いつもより少し、小町が遅れて出勤すると、是非曲直庁は妙に慌しかった。
四季映姫が倒れたらしい。
小町は近くにいた死神を掴まえて、映姫の症状を尋ねた。
「やはり、痔ですか?」
閻魔の座る椅子は硬い。腰痛と痔は、職業病として知られている。
その死神は忙しいのか、
「過労です」
とだけ答え、足早に去っていった。
小町は深く嘆息した。
(やっぱりねえ)
痔であれば治しようもあった。今の場合、映姫の硬い精神性が病根となっている。
映姫は医務室に運ばれていた。
しばらくして気が付くと、
「……小町?」
その目を白黒とさせた。
呆然としている。
「おはようございます、四季様」
小町は茶化すように言った。
「閻魔様でも倒れるんですねえ。ここだけの話……やはり、痔ですか?」
ぎろり。
と映姫の眼光が、鋭くなった。
「小町。あなたは仕事に戻りなさい」
「へいへい」
言われた通り、小町は速やかに部屋を出た。
(あなたは寝ていて下さいよ)
そして、にたりと薄笑いを浮かべ、三途の河へと急いだ。
幻想郷を担当する閻魔は二人いて、共にヤマ・ザナドゥと呼ばれる。
一人は四季映姫。もう一人は、
(知らないね。そんな奴ぁ)
小町は顔も覚えていない。
映姫が倒れた今、休日返上で代わりに入ったはずである。
(一寸の時も惜しい)
サボリ魔として知られる小町が、距離をすっ飛ばして走り、飛び魚のように艪を使い、三途の河の向こう岸に舟を着けた。
辺りを見回すと、
「よし、お前。なかなか徳が高そうだね」
つやの良さげな魂の緒をむんずと掴み取り、小舟に積み込んだ。
「すぐ済む。銭をよこせ」
「……」
「全額」
追い剥ぎのように渡し賃をむしり取り、
「ほら着いた」
素早く彼岸へ渡し終えた。
(どうせ、すぐに済むさ)
受付の死神に渡し賃と魂を引き継ぐと、小町はつまらなさそうに是非曲直庁を出て、また三途の河を渡った。
さて、小町が滞りなく仕事をこなしている間に、是非曲直庁について説明をしようと思う。
簡単に言えば、あの世の裁判所である。または、閻魔や死神が勤める、彼岸の公的組織とも云えよう。
そもそもは世界的な人口増加に伴い、
「面倒見切れん」
と閻魔王が匙を投げたために作られた。
人手不足を補うために裁判を簡略化し、また、全国の暇な地蔵などから多くの裁判官を募集、スカウトして閻魔職に就けるなど、
「目指そうのんびり彼岸ライフ。地域密着型でゆとりのある是非曲直庁」
を標語に、今も改革を推進している最中である。
閻魔は二交代制で絶え間なく裁判を行い、各閻魔に数人の死神が付き、その手足となって働くという仕組みである。
死神とは、地獄の民の中から採用された公務員のようなもので、神仏の存在というよりは役職名に近い。その仕事は多岐に渡り、閻魔の書記官を筆頭に、ミスの許されない寿命の管理などが事細かになされているが、小町などは、
「あたいが少しばかし仕事をツケにしたところで、何も変わらず、世の中は移ろいでゆくさ」
と放言して気楽なものである。
小町は映姫付きの死神の一人で、三途の河の船頭をしている。
人は、三途の河を渡らないことには転生も出来ないが、その河幅は、渡る人によって長さが異なる。もう少し厳密に言えば、船頭への渡し賃の多寡によって、距離が変わるのである。
死者の渡し賃には、必ず全財産を要求する。
これにより、金持ちほど速やかに渡河できるのだが、逆に、あまりにも渡し賃が少なくて距離が長びくようだと、船頭次第では三途の河に叩き落されてしまう。
「徳の高い人ほどたくさんお金を持っています。そのため、優遇されるのは当然です」
とは映姫の言である。
死者の財産とは、生前に他者がその人のことを思って使ってくれた金額に相当する。恨みなどを買えば、差し引きでマイナスになることもあるというが……。
さて――。
「しまった……」
迅速に仕事を片付けていた小町であるが、思わず額に手を当て、呟いた。
「全財産が……まさか、四円ぽっちとはねえ」
小町は竿を持ち、ぐっと岩を突いて舟を押し出した。
こつ。こつ。
と岩を突きながら進み、岸辺を離れたところで、艪に持ち替えた。
四円の魂など、よほど暇な死神でなければ相手にしない。
しかし小町に限っては、
(サボりには持ってこいの上客だが……)
こういった、金にならない魂をゆるゆると運んでは、映姫の小言を受けるのが常であった。
ただし、今は事情が異なる。
(急ぎたいんだけどなあ)
濃い霧がかかっているせいもあり、遠く彼岸は見えもしない。
小町はちらりと、五円のない魂に視線を移した。
「当ててやろう」
「……」
「お前さん、歳は六十前後。下等な妖怪に食われて死んだね」
「……」
「噛み傷が多く、深い。だが、それにしては……」
「……」
「やけに未練のない、さっぱりとした姿をしているのは、どういう訳だ?」
魂が声を発することはない。それでも、
(当ててみろ)
と言わんばかりに、その魂は膝を崩して、小舟の上にどっかりと腰を据えた。
(ふむ)
小町は思案した。
死んで間もない頃の魂は、生前の形を保っている。
この魂は、小柄な老人の姿をしていて、首が上を向いたままへし折れていた。
小町は腰を沈めるようにして、ぐいっと艪を回した。
「未練の多い奴ってのは、さ……」
冷たい河上。
独り言のように、小町は話しかけた。
「あちこち寄り道して、振り向いて、さまよって、だな。よいしょっと……。ようやく諦めた頃には、こう、人の形は崩れて、丸っこいカタマリみたいになってんだ」
「……」
「カタマリならいい。どろどろの泥団子みたいな奴は運びづらいんだ」
「……」
「まあ……未練もなく、人の姿の内にさっさと三途の河を渡るような奴は、大体、自らの死に納得して、死を迎え入れて逝った奴だ。大往生を遂げた人なんかにゃ多いんだがなあ」
「……」
「しかしお前さんは、妖怪に襲われたと来ている」
「……」
「つまりだ。自分から進んで妖怪に襲われて逝くような、阿呆がいるとしたら……」
見れば、老人の魂は口元をにたりと歪めていた。
小町は苦笑して、
「ああ。妖怪に、食ってもらったのかい?」
茶化すように言うと、老人の魂は声もなく笑った。
半ば小町の趣味である。
面白そうな魂を見つけたら、強引に舟に積み込んで、一方的にあれよこれよと喋り続ける。時には歌などを唄ったりして、飽きることもない。そうこうするうちに、徳の低い魂でも遠く彼岸へ渡し終えている。
それだけで仕事を終えたとしても、
「いやあ。精一杯仕事した後ってのは、実に気持ちがいいですね」
などとのたまいつつ、仏頂面を極める映姫を酒に誘った。
「四季様は頑張りすぎなんですよ。いつか倒れちゃいますよう。あたいが三途の河を渡すまでの間、のんびり花占いでもしていて下さいな」
酒の席である。
「そうね。ちぎった花の分だけ、あなたの給料をさっ引くから」
「きゃん……」
小町なりに、映姫を思い慕っていた。
ただし、
(どうしたもんかねえ)
今、その映姫は倒れている。
小町は彼岸が見えないまま、舟を漕ぎ続けた。
「うちのボスが、四季映姫っていう堅物なんだけどね」
「……」
「他の閻魔様ならちゃっちゃと済ますことを、くどくどくどくど……もう、仕事の鬼って奴さ」
「……」
「仕事、仕事、仕事だよ」
「……」
「仕事の日は仕事をするし、仕事がヒマなら説教に行っちゃうし、休みの日はやっぱり説教に行くし」
「……」
「こないだも花の化身みたいな妖怪に説教して、喧嘩になってさ」
「……」
「ひどい妖怪もいたもんで、ボロボロにされてね」
「……」
「いやその妖怪、ほんとひでえ奴で。カナヅチの四季様をスマキにして、三途の河に投げ込むんだから……」
小町が拾い上げなければ、どうなっていたか分からない。
独り言は尚も続く。
「昔っからそうなんだ。今は、鉄拳制裁してた頃に比べりゃラクになった、なんて言ってるけど」
「……」
「ラクになった分、余計に説教して回る時間が増えてね。結局、忙しくなっただけさ」
「……」
「で、やっぱり、倒れちゃったんだ」
「……」
「そりゃ倒れるさ。ただでさえ四季様のお裁きは……」
言いかけて、小町は口をつぐんだ。
流れ作業のような裁判が、是非曲直庁のはやりである。
映姫の裁きは、己の中にのみ絶対の基準を置き、何者にも容赦をせず判決を下すとして評判であった。
人の一生をなぞりつつ、例外なく黒白で斬り捨ててゆく。
いかなる善人、悪人であれ、罪は罪として執拗なまでに公平さを求めた。
(そう。そこだよ、四季様。一片の私情も交えずにさ……人の罪ばかり公平に押しつけて、あなたは辛くないんですか?)
無心無情の存在であれば良い。
小町の知っている映姫は、それには遠かった。
小町からすれば、
「……四季様のお裁きは、四季様自身が、一番きついんだから」
と思えて仕方がなかった。
初見で映姫に、
「まじめそうな子」
と評された小町は、次第に、時間のかかる客を選んで運ぶようになっていった。
(四季様以外の奴らが、もう少し働けばいいのさ……)
そう口に出したことは、一度もない。
そして静かに時が過ぎた。
いくら眼を凝らしたところで彼岸は見えない。白い霧が濃淡の加減によって、ぱらぱらと翡翠のように淡く輝いて見えるだけである。
「終点だ」
小町は艪を手放し、死神の鎌に持ち替えた。
「悪いね。あの運賃じゃ、これが精一杯なんだ。あんたも、生前の行いが少し悪かったんだろう」
「……」
「三途の河に落ちた魂がどうなるのか、あたいは知らない。まあ、悪いとも限らないよ。浪の底にも都ありってね。ひょっとしたら妖精にでもなるのかもしれない」
妖精は、植物が地下から死霊を吸い上げることで生まれる……という説がある。
小町がそれを信じているわけではないが、
「だから、達者でな」
と言って、鎌を振り上げた。
老人の魂は穏やかに笑っていた。
びゅっ……。
と振り下ろした鎌の刃先は、真上に折れたままの老人の顔を、かすめて通った。
小町は老人を落とせなかった。
「冗談だよ」
そう言って、からりと笑った。
「もっといい方法があるんだから……」
小舟に座り込むと、
「バレやしないさ」
そう、口の中で呟いた。
小町は適当な金額を手に取り、そっと老人に渡し、握らせた。
「金をやるよ。すぐ、渡し賃として払って貰うが……これで、距離を縮められる」
死神と魂の、私的な取引は不正にあたる。
(ツケを払うだけさ。四季様が休んでいる間にね)
ところが、ぼとり、と何かが落ちた。
見れば、金を握らせたはずの老人の腕が、そのまま船底に転がっていた。
「あれ……?」
老人はゆるりと立ち上がると、舟から飛び降りた。
この河は、波音を立てることもせず、魂を沈めていった。
「どうして」
と呟いたところで、返事はない。舟には呆然とした小町一人が残され、間もなく霧が晴れていった。
彼岸が見えて、そこには映姫が立っていた。
さあらぬ態で彼岸に上がった小町であるが、
「小町。バレないはずがないでしょう」
こつん、と映姫に殴られた。
閻魔は浄琉璃の鏡というものを持ち、それを覗けば全ての行いを知ることができる。
「全く、あなたって子は……」
映姫は深く嘆息した。
(やだなあ、こんな時に。また小言が始まるよ)
小町もどこか、疲れていた。
「四季様、お体の具合はどうなんです?」
「今はそれどころでは、ありません」
「……」
「あなたは告訴され、明日には地獄の底に堕とされます。私も責任を取り、退職しなければなりません」
「えっ……?」
あまりの沙汰に、くらりと目まいがした。
老人に握らせた金は、受け取られぬまま小町の手に戻ってきている。
「そう。不正を持ちかけたこと、それ自体が罪なのです」
「四季様、それは!」
「聞きなさい」
「だって、だってですよ……」
「そう決められているのよ、小町。死神の不正は、とても重いの」
映姫の声は、これまでに聞いたことのないほど、やんわりとした口調であった。
小町は喉奥から熱いものが込み上げてきて、はあ……と、息を吐き出すと、たまらなくなった。
「嫌だ、そんなの嫌だよ。おかしいじゃないですか」
「何がです?」
「なにって、四季様……か、金、金、金だ!」
「それは……」
「分かってる。判ってますよ。でも、こんなのって、冗談じゃねえや」
「文句があるなら、言いなさい」
「……」
「私は人の行為は全て見通せますが、心までは分かりません。口が利けるのなら、言葉にして下さい」
映姫の視線が、まっすぐに小町の瞳を射抜いている。
しばらく、一言も無いままに時は過ぎた。
考えるほど、小町は言葉に詰まっていった。言いたいことは、
(星の数ほどある)
と思っていた。
是非曲直庁など、小町にとっては不満の種でしかない。三途の河など、橋でもかけて渡してしまえと思っていた。自身の仕事にも、映姫の仕事にも、矛盾を感じずにはいられなかった。それが、
(もう最期なんだ)
と思うと、どれもこれも、妙に整理がついてしまい、大抵のことは熱流となって心から抜けてしまったのである。
「あ、あ……」
ようやくのことで、絞るようにして発した声は、震えていた。
「あたいだって、いつか、死んで彼岸に参ります」
小町は、妙に自分が老けたように感じた。
しわがれた声で、唄うように呟いた。
「その時は……。我死なば、焼くな埋むな、野にさらせ。痩せたる犬の、腹を肥やせよ……って、ね」
映姫は黙って聞いている。
小町は続けた。
「そんな死に方じゃ、三途の河は渡せない。高徳なんぞには御縁もない。でも、ね……誰かに分かって欲しい。一人でいい、四季様ぁ。よくやったってさ……私はこの生き方が、精一杯なんだよう」
小町は眼をぬぐった。
それからきつく鼻をすすると、ありったけの想いを瞳に込めて、映姫の双眸を射抜き返した。
「小町」
映姫の声は、優しく響いた。
「今日あなたが運んだ幽霊は、私が説教をしたことのある者です」
「えっ……」
「数年前、借金を抱えていた男で……」
男は、妖怪退治を生業としていた。
若年の頃から才気に溢れ、天涯孤独の身でありながら、人に頼ることを良しとしない。最低限の報酬以外は心ばかりの礼物も受けることをせず、ただ己が愉しくて妖怪退治をした男である。打ち解けない性格は人に疎まれ、男もそれを当然として気にも留めなかった。
ところがある時期を境に、妖怪に勝てなくなる。
弱体化する一方であった妖怪の復調と、老いであった。当然、退治屋としては立ちゆかなくなる。やがて日銭を稼ぐこともせず、つまらぬ死を待つだけの暮らしをするようになった。
映姫が向かったのは、そんな折……。
「このままでは、死んでも地獄にすら行けない」
映姫の口癖の一つである。
そこから続く、長い説教をさえぎり、男は馬鹿にするような口調で言った。
「知ったことか。誰にも迷惑かけちゃいない。俺はそれでいい」
「そう……」
鉄拳が唸りをあげた。弾幕ごっこが普及して、まだ慣れない時期である。
映姫はうっかり、男を殺しかけた。
「今死んだら、彼岸を渡す死神に迷惑がかかります。せめて徳の負債を返してから逝きなさい」
虫の息となった男を尻目に、そそくさと、映姫は去っていった。
「はあ……そんなことが」
小町は、男が四円ほど持っていたことを思い出した。
借金を返済して、おつりがきたらしい。
「改心して善行を積んだのでしょうかねえ?」
「さあ。心の内側までは知りませんが……しばらく、人の世話を受けて生きていましたね」
「そりゃあ……」
瀕死にされては仕方もなかろう。
原因は何であれ、他人が使ってくれた金は死後の財産となる。云わば、映姫の説教を受けて徳を積んだ、ということにもなる。
(それにしても、きれいさっぱり返済したもんだ)
多少の善行は積んだのかもしれない。ともあれ、納得のいく死に方はできたらしい。
小町は苦笑した。
「百円で二十五本。それで一本あたり四円の計算だ」
「はい?」
「きっと、お徳用のお線香を一本あげてくれるような人が、いたんですよ」
「そうかもしれませんね」
「そう、ですよ。四季様」
「……」
「さて、名残惜しいですが、お別れといきましょうか」
「は?」
「だって、あたいは罪人ですから」
「ああ、それ冗談よ」
小町は目まいがした。
「あの程度のことで重罪になるわけないじゃないの」
「が、は……」
「落ち着きなさい、小町」
小町はふと、妙な噂を思い出していた。
四季映姫の説教は、罪を誇張して脅している……といったものである。
「そ、それでも、罪は、罪なんでしょう?」
「最初に裁きました。こう、こつんと」
「……」
「あれで、四円分の魂に相応。私の裁きは厳正です」
事実、小町の罪は無いようなものだった。
これが逆であれば、すなわち、渡し賃を横領して高徳者の距離を長引かせれば、重い罪にもなるのであるが……。
小町は全身の力が抜け、がっくりと膝をついた。
「それと、もう一つ……小町、聞いてるの?」
「へえい」
「私は自分が楽しくて閻魔をするのよ。裁判も説教も、愉しくてたまらないの」
「へえ」
「あなたがどう考えているのか、それは知らないけれど、無駄でしかない気遣いは捨てなさい」
「へえい」
「ともあれ、今日は見事な働きぶりでした。やれば出来る子なんだから、今後は本気を出してですね……」
適当な返事をしつつ、
(それはどうかな?)
と小町は思うのであった。
(あんな裁判や説教が、しんどくないはずがない。何より、あたいだって、サボりたくてサボってるわけでしてね)
見えないものは、自身の持つ裁量でしか結論を下せない。
人の心など、本当のところは知りようがなかった。
映姫の長い訓辞が終わった。
「折角とった休みです。貴方も今日はもう良いでしょう。呑みにいくわよ」
「過労でしょ? 寝てなくちゃ」
それでも、いそいそと、映姫にすり寄った。
(やった。タダ酒だ)
その肩を、ぎゅっと掴まれた。
「……小町、おんぶ」
「はい?」
「本当はぎっくり腰なのよ」
地蔵あがりの映姫は、何かと硬い。遅刻する小町に業を煮やし、一気に立ち上がったところで……ということだった。
今立っていることさえ、必死の状態らしい。
小町は苦笑した。
「しょうがないですねえ」
死神は、閻魔をそっと背に乗せた。
彼岸へ降り注ぐ優しい光の中に、二人の影は溶けていった。
余談になる。
ずっと後のことであるが……小町は三途の河を渡す橋の上から、霧を眺めていた。
この橋は、財政難の続く是非曲直庁が、人件費削減のために建立したといわれる。
(良い時代になった)
財産の多寡に応じて、タクシーや片道バス、貸し自転車などに乗ることができる。
金がない者は、自力のみで橋を渡らねばならない。
小町は今、死んでいた。
(四季様、元気かなあ)
船頭が整理された時、小町には別の死神として残る口もあったが、辞して地獄で暮らすことを選んだ。
理由は話さなかったが、映姫も、
「そう」
と言っただけである。
餞別など、言葉もなかった。
それが、小町にはありがたかった。
(さて、良い頃合か)
小町は彼岸に渡り、是非曲直庁へと向かった。
(この時間なら、四季様の手を煩わすこともない)
最期に思うことは、それだけのつもりだった。
法廷に入ると、
「久しぶりね、小町」
当然のように映姫が座っていた。
「いつぞやの分、休日返上で入ったのよ」
「……」
「では、始めます」
(はあ。長くなるだろうなあ)
小町はうつむいた。
「最初の罪は、小野塚小町が産まれた時……」
(知らんがな)
生誕から、全ての罪は記録されている。
さすがに、その全てを読み上げるわけではない。
「第六年、五十二の七番の罪……」
この辺りになると、
(あった気がするなあ)
という程度に、自己の責任による大きい罪を数えるようになる。
小町は半ば聞き流していた。
そうでもしないと、罪の多さに押し流されそうだった。
(つらい……)
四季映姫との出会いの後も、淡々と生前の所業を教えられてゆく。
それは、紛れもなく己の生きた証であった。
無限に思える時が過ぎた。
「以上。地獄に堕ちて罪をつぐない、転生の時を待ちなさい」
小町は顔を上げられなかった。
熱を失った魂に、激情が渦巻いている。
かつ、かつ、と近くに足音がしても、震えることしかできなかった。
「小町」
「……」
「よく、働いてくれました」
「……」
「よく、頑張りましたね」
「……」
「お疲れさまです」
小町の魂は、ぐしゃぐしゃに崩れて白い泥のようになった。
四季映姫が倒れたらしい。
小町は近くにいた死神を掴まえて、映姫の症状を尋ねた。
「やはり、痔ですか?」
閻魔の座る椅子は硬い。腰痛と痔は、職業病として知られている。
その死神は忙しいのか、
「過労です」
とだけ答え、足早に去っていった。
小町は深く嘆息した。
(やっぱりねえ)
痔であれば治しようもあった。今の場合、映姫の硬い精神性が病根となっている。
映姫は医務室に運ばれていた。
しばらくして気が付くと、
「……小町?」
その目を白黒とさせた。
呆然としている。
「おはようございます、四季様」
小町は茶化すように言った。
「閻魔様でも倒れるんですねえ。ここだけの話……やはり、痔ですか?」
ぎろり。
と映姫の眼光が、鋭くなった。
「小町。あなたは仕事に戻りなさい」
「へいへい」
言われた通り、小町は速やかに部屋を出た。
(あなたは寝ていて下さいよ)
そして、にたりと薄笑いを浮かべ、三途の河へと急いだ。
幻想郷を担当する閻魔は二人いて、共にヤマ・ザナドゥと呼ばれる。
一人は四季映姫。もう一人は、
(知らないね。そんな奴ぁ)
小町は顔も覚えていない。
映姫が倒れた今、休日返上で代わりに入ったはずである。
(一寸の時も惜しい)
サボリ魔として知られる小町が、距離をすっ飛ばして走り、飛び魚のように艪を使い、三途の河の向こう岸に舟を着けた。
辺りを見回すと、
「よし、お前。なかなか徳が高そうだね」
つやの良さげな魂の緒をむんずと掴み取り、小舟に積み込んだ。
「すぐ済む。銭をよこせ」
「……」
「全額」
追い剥ぎのように渡し賃をむしり取り、
「ほら着いた」
素早く彼岸へ渡し終えた。
(どうせ、すぐに済むさ)
受付の死神に渡し賃と魂を引き継ぐと、小町はつまらなさそうに是非曲直庁を出て、また三途の河を渡った。
さて、小町が滞りなく仕事をこなしている間に、是非曲直庁について説明をしようと思う。
簡単に言えば、あの世の裁判所である。または、閻魔や死神が勤める、彼岸の公的組織とも云えよう。
そもそもは世界的な人口増加に伴い、
「面倒見切れん」
と閻魔王が匙を投げたために作られた。
人手不足を補うために裁判を簡略化し、また、全国の暇な地蔵などから多くの裁判官を募集、スカウトして閻魔職に就けるなど、
「目指そうのんびり彼岸ライフ。地域密着型でゆとりのある是非曲直庁」
を標語に、今も改革を推進している最中である。
閻魔は二交代制で絶え間なく裁判を行い、各閻魔に数人の死神が付き、その手足となって働くという仕組みである。
死神とは、地獄の民の中から採用された公務員のようなもので、神仏の存在というよりは役職名に近い。その仕事は多岐に渡り、閻魔の書記官を筆頭に、ミスの許されない寿命の管理などが事細かになされているが、小町などは、
「あたいが少しばかし仕事をツケにしたところで、何も変わらず、世の中は移ろいでゆくさ」
と放言して気楽なものである。
小町は映姫付きの死神の一人で、三途の河の船頭をしている。
人は、三途の河を渡らないことには転生も出来ないが、その河幅は、渡る人によって長さが異なる。もう少し厳密に言えば、船頭への渡し賃の多寡によって、距離が変わるのである。
死者の渡し賃には、必ず全財産を要求する。
これにより、金持ちほど速やかに渡河できるのだが、逆に、あまりにも渡し賃が少なくて距離が長びくようだと、船頭次第では三途の河に叩き落されてしまう。
「徳の高い人ほどたくさんお金を持っています。そのため、優遇されるのは当然です」
とは映姫の言である。
死者の財産とは、生前に他者がその人のことを思って使ってくれた金額に相当する。恨みなどを買えば、差し引きでマイナスになることもあるというが……。
さて――。
「しまった……」
迅速に仕事を片付けていた小町であるが、思わず額に手を当て、呟いた。
「全財産が……まさか、四円ぽっちとはねえ」
小町は竿を持ち、ぐっと岩を突いて舟を押し出した。
こつ。こつ。
と岩を突きながら進み、岸辺を離れたところで、艪に持ち替えた。
四円の魂など、よほど暇な死神でなければ相手にしない。
しかし小町に限っては、
(サボりには持ってこいの上客だが……)
こういった、金にならない魂をゆるゆると運んでは、映姫の小言を受けるのが常であった。
ただし、今は事情が異なる。
(急ぎたいんだけどなあ)
濃い霧がかかっているせいもあり、遠く彼岸は見えもしない。
小町はちらりと、五円のない魂に視線を移した。
「当ててやろう」
「……」
「お前さん、歳は六十前後。下等な妖怪に食われて死んだね」
「……」
「噛み傷が多く、深い。だが、それにしては……」
「……」
「やけに未練のない、さっぱりとした姿をしているのは、どういう訳だ?」
魂が声を発することはない。それでも、
(当ててみろ)
と言わんばかりに、その魂は膝を崩して、小舟の上にどっかりと腰を据えた。
(ふむ)
小町は思案した。
死んで間もない頃の魂は、生前の形を保っている。
この魂は、小柄な老人の姿をしていて、首が上を向いたままへし折れていた。
小町は腰を沈めるようにして、ぐいっと艪を回した。
「未練の多い奴ってのは、さ……」
冷たい河上。
独り言のように、小町は話しかけた。
「あちこち寄り道して、振り向いて、さまよって、だな。よいしょっと……。ようやく諦めた頃には、こう、人の形は崩れて、丸っこいカタマリみたいになってんだ」
「……」
「カタマリならいい。どろどろの泥団子みたいな奴は運びづらいんだ」
「……」
「まあ……未練もなく、人の姿の内にさっさと三途の河を渡るような奴は、大体、自らの死に納得して、死を迎え入れて逝った奴だ。大往生を遂げた人なんかにゃ多いんだがなあ」
「……」
「しかしお前さんは、妖怪に襲われたと来ている」
「……」
「つまりだ。自分から進んで妖怪に襲われて逝くような、阿呆がいるとしたら……」
見れば、老人の魂は口元をにたりと歪めていた。
小町は苦笑して、
「ああ。妖怪に、食ってもらったのかい?」
茶化すように言うと、老人の魂は声もなく笑った。
半ば小町の趣味である。
面白そうな魂を見つけたら、強引に舟に積み込んで、一方的にあれよこれよと喋り続ける。時には歌などを唄ったりして、飽きることもない。そうこうするうちに、徳の低い魂でも遠く彼岸へ渡し終えている。
それだけで仕事を終えたとしても、
「いやあ。精一杯仕事した後ってのは、実に気持ちがいいですね」
などとのたまいつつ、仏頂面を極める映姫を酒に誘った。
「四季様は頑張りすぎなんですよ。いつか倒れちゃいますよう。あたいが三途の河を渡すまでの間、のんびり花占いでもしていて下さいな」
酒の席である。
「そうね。ちぎった花の分だけ、あなたの給料をさっ引くから」
「きゃん……」
小町なりに、映姫を思い慕っていた。
ただし、
(どうしたもんかねえ)
今、その映姫は倒れている。
小町は彼岸が見えないまま、舟を漕ぎ続けた。
「うちのボスが、四季映姫っていう堅物なんだけどね」
「……」
「他の閻魔様ならちゃっちゃと済ますことを、くどくどくどくど……もう、仕事の鬼って奴さ」
「……」
「仕事、仕事、仕事だよ」
「……」
「仕事の日は仕事をするし、仕事がヒマなら説教に行っちゃうし、休みの日はやっぱり説教に行くし」
「……」
「こないだも花の化身みたいな妖怪に説教して、喧嘩になってさ」
「……」
「ひどい妖怪もいたもんで、ボロボロにされてね」
「……」
「いやその妖怪、ほんとひでえ奴で。カナヅチの四季様をスマキにして、三途の河に投げ込むんだから……」
小町が拾い上げなければ、どうなっていたか分からない。
独り言は尚も続く。
「昔っからそうなんだ。今は、鉄拳制裁してた頃に比べりゃラクになった、なんて言ってるけど」
「……」
「ラクになった分、余計に説教して回る時間が増えてね。結局、忙しくなっただけさ」
「……」
「で、やっぱり、倒れちゃったんだ」
「……」
「そりゃ倒れるさ。ただでさえ四季様のお裁きは……」
言いかけて、小町は口をつぐんだ。
流れ作業のような裁判が、是非曲直庁のはやりである。
映姫の裁きは、己の中にのみ絶対の基準を置き、何者にも容赦をせず判決を下すとして評判であった。
人の一生をなぞりつつ、例外なく黒白で斬り捨ててゆく。
いかなる善人、悪人であれ、罪は罪として執拗なまでに公平さを求めた。
(そう。そこだよ、四季様。一片の私情も交えずにさ……人の罪ばかり公平に押しつけて、あなたは辛くないんですか?)
無心無情の存在であれば良い。
小町の知っている映姫は、それには遠かった。
小町からすれば、
「……四季様のお裁きは、四季様自身が、一番きついんだから」
と思えて仕方がなかった。
初見で映姫に、
「まじめそうな子」
と評された小町は、次第に、時間のかかる客を選んで運ぶようになっていった。
(四季様以外の奴らが、もう少し働けばいいのさ……)
そう口に出したことは、一度もない。
そして静かに時が過ぎた。
いくら眼を凝らしたところで彼岸は見えない。白い霧が濃淡の加減によって、ぱらぱらと翡翠のように淡く輝いて見えるだけである。
「終点だ」
小町は艪を手放し、死神の鎌に持ち替えた。
「悪いね。あの運賃じゃ、これが精一杯なんだ。あんたも、生前の行いが少し悪かったんだろう」
「……」
「三途の河に落ちた魂がどうなるのか、あたいは知らない。まあ、悪いとも限らないよ。浪の底にも都ありってね。ひょっとしたら妖精にでもなるのかもしれない」
妖精は、植物が地下から死霊を吸い上げることで生まれる……という説がある。
小町がそれを信じているわけではないが、
「だから、達者でな」
と言って、鎌を振り上げた。
老人の魂は穏やかに笑っていた。
びゅっ……。
と振り下ろした鎌の刃先は、真上に折れたままの老人の顔を、かすめて通った。
小町は老人を落とせなかった。
「冗談だよ」
そう言って、からりと笑った。
「もっといい方法があるんだから……」
小舟に座り込むと、
「バレやしないさ」
そう、口の中で呟いた。
小町は適当な金額を手に取り、そっと老人に渡し、握らせた。
「金をやるよ。すぐ、渡し賃として払って貰うが……これで、距離を縮められる」
死神と魂の、私的な取引は不正にあたる。
(ツケを払うだけさ。四季様が休んでいる間にね)
ところが、ぼとり、と何かが落ちた。
見れば、金を握らせたはずの老人の腕が、そのまま船底に転がっていた。
「あれ……?」
老人はゆるりと立ち上がると、舟から飛び降りた。
この河は、波音を立てることもせず、魂を沈めていった。
「どうして」
と呟いたところで、返事はない。舟には呆然とした小町一人が残され、間もなく霧が晴れていった。
彼岸が見えて、そこには映姫が立っていた。
さあらぬ態で彼岸に上がった小町であるが、
「小町。バレないはずがないでしょう」
こつん、と映姫に殴られた。
閻魔は浄琉璃の鏡というものを持ち、それを覗けば全ての行いを知ることができる。
「全く、あなたって子は……」
映姫は深く嘆息した。
(やだなあ、こんな時に。また小言が始まるよ)
小町もどこか、疲れていた。
「四季様、お体の具合はどうなんです?」
「今はそれどころでは、ありません」
「……」
「あなたは告訴され、明日には地獄の底に堕とされます。私も責任を取り、退職しなければなりません」
「えっ……?」
あまりの沙汰に、くらりと目まいがした。
老人に握らせた金は、受け取られぬまま小町の手に戻ってきている。
「そう。不正を持ちかけたこと、それ自体が罪なのです」
「四季様、それは!」
「聞きなさい」
「だって、だってですよ……」
「そう決められているのよ、小町。死神の不正は、とても重いの」
映姫の声は、これまでに聞いたことのないほど、やんわりとした口調であった。
小町は喉奥から熱いものが込み上げてきて、はあ……と、息を吐き出すと、たまらなくなった。
「嫌だ、そんなの嫌だよ。おかしいじゃないですか」
「何がです?」
「なにって、四季様……か、金、金、金だ!」
「それは……」
「分かってる。判ってますよ。でも、こんなのって、冗談じゃねえや」
「文句があるなら、言いなさい」
「……」
「私は人の行為は全て見通せますが、心までは分かりません。口が利けるのなら、言葉にして下さい」
映姫の視線が、まっすぐに小町の瞳を射抜いている。
しばらく、一言も無いままに時は過ぎた。
考えるほど、小町は言葉に詰まっていった。言いたいことは、
(星の数ほどある)
と思っていた。
是非曲直庁など、小町にとっては不満の種でしかない。三途の河など、橋でもかけて渡してしまえと思っていた。自身の仕事にも、映姫の仕事にも、矛盾を感じずにはいられなかった。それが、
(もう最期なんだ)
と思うと、どれもこれも、妙に整理がついてしまい、大抵のことは熱流となって心から抜けてしまったのである。
「あ、あ……」
ようやくのことで、絞るようにして発した声は、震えていた。
「あたいだって、いつか、死んで彼岸に参ります」
小町は、妙に自分が老けたように感じた。
しわがれた声で、唄うように呟いた。
「その時は……。我死なば、焼くな埋むな、野にさらせ。痩せたる犬の、腹を肥やせよ……って、ね」
映姫は黙って聞いている。
小町は続けた。
「そんな死に方じゃ、三途の河は渡せない。高徳なんぞには御縁もない。でも、ね……誰かに分かって欲しい。一人でいい、四季様ぁ。よくやったってさ……私はこの生き方が、精一杯なんだよう」
小町は眼をぬぐった。
それからきつく鼻をすすると、ありったけの想いを瞳に込めて、映姫の双眸を射抜き返した。
「小町」
映姫の声は、優しく響いた。
「今日あなたが運んだ幽霊は、私が説教をしたことのある者です」
「えっ……」
「数年前、借金を抱えていた男で……」
男は、妖怪退治を生業としていた。
若年の頃から才気に溢れ、天涯孤独の身でありながら、人に頼ることを良しとしない。最低限の報酬以外は心ばかりの礼物も受けることをせず、ただ己が愉しくて妖怪退治をした男である。打ち解けない性格は人に疎まれ、男もそれを当然として気にも留めなかった。
ところがある時期を境に、妖怪に勝てなくなる。
弱体化する一方であった妖怪の復調と、老いであった。当然、退治屋としては立ちゆかなくなる。やがて日銭を稼ぐこともせず、つまらぬ死を待つだけの暮らしをするようになった。
映姫が向かったのは、そんな折……。
「このままでは、死んでも地獄にすら行けない」
映姫の口癖の一つである。
そこから続く、長い説教をさえぎり、男は馬鹿にするような口調で言った。
「知ったことか。誰にも迷惑かけちゃいない。俺はそれでいい」
「そう……」
鉄拳が唸りをあげた。弾幕ごっこが普及して、まだ慣れない時期である。
映姫はうっかり、男を殺しかけた。
「今死んだら、彼岸を渡す死神に迷惑がかかります。せめて徳の負債を返してから逝きなさい」
虫の息となった男を尻目に、そそくさと、映姫は去っていった。
「はあ……そんなことが」
小町は、男が四円ほど持っていたことを思い出した。
借金を返済して、おつりがきたらしい。
「改心して善行を積んだのでしょうかねえ?」
「さあ。心の内側までは知りませんが……しばらく、人の世話を受けて生きていましたね」
「そりゃあ……」
瀕死にされては仕方もなかろう。
原因は何であれ、他人が使ってくれた金は死後の財産となる。云わば、映姫の説教を受けて徳を積んだ、ということにもなる。
(それにしても、きれいさっぱり返済したもんだ)
多少の善行は積んだのかもしれない。ともあれ、納得のいく死に方はできたらしい。
小町は苦笑した。
「百円で二十五本。それで一本あたり四円の計算だ」
「はい?」
「きっと、お徳用のお線香を一本あげてくれるような人が、いたんですよ」
「そうかもしれませんね」
「そう、ですよ。四季様」
「……」
「さて、名残惜しいですが、お別れといきましょうか」
「は?」
「だって、あたいは罪人ですから」
「ああ、それ冗談よ」
小町は目まいがした。
「あの程度のことで重罪になるわけないじゃないの」
「が、は……」
「落ち着きなさい、小町」
小町はふと、妙な噂を思い出していた。
四季映姫の説教は、罪を誇張して脅している……といったものである。
「そ、それでも、罪は、罪なんでしょう?」
「最初に裁きました。こう、こつんと」
「……」
「あれで、四円分の魂に相応。私の裁きは厳正です」
事実、小町の罪は無いようなものだった。
これが逆であれば、すなわち、渡し賃を横領して高徳者の距離を長引かせれば、重い罪にもなるのであるが……。
小町は全身の力が抜け、がっくりと膝をついた。
「それと、もう一つ……小町、聞いてるの?」
「へえい」
「私は自分が楽しくて閻魔をするのよ。裁判も説教も、愉しくてたまらないの」
「へえ」
「あなたがどう考えているのか、それは知らないけれど、無駄でしかない気遣いは捨てなさい」
「へえい」
「ともあれ、今日は見事な働きぶりでした。やれば出来る子なんだから、今後は本気を出してですね……」
適当な返事をしつつ、
(それはどうかな?)
と小町は思うのであった。
(あんな裁判や説教が、しんどくないはずがない。何より、あたいだって、サボりたくてサボってるわけでしてね)
見えないものは、自身の持つ裁量でしか結論を下せない。
人の心など、本当のところは知りようがなかった。
映姫の長い訓辞が終わった。
「折角とった休みです。貴方も今日はもう良いでしょう。呑みにいくわよ」
「過労でしょ? 寝てなくちゃ」
それでも、いそいそと、映姫にすり寄った。
(やった。タダ酒だ)
その肩を、ぎゅっと掴まれた。
「……小町、おんぶ」
「はい?」
「本当はぎっくり腰なのよ」
地蔵あがりの映姫は、何かと硬い。遅刻する小町に業を煮やし、一気に立ち上がったところで……ということだった。
今立っていることさえ、必死の状態らしい。
小町は苦笑した。
「しょうがないですねえ」
死神は、閻魔をそっと背に乗せた。
彼岸へ降り注ぐ優しい光の中に、二人の影は溶けていった。
余談になる。
ずっと後のことであるが……小町は三途の河を渡す橋の上から、霧を眺めていた。
この橋は、財政難の続く是非曲直庁が、人件費削減のために建立したといわれる。
(良い時代になった)
財産の多寡に応じて、タクシーや片道バス、貸し自転車などに乗ることができる。
金がない者は、自力のみで橋を渡らねばならない。
小町は今、死んでいた。
(四季様、元気かなあ)
船頭が整理された時、小町には別の死神として残る口もあったが、辞して地獄で暮らすことを選んだ。
理由は話さなかったが、映姫も、
「そう」
と言っただけである。
餞別など、言葉もなかった。
それが、小町にはありがたかった。
(さて、良い頃合か)
小町は彼岸に渡り、是非曲直庁へと向かった。
(この時間なら、四季様の手を煩わすこともない)
最期に思うことは、それだけのつもりだった。
法廷に入ると、
「久しぶりね、小町」
当然のように映姫が座っていた。
「いつぞやの分、休日返上で入ったのよ」
「……」
「では、始めます」
(はあ。長くなるだろうなあ)
小町はうつむいた。
「最初の罪は、小野塚小町が産まれた時……」
(知らんがな)
生誕から、全ての罪は記録されている。
さすがに、その全てを読み上げるわけではない。
「第六年、五十二の七番の罪……」
この辺りになると、
(あった気がするなあ)
という程度に、自己の責任による大きい罪を数えるようになる。
小町は半ば聞き流していた。
そうでもしないと、罪の多さに押し流されそうだった。
(つらい……)
四季映姫との出会いの後も、淡々と生前の所業を教えられてゆく。
それは、紛れもなく己の生きた証であった。
無限に思える時が過ぎた。
「以上。地獄に堕ちて罪をつぐない、転生の時を待ちなさい」
小町は顔を上げられなかった。
熱を失った魂に、激情が渦巻いている。
かつ、かつ、と近くに足音がしても、震えることしかできなかった。
「小町」
「……」
「よく、働いてくれました」
「……」
「よく、頑張りましたね」
「……」
「お疲れさまです」
小町の魂は、ぐしゃぐしゃに崩れて白い泥のようになった。
涙が出そうになりました。
お腹いっぱいになりました。
ありがとうございます