◇
――こんにちは。
◇
「あら、いい香りね」
紫は突然、現れてはそう言った。
「あぁ、どうも」
僕はそれに少しだけ頷き、豆を挽く。
ミルの口からこぼれる音と、芳しい香りが店を覆う。
「それで?本日はどのようなご用件で?」
僕がそう彼女に問いただす。
彼女の表情は夏の晴れた日のようだった。
「暇つぶし、かしら?」
「そうか、なら、お帰り願うよ」
僕は挽いた豆を紙で出来たフィルターの上に乗せる。
ぐらぐらと煮立った薬缶のお湯を準備しながら。
「あら、冷たいわね?」
「ええ、大した御用でないならば。当店では愛想も無料じゃないんでね」
「ならば、商品を注文するわ」
「ほう?」
「コーヒーを、一杯」
見えない空を仰ぎながら、僕はすっと、カップを一つ追加した。
◇
「代金は貰うよ」
「わかってますわ」
コポコポと、フィルターにお湯が染み渡っていく。
透明だったお湯は、粉の間を抜けて黒く染まっている。
僕はお湯からコーヒーに変わったばかりの液体を見つめた。
ぽた、ぽた、ぽた、と水滴が落ちいていく。
「本当に良い香りね」
「そうだね」
サイフォン式なら、もっと映えるのだろうか。
だが、残念ながら普段からコーヒーを飲む習慣がない僕は、
それを所持していなかった。
手元には、古ぼけた手回しミルと、塗装の剥げたドリッパー。
僕は彼らを大切に思っている。
「でも、コーヒーなのに薬缶でお湯を注ぐなんて変ですわ」
「そうかな。ティーポットは少し気取ってる気がしてね」
「普段から気取っていない、とでも?」
「まったく何を言っているのか分からないな」
そう言って僕はカップにコーヒーを注ぐ。
ゆっくりとコーヒー色に染まっていくカップ。
「ミルクと砂糖は?」
「ミルクだけ頂こうかしら」
僕はかちゃかちゃと音を立て、戸棚からティースプーンを取り出す。
ミルクピッチャーに少しだけ牛乳を注いで、蓋を閉める。
ぱたん。
「お茶菓子はないよ」
「それぐらいなら、ここに」
彼女の手には、小さなクッキーがある。
それを見て、まったく便利な能力だ、と思う僕は、
こんな生活にも慣れてきたということだろう。
「久しぶりに焼いてみたのよ」
「そうかい」
僕は真っ黒になったカップをソーサーに乗せる。
クッキーの甘い香りと、ほろ苦い香りが混ざり合うようだ。
こうして、僕らはテーブルに向かい合って座った。
小さく揺れる机と、コーヒーカップ。
僕は目の前にあるクッキーに手を伸ばし、
ゆっくりと息を吐いた。
◇
「お邪魔しましたわ」
「毎度あり、と言いたいところだけど、
ここは茶屋じゃないんで控えとくよ」
残念ながら、コーヒーの味は少しだけ薄かった。
本当なら一人分の豆なのに、お湯を増したからだろうか。
「コーヒー、美味しかったわよ」
「君のクッキーも中々だったよ」
机には、くしゃくしゃになった包み紙と、
空っぽになったコーヒーカップたち。
ミルクピッチャーなんて、蓋が開いたままだ。
「なら、いつでも焼いて差し上げますわ」
「勘弁してくれ。ひとりの時間も大切なんだ」
ミルとドリッパーたちはまさに物言わず、静かに眠っていた。
窓際から、夕暮れ時の柔らかい風と日光が入る。
結構な時間が過ぎていたことに、ようやく気づくとは。
「それでは、行きますわ」
「あぁ、出来れば暇つぶしなら控えてくれるとありがたい」
僕は大きく伸びをした。
ぐっ、と伸びる、背中の筋肉と間接。
そして、僕はそっと机に向かって歩き出した。
カップを重ねて流しに運び、包み紙をくずかごに入れる。
あとは、カウンターに座って本を読むだけだ。
「じゃあ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
僕らはそう言って、ありふれた日常に戻っていく。
また、とも、お元気で、とも言わない別れだ。
きっと、言わなくても伝わっているのだろう。
僕はもう一度だけ、大きく伸びをして、深呼吸をする。
少しだけ残った甘く苦い香りが、ふわふわと浮かんできるようだった。
――こんにちは。
◇
「あら、いい香りね」
紫は突然、現れてはそう言った。
「あぁ、どうも」
僕はそれに少しだけ頷き、豆を挽く。
ミルの口からこぼれる音と、芳しい香りが店を覆う。
「それで?本日はどのようなご用件で?」
僕がそう彼女に問いただす。
彼女の表情は夏の晴れた日のようだった。
「暇つぶし、かしら?」
「そうか、なら、お帰り願うよ」
僕は挽いた豆を紙で出来たフィルターの上に乗せる。
ぐらぐらと煮立った薬缶のお湯を準備しながら。
「あら、冷たいわね?」
「ええ、大した御用でないならば。当店では愛想も無料じゃないんでね」
「ならば、商品を注文するわ」
「ほう?」
「コーヒーを、一杯」
見えない空を仰ぎながら、僕はすっと、カップを一つ追加した。
◇
「代金は貰うよ」
「わかってますわ」
コポコポと、フィルターにお湯が染み渡っていく。
透明だったお湯は、粉の間を抜けて黒く染まっている。
僕はお湯からコーヒーに変わったばかりの液体を見つめた。
ぽた、ぽた、ぽた、と水滴が落ちいていく。
「本当に良い香りね」
「そうだね」
サイフォン式なら、もっと映えるのだろうか。
だが、残念ながら普段からコーヒーを飲む習慣がない僕は、
それを所持していなかった。
手元には、古ぼけた手回しミルと、塗装の剥げたドリッパー。
僕は彼らを大切に思っている。
「でも、コーヒーなのに薬缶でお湯を注ぐなんて変ですわ」
「そうかな。ティーポットは少し気取ってる気がしてね」
「普段から気取っていない、とでも?」
「まったく何を言っているのか分からないな」
そう言って僕はカップにコーヒーを注ぐ。
ゆっくりとコーヒー色に染まっていくカップ。
「ミルクと砂糖は?」
「ミルクだけ頂こうかしら」
僕はかちゃかちゃと音を立て、戸棚からティースプーンを取り出す。
ミルクピッチャーに少しだけ牛乳を注いで、蓋を閉める。
ぱたん。
「お茶菓子はないよ」
「それぐらいなら、ここに」
彼女の手には、小さなクッキーがある。
それを見て、まったく便利な能力だ、と思う僕は、
こんな生活にも慣れてきたということだろう。
「久しぶりに焼いてみたのよ」
「そうかい」
僕は真っ黒になったカップをソーサーに乗せる。
クッキーの甘い香りと、ほろ苦い香りが混ざり合うようだ。
こうして、僕らはテーブルに向かい合って座った。
小さく揺れる机と、コーヒーカップ。
僕は目の前にあるクッキーに手を伸ばし、
ゆっくりと息を吐いた。
◇
「お邪魔しましたわ」
「毎度あり、と言いたいところだけど、
ここは茶屋じゃないんで控えとくよ」
残念ながら、コーヒーの味は少しだけ薄かった。
本当なら一人分の豆なのに、お湯を増したからだろうか。
「コーヒー、美味しかったわよ」
「君のクッキーも中々だったよ」
机には、くしゃくしゃになった包み紙と、
空っぽになったコーヒーカップたち。
ミルクピッチャーなんて、蓋が開いたままだ。
「なら、いつでも焼いて差し上げますわ」
「勘弁してくれ。ひとりの時間も大切なんだ」
ミルとドリッパーたちはまさに物言わず、静かに眠っていた。
窓際から、夕暮れ時の柔らかい風と日光が入る。
結構な時間が過ぎていたことに、ようやく気づくとは。
「それでは、行きますわ」
「あぁ、出来れば暇つぶしなら控えてくれるとありがたい」
僕は大きく伸びをした。
ぐっ、と伸びる、背中の筋肉と間接。
そして、僕はそっと机に向かって歩き出した。
カップを重ねて流しに運び、包み紙をくずかごに入れる。
あとは、カウンターに座って本を読むだけだ。
「じゃあ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
僕らはそう言って、ありふれた日常に戻っていく。
また、とも、お元気で、とも言わない別れだ。
きっと、言わなくても伝わっているのだろう。
僕はもう一度だけ、大きく伸びをして、深呼吸をする。
少しだけ残った甘く苦い香りが、ふわふわと浮かんできるようだった。