遠くに聞こえる猫の鳴き声。
手元の紅茶から立ち上がる湯気を視界の隅に、私は彼女に手を伸ばす。
しかし、もう数センチほどで彼女に届くかという所で、私の手は、その動きを止めた。
手を掛けようとした瞬間、彼女が笑ったからだ。それもニタリ、という笑い方で。
……まずい。
きっとこれに手を付けてはいけないのだと、直感が告げる。
決断を失った私の手は彼女の前を右へ左へと彷徨う。
目を細めてみたりしても、透けて見えてくる訳はない。
ゴクリと、唾を喉に通すことしか私には出来なかった。
そうして、秒針の針が時間を刻む音が私の焦燥感を煽り始めたころ、彼女が口を開く。
「……早く、してくれませんか?」
その口調に混じる呆れの色が、私の心を更に揺さぶった。
どれを取ったらいい、いや、どれを取ってはいけない。
結局、混乱した私の手は、最初に選んだ隣のカードを選んでいた。
余裕の表情で紅茶を口にする彼女に構わず、一度軽く深呼吸。
そして手を掛け、祈り、一気に抜き取る。
一瞬の出来事。
しかし、その瞬間、私の手の影で彼女がまたニヤリと笑うのが見えてしまった。
しまった、と気付くが、もう遅い。
「……最悪」
私の手の中で、道化師が笑っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「10です」
「……3、よ」
向かい合う私達の間のテーブルに、2枚づつ、カードが置かれていく。
その隣には綺麗に焼かれたクッキーと、紅茶の入ったティーポット。
その内の一枚を手に取り、八つ当たりをするかの様に乱暴にかじる。
ほどよいバターの香りが紅茶と交わって、私の心を少しだけ落ち着かせた。
「……分かっていますね?」
「わざわざ確認してくるなんて、もう勝利宣言かしら?」
強がって見せるが、正直なところ勝てる気がしない。
負けたほうが夕食を準備する。
そんな賭け事から始まったババ抜きは、やはり私の不利なまま進んでいる。
そもそも心理的要素の強いこのゲームで彼女に、さとりに勝つことなど最初から無理な話なのだ。
完全にこちらの動きも、表情も、考えていることすらも読みきってくる彼女には。
「勝利宣言だなんてそんな……私はただ知っているだけです。この勝負の結末を」
だから、そうと知っていながらこの勝負を挑んだ私は馬鹿だ。
ジョーカーを一度も引かなければ勝機はあるなんて、そんなほんの僅かな希望にすがった数分前の自分を張り倒してやりたい。
「そんなに自分を責めるものではありませんよパルスィ。……そうですね、もう一度貴女に勝機を授けてあげてもいいんですよ?」
嫌らしく笑うと、さとりは手を伸ばす。
もちろんその先にあるのは、こちらを向いて私をあざ笑っているジョーカー。
少しだけ他のカードより頭を出しておくなんて、そんなありきたりなフェイントが通じるわけは無かった。
「そんな情けなんて必要ないわ」
手を変えよう。
そう思って、さとりの手が届くよりも先に、カードを手元に引き寄せる。
行き場を失った手を引っ込めると、分かっていましたよ、とさとりは笑った。
「分かってるならそんな事言わないで、不愉快よ」
「すみませんね、困ってる人を見ると助けてあげたくなるのですよ」
「踏みつけたくなる、の間違いでしょ……ほら」
手元で並べ替えたカードを、自分でも確認せずにさとりの前に広げる。
私の考えが及ばない、半ばやけくそな戦略。
いかに私の考えていることが分かっても、これならばどうしようもないはずだ。
というか、これしか手はないのだ。
「どう?これでもジョーカーを見つけられる?」
しかし、さとりは崩れない。
動揺ひとつせず、静かにクッキーをひとつ手に取ると、ほんの一部を口にして、紅茶に口をつける。
ほぅ、と息を吐くと、ささやくような声で呟いた。
「……3枚を下へ、2枚を上へ、そして、上から4枚とんで2枚を下へ」
「なんのことよ」
「貴女はいつも同じ切り方をしますねパルスィ。まぁ自分でも気がつかないのでしょうが」
その言葉と表情に、ゾクリとする。
そんなはずは、さとりの言うとおりのはずはないんだ。
私は適当にカードを混ぜた、はずだ。
さとりの手の先にジョーカーがあることなんて無い、はずだ。
しかし、いくら自分に言い聞かせても、予感は頭から離れない。
ゆっくりとこちらへ向かってくるさとりの右手が、なんだか恐ろしい。
「パルスィ」
と、さとりの右手がカードの目の前でピタリと止まった。
驚いた私は、反射的に目をつぶってしまう。
「……どうして私がジョーカーの場所を知っているのか、分かりますか?」
真っ暗になった世界に、さとりの声が響く。
いつもよりオクターブ低くて静かな、でも力強い声。
「どうしてって、それは私の考えを読んで……それででしょう?」
恐る恐る目を開けると、さとりはこちらを見てはいなかった。
うつむいたまま、手だけをこちらに向けて動かない。
「残念ですが、違いますよ」
「違うの?じゃあなんでよ」
紅茶の湯気を掻き分けて、ゆっくりと、さとりは顔を上げる。
そして意を決したように私の手元から一枚のカードを奪って、前髪を指で弾く。
口元に笑みを忍ばせながら、さっきよりもドスの効いたような、低い声で、言った。
「……私自身が、ジョーカーだからですよ」
「…………は?」
灼熱地獄が、その活動を停止した、そんな気がした。
「………………………」
空いた口が塞がらないとはこのことだ。
今、賢く大人しいさとりさまのものとは思えないような言葉が飛び出したような気がするが。
ま、まぁ、気のせいだろう。
「ですから、私自身がジョーカー……」
「馬鹿じゃないの?」
残念ながら気のせいじゃなかった。
「ひどいじゃないですか、せっかくの私の決め台詞を馬鹿呼ばわりとは」
「決め台詞?あれが?」
「ええ、格好良いでしょう?」
ふふん、と腰に手を当て、胸を張る。
こんな台詞をさとりが自分で考えられるなんてのは信じられないし、黙々とノートに思いついた決め台詞をメモっているさとりなんて想像したくも無い。
他のものに影響されやすいさとりのことだ、大方どこかの本で言っていたとかそんな感じなんだろう。
しかし問題は、こいつは本当にこんなキザったらしい台詞が格好いいなんて思っているということだ。
「……格好よくないんですか?」
「少なくとも、あんたには似合わないわね」
「そうですか?」
「そうよ、あんたは髪留めにクリップでも使ってなさい」
おかしいですね、と首をかしげるさとり。
おかしいのはあんたの頭だと突っ込んでやりたいが、後々からかいの材料になるかもしれないし、今は放置しておこうと思う。
「……まぁ、いいでしょう。決め台詞は追々考えるとして」
さとりは食べかけのクッキーを口の中に放り込んで、ムシャムシャと小さな口を動かす。
そして、紅茶で流し込もうとするが、
「・・・・・・っ!」
喉に詰まったのか、ケホケホとむせてしまった。
「ちょっと、何動揺してるのよ。大丈夫?」
背中を擦ってやろうかと席を立つが、さとりは大丈夫、と私を手で制した。
「少し食べるのを急いでしまっただけですから。そんなことより」
なんとか呼吸を落ち着かせて、私の方へ向き直る。
呼吸を整えてから、また、ふふん、と笑うと、取っていったカードを指に挟み、私の目の前で裏から表にひっくり返した。
「ジョーカー、いただきました」
私に見せ付けるように、道化師が笑っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「……妬ましいわ」
お互いに手札がだいぶ少なくなってきた頃、ふと、そんなことを思った。
「またいつもの発作ですか」
「人を病人みたいに言わないでよ」
「違うのですか?」
「あんたは私を何だと思ってるのよ。……まぁいいわ、これ見てよ」
私がさとりの手札から引いてきたのはクラブの9。
私の手札にあったダイヤの9とのペアで、手札から場に置かれる。
寄り添う二枚のカードを見て、さとりは溜息を吐いた。
「あぁ、そういうことですか」
「そういうことよ」
黒い9と赤い9。
ふと、黒と赤という2色に、男女を連想してしまったのだ。
「ふたつに引き裂かれた男女がようやく出会って自由という場を得るなんて!あぁ!なんて妬ましい!……ですか」
オペラ歌手の台詞のように、手振りまでおまけしてさとりは私の考えたことを声に出す。
余りにも演技掛かったその表現を見ていたら、顔が熱くなるのを感じた。
「自分で思っておいてなんだけど、恥ずかしいわね」
「はい、私にはこんな発想が浮かぶ貴女が妬ましいですよ。全く」
やれやれといった素振りをした後、さとりは私の手札に手を伸ばす。
「……では、こんなのはどうですか?」
そういってさとりが引いていったのはスペードの6。
……ということは出てくるのはダイヤかハートの6か。
6といえばトランプでいう真ん中の数字、最も多くの数字に囲まれた数字だ。
つまりは一番たくさんの人に見守られながらペアを見つけるということになる。
大勢から祝福され、多少は嫉妬され、一緒になるふたり。
……結果、妬ましい。
「はいはい妬ましい妬ましい。ですが、きっと私は貴女の想像を裏切りますよ?」
そう言って、引いてきたカードを手札とあわせ、2枚1組で頭上に掲げる。
そのまま一気に振り下ろすと、テーブルに2枚のカードを叩きつけた。
あまりの衝撃に、クッキーの皿と、私達のカップが音を立てる。
「さぁ!どうですか!?」
その動作だけで息を上げたさとりの指の先には、黒い6が2枚。
クラブの6とスペードの6。
それは確かに、私の予想を裏切ってはいたけれど、
「どうって……何を妬めばいいの?」
男と男が結ばれて、いったい何に嫉妬しろというのだろうか。
意味が分からずにキョトンとしている私の前でさとりは何か言いたそうにしているが、口をモゴモゴするばかりで、言葉を発しない。
「……なんでもありません!」
やがて諦めたのか、乱暴にクッキーを掴むとバリバリと噛み砕いた。
「変なの…」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
そんなどうでもいいことを言い合いながらカードを引いているうちに、ゲームは進む。
元々ふたりでするババ抜きなんて、ジョーカーさえ引かなければ手は進むのだ。
おまけに最初に配られた中にあったペアはそのまま使われること無く、ゲームは開始される。
そんなに長引くことはない、すぐに終わるはずのゲームだ。
現に、さとりの手から2枚の赤いキングが場に置かれて、さとりの残りの手札は2枚。
ダイヤのエースと、自分で引いてきたままさとりの手の中に納まり続けていたジョーカー。
そして今度は私がカードを引く番。
ここでエースを引くことが出来れば私の勝ち。
序盤でジョーカーを引いていったさとりの自爆、という結末でゲームは終わる。
あのさとりからエースを引くことが出来れば、の話だが。
「さぁ、エースはどちらでしょう?」
ニヤリと笑って、さとりはカードを交差させる。
右か、左か。
エースか、ジョーカーか。
ふたつにひとつの選択。目をつぶってやけくそに引けば確率は50%。
「優柔不断は嫌われますよ?」
言って、左のカードの頭を少しだけ上げる。
たったそれだけの動作が、私の迷いを増大させる。
私の考えを読みきっているさとりは、何のためにこんな事をするのだろうか。
頭を出したほうを私が取ると、そう考えたのか、天邪鬼にアピールしていない方を取ろうとするのか。
要は、私ならこんなときどう考えるのかを当てはめればいいだけなのだ。
……いや、でも、その私の考えの裏を掻こうとしているのかもしれない。
そう考え出すと後は堂々巡り。
決断なんて出来ない。結局はただやけくそに引くのが正解。
「は~や~く~」
「五月蝿いわね!引けばいいんでしょ、引けば!」
そうだ、どうせ考えても仕方が無いんだから。
そう自分に言い聞かせ、要は諦めて、目を閉じ、右のカードへ手を伸ばした瞬間、
──私自身が、ジョーカーだからですよ
さとりの言葉が脳裏をよぎり、悪寒が全身が駆け巡った。
ピタリと手を止めて、恐る恐る目を開け、視線を下へ移す。
そこには今までペアになっていったカード達が乱雑に置かれている。
仮に今、私が50%の確率を引き当てたとしたなら、ここにエースが2枚加わわって、ゲームは終わり。
最初の数字であるエース。
皆を引っ張るはずのエースが最後に残されるというのは少しおかしいけれど、きっと他のカードたちに迎えられて、ゲームの幕を降ろす。
おめでとう、と皆に祝福されて。
……それなら、残ったジョーカーは?
考えてみれば、このゲームは仲間はずれを決めるゲームだ。
お互いにジョーカーを、嫌な奴を押し付けあって、そして、勝利する。
そして敗者の手の中には、誰とも合うことのない、独りぼっちのジョーカーが1枚残る。
隣のカード達が次々とペアを見つけ、自分の隣を去っていくのをただ笑って眺めている事しか出来ないジョーカー。
独りになると、そんなルールに縛られているのに、嘲るように笑うジョーカー。
そんなジョーカーは、何を思うのだろうか。
「……パルスィ?どうかしましたか?」
「……妬ましいと、そうは思わない?」
「え?」
「自分は独りなのに、エースがふたりでいなくなるなんて、嫉妬するしかないじゃない?」
私なら、耐えられない。
私だけが独りだなんて。
ジョーカーが独りで終わるなんて、気に入らない。
「だから・・・・・・一緒になんてさせないわ、絶対に!」
言って、左側のカードを叩き落とす。
驚くさとりの手から落とされたカードはもちろん、ジョーカー。
当然だ、エースをふたりになんてさせない。
ジョーカーを独りになんてしない。
「ジョーカーは私のものよ」
宣言し、ジョーカーを自分の手に入れる。
そうだ、ジョーカーは私でいい。
嫉妬に焼かれるジョーカーは、私にこそ相応しい。
「……冗談は止めてください、ジョーカーは私です」
しかし、さとりは退かない。
いつもののっそりとした動きからは想像も出来ない早さで、私の手からジョーカーを掠め取ってゆく。
「ふざけないで、ジョーカーは私よ」
私だって負けてはいない。
さとりがジョーカーを手札に加えるよりも早く、それを奪い取る。
「反則ですよ、それは」
そう言って奪い取るのは、やはりジョーカー。
「一回引いたものはあんたのものでしょう?」
奪うのは、ジョーカー。
「まだ半分は貴女のものです」
またジョーカー。
「なら、もう半分も渡しなさいよ」
エースのカードを放り投げて、ジョーカー。
「断ります、半分は既に私のものです」
ジョーカー
「あんたのものは私のものよ」
ジョーカァー
「ガキ大将理論を持ち出さないでください。似合いませんよ」
ジョーカー!
「なんだか外が騒がしくなってきた気がするんだけど」
ジョォゥカァァァァー!
「みんな帰ってくる時間じゃないですか。夕食の準備をしなければ」
既にお互いエースのカードなんて持っていない。
ただひたすら、テーブル越しにお互いの手の中のジョーカーを奪い続けるだけ。
気がつけば、ババ抜きはとっくに終わってしまっていた。
「私が準備してあげるから、それを渡しなさいって」
「結構です。あの子達にパルスィの料理なんて危なっかしくて食べさせられません……っ!」
ガツンと鈍い音が響く。
私からジョーカーを取り上げた拍子に、さとりが肘をテーブルにぶつけてしまったのだ。
それと同時に、プラスチックを叩く音がして、何かがテーブルから落ちた。
「ちょっと、すごい音したわよ。大丈夫?」
「大丈夫・・・・・・じゃない、かも・・・・・・」
悶絶するさとりの傍にそれは転がっていた。
それが何かが分かったとき、
「……ッはは」
笑いがこみ上げてくるのが押さえられなかった。
「……もういいわ、降参よ降参。そのジョーカーはあんたのもの」
腕を押さえて痛みに耐えるさとりの隣に歩み寄ると、馬鹿ねぇ、と自分の頭を小突く。
さとりは、なにが?とそんな表情を向けてくるが、気にせず続けた。
「最初から、妬む必要なんてなかったのよ」
言いながら、しゃがみこんでいるさとりの隣に、同じくしゃがむ。
そこに落ちていたものを拾い、ほら、とさとりに手渡すと、さとりはしばらくそれを見つめて、嬉しそうに笑い始めた。
「ふふ……全く、何をしていたんでしょうね。私達は」
私の言いたいことの意味が分かったのだろう。
さとりは一度深呼吸をした後、ゆっくりと立ち上がる。
そして手元にあったジョーカーをテーブルの上に置くと、残っていた紅茶を一気に飲み干した。
外していたさとりの『目』を付け直すと、しゃがみこんだままの私に振り返って、手を伸ばす。
「では、夕食の準備を始めましょうか。ふたりで」
「……そうね、結局引き分けみたいだしね」
さとりに手を取ってもらって、立ち上がる。
そしてそのまま私達は、キッチンへ向かった。
・
・
・
部屋に残されたのは、何枚かのクッキーと、少しだけ残った紅茶。
そして乱雑に投げ出された、54枚のトランプ。
25組のペアがそれぞれ隣り合って、集まり、大きな輪になる。
そんな場所から離れて置かれた二色のエースの隣には、同じ色、同じ絵柄の二枚のカード。
54枚の中にたった一枚だけ存在する、ジョーカーのペア。
そう、ジョーカーは2枚ある。
ジョーカーは独りになんてならない。
輪から弾かれた、世界の隅っこで
ふたりの道化は寄り添い、笑い合う。
手元の紅茶から立ち上がる湯気を視界の隅に、私は彼女に手を伸ばす。
しかし、もう数センチほどで彼女に届くかという所で、私の手は、その動きを止めた。
手を掛けようとした瞬間、彼女が笑ったからだ。それもニタリ、という笑い方で。
……まずい。
きっとこれに手を付けてはいけないのだと、直感が告げる。
決断を失った私の手は彼女の前を右へ左へと彷徨う。
目を細めてみたりしても、透けて見えてくる訳はない。
ゴクリと、唾を喉に通すことしか私には出来なかった。
そうして、秒針の針が時間を刻む音が私の焦燥感を煽り始めたころ、彼女が口を開く。
「……早く、してくれませんか?」
その口調に混じる呆れの色が、私の心を更に揺さぶった。
どれを取ったらいい、いや、どれを取ってはいけない。
結局、混乱した私の手は、最初に選んだ隣のカードを選んでいた。
余裕の表情で紅茶を口にする彼女に構わず、一度軽く深呼吸。
そして手を掛け、祈り、一気に抜き取る。
一瞬の出来事。
しかし、その瞬間、私の手の影で彼女がまたニヤリと笑うのが見えてしまった。
しまった、と気付くが、もう遅い。
「……最悪」
私の手の中で、道化師が笑っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「10です」
「……3、よ」
向かい合う私達の間のテーブルに、2枚づつ、カードが置かれていく。
その隣には綺麗に焼かれたクッキーと、紅茶の入ったティーポット。
その内の一枚を手に取り、八つ当たりをするかの様に乱暴にかじる。
ほどよいバターの香りが紅茶と交わって、私の心を少しだけ落ち着かせた。
「……分かっていますね?」
「わざわざ確認してくるなんて、もう勝利宣言かしら?」
強がって見せるが、正直なところ勝てる気がしない。
負けたほうが夕食を準備する。
そんな賭け事から始まったババ抜きは、やはり私の不利なまま進んでいる。
そもそも心理的要素の強いこのゲームで彼女に、さとりに勝つことなど最初から無理な話なのだ。
完全にこちらの動きも、表情も、考えていることすらも読みきってくる彼女には。
「勝利宣言だなんてそんな……私はただ知っているだけです。この勝負の結末を」
だから、そうと知っていながらこの勝負を挑んだ私は馬鹿だ。
ジョーカーを一度も引かなければ勝機はあるなんて、そんなほんの僅かな希望にすがった数分前の自分を張り倒してやりたい。
「そんなに自分を責めるものではありませんよパルスィ。……そうですね、もう一度貴女に勝機を授けてあげてもいいんですよ?」
嫌らしく笑うと、さとりは手を伸ばす。
もちろんその先にあるのは、こちらを向いて私をあざ笑っているジョーカー。
少しだけ他のカードより頭を出しておくなんて、そんなありきたりなフェイントが通じるわけは無かった。
「そんな情けなんて必要ないわ」
手を変えよう。
そう思って、さとりの手が届くよりも先に、カードを手元に引き寄せる。
行き場を失った手を引っ込めると、分かっていましたよ、とさとりは笑った。
「分かってるならそんな事言わないで、不愉快よ」
「すみませんね、困ってる人を見ると助けてあげたくなるのですよ」
「踏みつけたくなる、の間違いでしょ……ほら」
手元で並べ替えたカードを、自分でも確認せずにさとりの前に広げる。
私の考えが及ばない、半ばやけくそな戦略。
いかに私の考えていることが分かっても、これならばどうしようもないはずだ。
というか、これしか手はないのだ。
「どう?これでもジョーカーを見つけられる?」
しかし、さとりは崩れない。
動揺ひとつせず、静かにクッキーをひとつ手に取ると、ほんの一部を口にして、紅茶に口をつける。
ほぅ、と息を吐くと、ささやくような声で呟いた。
「……3枚を下へ、2枚を上へ、そして、上から4枚とんで2枚を下へ」
「なんのことよ」
「貴女はいつも同じ切り方をしますねパルスィ。まぁ自分でも気がつかないのでしょうが」
その言葉と表情に、ゾクリとする。
そんなはずは、さとりの言うとおりのはずはないんだ。
私は適当にカードを混ぜた、はずだ。
さとりの手の先にジョーカーがあることなんて無い、はずだ。
しかし、いくら自分に言い聞かせても、予感は頭から離れない。
ゆっくりとこちらへ向かってくるさとりの右手が、なんだか恐ろしい。
「パルスィ」
と、さとりの右手がカードの目の前でピタリと止まった。
驚いた私は、反射的に目をつぶってしまう。
「……どうして私がジョーカーの場所を知っているのか、分かりますか?」
真っ暗になった世界に、さとりの声が響く。
いつもよりオクターブ低くて静かな、でも力強い声。
「どうしてって、それは私の考えを読んで……それででしょう?」
恐る恐る目を開けると、さとりはこちらを見てはいなかった。
うつむいたまま、手だけをこちらに向けて動かない。
「残念ですが、違いますよ」
「違うの?じゃあなんでよ」
紅茶の湯気を掻き分けて、ゆっくりと、さとりは顔を上げる。
そして意を決したように私の手元から一枚のカードを奪って、前髪を指で弾く。
口元に笑みを忍ばせながら、さっきよりもドスの効いたような、低い声で、言った。
「……私自身が、ジョーカーだからですよ」
「…………は?」
灼熱地獄が、その活動を停止した、そんな気がした。
「………………………」
空いた口が塞がらないとはこのことだ。
今、賢く大人しいさとりさまのものとは思えないような言葉が飛び出したような気がするが。
ま、まぁ、気のせいだろう。
「ですから、私自身がジョーカー……」
「馬鹿じゃないの?」
残念ながら気のせいじゃなかった。
「ひどいじゃないですか、せっかくの私の決め台詞を馬鹿呼ばわりとは」
「決め台詞?あれが?」
「ええ、格好良いでしょう?」
ふふん、と腰に手を当て、胸を張る。
こんな台詞をさとりが自分で考えられるなんてのは信じられないし、黙々とノートに思いついた決め台詞をメモっているさとりなんて想像したくも無い。
他のものに影響されやすいさとりのことだ、大方どこかの本で言っていたとかそんな感じなんだろう。
しかし問題は、こいつは本当にこんなキザったらしい台詞が格好いいなんて思っているということだ。
「……格好よくないんですか?」
「少なくとも、あんたには似合わないわね」
「そうですか?」
「そうよ、あんたは髪留めにクリップでも使ってなさい」
おかしいですね、と首をかしげるさとり。
おかしいのはあんたの頭だと突っ込んでやりたいが、後々からかいの材料になるかもしれないし、今は放置しておこうと思う。
「……まぁ、いいでしょう。決め台詞は追々考えるとして」
さとりは食べかけのクッキーを口の中に放り込んで、ムシャムシャと小さな口を動かす。
そして、紅茶で流し込もうとするが、
「・・・・・・っ!」
喉に詰まったのか、ケホケホとむせてしまった。
「ちょっと、何動揺してるのよ。大丈夫?」
背中を擦ってやろうかと席を立つが、さとりは大丈夫、と私を手で制した。
「少し食べるのを急いでしまっただけですから。そんなことより」
なんとか呼吸を落ち着かせて、私の方へ向き直る。
呼吸を整えてから、また、ふふん、と笑うと、取っていったカードを指に挟み、私の目の前で裏から表にひっくり返した。
「ジョーカー、いただきました」
私に見せ付けるように、道化師が笑っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「……妬ましいわ」
お互いに手札がだいぶ少なくなってきた頃、ふと、そんなことを思った。
「またいつもの発作ですか」
「人を病人みたいに言わないでよ」
「違うのですか?」
「あんたは私を何だと思ってるのよ。……まぁいいわ、これ見てよ」
私がさとりの手札から引いてきたのはクラブの9。
私の手札にあったダイヤの9とのペアで、手札から場に置かれる。
寄り添う二枚のカードを見て、さとりは溜息を吐いた。
「あぁ、そういうことですか」
「そういうことよ」
黒い9と赤い9。
ふと、黒と赤という2色に、男女を連想してしまったのだ。
「ふたつに引き裂かれた男女がようやく出会って自由という場を得るなんて!あぁ!なんて妬ましい!……ですか」
オペラ歌手の台詞のように、手振りまでおまけしてさとりは私の考えたことを声に出す。
余りにも演技掛かったその表現を見ていたら、顔が熱くなるのを感じた。
「自分で思っておいてなんだけど、恥ずかしいわね」
「はい、私にはこんな発想が浮かぶ貴女が妬ましいですよ。全く」
やれやれといった素振りをした後、さとりは私の手札に手を伸ばす。
「……では、こんなのはどうですか?」
そういってさとりが引いていったのはスペードの6。
……ということは出てくるのはダイヤかハートの6か。
6といえばトランプでいう真ん中の数字、最も多くの数字に囲まれた数字だ。
つまりは一番たくさんの人に見守られながらペアを見つけるということになる。
大勢から祝福され、多少は嫉妬され、一緒になるふたり。
……結果、妬ましい。
「はいはい妬ましい妬ましい。ですが、きっと私は貴女の想像を裏切りますよ?」
そう言って、引いてきたカードを手札とあわせ、2枚1組で頭上に掲げる。
そのまま一気に振り下ろすと、テーブルに2枚のカードを叩きつけた。
あまりの衝撃に、クッキーの皿と、私達のカップが音を立てる。
「さぁ!どうですか!?」
その動作だけで息を上げたさとりの指の先には、黒い6が2枚。
クラブの6とスペードの6。
それは確かに、私の予想を裏切ってはいたけれど、
「どうって……何を妬めばいいの?」
男と男が結ばれて、いったい何に嫉妬しろというのだろうか。
意味が分からずにキョトンとしている私の前でさとりは何か言いたそうにしているが、口をモゴモゴするばかりで、言葉を発しない。
「……なんでもありません!」
やがて諦めたのか、乱暴にクッキーを掴むとバリバリと噛み砕いた。
「変なの…」
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そんなどうでもいいことを言い合いながらカードを引いているうちに、ゲームは進む。
元々ふたりでするババ抜きなんて、ジョーカーさえ引かなければ手は進むのだ。
おまけに最初に配られた中にあったペアはそのまま使われること無く、ゲームは開始される。
そんなに長引くことはない、すぐに終わるはずのゲームだ。
現に、さとりの手から2枚の赤いキングが場に置かれて、さとりの残りの手札は2枚。
ダイヤのエースと、自分で引いてきたままさとりの手の中に納まり続けていたジョーカー。
そして今度は私がカードを引く番。
ここでエースを引くことが出来れば私の勝ち。
序盤でジョーカーを引いていったさとりの自爆、という結末でゲームは終わる。
あのさとりからエースを引くことが出来れば、の話だが。
「さぁ、エースはどちらでしょう?」
ニヤリと笑って、さとりはカードを交差させる。
右か、左か。
エースか、ジョーカーか。
ふたつにひとつの選択。目をつぶってやけくそに引けば確率は50%。
「優柔不断は嫌われますよ?」
言って、左のカードの頭を少しだけ上げる。
たったそれだけの動作が、私の迷いを増大させる。
私の考えを読みきっているさとりは、何のためにこんな事をするのだろうか。
頭を出したほうを私が取ると、そう考えたのか、天邪鬼にアピールしていない方を取ろうとするのか。
要は、私ならこんなときどう考えるのかを当てはめればいいだけなのだ。
……いや、でも、その私の考えの裏を掻こうとしているのかもしれない。
そう考え出すと後は堂々巡り。
決断なんて出来ない。結局はただやけくそに引くのが正解。
「は~や~く~」
「五月蝿いわね!引けばいいんでしょ、引けば!」
そうだ、どうせ考えても仕方が無いんだから。
そう自分に言い聞かせ、要は諦めて、目を閉じ、右のカードへ手を伸ばした瞬間、
──私自身が、ジョーカーだからですよ
さとりの言葉が脳裏をよぎり、悪寒が全身が駆け巡った。
ピタリと手を止めて、恐る恐る目を開け、視線を下へ移す。
そこには今までペアになっていったカード達が乱雑に置かれている。
仮に今、私が50%の確率を引き当てたとしたなら、ここにエースが2枚加わわって、ゲームは終わり。
最初の数字であるエース。
皆を引っ張るはずのエースが最後に残されるというのは少しおかしいけれど、きっと他のカードたちに迎えられて、ゲームの幕を降ろす。
おめでとう、と皆に祝福されて。
……それなら、残ったジョーカーは?
考えてみれば、このゲームは仲間はずれを決めるゲームだ。
お互いにジョーカーを、嫌な奴を押し付けあって、そして、勝利する。
そして敗者の手の中には、誰とも合うことのない、独りぼっちのジョーカーが1枚残る。
隣のカード達が次々とペアを見つけ、自分の隣を去っていくのをただ笑って眺めている事しか出来ないジョーカー。
独りになると、そんなルールに縛られているのに、嘲るように笑うジョーカー。
そんなジョーカーは、何を思うのだろうか。
「……パルスィ?どうかしましたか?」
「……妬ましいと、そうは思わない?」
「え?」
「自分は独りなのに、エースがふたりでいなくなるなんて、嫉妬するしかないじゃない?」
私なら、耐えられない。
私だけが独りだなんて。
ジョーカーが独りで終わるなんて、気に入らない。
「だから・・・・・・一緒になんてさせないわ、絶対に!」
言って、左側のカードを叩き落とす。
驚くさとりの手から落とされたカードはもちろん、ジョーカー。
当然だ、エースをふたりになんてさせない。
ジョーカーを独りになんてしない。
「ジョーカーは私のものよ」
宣言し、ジョーカーを自分の手に入れる。
そうだ、ジョーカーは私でいい。
嫉妬に焼かれるジョーカーは、私にこそ相応しい。
「……冗談は止めてください、ジョーカーは私です」
しかし、さとりは退かない。
いつもののっそりとした動きからは想像も出来ない早さで、私の手からジョーカーを掠め取ってゆく。
「ふざけないで、ジョーカーは私よ」
私だって負けてはいない。
さとりがジョーカーを手札に加えるよりも早く、それを奪い取る。
「反則ですよ、それは」
そう言って奪い取るのは、やはりジョーカー。
「一回引いたものはあんたのものでしょう?」
奪うのは、ジョーカー。
「まだ半分は貴女のものです」
またジョーカー。
「なら、もう半分も渡しなさいよ」
エースのカードを放り投げて、ジョーカー。
「断ります、半分は既に私のものです」
ジョーカー
「あんたのものは私のものよ」
ジョーカァー
「ガキ大将理論を持ち出さないでください。似合いませんよ」
ジョーカー!
「なんだか外が騒がしくなってきた気がするんだけど」
ジョォゥカァァァァー!
「みんな帰ってくる時間じゃないですか。夕食の準備をしなければ」
既にお互いエースのカードなんて持っていない。
ただひたすら、テーブル越しにお互いの手の中のジョーカーを奪い続けるだけ。
気がつけば、ババ抜きはとっくに終わってしまっていた。
「私が準備してあげるから、それを渡しなさいって」
「結構です。あの子達にパルスィの料理なんて危なっかしくて食べさせられません……っ!」
ガツンと鈍い音が響く。
私からジョーカーを取り上げた拍子に、さとりが肘をテーブルにぶつけてしまったのだ。
それと同時に、プラスチックを叩く音がして、何かがテーブルから落ちた。
「ちょっと、すごい音したわよ。大丈夫?」
「大丈夫・・・・・・じゃない、かも・・・・・・」
悶絶するさとりの傍にそれは転がっていた。
それが何かが分かったとき、
「……ッはは」
笑いがこみ上げてくるのが押さえられなかった。
「……もういいわ、降参よ降参。そのジョーカーはあんたのもの」
腕を押さえて痛みに耐えるさとりの隣に歩み寄ると、馬鹿ねぇ、と自分の頭を小突く。
さとりは、なにが?とそんな表情を向けてくるが、気にせず続けた。
「最初から、妬む必要なんてなかったのよ」
言いながら、しゃがみこんでいるさとりの隣に、同じくしゃがむ。
そこに落ちていたものを拾い、ほら、とさとりに手渡すと、さとりはしばらくそれを見つめて、嬉しそうに笑い始めた。
「ふふ……全く、何をしていたんでしょうね。私達は」
私の言いたいことの意味が分かったのだろう。
さとりは一度深呼吸をした後、ゆっくりと立ち上がる。
そして手元にあったジョーカーをテーブルの上に置くと、残っていた紅茶を一気に飲み干した。
外していたさとりの『目』を付け直すと、しゃがみこんだままの私に振り返って、手を伸ばす。
「では、夕食の準備を始めましょうか。ふたりで」
「……そうね、結局引き分けみたいだしね」
さとりに手を取ってもらって、立ち上がる。
そしてそのまま私達は、キッチンへ向かった。
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部屋に残されたのは、何枚かのクッキーと、少しだけ残った紅茶。
そして乱雑に投げ出された、54枚のトランプ。
25組のペアがそれぞれ隣り合って、集まり、大きな輪になる。
そんな場所から離れて置かれた二色のエースの隣には、同じ色、同じ絵柄の二枚のカード。
54枚の中にたった一枚だけ存在する、ジョーカーのペア。
そう、ジョーカーは2枚ある。
ジョーカーは独りになんてならない。
輪から弾かれた、世界の隅っこで
ふたりの道化は寄り添い、笑い合う。
これが初投稿とは…
指摘ありがとうございます。独自の発想っていうのは難しいですね……
しかもこのレベルで初投稿とは・・・これは妬ましい。
ネタの端々に放映中の半分こ怪人ネタが散りばめられてるw
と思いや剣ネタも含まれて入る気がしてきた。ラストとか作者さんのHNとか。
さとパル最高!!!!ひゃっほー!!
『ルーミャ!』『ジョォゥカァァ!』
wと剣を連想した
ジョーカーな二人ともに幸あらんことを。