私こと、八雲紫の式・八雲藍が彼と出会ったのは、今から十数年前の初夏の日のこと。我が式・橙と人里を歩いている時のことだった。
右手には今夜の夕飯の食材の入った買い物籠を持ち、左手には橙の手を取り、私は帰路に付いていた。
ふと、私たちの後ろに、何者かの視線を感じた。どうやら人でも、妖怪でもない。
振り返ると、そこには一匹の子犬がいた。
ベージュ色の、耳の垂れた、まだ生まれて間もない子犬。
親とはぐれたのだろうかと一瞬思ったが、非常に痩せこけているところを見る限り、そうではないようだった。
子犬は、私たちをじーっと見つめていた。
妖獣である私たちには、その子犬が私たちに助けを求めているのが分かった。この子犬は、親と死別し、路頭に迷っているのだ。
しかし、子犬の伝えたいことが分かったからといって、私たちに子犬を助ける義理はない。
私は子犬の視線を無視し、再び帰路に付くことにした。
しかし――
「藍さま」
私が歩き出そうとしたところで、橙が私の手を引く。
「何だ、橙」
「彼を、うちにつれて帰りましょう」
どうやら橙はあの子犬に感情移入してしまったらしい。
「彼は、今とても飢えています。とても明日まで持たないでしょう」
「橙、私たちと彼は赤の他人だ。そんな義理はない。……それに、つれて帰って紫様がなんと思うか――」
「幻想郷は――すべてを受け入れるんですよね?」
「……………」
「きっと、紫さまなら、お許しを下さるでしょう」
橙の言葉に、私はどうしようもなくなってしまった。
「……しょうがないな」
「ありがとうございます!」
橙は私に一礼すると、子犬を抱きかかえた。
マヨイガの我々の家に帰宅し、紫様に子犬を見せると、紫様は橙の予想通り、快く子犬を迎え入れた。
「橙、貴女がその子の親代わりになりなさい。ちゃんとその子の面倒みるの」
紫様は橙に、笑いながらそう言った。
「私が、ですか?」
「ええ。そうよ」
「ですが、私は猫です」
「あら、人間も犬の親代わりになることがあるのよ。猫が親代わりになったっておかしくはないわ」
「……紫様がそう言うのなら、その役目を快く受け入れます」
「ちゃんと、責任を持つのよ」
「はい。分かりました」
子犬はやわらかく湯がいた米を与えると、それを待っていたかのように食いつき、夢中になって食べ始めた。
「しっかり食べろよー。せっかく紫さまに許しがもらえたんだ。元気になってもらわないと」
橙が子犬に語りかける。
しかし、子犬はどうやら食べるのに夢中で、橙の言うことなど聴こえていないようだ。
「橙、この子犬の名前は決まったか?」
何気なく、わたしは橙に訊く。
「名前、そうですね……」
橙は腕を組んでしばらく考えると、手をぽんと叩いた。
「“サチ”、っていうのはどうでしょう。長く幸せになって欲しいので」
「サチ、か。なかなかいい名前じゃないか」
「よし! お前の名前は今日からサチだ! サチ、ちゃんと生きろよ。いつかお前を、私の式神にしてやるからな!」
橙がそう言うと、食べ終わったサチが小さく「キャン」と鳴いた。
それから、橙とサチは共に暮らすようになった。
これが、私たちとサチの出会いだ。
それから、幾年の月日が流れた。
サチは、立派な成犬に成長した。
猫たちのリーダーであるはずの橙は、相変わらず猫たちに慕われなかった。
しかし、その傍にはいつもサチの姿があった。サチだけは、橙のことを主と認めていた。
橙は、わが子のようにサチのことを可愛がった。
どんなに子分の猫たち馬鹿にされても、サチがいるだけで橙は幸せだった。
橙は、いつもサチをつれて歩いてた。
私も、たまにサチをつれて歩いた。
私も、紫様も、そんな二人の姿を、愛おしく思った。
しかし、サチと出会って十二年目のある日のこと――
急に、サチの食欲が衰え始めた。
心配した私たちは、サチを永遠亭につれて行った。一番腕の立つ医者は、患者を選ばない。
「この犬、腎臓を患っているわ」
八意永琳は静かにそう言った。
「薬を処方するわ。この薬を、一日二回服用させて」
そう言いながら、永琳は橙に薬の入った紙袋を手渡す。
「その薬で、こいつは治るのか?」
私がそう訊くと、永琳は、
「いいえ」
と、答えた。
「この薬は、あくまで悪化を遅くするための物。治す物じゃないわ」
「――貴様ッ!」
私は、思わず永琳に掴みかかった。柄にも無く、感情的になってしまった。
「貴様、それでも医者か! 患者を治すのが医者だろう!?」
「止めなさい。藍」
紫様の一言で、私の動きは止まった。
「――この子は、もう助からないのかしら?」
紫様が、静かに訊ねる。
「ええ、無理ね。お手上げよ。この犬は、もう長くない。――この犬を助ける薬なんて、私には処方できない。老いに打ち勝つ薬なんて、処方できるわけないじゃない」
「――老い……」
さっきまで黙り込んでいた橙が、ポツリとつぶやく。
「そう、老いよ。この子は、もう十年以上生きている。犬にしては、十分な時間よ。人間にしたら八十年以上。もう十分よ」
「――そうね」
紫様が、うなずく。
「世話になったわ。また何かあったら来るわ」
「そう。願わくば、何も無いことを祈るわ」
そして、私たちは永遠亭を後にした。
それから、サチの食欲は次第に減り、気がつけばサチの身体は、私たちと出会ったころのように痩せ細っていた。
そして、サチの食欲が減少してから半年、ついにサチは何も食べることが出来なくなってしまった。
――もう、歩く元気も無い。
――もう、鳴くことも出来ない。
サチに出来ることは、ただ、死を待つことだけ。
私たちに出来ることも、ただ見つめて、サチの死を待つことだけ。
私と紫様は知人の人間たちの死によって、この死を待つ時間には慣れている。私たちは、千年以上の間、たくさんの死を見てきたのだ。
しかし、橙は違う。
橙は、まだ百年も生きていない。“死”というものに慣れてはいない。
そんな橙が、親しいものの死を受け入れられるかどうか、私は心配だった。
――そして、運命の時はやってきた。
ある秋の始まりの日の夜、サチはこの世から旅立った。
橙の目の前で、橙を見つめたまま、息を引き取った。
「藍さま」
橙が、もう動かないサチに毛布をかけながら言う。
「私は、サチと約束をしました」
サチの冷たくなった身体を撫でる。
「いつか、私の式神にしてやると」
スカートを掴む手が震える。
「他にも、たくさん約束をしました」
声が震える。
「元気になったら、美味しい魚を取ってやるだとか、二人で子分たちをぎゃふんといわせるだとか」
鼻をすする。
「でも、サチは全部破りました」
震える手に、涙が落ちる。
「まるで全部忘れたみたいに、先に逝ってしまいました」
涙で、顔がくしゃくしゃになる。
私は、そんな橙をほっておけなくなって、思わず抱きしめてしまった。
そして、私は気がつく。
――私自身も、涙を流していた。
ああ、そういえば――家族が逝ったのは、これが初めてだった。
その後、サチの亡骸は火葬され、八雲亭の裏に埋葬された。
――私たちは、決してサチのことを、忘れることはできないだろう。
右手には今夜の夕飯の食材の入った買い物籠を持ち、左手には橙の手を取り、私は帰路に付いていた。
ふと、私たちの後ろに、何者かの視線を感じた。どうやら人でも、妖怪でもない。
振り返ると、そこには一匹の子犬がいた。
ベージュ色の、耳の垂れた、まだ生まれて間もない子犬。
親とはぐれたのだろうかと一瞬思ったが、非常に痩せこけているところを見る限り、そうではないようだった。
子犬は、私たちをじーっと見つめていた。
妖獣である私たちには、その子犬が私たちに助けを求めているのが分かった。この子犬は、親と死別し、路頭に迷っているのだ。
しかし、子犬の伝えたいことが分かったからといって、私たちに子犬を助ける義理はない。
私は子犬の視線を無視し、再び帰路に付くことにした。
しかし――
「藍さま」
私が歩き出そうとしたところで、橙が私の手を引く。
「何だ、橙」
「彼を、うちにつれて帰りましょう」
どうやら橙はあの子犬に感情移入してしまったらしい。
「彼は、今とても飢えています。とても明日まで持たないでしょう」
「橙、私たちと彼は赤の他人だ。そんな義理はない。……それに、つれて帰って紫様がなんと思うか――」
「幻想郷は――すべてを受け入れるんですよね?」
「……………」
「きっと、紫さまなら、お許しを下さるでしょう」
橙の言葉に、私はどうしようもなくなってしまった。
「……しょうがないな」
「ありがとうございます!」
橙は私に一礼すると、子犬を抱きかかえた。
マヨイガの我々の家に帰宅し、紫様に子犬を見せると、紫様は橙の予想通り、快く子犬を迎え入れた。
「橙、貴女がその子の親代わりになりなさい。ちゃんとその子の面倒みるの」
紫様は橙に、笑いながらそう言った。
「私が、ですか?」
「ええ。そうよ」
「ですが、私は猫です」
「あら、人間も犬の親代わりになることがあるのよ。猫が親代わりになったっておかしくはないわ」
「……紫様がそう言うのなら、その役目を快く受け入れます」
「ちゃんと、責任を持つのよ」
「はい。分かりました」
子犬はやわらかく湯がいた米を与えると、それを待っていたかのように食いつき、夢中になって食べ始めた。
「しっかり食べろよー。せっかく紫さまに許しがもらえたんだ。元気になってもらわないと」
橙が子犬に語りかける。
しかし、子犬はどうやら食べるのに夢中で、橙の言うことなど聴こえていないようだ。
「橙、この子犬の名前は決まったか?」
何気なく、わたしは橙に訊く。
「名前、そうですね……」
橙は腕を組んでしばらく考えると、手をぽんと叩いた。
「“サチ”、っていうのはどうでしょう。長く幸せになって欲しいので」
「サチ、か。なかなかいい名前じゃないか」
「よし! お前の名前は今日からサチだ! サチ、ちゃんと生きろよ。いつかお前を、私の式神にしてやるからな!」
橙がそう言うと、食べ終わったサチが小さく「キャン」と鳴いた。
それから、橙とサチは共に暮らすようになった。
これが、私たちとサチの出会いだ。
それから、幾年の月日が流れた。
サチは、立派な成犬に成長した。
猫たちのリーダーであるはずの橙は、相変わらず猫たちに慕われなかった。
しかし、その傍にはいつもサチの姿があった。サチだけは、橙のことを主と認めていた。
橙は、わが子のようにサチのことを可愛がった。
どんなに子分の猫たち馬鹿にされても、サチがいるだけで橙は幸せだった。
橙は、いつもサチをつれて歩いてた。
私も、たまにサチをつれて歩いた。
私も、紫様も、そんな二人の姿を、愛おしく思った。
しかし、サチと出会って十二年目のある日のこと――
急に、サチの食欲が衰え始めた。
心配した私たちは、サチを永遠亭につれて行った。一番腕の立つ医者は、患者を選ばない。
「この犬、腎臓を患っているわ」
八意永琳は静かにそう言った。
「薬を処方するわ。この薬を、一日二回服用させて」
そう言いながら、永琳は橙に薬の入った紙袋を手渡す。
「その薬で、こいつは治るのか?」
私がそう訊くと、永琳は、
「いいえ」
と、答えた。
「この薬は、あくまで悪化を遅くするための物。治す物じゃないわ」
「――貴様ッ!」
私は、思わず永琳に掴みかかった。柄にも無く、感情的になってしまった。
「貴様、それでも医者か! 患者を治すのが医者だろう!?」
「止めなさい。藍」
紫様の一言で、私の動きは止まった。
「――この子は、もう助からないのかしら?」
紫様が、静かに訊ねる。
「ええ、無理ね。お手上げよ。この犬は、もう長くない。――この犬を助ける薬なんて、私には処方できない。老いに打ち勝つ薬なんて、処方できるわけないじゃない」
「――老い……」
さっきまで黙り込んでいた橙が、ポツリとつぶやく。
「そう、老いよ。この子は、もう十年以上生きている。犬にしては、十分な時間よ。人間にしたら八十年以上。もう十分よ」
「――そうね」
紫様が、うなずく。
「世話になったわ。また何かあったら来るわ」
「そう。願わくば、何も無いことを祈るわ」
そして、私たちは永遠亭を後にした。
それから、サチの食欲は次第に減り、気がつけばサチの身体は、私たちと出会ったころのように痩せ細っていた。
そして、サチの食欲が減少してから半年、ついにサチは何も食べることが出来なくなってしまった。
――もう、歩く元気も無い。
――もう、鳴くことも出来ない。
サチに出来ることは、ただ、死を待つことだけ。
私たちに出来ることも、ただ見つめて、サチの死を待つことだけ。
私と紫様は知人の人間たちの死によって、この死を待つ時間には慣れている。私たちは、千年以上の間、たくさんの死を見てきたのだ。
しかし、橙は違う。
橙は、まだ百年も生きていない。“死”というものに慣れてはいない。
そんな橙が、親しいものの死を受け入れられるかどうか、私は心配だった。
――そして、運命の時はやってきた。
ある秋の始まりの日の夜、サチはこの世から旅立った。
橙の目の前で、橙を見つめたまま、息を引き取った。
「藍さま」
橙が、もう動かないサチに毛布をかけながら言う。
「私は、サチと約束をしました」
サチの冷たくなった身体を撫でる。
「いつか、私の式神にしてやると」
スカートを掴む手が震える。
「他にも、たくさん約束をしました」
声が震える。
「元気になったら、美味しい魚を取ってやるだとか、二人で子分たちをぎゃふんといわせるだとか」
鼻をすする。
「でも、サチは全部破りました」
震える手に、涙が落ちる。
「まるで全部忘れたみたいに、先に逝ってしまいました」
涙で、顔がくしゃくしゃになる。
私は、そんな橙をほっておけなくなって、思わず抱きしめてしまった。
そして、私は気がつく。
――私自身も、涙を流していた。
ああ、そういえば――家族が逝ったのは、これが初めてだった。
その後、サチの亡骸は火葬され、八雲亭の裏に埋葬された。
――私たちは、決してサチのことを、忘れることはできないだろう。
病気でした。
私を含め、両親以外彼を看取ることができませんでした。
悲しかったです。
ちょうどその日の夜に帰るつもりだったのに看取れませんでした。
辛かったし、泣きたかったのに、信じられなかったのか、私だけが泣けませんでした。
だからでしょうか、彼の眼が開いていたのに気がついたんです。
みんなで閉じさせようとしましたが、いくらやっても半目の状態まで開いてしまうのでした。
仕方がないので、その状態で寝かせてあげました。
次の日、実家にいなかった妹に彼の遺体を見せてやりました。
すると、彼の眼はそっと閉じられたのです。
心なしか、安心したかのような顔でした。
妹のことが大好きな彼でしたから、元気そうな姿をみて、安心したんでしょうね。
あなたの犬がそうであるかはわかりませんが、その子は、あなたの姿を見れて「よかった」って思えたんじゃないでしょうか。
彼のお墓に、たまにでいいから、線香を立ててお祈りしてあげてください。
罪滅ぼしになるかはわかりませんが、その子は喜んでくれるはずですよ。
しばらくはさびしい思いをすると思いますが、がんばってください。
私もがんばりますから。
5月の中頃に急に歩けなくなり、食欲も無くなって、一時期10キロを超えた体重も死後の計量ではたったの3キロ。
死体にしがみ付いて泣き叫んだのはあれが初めてでした。
おい、 元気にしてるか
それだけが、今も気掛かりです。
この度は、ご愁傷様で御座いました。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。