特別な一日とは何だろうと霖之助は考えてみる。
昨日とは違う日か? 明日とは違う日か?
それは違う。昨日とも明日とも今日は違う。同じ日は一日としてこない。湿度気温風向その他諸々の自然現象を含めて、同じ日など一日としてない。同じ世界など一秒としてない。世界は刻一刻と変わっていく。同じ瞬間は同じ瞬間でしかなく、全てのものは移り変わる。万物流転。めぐらないものはない。物も者もそれは変わらない。モノになりきれない魂でさえめぐり変わってく。
しかしそれは、特別な日ではない。
決して、特別ではないのだ。
特別とは全てに共通するものではない。それは個人で決めることだ。個人の認識の中にした特別なものは存在しない。誰かにとって普通なことでも、他人にとっては特別となる。昨日と同じ明日でも、気分しだいで特別になる。特別とはそういうことだ。
紅白の巫女は『毎日が特別』だと言った。
それはつまり、彼女は日々を楽しんで生きているということだ。
――では。
自分にとっての特別とは何か、霖之助は考えてみる。
特別なこと。
それを考えるには、特別ではないことを考えなければならない。
何かを選ぶということは、何かを選ばないということなのだから。
選択取引。
順番を決めるということ。
優先順位の作成。
それは、霖之助にとっては縁のないことだった。
なぜならば――
「まあ、考えてみるのもいいだろう」
考えてみる。
ただ考えるのも暇なので、席を立つ。
どこに行くつもりもない。
目的地はない。
ただ散歩をしようと考えただけだ。
歩きながら考えようと思っただけだ。
古道具を探すため――という名目で。
のんびりと思案しながら歩こうと思ったのだ。
外に出る。
外は暑かった。夏か冬か春か秋かのどれかだろうと霖之助は思う。
少なくとも、昼間であることは間違いない。真上に太陽があるのだから。
セミが鳴いているから、ひょっとしたら夏なのかもしれない。
「夏以外に鳴くセミがいてもおかしくはないだろう」
呟く。勿論独り言だ。だれに向かっていう言葉でもない。
呟きは、セミの声に飲み込まれて消えていく。
セミの声の中を霖之助は歩く。
魔法の森にセミがいるのは珍しい。
――いや。
そもそも、魔法の森に生き物がいるのが珍しいのだ。
ひょっとするとそれはセミの声をしたナニカなのかもしれない。
それもアリだ、と霖之助は思う。
ここは幻想郷なのだから。
ひたすらに歩き続ける。
迷った予感もした。
行けども行けども森なのだから。
しかし、迷ってはいない――と霖之助は決める。
目的地がないのだ。迷いよいがない。
森がどこまでも続いているだけだ。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
止まる。
足を止める。
霖之助の足が止まる。自らの意思で。
それ以上先に進むことができない――わけではない。道は続いている。どこまでも。いつまでも。
ただ。
道の真ん中に、人がいたのだ。
ひょっとしたらそれは人が「あった」と表現するべきなのかもしれない。
なぜならばその人は――その少女は、道端に倒れていたのだから。
金色の髪。黒くシックな服。手に持ったバスケットにはパンが入っている。
どことなく、魔理沙を思わせる少女だった。
その少女は地面に倒れふり、びくり、びくりとかすかに痙攣していた。ところどころ服は破れ、傷ができ、おまけに右手と左足が折れていた。
死んではいない。
もうすぐ死ぬ。
そういう少女だった。
迷い子なのだろう、と霖之助は思った。
自分と違い、正真正銘『迷った』のだろう。そうでなければ、魔法の森にはいない。
魔法の森にいる人間は二種類しかない。
魔法の森で生きることのできる異端児か。
魔法の森で死んでいくただの迷い子かだ。
どこをどう考えても、どこをどう見ても、目の前の少女は後者だった。
これぐらいで死ぬような少女が、魔法の森で生きていけるはずがない。
「……た、たす、……たすけ、て……」
少女が呟く。
霖之助は少しだけ驚いた。その驚きは顔にも声にも出なかったけれど、それでも驚いてはいた。
まだ意識が残っていることに、霖之助は驚いていた。
死に掛け、助けを求める少女に、霖之助は言う。
「無理だ」
その声には容赦も憐憫も嫌悪も愉悦もない。
ただの事実だ。
もっとも冷酷な事実を、霖之助は当然のように言う。
「君は死ぬ。それはもうどうしようもない」
少女が震える。
地面に流れる血に、涙が混ざる。
嗚咽がこぼれる。
死にたくない、死にたくない、死にたくないと少女は呟く。
呪いのように、呟き続ける。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない――――――――」
命を使った、命を削って放たれる呪詛。
人を一人呪い殺すには充分な力をもった言葉。
その言葉を聞きながら、霖之助は思う。
――ああ、セミの声がうるさいなあ、と。
セミの声に比べれば、少女の声は、まだ小さかった。
セミよりも短い命にかまっている暇はない。
霖之助は、少女のそばにしゃがみこむ。
そして、動けない少女のそばにあるバスケットの中から、パンをもてるだけ持つ。
「ありがとう」
礼だけは言う。
礼を欠かしては強盗だ。
こうして持っていけば、無駄にはならない。昼食が浮く――霖之助は満悦だった。
そして。
ゆっくりと動かなくなる少女の身体も、もうすぐ、『ナニモノカ』の昼食になるだろう。
無駄はないのだ。
すべては流転する。
それが自然なのだから。
霖之助は再び歩き出す。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
歩く。
止まる。
足を止める。
目の前には、いつもの香霖堂があった。
いつのまにか帰って来ていたのだ。
やはり自分は迷子ではなかった、と霖之助は思う。
散歩の目的とは、つまるところ、どこかへ行って返ってくることなのだから。
香霖堂の中に入り、いつもの場所に座る。
パンを一口かじる。
まだ温かいパンは美味しかった。
全てのパンを霖之助は食べ終え、一つため息をつき。
今日一日のことを思い返して、こう考えた。
――今日も、特別なことなど、何もなかった。
それは事実だった。
それは真実だった。
それは真理だった。
――なぜならば。
全てのものの価値は平等だと、霖之助は思うのだ。
生きるも死ぬも。
者も物も。
人も妖怪も妖精さえも。
自分自身でさえも――霖之助にとっては、平等に価値がないのだから。
少女の死とセミの死に違いはあるか?
ない。
それはどちらも死だ。
ただ死んだだけだ。生きていないという、それだけのことだ。
そしてそれは、霖之助にとって意味を持たない。
霖之助が意味を持つことは二つ。
本を読む。
物を売り買いする。
それが全てだ。
入って出る。そこにあるのは流れだけだ。深く淀むものがたまに残るだけだ。
元は、空っぽなのだ。
そして、淀んだものは暗く深く積み重なっていき、そのうちに底が見えなくなる。
やがて、淀んだものこそが、本体になる。
――さて。
霖之助は考える。
果たして、『僕』は誰なのかと。
霧雨家で修行をした当時の自分は、こうだったのか?
両親と幸せに暮らしていた自分は、こうだったのか?
森近 霖之助という人間は、はたしてこうだったのか?
ひょっとすると。
森近 霖之助という人間はとうに死んでいて。
香霖堂に淀み積もった意識こそが、『僕』なのではないのか。
それはまるで付喪神のように。
それはまるで怨霊のように。
それはまるで呪いのように。
ここにいる『僕』は、『森近 霖之助』の皮をかぶった『何か』ではないのかと、霖之助は思うのだ。
「――馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しい妄想だ」
考えても、答えはでない。
それはそうだ。
考えて、答えがでるはずはない。
それは結局のところ、同じことなのだから。
夢の中で見る夢が現実と変わらないように。
それは結局のところ、どちらにせよ変わらないのだ。
些細なことだ。
粗末なことだ。
考えるに値しないことだ。
そうして、霖之助は、考えるのを止めた。
わからないことは気にしない。
それが彼の処世術なのだから。
彼の中に残る一片の脳ミソが、小さく呟くのを、聞かない振りをして。
『――そのクセは、果たして、誰のものなんだろうね?』
もちろん、聞かないふりをした。
考えない。
考えなければ幸せでいれる。
思考を停止して受け入れればいい。
受け入れて受け流して受け出る。
それこそが、古道具屋であり、香霖堂であるのだから。
そして、特別でない一日が終わる。
人生は終わらない。
どうせ、僕達に救える生命なんて僅かしかないのだから。
どうせ、僕達は目の前の死に掛けた少女を見捨てる事なんて出来ないんだから。
と思わざるを得ませんな。うん。