これはある日、私、鈴仙・U・イナバが薬売りの仕事を終え、永遠亭への帰路の途中で起こった出来事である。
珍妙なこの出来事は、ある種の怪奇現象を思わせる。
……私にとって怪奇などというものは正体の知れたものだった。
しかしこの出来事は、その認識が間違いだと教えられた。
□
その日は足取りが重かった。
帰り道だというのに、私は憂鬱だった。
里回りの途中の家で「ツマラン! お前の話はツマラン!」といったじじいを思わず張り倒してしまったからだった。
里の人間とは友好的の方が良い。感情を押さえきれず、不用意な真似を働いてしまった。
失敗だった、と溜め息を吐く。
背中に負う荷がいつもより重く感じられた。
竹に覆われた空は曇って見えた。どんよりとした空気が、低い雑草に覆われている足元に溜まっていた。
私は、早く永遠亭へ着かないものか、ただそればかりを考えていた。
そのとき、雑草を踏み折る音が聞こえた。
足音だ。
私は咄嗟に、音の聞こえた方へと振り向いた。
腕を真っ直ぐ突き出し、人差し指を伸ばす。撃つ、という形を体現する私の戦闘スタイルだ。
これは奇襲に備えた動きである。
そのように構えたのは、その足音より前におよそ気配というものを――波の揺らぎを感じなかったからだ。
――私には波長が視える。
あらゆるものは波長を持っている。特に動きを持つものは波長を変化させる。動物なら尚更だ。特に気を張っていなくとも、動物の動きなら用意に感じ取ることが出来る。
しかし、その足音は辺りの波長をほとんど乱すことなく現れた。そしてその足音の後、波長は平常に戻っているのである。
足音の主は、並大抵の者ではなかった。しかも私に意識させないように近づいてきたのは、そうする必要があるからだ。誰が、何のためにそのようなことをするのか判らないが、穏やかなことではないことは簡単に想像できた。
故に私は戦闘の構えを取った。
……何処にいる?
それが、私の抱いた疑問だった。
足音の主はまたも波長を消して、姿を晦ましてしまった。波長が視えないということは、多くの生物が持っている一般的な感覚器官では捉えることが出来ないということである。
だからこそ私はこの狂気の瞳で、視る。
通常の動物が持ち得ない瞳で、波長を分析する。
あらゆるものは波長を持っている。空間を占める空気だってそうだ。
動きを持つものは、自らの波長を他のものに伝える。決して波長を隠し切ることはできない。
私は意識を集中し、見えるもの全ての波長を、視た。
空気の動きを捉える。
幾重にも重なる波は、あるところで回析をしていた。
回析する線をなぞると、人影が浮かび上がった。
私は、それの頭に向かって、手を構えた――。
見る。
ここに来てようやく、私はその人影を視認することができた。
その人影はひとりの少女だった。
緑の濃淡をもったスカート。黄土色の服。胸にコードを伸ばす紺の球体の飾りを付けている。
白い肌。希薄な青緑の髪を黒の帽子が覆っている。
私が指差す先、緑の双眸がこちらを覗いている。
「うさぎさん」
その少女が小さな口を開いた。
「うさぎさんはどこに行くの?」
問われた。が、私は沈黙を保った。
その少女は、言葉を発している。目にも見ることが出来る。
だが、その波長はとても希薄だった。彼女の発するあらゆる波が散漫としていて、気を抜けばまた見失ってしまいそうだった。
彼女はとても人間とは思えない。何か別の怪異というものを感じた。
気を緩めることは出来ない。私はただ彼女の動向を見守るしかできなかった。
「答えてくれないの?」
私は頷かない。それは沈黙の返答だ。
それを見て彼女は諦めたのか、踵を返し、歩き出した。
私は腕を下ろした。見えなくなったところで、何事も無かったかのように帰ることが出来るのだと思って、その後姿を眺めていた。
――ひとつの瞬きの後、少女の姿は見えなくなった。
我が目を疑った。
彼女は数歩近づけば触れることが出来るような距離にいたはずなのに、消えてしまったのだ。
私は再び視た。彼女は確かにそこにいるのに、微弱な波が、認識を困難にさせていた。
意志を持った生物は、その意志の動きと波が同期する。
しかし、彼女の持っているそれぞれの波はばらけてしまっている。だからこそ、全体の波の振幅も小さい。認識できない。
それはとても意識の持った生物の波ではなかった。
やがて彼女の波を視ることは出来なくなった。
もうどこかへ行ってしまったのだろう。私は帰り道を急ぐことにした。
□
歩く。竹林は進めば進むほど、深くなっていく。
私は溜め息をひとつ吐いた。仕事は失敗するわ、波長の視えない少女に出会うわ、今日は運が悪いのだと思った。
そして運が悪かった。
また、雑草を踏み折る音が聞こえたのだ。
「うさぎさん、うさぎさん」
私を呼ぶ声が聞こえた。けれど、姿は見えない。
「やっぱり、竹林の奥に行くのね。だったら、私も連れて行ってよ」
私はその声の主を探した。見る、視る……声の波源を探す。
見つけた。
その波源は遠くではなかった。
「――永遠亭に、行くんでしょう?」
声の主――さっきの少女は、私の足元に屈み込み、こちらを見上げていた。
澄んだ瞳が、私の心を見透かしているような気がした。
思わず一歩後ずさる。
迂闊だったのではない。この距離に近づかれるまで、まったく気がつかなかったのだ。
彼女は私の意識の遥か遠くから、この至近距離まで侵入してきたのだ。
身の危険を感じた。自らの力の及ばない場所に彼女はいるのだ。
そんな相手は初めてだった。
「永遠亭、連れてってよ。えいえんてーいー」
彼女の存在に私は恐怖すら覚えた。が、彼女は私に危害を与えるつもりはないらしかった。
――なら、相手をしなければいい。
私は彼女を避けて、歩き始める。
加えて私は、波長を操る。自らの波を。
生物は波長を持っている。それは簡単なものでは、鼓動だったり歩調だったりする。生物の機能そのものにも波があるのだ。
それと同様に、認識することにも波がある。
生物は常に物事を把握できるわけではなく、間隔が開いている。
では、ある波が認識の波の裏を掻けば――その波は感知できなくなる。
私が行うのは、それだ。私は己の波長を、彼女が認識できない位相に合わせた。
操る波は、鼓動や歩調。彼女の視界での位置、周りにある物体との干渉。
それらの波をずらす。すると彼女には私が感知できなくなる。
彼女は波が微弱だから、誰にも気付かないことがある。しかしこれはそうではない。どれだけ大きな波長であっても、完全に気づかれることがなくなるのだ。
「……?」
彼女は私を見失ったようだ。周りを見回している。
感知の外にいる私は、もう彼女には見えていない。
終わった、と思った。これで彼女は私を追いかけることなどもうない。
私は安心して、永遠亭へと脚を向けた。
□
しばらくは、そうして何も気にせず歩いていた。
けれどすぐに、私の背に何かが纏わりついているのに気がついた。
それは足音だった。考えるだけで嫌な気分になった。
振り向く。
そこにさっきの少女が、私を見詰めているのを見つけた。
彼女は私の後について来ていたのだ。そして、私と目が合った途端、首を傾げるのだ。
「どうしたの? 早くしないと、日が落ちちゃうよ?」
私に、永遠亭までの道を、導けというのだ。
――何故だ、と思った。彼女の認識の外を歩いていたはずだ。しかし彼女は私の後をつけてきていた。
視る。そして私は気付く。
彼女の波長が、さっきとずれていることを。それだけではなく、しっかりと私を捕捉できる波長に合わせていることを。
しかも、彼女自身の乱れた波は今、すべてがひとつに重なり、私の波を追っていた。波長をずらすが、彼女も同様に波長をずらしてくるのだ。彼女は私を認識できるようにチャンネルを合わせていたのだ。
彼女は自身の波長を操ることが出来る――。
信じられないことだ。視たところ彼女は波長を操る特殊な力は備わってはいない。そのような力がなくとも波のひとつひとつは意識的にずらすことはできるが、全ての波を操るなどは芸当だ。
もしかして、これは仮定の話だが、彼女の波は乱れているのは、意識が薄いからじゃないだろうか? そしてその代わり、彼女は意識して操れないような領域を簡単に操れるのではないだろうか?
とにかく、この少女を永遠亭に連れ帰ってはいけない。危険だ。彼女はおおよそ一般的な少女でも妖怪でもない。
では、私はどうやって彼女を抜けばいいのだろうか?
考える。
彼女は自身の波長を操ることが出来る。私が波長をずらそうと彼女は追いついてくる。
しかし、彼女が私に完全に追いつけるとは考えにくい。彼女には波長を視る潜在的な能力が無いからだ。
さらに、さっき一度は私を見失っている。ここに何か、私と彼女の差があるはずだ。
思い立った私は、自分の波長をずらし、彼女の視界の外まで歩いた。
彼女は――辺りを見回した。そしてしばらくして、私を見つけて、こちらに近づいてきた。そして私を見詰めるのだ。
やはり、彼女が私を認識できるまでにはタイムラグがある。能力の差がある。
これをどうにか生かせないだろうか……?
「おなかすいたー」
「五月蝿い」
私は彼女の言葉を否定して、考えに浸る。
タイムラグは大きくない。すぐに追いかけてくることが出来る。それを超えるにはどうすればいいのだろうか?
……タイムラグが小さくとも、それを重ねればいいじゃないか。
そうすれば彼女は私を追うことは出来なくなる。
……よし。
彼女はこちらを見詰めている。
私はそれを見詰め返した。
途端、彼女の身体がすとんと地面に倒れた。
私は、彼女の瞳の波長をずらしたのだ。物がまっすぐに見えず、今は平衡感覚も失っているだろう。
今だ。
私は一気に駆け出した。
背負っている荷を少し気にしながら、振り向かずに走った。飛べば荷を壊してしまう、そんなリスクを背負っていた!
足元の雑草を踏み折る音は響かない。波を抑え、消音にしている。
普通の相手ならこれで充分すぎるくらいだが――。
「待ってよ!」
声が聞こえた。
しかし足音は聞こえない。すると、彼女は空を飛んでいるのだ。
なんて復帰の早い……!
飛行と走行では飛行の方が速い。このままでは簡単に追いつかれてしまう。
なら今度は、と私は彼女の正面にある光の波長をずらした。
色相、明暗、彩度の変換。さらには分散、屈折をも加える。攪拌された光景で、彼女の視覚を横殴りにする。
そして、彼女は一直線に一本の竹に突っ込んだ。
彼女の体重を受けて、竹がしなり悲鳴を上げている。
その間も、私は走りを止めない。
確実に距離を稼がなければ……! ただひたすら走ることだけに意識を集中する。
すぐに、私は身の危険を感じた。
その場にしゃがみこむ。
頭上を、何かが通り過ぎるのを感じた。それは少女が飛び掛ってきたのだ。
地面に顔から突っ込んみ、倒れている彼女の周りの波長をずらしてから、私はまた走り出す。
1歩で地を掴み、2歩で跳ぶ。それの繰り返しだ。
すると、何か気配があるのを視た。今度は私の腰に突っ込んでくるではないか。
横に避ける。目標を失い足取りが覚束ないでいる彼女に、狂気の追い討ちをかけてから逃げるように走る。
今度は私を走って追い抜こうとしている彼女。
脚を引っ掛けて転ばせた。何度目だか判らない狂気をかけて、それから私はまた走った。
追いつかれそうになったのでブラフに反転して走り出してみた。
彼女はついて来なかった。永遠亭への帰り道は逆方向だと判っていたからだ。私は諦めて普通に走った。
大声を上げて威嚇した。
怯んでいるうちに逃げた。
こけてみた。
待たれた。
そんなことを何度も繰り返した。
何度も、何度も。
□
もう日が暮れて、竹林はほとんど真っ暗だった。
けれども、その隙間から明かりが漏れているのが見えた。その淡い光は低い建造物の影を浮かび上がらせる。
それは、永遠亭だ。
ようやく私は永遠亭に辿り着いたのだ! 私は帰ってきた!
私は、玄関引き戸を勢いよく開け、中に飛び込んだ。そして、思わず一息吐いた。
私はついに安心できる家へと帰ってきたのだった。
土間を上がったところには、八意永琳――私の師匠が立っていた。
……そうか、師匠は帰りが遅くなった私を玄関で待っていてくれたのか!
私はそのことに感動を覚え、すぐ近くまで走り寄った。
ただいま帰りました――その言葉を発する前に、師匠は口を開いた。
「お帰りなさい、鈴仙」
冷たい口調と共に――頭を鷲掴みにされた。
がっしりと。
目の前が真っ暗で、何も見えない。私はどうして頭を掴まれているのだろうか、判らなかった。
その疑問に答えるように、師匠は言葉を続ける。
「帰りが遅かったわね」
「はい」
「こうやって誰かが遅れると、夕食が面倒になるって、いわなかったかしら?」
……あー、そういえば準備とか後片付けとか色々あるしなー。揃っていないと面倒になるっていわれていた。いないことなんてほとんど無かったから、気にもならなかった。
しかし、つまり私は、その言い付けを破ったということか。
あー、うん。まずい。
「……し、師匠。弁解させては頂けないでしょうか?」
「弁解すれば犯した罪が消えるのかしら」
消えません。そう答えるのは憚られた。
問いの後、師匠が私を掴む手に、ぐっと力が入るのが判った。
まさか、人の手の握力なんて大したことは――まあ、万力くらいかな?
「……痛たたたたたたぁっ! 頭蓋と顔面が別の骨になる――!?」
「大丈夫――元々分かれていた骨だから」
「本来の姿に戻しちゃ嫌――! そのままにしておいて――!!」
「ねえ」
私でもなく師匠でもない、第三者の問う声が聞こえた。
そのおかげで師匠の掴む手が離れた。助かった。
「ここが永遠亭なんでしょう?」
自由になった私は、声の方へ振り向いた。
そこには、今まで争っていた少女が立っていた。
「……貴方は、一体どちら様かしら?」
師匠は尋ねた。土間に勝手に入ってきていることを不思議がっているようだった。
少女は答える。
「私の名前は、古明地こいし。ここに用があって来たの」
私を追い回した、自らの波長を操る少女は、こいし、といった。
こいしは永遠亭の内装を見回した。何かを物色しているようだった。
そして、一周してから、彼女は意を決して口を開いた。
「ねえ、永遠亭って……料亭なんでしょう?」
「――はあ?」
突拍子も無い発言に、思わず聞き返してしまった。
「え、何で?」
追加で尋ねる。
永遠亭は病院として働くことはあっても料亭はない。まさか、亭の字だけでやって来たとでもいうのだろうか?
そんな勘違いで私は追い掛け回されていたのか。私は、呆れてしまった。
師匠は一歩前に出てこいしに、いう。
「違います。ここは料亭でも何でもありません」
「ええ? せっかくここに来たのにー?」
こいしは納得がいかない顔だった。その場に立ったまま、帰ろうせず、
「ごはん~、ごはん~」
と、唸っていた。
師匠も面倒そうな顔をしていた。
その様子はどこか可哀想な気もしたが、やはり引き取ってもらうしかないようだった。
けれども彼女は聞こうとはしなかった。
そこへ、廊下の影から姫様が現れた。
「永琳、夕食はー?」
なんだ、まだ食べていなかったのか、そう思ったとき、
「えいりん~! ごはん、ごはん~!」
こいしは頭を鷲掴みにされた。
作中で能力への解釈をしている以上、そこに明白な矛盾点があるのは宜しくないね。
>>そのような力がなくとも波のひとつひとつは意識的にずらすことはできるが、