入れた。
動く絵を物珍しがったのも最初のうちで、今映画を楽しむのは寺子屋を終えた子供たちぐらいのものである。
とかく、幻想郷の人々に共通点は熱しやすく冷めやすい。
わあ懐かしい。フィルムが擦り切れるぐらいにみたもの。
主役がやぁやぁと名乗りを挙げて悪人を切り捨てるシーンなんて、胸がすく。なんせ弁士として壇上に立ったこともあるもの。
満足げな表情をして去っていった化け傘妖怪は、次の日もまた次の日も映画を眺めていた。
綺羅綺羅と、子供よりも子供らしい目をして体全体でストーリーをなぞっていた。
近頃の子供たちときたら、映画よりも彼女が楽しいと小屋へと来るようになっていた。
小屋の管理者である男が、彼女に弁士をしてみないかと提案するのも何の不思議もないことだった。
何しろ、彼女は白黒の人々がこの幻想郷の誰よりも好きであることは明白で、驚くことにストーリーラインのそれをほぼ頭の内に収めているのだった。
幻想郷に来たのは60年とすこしまえ、という彼女はうっとりとした表情で、男にとっては名も知らぬ俳優女優の名前を挙げた。
妖怪にたいしてごく一般的な人間程度の偏見を持っていた男も、夢中になって話す彼女に親しみを覚えていったのも無理はない。
一緒に小屋を営んでほしいという言葉に小傘は目を丸くしたが、やんわりとそれを断った。
曰く、無声映画というものは廃れてしまったいわば残滓であり、それを懐かしむ人間が外にいなくなったから幻想郷へと流れ込んだのであり。
幻想郷でもいずれ、寂れる運命をもったものであるということ。
忘れられた物。例えば忘れ傘の自分のように、胡乱と世を漂っていくのが、幸せなのだろうと。
男は食い下がることもなく、ただ彼女の瞳に微かに煌めいた寂しさの色を問うた。
言いたくなければ、答えなくとも良い、と付け加えながら。
遠い目をどこでもない中空へと向けた小傘は、ぽつぽつと語り始める。
かつて自分が外の世界に居た頃、小さな映画館を営む爺と知り合ったこと。柳の下で出会った彼に連れられて見た映画は自分の胸を打ち、観客もまばらになったその映画館に朝から夜まで入り浸り。爺を一人客として弁士も努めたことがあるということ。
同じような言葉をその翁へと向けたが、やはり同じようにして窘められた、と。
世に必要にされなくなったもの、忘れ去られるものを無理に引き留めるのは自然なことではなく。
しかしそれは次への礎となって、この世に息づいているものである、と。
その日から遠くないうちに爺はこの世を去り、自らも忘れ去られた映画館から幻想郷へと招かれたのだと。
無理して維持する必要もなく、それでも熱心に見る子供たちの中には、空想で膨らまされた白黒の人間たちの活劇が心に住み着き。いつかそれらが大人になった彼らの礎となるのではないだろうか、と。
「柳の下にご用心、べろべろばー」
その日を最後にして、小傘は二度と映画小屋には顔を出さなかった。
映画小屋はまだ、人間の里で細々と営まれている。
今では白黒ではなく、テクニカラーの『風と共に去りぬ』が、毎日一度は上映されている。
その映画は、白黒ではない男の想いを燻らせ続けるのだった。
…………(切ねえなあ…
色褪せない思い出とは素敵で(モキュモキュ
寒さも飢えも金鉱も無いのはもはや現実も幻想も同じなのか?
無くても生きていけるし、郷自体アメリカンドリームの対極に位置するし
小傘が弁士なら毎日でも通うぞ
『散り行く花』でも見ようぜ!