彼岸花咲く冥途を流るる三途の川。その彼岸の畔に櫂も放り出し、船を岸へ揚げたまま小町は退屈そうに寝転がっていた。本来ならばまだ三途の船番をしている刻であるが、この死神の怠け癖は今に始まったことではなかった。上へ向けられたその瞳に映るのは、ただただ灰色の空ばかり。今は卯月、幻想郷にも春の訪れる季節。とはいえこの冥途の地にはそんな春の足音など聞こえる筈も無かった。
小町はその気怠い眼を空の遠くへ向けることを止め、ふと彼岸に点々と植えられた樹へ興味を移した。この面白みも無い冥途へのせめてもの彩りか、少し前から桜の樹々が植えられていたのである。小町の住まう庵の縁側からも一本、立派な桜の樹が眺められた。それが咲くことを密かな楽しみとしていた。しかし、小町はその桜の樹々を見て小さく舌打ちをすると、再び不機嫌そうに視線を灰色の空の遠くへと飛ばした。
――花咲かぬ桜の何が面白いものか。小町の小さな楽しみすら嘲るかのように、その桜は一本たりともまるで咲く様子を見せなかったのである。咲くのが遅いなどという訳ではない。冥途の外では既に桜が満開だったと聞いた。小町は桜について詳しくはなかったが、きっとこのつまらない空に始まる冥途の風土が、桜の樹に春を伝えないからに違いないと思った。
やがてその長躯の身体を重そうに起こすと、服にまとわりつく芝を払い船の方へ足を運ぼうとした。こういう時ばかりはつまらない番の仕事も不機嫌な心の気晴らしになってくれるに違いない。しかし、その時小町は始めて傍をゆっくりと横切ろうとする人の影に気が付いたのである。上を向きすぎてぼんやりとしたその眼を凝らすと、それは何度か彼岸の先で小町の上司の下に勤めているのを見掛けた者であった。名前は……そう、リリーブラックと言ったか。春妖精なる種にありながら、この桜ひとつ咲かぬ冥途に勤めるよく分からない奴だ。だがそんな奇妙さと同時に、何度か会う度に言葉を軽く交わし、この春妖精が少々口数が少なすぎるきらいこそあれ、付き合いの良い穏やかな気質であることもまた小町は知っていた。そのリリーの姿を認めた小町は、先程まで仕事に戻ろうとしていたことすら忘れ、そうだ、と思い立った。
「よう、春妖精の」
小町が声を掛けるとリリーはふいと彼女の方へ顔を向けた。リリーの手には恐らくそれを運ぶ仕事の最中だったのであろう、書簡の束が抱え込まれていた。リリーは声の主が知っている者であることに気付くと、腕は書簡を抱えたまま小町に小さく会釈をした。
「ちょいと将棋でも指さないかい」
小町は挨拶を返す代わりに単刀直入に己の目的を伝えた。相手が仕事中だろうと構わぬ、ただ今は気晴らしの相手が欲しかったのである。リリーはその突拍子も無い小町の言葉に少し困ったような様子を見せた。仕事の途中ではあるが、しかし小町の誘いを断ることも相手に悪い。生真面目だが人に甘い性格がその時はリリーを悩ませた。全く、少し遠回りをして桜を眺めながら行こうなどと思うものではなかった。だがこうして捕まってしまったものは仕方ない。リリーはやがて小さくこくりと頷いた。
「悪いね」
そんな目の前の相手の葛藤など知ってか否か、小町は悪戯っぽく笑みを見せた。
彼岸沿いにひっそりと在る庵、その縁側で棋盤を挟み小町とリリーは向かい合っていた。縁側からは大層立派な桜の樹が一本臨められ、その桜が時期に相応しく花開いていればそれは風流な情景であったことだろう。しかしその桜もまた他の樹々と同様、蕾こそ付けどもそれが開く様子は一向に見られなかったのである。もはや開かぬ桜に興味の無い小町は終始棋盤と睨み合っていたが、しかしリリーはちらちらとしきりに桜を気にしている様子であった。
「それ、咲かないんだよね。あたいも楽しみにしてたのにさ」
リリーの視線に気が付くと、小町は苦笑して言った。そうだ、彼女は春妖精。自分以上に桜が咲かないことをきっと悲しんでいるに違いない。自分のサボりに付き合わせてしまったのだ、今度外に花見に連れて行ってやろうか。桜を見るリリーの眼は口と同じくらいに物を語らなかったが、小町はきっと違いないと、そうリリーを心の中で気遣った。
リリーは急に桜から小町へと眼を向け、口を開こうとした。しかしそれと同時に、庵の戸口を叩く音が聞こえてきたのである。全く、誰かを呼んだ覚えなど無いが一体何の来客であろうか。小町はそう腑に落ちないながら戸口へ向かって声を掛けた。
「閂は掛かってないよ、上がって来な!」
それから小町は再び棋盤と睨み合う仕事に戻る。後ろからは、戸口を開け来訪者が小町達の居る縁側へと向かってくる足音が聞こえてきた。そして板敷きを踏む音がやがて小町の背後でぴたりと止まると、小町はゆっくりと背を振り返ろうとした。
「一体何の用事……」
「小町!」
振り返ろうとしたその頭は怒鳴りつける声と共にはしと笏で打ちつけられた。急の不意打ちに小町は打たれた頭を抑え、痛そうに抱えながら頭を打ったその人物を見上げた。
「げっ……四季様」
其処に居たのは、部下がまた仕事をすっぽ抜かし怠けているのを察知し、説教をしに現れた四季映姫であった。映姫は縁側で将棋に熱心な部下を義憤の眼差しで見下ろし、今にもまたその手に持つ笏を振り下ろさんかという様相であった。
「そう、いつもいつも貴女は如何して己の仕事を軽々と、リリーまで断れない性格を良いことに巻き込んで・・・・・・」
「いやあ、その・・・・・・何と言うか。桜が咲かなかったもんで」
「桜? はぁ・・・・・・」
小町の咄嗟の言い訳に映姫は、言うに事欠いて桜か、とも言いたげな半ば呆れた表情を見せた。しかし、映姫もまた桜が咲かないことを知って、少し残念に思ったものである。小町に言われ、縁側から望む桜の樹をこうして見てみると、気の紛らわせに植えられた桜がこうしてただの樹に過ぎないことに少し不機嫌になるのも理解出来なくはない、とさえ思った。そんな桜の樹を見て面白くなさそうな映姫の様子を見て、小町は一押しするように同意を求めた。
「ね、こんなんじゃ身も入らないってもんでしょう?」
「確かに、桜が咲かないのは私も残念です……いえ、ですが仕事とはまた別――」
「小野塚、裁判長」
今まで二人の言い合いを静かに眺めていたリリーがふと、二人を呼び止めた。珍しく自ら声を掛ける彼女に、小町も映姫も言葉を切りリリーの方を振り返った。リリーは静かに、と人差し指を口に当て伝えると、桜の樹に向かって手をぱちぱちと鳴らし語りかけた。
「さあ、春ですよ。虫達は冬の眠りから目覚める。さあ、春ですよ。蕾は開き美しく咲き乱れる」
「あ……」
その次の瞬間には、小町と映姫はただ感嘆の声を漏らしていた。目の前の桜が今まさに、一斉に蕾を開き花を咲かせ始めたのである。二人とも桜が咲く瞬間を見るのは初めてであった。その美しさ、見事さは例えようもなく見事なものであった。
「綺麗……」
「春を伝える程度の能力、か」
ぽつりと思い出したように小町は呟いた。確か春妖精の能力はそういうものだったと聞いたことがある。その時は春を伝えることなど、桜を見れば一目瞭然。全く何の能力と言えようかと小馬鹿にしていたものである。だが、その能力の本当の意味は今目の前に広がっている通りであった。春を伝えるとは即ち其処に季節をもたらすということ。何とも尊い、華麗な能力であったことか。
「こうしちゃいられない、花見酒だ。とっておきの奴があるんだ……」
「小町」
窘めるような映姫の声に、いけない、と小町はばつの悪そうな顔をした。しかし予想に反し映姫は穏やかな表情をしていた。
「五分だけ、ですよ」
「えっ」
「今回は特別です。五分経ったら元通り仕事に戻ることです」
「はは……そうこなくっちゃな!」
小町は揚々と酒と杯を取りに物置へと引っ込んでいった。後に残されたのは、小町の慌ただしい足音と桜の花のざわめく音に包まれた花見の客が二人であった。
ふと、ひらひらと桜の花びらが棋盤に落ちるのをリリーは見た。そして将棋の駒を一つ手に取ると、その花びらの上にぱちりと置いた。
「王手」
小町はその気怠い眼を空の遠くへ向けることを止め、ふと彼岸に点々と植えられた樹へ興味を移した。この面白みも無い冥途へのせめてもの彩りか、少し前から桜の樹々が植えられていたのである。小町の住まう庵の縁側からも一本、立派な桜の樹が眺められた。それが咲くことを密かな楽しみとしていた。しかし、小町はその桜の樹々を見て小さく舌打ちをすると、再び不機嫌そうに視線を灰色の空の遠くへと飛ばした。
――花咲かぬ桜の何が面白いものか。小町の小さな楽しみすら嘲るかのように、その桜は一本たりともまるで咲く様子を見せなかったのである。咲くのが遅いなどという訳ではない。冥途の外では既に桜が満開だったと聞いた。小町は桜について詳しくはなかったが、きっとこのつまらない空に始まる冥途の風土が、桜の樹に春を伝えないからに違いないと思った。
やがてその長躯の身体を重そうに起こすと、服にまとわりつく芝を払い船の方へ足を運ぼうとした。こういう時ばかりはつまらない番の仕事も不機嫌な心の気晴らしになってくれるに違いない。しかし、その時小町は始めて傍をゆっくりと横切ろうとする人の影に気が付いたのである。上を向きすぎてぼんやりとしたその眼を凝らすと、それは何度か彼岸の先で小町の上司の下に勤めているのを見掛けた者であった。名前は……そう、リリーブラックと言ったか。春妖精なる種にありながら、この桜ひとつ咲かぬ冥途に勤めるよく分からない奴だ。だがそんな奇妙さと同時に、何度か会う度に言葉を軽く交わし、この春妖精が少々口数が少なすぎるきらいこそあれ、付き合いの良い穏やかな気質であることもまた小町は知っていた。そのリリーの姿を認めた小町は、先程まで仕事に戻ろうとしていたことすら忘れ、そうだ、と思い立った。
「よう、春妖精の」
小町が声を掛けるとリリーはふいと彼女の方へ顔を向けた。リリーの手には恐らくそれを運ぶ仕事の最中だったのであろう、書簡の束が抱え込まれていた。リリーは声の主が知っている者であることに気付くと、腕は書簡を抱えたまま小町に小さく会釈をした。
「ちょいと将棋でも指さないかい」
小町は挨拶を返す代わりに単刀直入に己の目的を伝えた。相手が仕事中だろうと構わぬ、ただ今は気晴らしの相手が欲しかったのである。リリーはその突拍子も無い小町の言葉に少し困ったような様子を見せた。仕事の途中ではあるが、しかし小町の誘いを断ることも相手に悪い。生真面目だが人に甘い性格がその時はリリーを悩ませた。全く、少し遠回りをして桜を眺めながら行こうなどと思うものではなかった。だがこうして捕まってしまったものは仕方ない。リリーはやがて小さくこくりと頷いた。
「悪いね」
そんな目の前の相手の葛藤など知ってか否か、小町は悪戯っぽく笑みを見せた。
彼岸沿いにひっそりと在る庵、その縁側で棋盤を挟み小町とリリーは向かい合っていた。縁側からは大層立派な桜の樹が一本臨められ、その桜が時期に相応しく花開いていればそれは風流な情景であったことだろう。しかしその桜もまた他の樹々と同様、蕾こそ付けどもそれが開く様子は一向に見られなかったのである。もはや開かぬ桜に興味の無い小町は終始棋盤と睨み合っていたが、しかしリリーはちらちらとしきりに桜を気にしている様子であった。
「それ、咲かないんだよね。あたいも楽しみにしてたのにさ」
リリーの視線に気が付くと、小町は苦笑して言った。そうだ、彼女は春妖精。自分以上に桜が咲かないことをきっと悲しんでいるに違いない。自分のサボりに付き合わせてしまったのだ、今度外に花見に連れて行ってやろうか。桜を見るリリーの眼は口と同じくらいに物を語らなかったが、小町はきっと違いないと、そうリリーを心の中で気遣った。
リリーは急に桜から小町へと眼を向け、口を開こうとした。しかしそれと同時に、庵の戸口を叩く音が聞こえてきたのである。全く、誰かを呼んだ覚えなど無いが一体何の来客であろうか。小町はそう腑に落ちないながら戸口へ向かって声を掛けた。
「閂は掛かってないよ、上がって来な!」
それから小町は再び棋盤と睨み合う仕事に戻る。後ろからは、戸口を開け来訪者が小町達の居る縁側へと向かってくる足音が聞こえてきた。そして板敷きを踏む音がやがて小町の背後でぴたりと止まると、小町はゆっくりと背を振り返ろうとした。
「一体何の用事……」
「小町!」
振り返ろうとしたその頭は怒鳴りつける声と共にはしと笏で打ちつけられた。急の不意打ちに小町は打たれた頭を抑え、痛そうに抱えながら頭を打ったその人物を見上げた。
「げっ……四季様」
其処に居たのは、部下がまた仕事をすっぽ抜かし怠けているのを察知し、説教をしに現れた四季映姫であった。映姫は縁側で将棋に熱心な部下を義憤の眼差しで見下ろし、今にもまたその手に持つ笏を振り下ろさんかという様相であった。
「そう、いつもいつも貴女は如何して己の仕事を軽々と、リリーまで断れない性格を良いことに巻き込んで・・・・・・」
「いやあ、その・・・・・・何と言うか。桜が咲かなかったもんで」
「桜? はぁ・・・・・・」
小町の咄嗟の言い訳に映姫は、言うに事欠いて桜か、とも言いたげな半ば呆れた表情を見せた。しかし、映姫もまた桜が咲かないことを知って、少し残念に思ったものである。小町に言われ、縁側から望む桜の樹をこうして見てみると、気の紛らわせに植えられた桜がこうしてただの樹に過ぎないことに少し不機嫌になるのも理解出来なくはない、とさえ思った。そんな桜の樹を見て面白くなさそうな映姫の様子を見て、小町は一押しするように同意を求めた。
「ね、こんなんじゃ身も入らないってもんでしょう?」
「確かに、桜が咲かないのは私も残念です……いえ、ですが仕事とはまた別――」
「小野塚、裁判長」
今まで二人の言い合いを静かに眺めていたリリーがふと、二人を呼び止めた。珍しく自ら声を掛ける彼女に、小町も映姫も言葉を切りリリーの方を振り返った。リリーは静かに、と人差し指を口に当て伝えると、桜の樹に向かって手をぱちぱちと鳴らし語りかけた。
「さあ、春ですよ。虫達は冬の眠りから目覚める。さあ、春ですよ。蕾は開き美しく咲き乱れる」
「あ……」
その次の瞬間には、小町と映姫はただ感嘆の声を漏らしていた。目の前の桜が今まさに、一斉に蕾を開き花を咲かせ始めたのである。二人とも桜が咲く瞬間を見るのは初めてであった。その美しさ、見事さは例えようもなく見事なものであった。
「綺麗……」
「春を伝える程度の能力、か」
ぽつりと思い出したように小町は呟いた。確か春妖精の能力はそういうものだったと聞いたことがある。その時は春を伝えることなど、桜を見れば一目瞭然。全く何の能力と言えようかと小馬鹿にしていたものである。だが、その能力の本当の意味は今目の前に広がっている通りであった。春を伝えるとは即ち其処に季節をもたらすということ。何とも尊い、華麗な能力であったことか。
「こうしちゃいられない、花見酒だ。とっておきの奴があるんだ……」
「小町」
窘めるような映姫の声に、いけない、と小町はばつの悪そうな顔をした。しかし予想に反し映姫は穏やかな表情をしていた。
「五分だけ、ですよ」
「えっ」
「今回は特別です。五分経ったら元通り仕事に戻ることです」
「はは……そうこなくっちゃな!」
小町は揚々と酒と杯を取りに物置へと引っ込んでいった。後に残されたのは、小町の慌ただしい足音と桜の花のざわめく音に包まれた花見の客が二人であった。
ふと、ひらひらと桜の花びらが棋盤に落ちるのをリリーは見た。そして将棋の駒を一つ手に取ると、その花びらの上にぱちりと置いた。
「王手」
リリブラ素敵