「――何故、お嬢様はあんな真似を?」
頭の中に浮かぶ疑問を、十六夜咲夜は口にする。
半刻の間、館の中を逃げ回りながら、その答えを導き出そうとした結果、彼女は理解不能と結論付けたのである。
そして、その考察を中止した瞬間、彼女の脳は本来感じるべき筈の信号をようやく受信した。
右肩に走る激痛。生物としての生命危機を知らせる、痛覚の訴え。
既に其処から先の部位からは、感覚が消え失せている。左手で確認してみれば、その部分の衣服が破れ、ぬめつく液体が肘辺りまで垂れて袖を赤く塗らしている事に気付いた。
彼女の経験からすると、出血量から考えれば、あと四半刻も経てば行動不能になる。
その事実を認識したとき、咲夜はようやく人間らしく、冷や汗を流した。
彼女は焦っていた。完全で瀟酒な従者を自負する彼女らしくもなく。
失敗した、と咲夜は舌打ちする。
脳の処理能力をすべて、答えの出ない考察に回したままにしておくべきだった。そうしてさえいれば、このノイズに気付くことなどなかったのに。
ノイズ混じりの思考で、半刻前の出来事を思い返す。
* * *
太陽が西に沈み、いつも通りに主人である吸血鬼――レミリア・スカーレットを起こしに、その部屋を訪れた際の出来事。
用意した着替えを一旦机に置いて、ベッドで眠る主人を揺り起こそうとした時、その閉じた瞳から、一筋の雫が流れている事に気付いた。
――お嬢様、お目覚めの時間です。
私の呼び掛けに気付いて目を覚ましたお嬢様が、何処か遠くを視ているような焦点の合ってない寝惚け眼で、私の顔を眺める。
そして次の瞬間、ベッドから上半身を跳ね起こして、私に抱き付いた。
その瞬間、私の鼓動が跳ね上がる。
小さな背中に腕を回して抱き返しても良いのだろうか、という葛藤。
けれど、そんな真似を出来る筈が無く。
――如何なさいましたか?
いつもとは真逆、何処か弱々しい雰囲気のお嬢様に戸惑いながら、私はあえて事務的な声を投げ掛けた。
そうしなければ、私は従者としての資格を失ってしまうような気がしたから。
『・・・悪い夢を、視たの』
震える声が、私の鼓膜を刺激する。微かな大気の震動が、私の心臓を激しく揺さ振る。
自分の中に渦巻く感情を押し殺し、私は訊ねた。
――一体、どの様な夢を?
『・・・』
けれど、お嬢様は何も答えてくれない。
ただ、抱き付く両腕に力を込めるだけ。
私を離すまいと言わんばかりに、私の両肩を掴む手が、その鋭い爪が、私の肌に食い込んでくる。
――・・・お嬢様。正直に申し上げますと結構痛いので、少し離して頂けますか?
冗談混じりに、私は苦笑した。
それに釣られて、主人も溜め息混じりの苦笑を漏らす。
『・・・そうよね』
その次の瞬間。
『いつかは、手離さなくちゃ駄目なのよね』
異常なまでに冷たい声と共に、主人は私の右肩を引き裂いた。
何が起きたのか理解出来ずにいると、次は壁へと突き飛ばされ、叩き付けられる。
その衝撃によって呼吸が狂い、肺から空気が漏れた。
急転直下した状況を把握しようとしたが、突然受けたダメージによって、思考が上手く回らない。
せめて視覚情報を取り入れようとして、私はそれを視てしまった。
誰が見ても笑っているようで、誰が見ても笑ってなどいない、凄惨な表情。
次いで、周囲の大気を凍結させかねない程に冷たいその声を、私の聴覚が認識する。
『――今すぐに此処で死になさい、咲夜』
理不尽な急展開。
その全てが畏ろしくて、私は無我夢中で逃げ出したのだった。
* * *
どうする?
このまま、制限時間が過ぎるまで逃げ続けるか?
それとも、先に此方から仕掛けるか?
選択肢の存在しない選択肢。
前者は論外。制限時間が過ぎてもゲームクリアーにはならず、結局は鬼に捕まってゲームオーバー。
後者も論外。私の中の従者としての矜侍が、主人に刃を向けることを赦さない。
つまりは、八方手詰まり。
だから仕方なく、こうして逃げ続けることしかできずにいる。
館に響くのは、館自体が破壊される音と、運悪く鬼に遭遇してしまった妖精メイド達が上げる断末魔。
これ以上無いであろうスリルに満ちた、命懸けの鬼ごっこ。
私が捕まりさえすれば、この悪夢が終わりを告げるということは理解している。
けれどそれは同時に、十六夜咲夜という存在の終わりなのだ。
* * *
「・・・此処まで、みたいね」
そうして逃げ回っている間に制限時間が経過し、私は失血によって意識朦朧となり、仰向けで廊下に倒れ込んでいた。
「――逃げるのは、もうお仕舞い?」
天井の向こう側を眺める視界の片隅に映るのは、小さくも異形の人影。
霞む目には、その姿はぼんやりとしか見えないが、この鬼ごっこの鬼に違いない。
「・・・貴女は、いつか死んでしまう。だからせめて、私が殺す」
やはり、私は此処で殺されるらしい。
残酷な運命を突き付けられて、私は思わず嗚咽を漏らし、泣き出してしまった。
なんて、私らしくないのだろう。
死にたくない、と私は弱音を吐く。
「・・・死にたく、ない?」
主人の戸惑いに、ああそうだとも、と肯定の言葉を返す。
数年前までは、真逆の事ばかり考えていたくせに、なんて皮肉だろうか。
「貴女は、生き続けたいの?」
今更何を言うのか。
私は、生きる喜びを知ってしまった。
自分の中に生まれながらに埋め込まれた、呪われた能力。
すべてを諦めようとして、けれど諦め切れなくて、世界を呪い、やがて世界からすらも弾き出されて、私はこの幻想郷へと流れ着いた。
そうしてこの地でようやく、生きる喜びを知り、『咲夜』という名前を得たのだ。
それら全部、他ならない貴女のおかげだというのに。
「・・・っ、だったら!」
先程までとはまるで違う、確かな感情が籠った声で、悪魔は叫ぶ。
「だったら、私を置いて先に逝くな!」
なんて自分勝手な台詞だろうか。殺そうとしたのは貴女のくせに。
「違う!」
何が違うというのか?
「――貴女は、人間だもの!」
私の襟を掴み、震える声でそう叫ぶと、主人はそれきり押し黙ってしまった。
私の頬に、ポタリポタリと何かが落ちてくる。
・・・まさか。
もしかして私は、とんでもない思い違いをしていたのではないか。
思い浮かんだ仮定が正しいとすれば、すべて合点がいく。
その答えを確かめるべく、私は訊ねる。
――どの様な夢をご覧になったのですか?
力無く俯いて、お嬢様は涙混じりの声で答えた。
「・・・貴女が、死んでしまう夢よ」
* * *
「・・・私を置いて、いつか貴女はいなくなってしまう」
私は人間であり、お嬢様は吸血鬼。
種族の違いによる、絶対的な寿命の差。
「だからせめて、私の手で殺してしまおうと思った」
そうすれば形式上、私は永遠にお嬢様のものとなるというわけだ。
なんて馬鹿げた発想だろう。
そんな理由で、私は殺されかけて、今では実際に死にかけている。
早めに手当てしていればただの笑い話で済んだというのに。
心から呆れた後にようやく、行き過ぎた行為に対する怒りが込み上げて来た。
「・・・ごめんなさい、咲夜」
謝られても絶対に赦すものか。
左腕がまだ動く事を確認し、ナイフを取り出して左手に握る。
私にはもう、文字通り時間が無い。
けれど、貴女を置いて逝くわけにもいかない。
だったらきっと、こうするしかないのだろう。
そして、目の前の吸血鬼の喉元目掛けて、突き刺した。
涙を流したまま、お嬢様が微笑む。
「――これでずっと一緒ね、咲夜」
――ええ、ずっと一緒です、お嬢様。
紅い鮮血が降り注ぎ、私を紅く染めた。
* * *
“時よ止まれ、汝は美しい”。
かつて誰かが、悪魔に魂を捧げた言葉。
それは、一組の人妖が辿り着いた結末。
あれから百余年経った今も、彼女達は一緒に生きている。