標的は蓮子の放った回し蹴りをしなやかに受け止め、ドラム缶のひしゃげる様な音を出しつつ、きりもみ状に吹っ飛んでいった。
私、マエリベリー・ハーンはといえば、その蹴りの流派はどこだとかもしかしたらカポエラかもしれないとか足を振り上げた蓮子の下着が丸見えだとかそんなことはどうでもよく、ただただ彼女ののっぴきならない思考回路と行動パターンそれ自体は宇宙の端に存在すべき悪性電磁波が及ぼす影響をその身一身に受けている結果なのだと必死こいて理由付けをするので精一杯だったが。
勢いよく華麗にぐしゃんがしゃんと転がった標的は最後の三回転を目処に弾力を失い沈黙し静止、のちに機能を停止。
たっぷり秒針三回転は続いただろう私と蓮子の間の静寂を破るのはやはり私以外にはありえなく、全く持って解釈困難な動作の証明をQEDすべく私はたおやかに蓮子をなだめすかすのであった。
「蓮子なんでストーブ蹴るの」
「寒かったから、つい」
☆
厳冬の日々、うららかな午後、時間を縫い待ち合わせ、私が蓮子の部屋で彼女と楽しく談笑をしていたら、突如として彼女は会話を切り立ち上がり使命を帯びた瞳で部屋備え付けのストーブを蹴り飛ばした。
ただそれだけのことである。
ただそれだけのはずなのに、なんで私はこんなにも頭を抱えなければいけないのだろうか。
「あのね? ストーブの火力が弱くて許せない、っていうシグナルを出したかったの。私は」
激しいわ蓮子。表現力が溢れているわ。
「だって寒いじゃない!」
分かるわ。
すごくよく分かるんだけど、もう少しマイルドな現実を直視すべきだと思うの。
「あぁぁ、しまった!! ストーブが壊れちゃって明日から使えない!!」
ぐしゃぐしゃになった鉄の塊にかろうじてくっついてるボタンらしきものをポチポチ押しまくっている蓮子。私に見えるのは因果応報とか自業自得とかいう四文字熟語でしかない。
「蓮子、そのストーブも頑張って生きていたのよ。可哀想だと思わなかったの……?」
「ごめん、……だって、寒かったから」
すねたようにうつむく蓮子だが、涙につられてひしゃげたストーブが再生する道理もなく時間は進む。
「あ、メリー。ストーブもほら、涙を流しているわ。今生の別れを惜しんでいるのね」
まあそれ灯油が漏れてるのよね。
「うわ、くっさー。いけないわ。このままだと私の部屋がストーブの涙で浸食されるし、加えてよく燃える」
とりあえず掃除しましょうよ。
「うん、じゃあ行くわよ」
蓮子は鉄の塊が吐いた灯油の海の手前でクラウチングスタートの構えを取り、私に目配せする。
「え? よーい、ドン?」
なんの躊躇もなくヘッドスライディング蓮子。
「これぞ人間雑巾ー。ずざーー。あはははははは!!」
その身に羽織った洋服を雑巾に見立て、汚所へ向かって腹ばいに滑り込む。
それが蓮子のやってのけた人間雑巾と呼ばれる大技である。
「ああどうしようメリー。私、明日からこの格好で生活しなくちゃいけないのかしら」
もうなんでもいいとおもうよ。
「なに言ってるのよ。服は着替えるわよ」
分かったから。
分かったから。
「それよりも、この厳冬の極寒を、私は明日からストーブ無しで過ごすのかしら」
貴方がそれを望んだんじゃないのか。
「耐えられない。耐えられないわ。メリーの家に泊めてよ」
すごくお断り。
「しかたないなあ。こうなったら結界の向こう側にいって暖をとってくるわ」
いってらっしゃい。
「どこ? スキマどこメリー」
南十字星が良く見えるところとか。
「んじゃあ、行ってくるね」
以上が蓮子の旅立つこととなった経緯である。
☆
あれから数年が経ったが、私はいまだに彼女と再会できていない。
だから、季節が冬を迎え、極寒のアパートの一室で椅子に座りコーヒーを飲む度に、私は彼女を思い出すのだ。
彼女という存在は一体なんだったのだろうか、と。
ひとつ、かじかんだ手でコーヒーカップを傾ける。
ちょうど彼女は私という人格に対立すべき存在だったのじゃないか。
火力の弱いストーブを前にして、そいつを絶対に回し蹴らないという保障があるだろうか。
またひとつ、私はコーヒーをすする。
もしかしたら、彼女のようになっていたのは私だったのかもしれない。
それを、身をもって教えてくれたのだ、彼女は。
ふと、玄関から光が漏れた。
おかしい。
鍵は閉めたはずだ。
合鍵を渡してあるのも、両親以外には――
私はガタンと椅子を蹴って立ち上がった。
しばし呆然として玄関を見やる。
私と両親以外に、合鍵を持っている人といえば、
私が人生で唯一親友と呼んだあの人――
ドアのスキマから光が差した。
ドアのスキマから笑いが漏れた。
久しぶり
そんな言葉が聞こえた。
「いやー、久しぶりメリー。スキマの向こう側行って、なんか変な道具屋にストーブ直してもらったよ。一緒にあったまろう」
震える手が止まらない。
蓮子。
蓮子。
ウチはエアコン。
オチが私を貫きました。
たった7文字+。にここまで戦慄するとは。