今日、庭で名前も知らない花が咲いた。私は雑草だと思っていたのだが、どうやら花だったらしい。その花は白い花びらに紫色のストライプが美しく入っている。大きくはないが、小さくもない。バランスがいい。周りの雑草も、まるでこの花を引き立てるように、左右に分かれている。
昼になって、小雨が降り始めると、やけに寒くなった気がする。空は真っ黒で雨はしばらく止みそうもない。今日は退屈な日になりそうだった。天井を見上げて、変わりのない日常に浸り、忍び寄る雨音を聞いていると、ふと、あの花びらが雨粒で散ってしまうのではないか、と心配になった。
外に出ると雨はひどくなっていて、傘が必要になるほどであった。私は雨が好きではない。水は嫌い。それでも、傘を持って外に出た。雨が傘に当たると、弾くような音を立てて、頭が痛くなってくる。この音も嫌いだ。雨は良くない。
なんとか玄関にまで花を持って来ると、私は深呼吸をした。この花はいい匂いがする。雨の中、少し濡れながらも庭まで行った甲斐があった。と、私は満足した。しかし、花を持って来るまでは良かったのだが、根っこを土ごと両手で掬ったものだからほとほと困った事態になった。下にぽろぽろと土屑が撒かれていくのだ。いや、本当に困った。これでは床が汚れてしまうし、あまり歩くわけにもいかない。ともかく入れ物はないかと、辺りを見渡した。何もない。よく磨かれた床と壁があるだけだ。私は玄関で馬鹿みたいに突っ立っていることになった。
主人を迎える従者の姿もなく、館の大きな玄関で立ち往生。濡れた服の水気が肌に染み込んできて、寒い。寒くて、気持ち悪かった。私は早くあの温かい部屋に戻りたいと思った。温かい紅茶を飲んで、柔らかいベッドの上で目を瞑って休みたかった。柄にもなく、花などを取りにいったのが間違いだったのかもしれない。
とりあえず、叫ぶ。
「さくや! さくや!」
声はよく響いた。が、しばらく待っても返事はない。従者という生き物は自分の名前が呼ばれたら、何もかもを放り出して主人の下にすっ飛んでくるべきものなのに……なんとも歯痒いことだ。
それにしても、主人が叫んでも誰も来ないなんて虚しいものだと私は思った。別に咲夜でなくてもいい。誰でもいいのだ。しかし、誰もこない。たぶん、この館は広すぎる。広すぎて、誰にも聞こえていない。
花を引き抜いた気まぐれな吸血鬼は、一体どんな末路をおくるんだ? ほっておくと、ここで孤独死してしまうぞ!
「咲夜! 咲夜!」
もう一度叫んでみたが、やはり返事はない。何処かに出かけているんだろうか? いや、そういえば、今日から休みをやってしまったのだ。どおりで、朝っぱらから花などに目がいくわけだ。
溜息が、一つでた。
自分で考えるしかない。
自分で考えて、この状況を脱しよう。仕方なくあまり使わない知恵をしぼることにしたが、案外脳みそをしぼる前に、打開案は見つかってしまった。喜ばしいことだが、あとで咲夜に怒られてしまうかもしれない。まあ、成功を手にするためには犠牲は仕方がない。私はすぐさま足で、もう片方の履いている靴を脱がした。ころんと転がった靴を素足で傍に寄せると、その中にそっと、土くれのついた花の根っこを入れる。結局、入りきらない土などで辺りは汚くなったが、なんとか花に安寧の土地を与えることが出来た。これで、こいつも一安心だろう。私は、自由になった。
部屋に戻ると、タオルを持ってきて、まずは自分の濡れた服などを脱いだ。次に身体を拭く。雨臭い。身体がこんな匂いになるとは、やはり雨というのは悪である。その後、すべすべの綺麗な服に着替えると、やっと落ち着く事が出来た。
花は良い匂いがした。石鹸よりも、咲夜よりも良い匂いがした。それに可愛らしいものだ。花びらは真っ白くて、縦に入った細い紫色の線が上品に曲線を描いている。如何せん、土台が私の靴などでは申し訳ないような気がしたが、いや、そんなことはない。むしろお礼を言ってほしいぐらいだと私は思った。雨から助けてやったのに感謝の一つも言えない。館の主から靴を奪い取った不届き者め。
私は自分の顔が崩れているのを感じた。思わず、笑いたくなってくるのだ。この花は、見た目も心も綺麗な気がした。お礼などやっぱりいいし、もしかすると、お礼代わりの香気なのかもしれない。そう思うと、一層可愛らしく見えてくる。
一仕事終えた後、私は紅茶を入れてみた。一口飲むと、もういらないぐらいに不味かった。私はそれを花にやろうかと思ったが、やめた。こんな不味い紅茶を吸わせてしまうと、臭気を発しそうだ。こんな時、咲夜がいれば美味い紅茶が出てきて、労いの言葉をくれるものだが、今日は本当に静かなものだった。雨音だけはただただ煩いのだが、それも部屋に入ってから聞くと、なかなか趣のある音楽になる。テーブルに置かれた花は何も言わずに、靴の中に納まったまま静かにしている。
「私はレミリア・スカーレット。吸血鬼の500歳」
そういえば、この花の名前を知らない。見たこともない花であったし、元々、私は花自体に興味がなかった。
図書館で本棚を漁っていると、パチュリーに肩を叩かれた。
「出した本は戻しなさい」
彼女は私の友人で、館の地下にある図書館に住み着いている。紫色の髪をした魔女だ。本ばかり読んでいる変人だが、良い友人である。
「花の辞典みたいな本はないの?」
パチュリーは一瞬、耳を疑うような表情をして、すぐに答えた。
「どうだったかしら。少し待って」
彼女は大きな図書館の奥、暗がりの方へと消えていった。私は散らかした本を元通りにして、しばらくそこで待つことにした。そういえば花に水をやらなくてはならない。あの部屋は寒くないのだろうか。もしくは暑くないだろうか。私の靴は居心地が良いのだろうか。私にはやらなければならない事と、分からない事がたくさんあるような気がする。
「ほら、これでいい?」
パチュリーが分厚い本を持ってきた。表紙には擦れた金色の文字で、花辞典と書いてある。受け取って何ページか捲ると、文字しかなかった。絵はないのか。
「図付きのやつないの?」
「探してみたけど、それしかなかったのよ。まあ、我慢して」
私は図書館から本を運び出すと、自室のベッドの上に置いた。その重さでシーツが沈む。花に水をやったあと、ベッドに飛び乗ると、本を捲っていった。花の辞典だけあって、膨大な量の古今東西の花たちの事が書いてある。もう、消えてしまった花たちも多いだろうと、何となく私は思って、少しばかりの黙祷を捧げた。
辞典の索引から白い花びらの項目を見つけて、30ページ目を開いた。次の青い花びらの項目まで200ページ以上ある。少し眩暈を覚えつつも、丹念に読み進める。
気づくと、テーブルの上に置いていた花が、部屋を歩き回っていた。軽快にステップを踏んで、履いている靴で床を鳴らす。私は嬉しくなってすぐにベッドから飛び上がると、花と一緒に踊った。白い花びらが段々と散ってくると、花は少しずつ動きが鈍くなって、最後にはぱたりと止まってしまった。すると、青い茎だけになった花が、鉢代わりの私の靴を思いっきり放り投げた。床に土が散って、雨の残り香が漂う。根っこが剥き出しになった花はその場で倒れてしまった。私はそれを呆然と見つめている。
気の遠くなるような場所から轟音がして、私は鬱蒼とした気分の中から這い上がろうとした。もう一度轟音が鳴ると、私は重い瞼を開ける。頭が痛い。開いた本を枕にして、寝てしまったようだった。気だるく起き上がると、ぼんやりと部屋の様子が映る。はっとしてテーブルの上を見ると、靴に入った花があった。花は静かに咲いたままだった。白い花びらに紫色のストライプ。相変わらず、綺麗だった。ほっとすると、また、世界がまどろみ始めるのを感じた。
朝。雨が降り続けている。嵐が通り過ぎようとしている。雷は、ずっと鳴っている。不味い紅茶を飲み終わると、私は花辞典を開いた。未だに紫色のストライプの花の事は見つからない。辛抱強く、ずっと読み続ける。
花は膨大な種類がある。どれも似ているようで、名前だけは違う。そんな印象を持った。目を惹かれたのは、食べられるものと食べられないものの区別だろうか。匂いは抽象的に紹介されていて、あまり当てにはならない。花は生き物。飾り物ではないことも知った。花は咲いた後は、枯れるしかない。それは生き物が生まれて、その最後は死ぬ事しかないのと同じだ。ただ、その長さは生き物によって違う。
急に、咲夜の顔が浮かんで、すぐに消えた。
私はテーブルの方に目をやった。花は生きている。白い花びらは部屋を明るくして、ここまで匂いが漂ってきそうなぐらい、力強く、生きているように見える。
そろそろ休憩を入れようかと、もう1ページほど捲ると、青い花びらの項目になっていた。私の読書はいつの間にか終わったのだった。
それからは、花に水をやって、しばらくの間、水を吸い込む土を眺めていた。名前は結局分からなかったし、花びらを触ると、今日は少し匂いも薄い事に気づいた。何だか急にこの花が可哀相になってくる。
私はもう少し花に水をやると、部屋を出て、玄関に向かった。玄関では昨日の土くれが未だに散らかっている。それを少し足で集めてから、また、部屋に戻った。花の事が気になる。匂いが薄くなるのは何故だろう。花の寿命は幾つなんだろう。
花は何事もないように静かにテーブルの上にいる。何かを訴えてくれるのが一番安心できるのだが、この生き物にそんな事はできそうもない。私が気づくしかない。しかし、幾ら眺めても、何も分からない。
窓から見える庭。花があった場所が見える。雑草が風で大きく揺れて、引っこ抜けそうだった。雨は止む気配もない。窓を開けると、湿った空気が入ってきたので、すぐに閉めた。花にもう一度水をやった。よく、吸い込む。紅茶も少しだけやってみると、美味そうに飲んだ。生きろ。生きろ。元気になれ。
翌日になると、咲夜が帰ってきた。太陽が落ちそうな時間に、彼女は私の部屋に挨拶に来た。
「ただいま戻りました」
「うん」
私はそれだけ言うと、目で彼女に合図した。咲夜は心得たもので、すぐに温かい紅茶を持ってきた。
「美味しいわね。私も自分で入れてみたのだけれど、こんな風にはいかなかったわ」
私は元気がなかったのかもしれない。
「練習すれば、お嬢様にもすぐに美味しい紅茶を入れる事ができますよ」
咲夜は元気付けるように言う。彼女はちらりとテーブルの上を見る。靴から花が顔を覗かせていることに、さぞかし驚いたことだろう。実際、驚いた顔をしていた。
「お嬢様、この花をどうなさったのですか?」
「庭にあったから持ってきたの。綺麗だし、良い匂いがしたのよ」
咲夜はテーブルに近づいて、萎れた花を見つめている。花びらの一つはテーブルの上に落ちている。真っ白な花びらも、紫色のストライプも、今は見る影もない。匂いなど、土の腐ったようなものだった。
名前も知らない花は、私が眠っている間に弱っていた。もう、今は、生きているのかさえよく分からなかった。水をやっても、紅茶をやっても、花は、もういらないという風に、靴やテーブルの上に垂れ流す。私の靴を履いた花を、私はどうしようかと、今、考えている。
咲夜は何かを言おうとして、口を開いて、また、閉じた。彼女は花をしばらく見つめたまま、静かにしている。外の雨音に耳を傾けているようにも見えた。咲夜に休みをやって良かったと私は思った。前よりも顔色は良い。
私は花と咲夜を見比べる。何か言いたいことがあった気がするのだが、忘れてしまった。彼女とは対照的に、花には生気がない。このまま、朽ち果てていくのだろうか。ぼろぼろになって死んでゆくのだろうか。
私には、どうしようもなかった。
しんみりかと思えば微笑ましく、やはりしんみりしました。
うーむ。ここで終わりです。
花が枯れ落ちるまで書こうかとも思ったのですが、そこまで書くと悲惨かなと思いまして、まったり悲しい話に持っていこうと思ってました。
もしかして中途半端だったでしょうか。そうだとしたら、ちょっと失敗しましました。