お姉ちゃんの作るレモネードは少し苦い。
秘密を尋ねたら、砂糖の量が控えめなのと、レモンの皮を使うからだって言ってたっけ。
なるほどーって、多分私は感心したような表情のまま、露の浮いたグラスを握り締めていたのだと思う。
お姉ちゃんの作るレモネードが好きだった。
甘さよりも苦さが先にくるレモネード。優しいだけじゃない、ちょっぴり切ないような、あるいは儚いような、そんな苦み。
レモンと砂糖、あとは冷たい水を混ぜ合わせれば出来上がりの簡単なレシピなのだけど、私にはどうしても同じ味は出せなくて、だからあの苦みが恋しくなると私はお姉ちゃんにおねだりするのだ。
お姉ちゃんはどれだけ忙しくても、私が頼めばいつだってあのレモネードを作ってくれた。
私は椅子に座って、足をぶらぶらさせながら、レモンを絞るお姉ちゃんを見ていた。
会話は少ないし、お姉ちゃんの表情はいつものような眠たげなそれだったけど、でもお姉ちゃんが私の為に一生懸命作ってくれてる事なら分かってるから、十分すぎるくらい満足だった。
もしかしたら、マドラーで氷のたっぷり入ったグラスをからんからんとかき混ぜるお姉ちゃんの細い腕が好きだったのかもしれない。
地底じゃ、あの皮膚をじりじりと焼く太陽は見えないのだけど、でも、きっと溜まりに溜まった地熱が噴き出ているんだと思う。
夏。何もしなくとも汗がにじむような季節。
なんだか酷く喉が渇いているような気がして、だから私は放浪する事を中断してふらっと地霊殿まで戻って来たのだった。
大扉を開ける。
「ただいまー」
元気よく言い放ったつもりだったけど、誰もおかえりとは言ってくれなかった。
多分、みんな、そんな余裕がなかったんだと思う。
地霊殿は妙に騒がしかった。
なんとなく雰囲気が焦燥に満ちているのだ。ペット達は落ち付きなくあちらこちらをうろうろしている。
何かが起きているのは分かる。でもそれが一体何なのかは判然としないから、私は今一つ落ち付かない気持ちでエントランスをこつこつと歩いていたんだった。
途中、膝を抱えて、えぐえぐと声を出して泣いてる鴉の子を見た。腰まで伸ばした真っ黒い髪と、やはり真っ黒な大きな翼。
「お空? いったい何があったのかな? こんな地霊殿、あんまり見た事ないよ」
しゃがんで目線の高さを同じにして、そっと尋ねてみる。
こっちに視線を向けたお空の顔は涙でぐちゃぐちゃで、声も涙のせいで震えていた。
「ああ……こいしさまぁ……、あのね、さとりさまが、お部屋のなかから出てこないの。ご飯もっていっても食べてくれなくて。それでね、なぐさめに行こうとしたら、おりんがすごく怒っていて……」
お空の説明は要領を得なかったけど、なんとなく察する事はできた。
そうか、お姉ちゃんまたやっちゃったか。しかし、これだけの騒ぎになるという事は今回はいつもよりだいぶ重いらしい……。
「なるほどね。ありがとう、お空。……お姉ちゃんの事は私がどうにかするから。だから、泣き止んで待っていて欲しいな」
ぽんぽんとお空の頭を撫でて、私は立ちあがる。
きょとんとしたようなお空の視線を背中に受け、目的地へ向けて歩き出した。
……さてさて、そこでは怖い怖い黒猫さんが仁王立ちになってるんだろうけど、一体どうしたものだろうね?
お姉ちゃんの部屋に通じる、固く閉じた扉。
その前で腕を組んで、怖い顔してるお姉ちゃんのペット。長身で赤の三つ編み。
「お燐。ただいま」
「こいし様……帰って来られてたんですか」
胡乱な瞳だった。
久しぶりだってのに、お燐は私の帰還をあんまり歓迎していないらしい。
「お姉ちゃんが、何だかよくない事になってるって聞いた」
「ええ、部屋に引き籠ってかれこれ三日になります」
「今までもたまにあったけど、今回は特に長いね」
「……詳しい事情をあたいは知りません。所用を終えて帰ってきたら今のような状態になっていました。ただ、きっと酷く心が傷つくような、重大な事があったのでしょう」
「多分、そんなに大した事じゃないのよ。少なくとも傍から見ればね。でも、必要以上に悪く考えちゃうのは、お姉ちゃんの悪い癖だから」
「……さとり様は、繊細なお方ですから」
「で、お燐はどうして、お姉ちゃんの部屋の前でそんな怖い顔して立ってるのかな? 警護のつもり?」
「誰も通さないためです。さとり様は心が読めますから。いたずらに誰かと会えば、それだけでさとり様の傷は酷くなるかもしれません。
必要なのは時間だと思うのです。さとり様が、心に折り合いを付け、自ら起き上がるまでの時間。
さとり様は聡いお方ですから、多少時間がかかっても、必ず自分自身で解決できるはず。あたいはその邪魔をさせないため、ここに張り付いているのです」
「なるほどね。まあ、お燐がそうしたいなら、いいんじゃないかな。私は通るけど」
お燐は少し顔をしかめて、でも体を横に移動させて、扉の前から退いた。
「あれ、あっさり通してくれるんだ。ちょっと意外かも。てっきり、頑としてそこから動かないものだと思ってたから」
「こいし様だから、あたいは一歩引いているんです。他の誰かなら、さっきみたいな話をする事すらしませんよ」
でも――そう、お燐は続けた。
「絶対にさとり様を悲しませないでくださいね。もしさとり様に何かあったなら、あたいは例えこいし様相手でも、きっと我慢できない……いや、しようとすらしないでしょうから。
そのはらわたをかっ捌いて、中身をくり抜いて灼熱地獄跡に放り込んでやります」
「お燐にそれができるとは思えないけど」
「覚悟の上ですよ。あたいの臓器と生命がごっそり抉られるだけでその目的を達成できるなら、全然安い代償です」
「お姉ちゃん愛されてるなぁ。まったく、こんなに愛されてるのに、なのにお姉ちゃんったら気がつかない振りをして……もしかして本気で気づいてないのかも?
心を読めるくせに、それと触れ合うのが不器用すぎるのがあの人だから。今だってきっとそう。とても些細な事で自分自身を責め続けてるんだと思うよ」
「……正直嫉妬しています。あたいがどんな言葉をかけようとも、さとり様は私に曖昧な、繕ったような笑顔を向けてくれるだけだから。
でも、あたいでは、あの沈みこんださとり様をどうにもする事ができない。……だから、こいし様、さとり様をお願いします」
「大丈夫。まかせて。私はお姉ちゃんの事大好きだし。それに、お姉ちゃんも私の事大好きに違いないんだから」
お燐の視線を背中に受け、私はドアノブに手をかけたのだった。
「お姉ちゃん。入るよ?」
暗い部屋。分厚いカーテンの隙間から僅かに入りこむ光だけが、唯一の光源だった。
部屋の中心。ダブルサイズのベッドの上、毛布を羽織る事もなく、お姉ちゃんはそこで横たわっていた。
背中を丸めて、ぴくりと動く事もせず、殆ど死んでいるみたいに。
「ただいま……部屋に引き籠って、出てこないお姉ちゃんを見たのは結構久しぶりな気がするね」
ベッドの端っこに腰かける。
この時になって、ようやくお姉ちゃんは私に視線を向けてくれた。
「自己嫌悪、ですよ……」
ラベンダー色の綺麗な瞳。でも今は何だか、とっても虚ろに見えた。
「私は所詮覚り妖怪。嫌われる事が大前提の生物。
少し夢を見てしまっていたんでしょうね。理解なんて、される筈がないのに。
……来客があったんです。古い知り合い。ちょっと高価なお土産を貰って、私はとっておきの紅茶を出して、二人歓談して。
彼女は素敵な人だったから、思わず知りたくなった。深層を覗いてみたくなった。それが、間違いでした……。
ええ、彼女が悪い訳じゃない。心読まれる事を分かって私に会いに来てくれたのです。むしろ私は彼女に感謝しないといけない。
しかし……彼女ですら、そう、そんな彼女ですら本音では私の事を気味悪く思っていたというのですから……。
分かり切っていた事ではあったのです。思い上り。自惚れ。私は愚かだったのです。嫌悪以上の何かを求めるなんて……」
ぽつりぽつりと、お姉ちゃんは言葉を絞り出していた。
あまり抑揚のない、掠れたようないつもの声。でも言葉の端が孕んでいる陰鬱さと重苦しさは、心が負った傷跡の深さを物語っているようでもあって。
私はそっとお姉ちゃんの手を握り締めた。骨ばって、血行のよくない、よく知ったお姉ちゃんの手だった。
「まあ、分かるけどさ。心って綺麗なものじゃないし。
そう、お姉ちゃんの言う通り、顔に張り付けられた笑顔とは裏腹に、内心はどす黒い蔑みであったり。あるいは一見して好意のように見えた感情がその実怯えであったり。
ほんと儘ならないよ、心って。だから見るのに耐えきれなくて私はこの眼を閉ざしちゃったんだし」
時々、思うのだ。
このひとは、瞳を閉じてしまった方が絶対幸せになれる。
きっと優しすぎるんだ。
その癖酷く臆病で、打たれ弱くて。
何があっても自分のせいにしちゃうのがお姉ちゃんだから。
自責するだけで生きてきた可哀想な覚り妖怪。
背負ってきた苦痛を理解するなんてこと、誰にもできない。
……ただ一人を除いては。
「ねぇ、お姉ちゃん。私を見て?」
そう、お姉ちゃんを理解してあげれるのは、お姉ちゃんと同じ傷を知る私しかいないじゃない?
そして、お姉ちゃんが、完璧に信じる事が出来るのは、お姉ちゃんにすら心覗けない私しかいないじゃない?
「お姉ちゃんは強いよね……その瞳のせいで、今まで何度辛い目にあったの? 何度心に傷を負ったの?
でも、閉じない。私と違って、ずっと苦しみに耐え、信じる事をしてきた。本当に、お姉ちゃんは強いよ……」
横たわるお姉ちゃんに、覆いかぶさるようにした。
重なる胸と胸。お姉ちゃんの拍動が伝わってくるのを感じながら、耳元で囁く。
「でも、たまには撒き散らしていいんだよ? 呪詛だって吐いていい。
私が全部受けとめてあげる。そのうえで、何回でも慰めてあげる」
そして、ぎゅっと抱きしめて、唇を奪った。やや強引に。
甘さよりも苦さが先立つ、とても私たちらしいキスだった。
うっすらと、お姉ちゃんの瞳には涙が浮かんでいた気がした。
そう、泣いていいの。あとで私が全部拭ってあげるからさ。
唇を重ねたまま、私達はしばらくそんなふうにしていたのだった。
「……落ち着いた?」
「ええ、だいぶ。……心配おかけしました」
「よかった。じゃあ私、お姉ちゃんのレモネードが飲みたいな」
「……それくらい自分で作ればいいでしょう」
「お姉ちゃんのがいいの」
「きっと、お燐が凄い顔して睨んできますよ?」
「嫉妬されるくらいで丁度いいんじゃないかな。甘いだけのレモネードより、ちょっと苦い方が私は好き」
「……やれやれ。こいしはそういうところ、ほんと身勝手だと思います」
「でも、そんなところが可愛いと、自分じゃ思ってるよ」
「まあ、そりゃ、もちろん可愛いですけど……」
お姉ちゃんの作るレモネードは少し苦い。
ちょっぴり切ないような、あるいは儚いような、そんな苦みが、私は好きだった。
からんからんと、マドラーでグラスを掻き混ぜるお姉ちゃんの細い腕。
そう、これでいいんだ。
これからもきっとお姉ちゃんは一杯傷ついて、一杯自責して、時に引き籠っったりするんだろうね。
でも、それでいい。
そんな繊細で臆病で面倒で、でもとっても優しいお姉ちゃんが、私は大好きなんだから。
傷ついたら、何度だって私が慰めてあげる。キスだっていっぱいしてあげる。
だから、そのたびに手作りのレモネードが飲みたいなんて可愛らしい我が儘くらい、喜んで聞いてくれるよね?
ね? お姉ちゃん――?
秘密を尋ねたら、砂糖の量が控えめなのと、レモンの皮を使うからだって言ってたっけ。
なるほどーって、多分私は感心したような表情のまま、露の浮いたグラスを握り締めていたのだと思う。
お姉ちゃんの作るレモネードが好きだった。
甘さよりも苦さが先にくるレモネード。優しいだけじゃない、ちょっぴり切ないような、あるいは儚いような、そんな苦み。
レモンと砂糖、あとは冷たい水を混ぜ合わせれば出来上がりの簡単なレシピなのだけど、私にはどうしても同じ味は出せなくて、だからあの苦みが恋しくなると私はお姉ちゃんにおねだりするのだ。
お姉ちゃんはどれだけ忙しくても、私が頼めばいつだってあのレモネードを作ってくれた。
私は椅子に座って、足をぶらぶらさせながら、レモンを絞るお姉ちゃんを見ていた。
会話は少ないし、お姉ちゃんの表情はいつものような眠たげなそれだったけど、でもお姉ちゃんが私の為に一生懸命作ってくれてる事なら分かってるから、十分すぎるくらい満足だった。
もしかしたら、マドラーで氷のたっぷり入ったグラスをからんからんとかき混ぜるお姉ちゃんの細い腕が好きだったのかもしれない。
地底じゃ、あの皮膚をじりじりと焼く太陽は見えないのだけど、でも、きっと溜まりに溜まった地熱が噴き出ているんだと思う。
夏。何もしなくとも汗がにじむような季節。
なんだか酷く喉が渇いているような気がして、だから私は放浪する事を中断してふらっと地霊殿まで戻って来たのだった。
大扉を開ける。
「ただいまー」
元気よく言い放ったつもりだったけど、誰もおかえりとは言ってくれなかった。
多分、みんな、そんな余裕がなかったんだと思う。
地霊殿は妙に騒がしかった。
なんとなく雰囲気が焦燥に満ちているのだ。ペット達は落ち付きなくあちらこちらをうろうろしている。
何かが起きているのは分かる。でもそれが一体何なのかは判然としないから、私は今一つ落ち付かない気持ちでエントランスをこつこつと歩いていたんだった。
途中、膝を抱えて、えぐえぐと声を出して泣いてる鴉の子を見た。腰まで伸ばした真っ黒い髪と、やはり真っ黒な大きな翼。
「お空? いったい何があったのかな? こんな地霊殿、あんまり見た事ないよ」
しゃがんで目線の高さを同じにして、そっと尋ねてみる。
こっちに視線を向けたお空の顔は涙でぐちゃぐちゃで、声も涙のせいで震えていた。
「ああ……こいしさまぁ……、あのね、さとりさまが、お部屋のなかから出てこないの。ご飯もっていっても食べてくれなくて。それでね、なぐさめに行こうとしたら、おりんがすごく怒っていて……」
お空の説明は要領を得なかったけど、なんとなく察する事はできた。
そうか、お姉ちゃんまたやっちゃったか。しかし、これだけの騒ぎになるという事は今回はいつもよりだいぶ重いらしい……。
「なるほどね。ありがとう、お空。……お姉ちゃんの事は私がどうにかするから。だから、泣き止んで待っていて欲しいな」
ぽんぽんとお空の頭を撫でて、私は立ちあがる。
きょとんとしたようなお空の視線を背中に受け、目的地へ向けて歩き出した。
……さてさて、そこでは怖い怖い黒猫さんが仁王立ちになってるんだろうけど、一体どうしたものだろうね?
お姉ちゃんの部屋に通じる、固く閉じた扉。
その前で腕を組んで、怖い顔してるお姉ちゃんのペット。長身で赤の三つ編み。
「お燐。ただいま」
「こいし様……帰って来られてたんですか」
胡乱な瞳だった。
久しぶりだってのに、お燐は私の帰還をあんまり歓迎していないらしい。
「お姉ちゃんが、何だかよくない事になってるって聞いた」
「ええ、部屋に引き籠ってかれこれ三日になります」
「今までもたまにあったけど、今回は特に長いね」
「……詳しい事情をあたいは知りません。所用を終えて帰ってきたら今のような状態になっていました。ただ、きっと酷く心が傷つくような、重大な事があったのでしょう」
「多分、そんなに大した事じゃないのよ。少なくとも傍から見ればね。でも、必要以上に悪く考えちゃうのは、お姉ちゃんの悪い癖だから」
「……さとり様は、繊細なお方ですから」
「で、お燐はどうして、お姉ちゃんの部屋の前でそんな怖い顔して立ってるのかな? 警護のつもり?」
「誰も通さないためです。さとり様は心が読めますから。いたずらに誰かと会えば、それだけでさとり様の傷は酷くなるかもしれません。
必要なのは時間だと思うのです。さとり様が、心に折り合いを付け、自ら起き上がるまでの時間。
さとり様は聡いお方ですから、多少時間がかかっても、必ず自分自身で解決できるはず。あたいはその邪魔をさせないため、ここに張り付いているのです」
「なるほどね。まあ、お燐がそうしたいなら、いいんじゃないかな。私は通るけど」
お燐は少し顔をしかめて、でも体を横に移動させて、扉の前から退いた。
「あれ、あっさり通してくれるんだ。ちょっと意外かも。てっきり、頑としてそこから動かないものだと思ってたから」
「こいし様だから、あたいは一歩引いているんです。他の誰かなら、さっきみたいな話をする事すらしませんよ」
でも――そう、お燐は続けた。
「絶対にさとり様を悲しませないでくださいね。もしさとり様に何かあったなら、あたいは例えこいし様相手でも、きっと我慢できない……いや、しようとすらしないでしょうから。
そのはらわたをかっ捌いて、中身をくり抜いて灼熱地獄跡に放り込んでやります」
「お燐にそれができるとは思えないけど」
「覚悟の上ですよ。あたいの臓器と生命がごっそり抉られるだけでその目的を達成できるなら、全然安い代償です」
「お姉ちゃん愛されてるなぁ。まったく、こんなに愛されてるのに、なのにお姉ちゃんったら気がつかない振りをして……もしかして本気で気づいてないのかも?
心を読めるくせに、それと触れ合うのが不器用すぎるのがあの人だから。今だってきっとそう。とても些細な事で自分自身を責め続けてるんだと思うよ」
「……正直嫉妬しています。あたいがどんな言葉をかけようとも、さとり様は私に曖昧な、繕ったような笑顔を向けてくれるだけだから。
でも、あたいでは、あの沈みこんださとり様をどうにもする事ができない。……だから、こいし様、さとり様をお願いします」
「大丈夫。まかせて。私はお姉ちゃんの事大好きだし。それに、お姉ちゃんも私の事大好きに違いないんだから」
お燐の視線を背中に受け、私はドアノブに手をかけたのだった。
「お姉ちゃん。入るよ?」
暗い部屋。分厚いカーテンの隙間から僅かに入りこむ光だけが、唯一の光源だった。
部屋の中心。ダブルサイズのベッドの上、毛布を羽織る事もなく、お姉ちゃんはそこで横たわっていた。
背中を丸めて、ぴくりと動く事もせず、殆ど死んでいるみたいに。
「ただいま……部屋に引き籠って、出てこないお姉ちゃんを見たのは結構久しぶりな気がするね」
ベッドの端っこに腰かける。
この時になって、ようやくお姉ちゃんは私に視線を向けてくれた。
「自己嫌悪、ですよ……」
ラベンダー色の綺麗な瞳。でも今は何だか、とっても虚ろに見えた。
「私は所詮覚り妖怪。嫌われる事が大前提の生物。
少し夢を見てしまっていたんでしょうね。理解なんて、される筈がないのに。
……来客があったんです。古い知り合い。ちょっと高価なお土産を貰って、私はとっておきの紅茶を出して、二人歓談して。
彼女は素敵な人だったから、思わず知りたくなった。深層を覗いてみたくなった。それが、間違いでした……。
ええ、彼女が悪い訳じゃない。心読まれる事を分かって私に会いに来てくれたのです。むしろ私は彼女に感謝しないといけない。
しかし……彼女ですら、そう、そんな彼女ですら本音では私の事を気味悪く思っていたというのですから……。
分かり切っていた事ではあったのです。思い上り。自惚れ。私は愚かだったのです。嫌悪以上の何かを求めるなんて……」
ぽつりぽつりと、お姉ちゃんは言葉を絞り出していた。
あまり抑揚のない、掠れたようないつもの声。でも言葉の端が孕んでいる陰鬱さと重苦しさは、心が負った傷跡の深さを物語っているようでもあって。
私はそっとお姉ちゃんの手を握り締めた。骨ばって、血行のよくない、よく知ったお姉ちゃんの手だった。
「まあ、分かるけどさ。心って綺麗なものじゃないし。
そう、お姉ちゃんの言う通り、顔に張り付けられた笑顔とは裏腹に、内心はどす黒い蔑みであったり。あるいは一見して好意のように見えた感情がその実怯えであったり。
ほんと儘ならないよ、心って。だから見るのに耐えきれなくて私はこの眼を閉ざしちゃったんだし」
時々、思うのだ。
このひとは、瞳を閉じてしまった方が絶対幸せになれる。
きっと優しすぎるんだ。
その癖酷く臆病で、打たれ弱くて。
何があっても自分のせいにしちゃうのがお姉ちゃんだから。
自責するだけで生きてきた可哀想な覚り妖怪。
背負ってきた苦痛を理解するなんてこと、誰にもできない。
……ただ一人を除いては。
「ねぇ、お姉ちゃん。私を見て?」
そう、お姉ちゃんを理解してあげれるのは、お姉ちゃんと同じ傷を知る私しかいないじゃない?
そして、お姉ちゃんが、完璧に信じる事が出来るのは、お姉ちゃんにすら心覗けない私しかいないじゃない?
「お姉ちゃんは強いよね……その瞳のせいで、今まで何度辛い目にあったの? 何度心に傷を負ったの?
でも、閉じない。私と違って、ずっと苦しみに耐え、信じる事をしてきた。本当に、お姉ちゃんは強いよ……」
横たわるお姉ちゃんに、覆いかぶさるようにした。
重なる胸と胸。お姉ちゃんの拍動が伝わってくるのを感じながら、耳元で囁く。
「でも、たまには撒き散らしていいんだよ? 呪詛だって吐いていい。
私が全部受けとめてあげる。そのうえで、何回でも慰めてあげる」
そして、ぎゅっと抱きしめて、唇を奪った。やや強引に。
甘さよりも苦さが先立つ、とても私たちらしいキスだった。
うっすらと、お姉ちゃんの瞳には涙が浮かんでいた気がした。
そう、泣いていいの。あとで私が全部拭ってあげるからさ。
唇を重ねたまま、私達はしばらくそんなふうにしていたのだった。
「……落ち着いた?」
「ええ、だいぶ。……心配おかけしました」
「よかった。じゃあ私、お姉ちゃんのレモネードが飲みたいな」
「……それくらい自分で作ればいいでしょう」
「お姉ちゃんのがいいの」
「きっと、お燐が凄い顔して睨んできますよ?」
「嫉妬されるくらいで丁度いいんじゃないかな。甘いだけのレモネードより、ちょっと苦い方が私は好き」
「……やれやれ。こいしはそういうところ、ほんと身勝手だと思います」
「でも、そんなところが可愛いと、自分じゃ思ってるよ」
「まあ、そりゃ、もちろん可愛いですけど……」
お姉ちゃんの作るレモネードは少し苦い。
ちょっぴり切ないような、あるいは儚いような、そんな苦みが、私は好きだった。
からんからんと、マドラーでグラスを掻き混ぜるお姉ちゃんの細い腕。
そう、これでいいんだ。
これからもきっとお姉ちゃんは一杯傷ついて、一杯自責して、時に引き籠っったりするんだろうね。
でも、それでいい。
そんな繊細で臆病で面倒で、でもとっても優しいお姉ちゃんが、私は大好きなんだから。
傷ついたら、何度だって私が慰めてあげる。キスだっていっぱいしてあげる。
だから、そのたびに手作りのレモネードが飲みたいなんて可愛らしい我が儘くらい、喜んで聞いてくれるよね?
ね? お姉ちゃん――?
本文の内容もよかったです!さとこいよ永遠に!
おりんりんはほんとにいい子だ…