姉は、寝転がる妹の上に馬乗りになった。
見下ろす先の妹は、すぅすぅと、安らかに寝息を立てるだけ。
「こいし……」
紫の短髪を揺らして、姉は妹の名前を静かに呟いた。
さとりは心が読める、誰の心でも、目の前にいるならば。
そういう種族なのだ。
誰の心も、彼女の前では丸裸。
嫌っている者も、好いている者も。嫌悪している者も、好奇を抱いている者も。
誰の心も、身体の前に掲げられた看板のようなものだった。
ただ一人を除いては。
「こいし……」
こいし。古明地こいし。
彼女の妹、愛しい妹。
世界で唯一、彼女が心を読めないもの。
心を閉ざした妹には、心がない。
感情がない、言葉がない、嘘がない、真実がない。
何もないのだ。
あるのは反射と無意識だけ。
眠るこいしの顔を、さとりは覗き込むように瞳に映す。
でも、そこには何も映らない、姿以外は何も映らない。
だから姉は、気が狂いそうな程の焦燥を、不安を、嫌悪を、忌避を、この妹を見るたびにおぼえてしまう。
そう、感情とは、自分に向けられる気持ちとは、さとりにとっては何処までも見通せて然るべきものだった。
相手が自分を好いてくれるなら、それはありがたい。
相手が自分を嫌うなら、それも仕方ない。
針がどちらかで、それがどんな深さで、どんな色で、どんな、どんな、何もかもを伴っていたとしても。
最早そんなことに彼女は動じない。
深淵のような暗闇の感情も。
天上のような眩い感情も。
見飽きて見飽きて、欠伸でも出そうな、退屈なものだった。
そこに、プラスの感想を抱くことはあっても、負の感情を思うことはなかった。
だが、彼女がどこまでも恐怖するものがあった。
それが、この妹の心だった。真白な心だった。目が痛くなるほどに、何も見えない心だった。
妹は呟く。笑いながら呟く。
「大好きだよ、お姉ちゃん」
無論嘘だ、そして真実だ。彼女の言葉には、心など欠片もこめられていないのだから。
意味のあるものではないのだ。ただ、音を並べただけと言ってもいい。
そしてまた、妹は呟く。笑いながら呟く。
「大嫌いだよ、お姉ちゃん」
無論、真実であり嘘である。彼女の言葉には、真意などというものがないのだから。
表裏もないのだ。形すら持てない、不定形なのだ。
なら、それならば、笑いながら自分のことを「好き」と言って、「嫌い」という、この妹の本当の心は、どっちなのだろう。
好き、なのか、嫌い、なのか。そのどっちかであってくれればいい。嫌いでもいい、どこまでもどこまでも、深く嫌ってくれても、そう思ってくれるのなら、それがいい。
さとりが恐ろしいのは。
妹の顔を見つめながら、吐き気のようなものを覚えて、さとりは胸に手を当てた。
本当に恐ろしいのは、そのどちらも存在しないことなのだ。
彼女の心の中に、この姉が、自分という存在が、何処にもいないことなのだ。
目の前にいて、言葉を交わして、そうしているのに、彼女の中にはまるで私が、さとりがいないのなら。
私は何なのだ、一体何なのだ。
道端の石ころと、何も変わらないじゃないか。
彼女にはそれが恐ろしかった、それが嫌だった、それが焦らせた、それに乱された、それが忌わしかった。
それでも本当に自分のことを、何とも思ってくれないのなら、それだって構わない。
それなら、諦めもつく。諦められる。
だが、彼女の心は何も映さない。何もわからない、何も。
だからこれほど、これほど恐ろしい存在は、彼女にはいなかった。
「こいし……」
姉はその名前を呟きながら、ゆっくりと、眠り続ける妹の細い細い首に手を這わせる。
ならいっそ、いっそ、この妹を消してしまえばいい。
恐怖の根源を、消し去ってしまえばいい。
そうすればまた、私だけが恐怖を知らないでいられる。
誰かとわかりあえない、恐れを抱かずにいられる。
ぎゅっと輪を作る様にして、少し体重をかける。
そうだ、だって私はこの妹を、怖がっているのだから、嫌っているのだから。
だから、そうしたって、何も思うはずがない。
「……っ」
はずがない、のに。
ぽたぽたと、滴が妹の寝顔に落ちて、滑り落ちていく。
相変わらず手を首にかけたまま、力を込めることも、体重をかけることも出来ずに、さとりはただくぐもった嗚咽を吐き出す。
だって、私はこの妹を嫌っているのだ、怖がっているのだ。
なのに、それなのに。何で涙がこぼれるのだろう。
どうして、この妹の心が見えないのが、こんなに悲しくて、悲しくてたまらないのだろう。
「どうして……」
どうしてこの子がわからないのが、こんなにも――。
たった一言でもいい、真実の、本当の気持ちを言って欲しかった。
「大好きだよ、お姉ちゃん」
「嘘ばっかり……」
さとりは笑いながら呟く。笑いながら、泣きながら。
だって心がこもっていないのなら、そんなの嘘っぱちではないか。いや、嘘ですらない。
強めの酒を一人呷る。酔ってしまいたかった、潰れてしまいたかった。
「本当のことを言ってよ……」
こんな気持ちを、忘れてしまいたかった。
咽び泣きながら、さとりは呟く。
「お姉ちゃんには、わからないのよ……」
嫌いでもよかった、恨んでいても、憎んでいてもよかった。
どんな気持ちでもいいから、あの子のほんとうが知りたかった。
どうやら潰れてしまったらしい姉は、グラスを持ったまま、机に突っ伏して静かに寝息を立てていた。
灰銀の髪を揺らしながら、妹は近づき、少し屈んで、姉のその寝顔を見つめる。
泣き腫らした顔、酷い顔。涙の跡が乾いて見える。
それをじっと見つめたまま、妹は表情を全く変えなかった。呆れた顔もしなかった、辛そうな顔もしなかった。
ただ、もう少しだけ近づいて、姉の目の端にまだ少しだけ溜まった涙を、そっと舌で舐め取る。
そして顔を離すと、音を立てないように気をつけて、帽子掛けから愛用のそれを手に取り、そっと部屋から出ていった。
見下ろす先の妹は、すぅすぅと、安らかに寝息を立てるだけ。
「こいし……」
紫の短髪を揺らして、姉は妹の名前を静かに呟いた。
さとりは心が読める、誰の心でも、目の前にいるならば。
そういう種族なのだ。
誰の心も、彼女の前では丸裸。
嫌っている者も、好いている者も。嫌悪している者も、好奇を抱いている者も。
誰の心も、身体の前に掲げられた看板のようなものだった。
ただ一人を除いては。
「こいし……」
こいし。古明地こいし。
彼女の妹、愛しい妹。
世界で唯一、彼女が心を読めないもの。
心を閉ざした妹には、心がない。
感情がない、言葉がない、嘘がない、真実がない。
何もないのだ。
あるのは反射と無意識だけ。
眠るこいしの顔を、さとりは覗き込むように瞳に映す。
でも、そこには何も映らない、姿以外は何も映らない。
だから姉は、気が狂いそうな程の焦燥を、不安を、嫌悪を、忌避を、この妹を見るたびにおぼえてしまう。
そう、感情とは、自分に向けられる気持ちとは、さとりにとっては何処までも見通せて然るべきものだった。
相手が自分を好いてくれるなら、それはありがたい。
相手が自分を嫌うなら、それも仕方ない。
針がどちらかで、それがどんな深さで、どんな色で、どんな、どんな、何もかもを伴っていたとしても。
最早そんなことに彼女は動じない。
深淵のような暗闇の感情も。
天上のような眩い感情も。
見飽きて見飽きて、欠伸でも出そうな、退屈なものだった。
そこに、プラスの感想を抱くことはあっても、負の感情を思うことはなかった。
だが、彼女がどこまでも恐怖するものがあった。
それが、この妹の心だった。真白な心だった。目が痛くなるほどに、何も見えない心だった。
妹は呟く。笑いながら呟く。
「大好きだよ、お姉ちゃん」
無論嘘だ、そして真実だ。彼女の言葉には、心など欠片もこめられていないのだから。
意味のあるものではないのだ。ただ、音を並べただけと言ってもいい。
そしてまた、妹は呟く。笑いながら呟く。
「大嫌いだよ、お姉ちゃん」
無論、真実であり嘘である。彼女の言葉には、真意などというものがないのだから。
表裏もないのだ。形すら持てない、不定形なのだ。
なら、それならば、笑いながら自分のことを「好き」と言って、「嫌い」という、この妹の本当の心は、どっちなのだろう。
好き、なのか、嫌い、なのか。そのどっちかであってくれればいい。嫌いでもいい、どこまでもどこまでも、深く嫌ってくれても、そう思ってくれるのなら、それがいい。
さとりが恐ろしいのは。
妹の顔を見つめながら、吐き気のようなものを覚えて、さとりは胸に手を当てた。
本当に恐ろしいのは、そのどちらも存在しないことなのだ。
彼女の心の中に、この姉が、自分という存在が、何処にもいないことなのだ。
目の前にいて、言葉を交わして、そうしているのに、彼女の中にはまるで私が、さとりがいないのなら。
私は何なのだ、一体何なのだ。
道端の石ころと、何も変わらないじゃないか。
彼女にはそれが恐ろしかった、それが嫌だった、それが焦らせた、それに乱された、それが忌わしかった。
それでも本当に自分のことを、何とも思ってくれないのなら、それだって構わない。
それなら、諦めもつく。諦められる。
だが、彼女の心は何も映さない。何もわからない、何も。
だからこれほど、これほど恐ろしい存在は、彼女にはいなかった。
「こいし……」
姉はその名前を呟きながら、ゆっくりと、眠り続ける妹の細い細い首に手を這わせる。
ならいっそ、いっそ、この妹を消してしまえばいい。
恐怖の根源を、消し去ってしまえばいい。
そうすればまた、私だけが恐怖を知らないでいられる。
誰かとわかりあえない、恐れを抱かずにいられる。
ぎゅっと輪を作る様にして、少し体重をかける。
そうだ、だって私はこの妹を、怖がっているのだから、嫌っているのだから。
だから、そうしたって、何も思うはずがない。
「……っ」
はずがない、のに。
ぽたぽたと、滴が妹の寝顔に落ちて、滑り落ちていく。
相変わらず手を首にかけたまま、力を込めることも、体重をかけることも出来ずに、さとりはただくぐもった嗚咽を吐き出す。
だって、私はこの妹を嫌っているのだ、怖がっているのだ。
なのに、それなのに。何で涙がこぼれるのだろう。
どうして、この妹の心が見えないのが、こんなに悲しくて、悲しくてたまらないのだろう。
「どうして……」
どうしてこの子がわからないのが、こんなにも――。
たった一言でもいい、真実の、本当の気持ちを言って欲しかった。
「大好きだよ、お姉ちゃん」
「嘘ばっかり……」
さとりは笑いながら呟く。笑いながら、泣きながら。
だって心がこもっていないのなら、そんなの嘘っぱちではないか。いや、嘘ですらない。
強めの酒を一人呷る。酔ってしまいたかった、潰れてしまいたかった。
「本当のことを言ってよ……」
こんな気持ちを、忘れてしまいたかった。
咽び泣きながら、さとりは呟く。
「お姉ちゃんには、わからないのよ……」
嫌いでもよかった、恨んでいても、憎んでいてもよかった。
どんな気持ちでもいいから、あの子のほんとうが知りたかった。
どうやら潰れてしまったらしい姉は、グラスを持ったまま、机に突っ伏して静かに寝息を立てていた。
灰銀の髪を揺らしながら、妹は近づき、少し屈んで、姉のその寝顔を見つめる。
泣き腫らした顔、酷い顔。涙の跡が乾いて見える。
それをじっと見つめたまま、妹は表情を全く変えなかった。呆れた顔もしなかった、辛そうな顔もしなかった。
ただ、もう少しだけ近づいて、姉の目の端にまだ少しだけ溜まった涙を、そっと舌で舐め取る。
そして顔を離すと、音を立てないように気をつけて、帽子掛けから愛用のそれを手に取り、そっと部屋から出ていった。
公式設定通りならこんな感じなのかなぁ。さとりまじ可哀相です