朝食を作っているときだった。
台所の小窓を何かが叩く音が響いた。
──いけない、雨だ!
洗濯物を干しているわけではない。しかし、それ以上に大切なものがこの雨によって脅かされている。
「藍? どうかしたの?」
「ああ……紫様、雨です。雨が──」
寝ぼけ眼で現れた主に、てんぱりながら説明をする。
「それで慌ててるのね。良いわ、行ってお上げなさい。」
「し、しかし、まだ朝食が──」
「ここは私に任せなさい。ふふふ、久しぶりに腕が鳴るわ。」
頼もしいお言葉をいただいて、私は深々と頭を下げた。
「すいません……紫様。それではお願いします。」
「そうだ、ちょっと待って。」
そう言って紫様は、スキマから何やら引っ張り出した。
「これを持って行きなさい。」
その手には、幼児用の雨合羽が握られていた。
猫屋敷からマヨヒガまで、少し距離がある。普段なら飛べば直ぐなのだが、雨が降れば話は別である。
(橙は無事だろうか……。)
先程からこればかり考えてしまう。
猫屋敷で、野良猫たちとちぢこもっていればまだ良い。
マヨヒガに向かう途中で降られたりなどしたら、きっと怖い思いをしているだろう。
そんな事をつらつらと考えながら歩いていると、見慣れた緑の帽子が見えた。
かわいそうに、よっぽど怖かったのだろう。
橙は木の陰で怯えるように、頭を抱えて座り込んでいた。
「ちぇぇぇぇぇん!!!」
慌てて駈け寄ると、橙が私に気付き顔を上げた。
──瞳には大粒の涙が溢れていた。
「ら、らんしゃまぁぁぁあ!!!」
思い切り擦り寄ってくる橙を抱きとめ、あやす様に頭を撫でてやる。
「おお、よしよし。怖かったね。よく頑張ったね。」
「ううぅ……らんしゃまぁ。橙は、橙は怖かったです……。」
しゃくりを上げながら、涙を拭う橙。落ち着くまで、しばらく頭を撫で続けた。
「ありがとうございます……橙はもう大丈夫です。ご心配をおかけしました……。」
「良いんだ、お前が無事で何よりだよ。」
思ったほど、橙は濡れていなかった。強く降り出す前に、逃げ果せたのだろう。
「そうだ、橙。紫様が、お前にだそうだ。」
「紫様がですか?」
橙は不思議そうに首を傾げながら、雨合羽を受け取った。
「らんしゃま、これは一体なんですか?」
「おや、橙は合羽を知らなかったかい?」
「河童というと、あの山の川に住んでる──。」
「ああ、いやいや。その河童じゃないよ。これは合羽、とも言うがレインコートなんて呼ばれててね。人間が考えた、雨の日に着る服さ。」
「レインコート? 雨の日に着る服?」
すっかり混乱している橙に、苦笑しつつも、とりあえず着せてやる事にした。
「流石紫様……サイズもぴったりだ。」
「でも……ちょっと苦しいです。」
橙に良く似合ったオレンジ色の合羽だったが、橙はしきりに頭やお尻を気にしている。
「耳や尻尾の部分が窮屈に感じられるのは仕方ないよ。元々人間用だからね。でも、濡れるよりはましだろう?」
私の言葉に、厳かに頷く橙。どうやら、まだ合羽を今一信用して無いようだ。
「ほら、私を信じて。出てきてごらん。」
橙の手を取って、ゆっくりと木陰から引っ張り出す。
すると恐る恐る出てきた橙の顔が、驚愕へと変わり、また今度は歓喜へと移っていった。
「らんしゃま! すごいです! 雨が逃げていきます!」
余りの喜びように、私はまた苦笑い。
調子に乗った橙は、長靴──どちらかというと、これもレインブーツと言うべきか──を履いている事を良い事に、自ら進んで水溜りへと足を入れていた。
「このこの! よくもやってくれたな! お返しだ! えいっ!」
橙の中では、雨を懲らしめてるつもりなんだろう。
当人は真剣だが、私には微笑ましい光景にしか映らなかった。
「こらこら、橙。あんまり暴れると──」
「なんですか、らんしゃま? ひゃあ!?」
──いわんこっちゃない。
深い水溜りに足を思いっ切り踏み入れた橙は、泥跳ねを受けて情けない悲鳴を上げた。
「ら、らんしゃまぁぁあ……。」
また瞳を潤ませ始めた橙の顔を、手拭でやさしく拭いてやる。
「ほら、橙の分の傘だ。これでもう、安心だろう?」
「はい! 雨なんてへっちゃらです!」
調子のいい橙に、三度目の苦笑い。
すると、橙もはにかむ様な笑みを返してくれた。
「……帰ろうか。」
「はい!」
私たちは手を繋ぎながらゆっくりと、マヨヒガに向かって歩き出した。
「「只今戻りました。」」
「お帰りなさい、朝ごはん、とっくに出来てるわよ。」
私の割烹着ではなく、自前のエプロンを着た紫様が私たちを出迎えてくれた。
──紫様曰く、ハイカラらしい。私にはよく分らない。
「紫様! お借りしたかっぱ──「レインコートよ。」 あ、はい。えっと、このレインコートのお陰でとても助かりました。本当に、ありがとうございました!」
私には要らぬ訂正だと思うが、紫様は拘っているらしい。
深々とお辞儀をする橙に、紫様も満足したらしく、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「良いのよ、橙。それにそのレインコートは貴女にあげるわ。」
「本当ですか!?」
喜ぶ橙に対し、紫様がその代わり、と口を挟んだ。
なんだろうと、私と橙が目を合わせそろって首を傾げた。
「雨の日でも、それを着て必ず此処に帰ってらっしゃい。此処は貴女の家なんだから。」
紫様の言葉に、輝くほどの笑みを浮かべた橙は元気良く頷いた。
「はい!」
こうしてマヨヒガでは、雨の日でも変わらず平和な時が過ぎていくのであった。
「紫様。まるで孫の顔を見て喜ぶ、お婆ちゃんのようです。」
「藍っ、人がせっかく綺麗に閉めたのになんて事言うの!」
怠惰なゆかりんよりこんなゆかりんのが好きだ
丁寧に祖母と(スキマ
雨に仕返ししようとする橙が超かわえぇ…っ!!