夕暮れ時の妖怪の山には涼やかな風が吹き、季節の変わり目が近い事を告げていた。
その爽やかな途を、椛は鼻唄混じりに進んでいく。文と会う約束をしていた椛だが、この日はたまたま仕事が長引いてしまい帰るのが遅くなってしまったのだ。けれど、途を進む椛の表情には焦りがまったく見られなかった。普段からきっちりした性格の彼女だから、普段なら待ち合わせに遅れるような事があれば大慌てで待ち合わせ場所にすっ飛んでいくはずである。しかしながら、彼女はまったく慌てていない。それどころか楽しげにスキップしながら文の家に向かっている。
文と一緒にいるうちに、椛の性格も変化しつつある。彼女に振り回されているうちにだんだんと耐性がついてきたようで、最近は時々わざと文を困らせて彼女の反応を楽しんだりするようになった。今回も、家で待っている文があれこれと心配している姿を想像してしまい、その姿を見たいと思ってしまったのだ。とはいえ、あまりにも待たせては本気で心配してしまうだろうからゆっくり進むわけにはいかない。慌てず騒がず、且つ少し早足で彼女は文の家への途を進んだ。
「あれ?なんでだろ」
文の家に着いた椛はすぐに異変に気がついた。いつもなら点いているはずの部屋の電気が消えている。そこは書斎で、いつも彼女が記事を書いている場所だ。家にいるとき文は殆どの時間をあの部屋で過ごすから、いつ訪れてもあそこの電気だけは消えた事がない。その部屋の電気が点いていないことに、椛は妙な違和感を覚えた。絶対ということは有り得ないから、あの部屋の電気が点いていなくとも本来何の問題にもならないはずだ。既に文が記事を書き終えてしまい、電気を消したという可能性もある。けれど、何故か厭な予感がする。焦りだす心を落ち着けながら、椛は玄関のドアに手をかけた。
「文様ー……あれ?開いてる!?」
玄関は鍵がかかっておらず、椛がノブを回すとキィと音を立ててドアが開いた。何かに突き動かされるように椛は中へ駆け込み、居間で倒れている文を見つけた。
「文様!?文様!!」
椛が泣きながら文を起こすと、彼女の荒い呼吸が伝わってきた。額に手を当ててみると、明らかに熱を帯びている。
ああ、どうしよう。やはり医者に診せなければならないだろうが、こんな時間に里の診療所はやっていない。でも、このままでは文様が……
気が動転しかけた椛だが、運よく文の傍に落ちている薬と処方箋に気づく事ができた。もしこれを見つける事が出来なかったら、まだ一人どうしよう、どうしようと泣いていたことだろう。
処方箋によれば、文はただの風邪だったらしい。この日の午後に診察を受けていることから、おそらくは午前中既に調子が悪かったのに無理をしてこじらせ、午後に医者に診てもらった後家に帰り着いた所で力尽きた、といったところだろう。
もっと重い病かもしれないと思っていた椛はおもわず安堵の溜息をついた。ともかく、病状はわかったのだから後はしっかり看病すれば元気になるはずだ。そう考えて、椛は文を寝室に連れていった。
窓から零れる穏やかな日差しで、椛は目を醒ました。どうやら看病しているうちにうっかり寝てしまったらしい。それにしても最近暑い日が続いていたから、こういう目覚めのいい朝は珍しい。やはり朝はこのくらい穏やかなほうが気持いい。
一つ伸びをして、椛は隣の布団で眠る文の顔を覗き込んだ。昨晩とは違い、静かに寝息を立てている。しかしまだ体調は万全ではないようで、椛が触れてみると彼女の額は未だ熱を帯びていた。
「ん……もみじ……?」
普段の彼女からは想像できないようなか弱い声を上げ、文が目を開けた。どうやら手を触れたせいで起こしてしまったらしい。少し申し訳なさそうな顔をして椛は答える。
「すみません、起こしちゃいましたか。今日はゆっくり休んでくださいね。私に出来る事でしたらなんでもしますから」
「でも、今日は取材をしないと……」
「何言い出すんですか!駄目ですよ、こんな状態なのに外に出るだなんて!」
椛は真剣な表情で言った。文はまたか、という顔をしているがまだどこか弱々しい感じがしてならない。やはりまだ本調子ではないのだろう。それに、普通自分の家で起きてすぐに誰かがいたら多少なりとも驚くものだが、この時の文は力なく椛に反論しただけだ。その辺りからも、まだ文の体調が良くない事が見て取れる。
「うー……悔しいけど、今日は諦めようかな」
「そうですよ、無理はしないでくださいね」
椛は文の顔の汗を拭いながら答える。はじめは照れくさそうにしていた文だが、次第に彼女の手に身を委ねるように、穏やかな表情でそれを受け入れた。頬は先程よりも赤みが増し熱を帯びていたが、これはきっと風邪のせいなのだろう。
そうしているうちに、椛が急に「あっ!!」と大声をあげた。
「な、何?どうかしたの?」
「文様、もしよろしかったら私が取材してきましょうか?」
文は当惑した様子だったが、椛の輝く瞳を見ると少しだけ微笑んだ。
「いいの?大変よ?」
「任せてください!」
「じゃあ、お願いしようかな。」
「はい!それでは、行ってきます!くれぐれも起きたりしちゃ駄目ですよ」
そう言うと椛は文のカメラと手帖を携え、意気揚々と飛び出していった。それを見送って、文は一人微笑んでいた。まさか自分のために椛があんなに頑張ってくれるとは。初めて会ったときから真面目で一生懸命な子だったが、彼女に何かしてもらえるのは本当にうれしい。
そういえば、いつから椛は看病してくれたのだろうか。いつの間にか寝間着に着替えていたという事は、まさか……い、いや、考えるのはやめよう。これ以上熱を上げてはいけない。とりあえず今は彼女が笑顔で帰ってくることを祈ろう。そんな事を考えながら、文は布団に倒れ込んだ。
* * *
陽が昇り、暑さが急に増してきた。雲はふんわりとした大きいものがあちらこちらに浮かび、薄い雲は見当たらない。朝晩の雰囲気は秋めいてきたが、日中はまだそうもいかないようだ。
椛は少し緊張していた。彼女はそれほど人見知りではないが、あまり里の外には出ないため山の仲間達以外と話すのはかなり久しぶりだった。割と話を聞くのは得意だが、記者として誰かと話をするのは初めてだ。やはり、普通に話をするのとは違うのだろう。このように色々と考えれば不安は尽きないが、それでもこの仕事をやると言ったのはなんとかして文の力になりたかったからである。それに、以前から記者の仕事にも興味があった。常に真実を追い求める姿勢に憧れ、いつかやってみたいと幼い頃から思っていた。その夢が叶ったような気がして、自然と心が不安に満たされる事はなかった。
そうこうしているうちに、椛は博麗神社にたどり着いた。最初にここにやってきたのは、完全に彼女の勘である。ここには昼夜問わず幻想郷の有名人が集まるから、自然とネタも見つかるだろう。
「すみませーん、霊夢さんいらっしゃいますかー?」
本殿の裏手の縁側でお茶をすするのが博麗の巫女の日常だ。文からよく聞かされていた椛は、境内に着くとすぐに縁側のほうへと向かい、声をかけた。暫くして霊夢がいかにもめんどくさそうな顔をしながら現れた。
「何よめんどくさい……ああ、聞き覚えのない声だと思ったらあんたか。椛だったわよね?」
「は、はい!そういえばお話するのって初めてかもしれませんね。宜しくお願いします」
「挨拶はいいわ。で、何か用?」
「はい、実はですね……」
椛は霊夢に事態を説明した。文が風邪を引いた事、その代わりに自分が取材をしたい事、そして話を聞きたくてここへやってきた事。霊夢は相変わらず上の空というような表情をしていたが、話はしっかり聞いてくれているようだ。時折相槌を打ったり、質問をしたりしている。質問とはいっても、天狗も風邪を引くものなのかなど、どうでもいい事ばかりではあったが。
「……というわけなんです。何かネタになるような事、ご存知でないですか?」
「そうね……最近は何もなくて退屈だからなぁ」
霊夢は首を傾けながらあれこれ考えている。椛の健気な態度に、何か力になってあげたいと思ってくれたらしい。しかし、色々考えてはみたもののちょうどいい出来事に心当たりはなかった。その様子を見て、椛の心に一抹の不安がよぎる。ここに来ればきっとなんとかなると考えていたし、他にどこか当てがあるわけでもない。このままでは、仕事をやり遂げる事など出来ないのではないか。
「お困りのようだな、お二人さん」
不意に縁側のほうから声がした。俯いてしまっていた椛が驚いたように顔を上げる。霊夢はというと、少し不満そうな顔をしていた。
「どうせ最初から聞いてたんでしょ?もっと早く出てきなさいよ」
「いや、だってほら、煎餅食べながら登場ってのはかっこ悪いだろ?」
そう言いながら現れたのは霧雨魔理沙。よく見ると、口の周りに煎餅の欠片らしいものがついている。食べながら現れるのもそうだが、欠片に気づかずに人前に出てくるのもかっこ悪いのではなかろうか。それはさておき、どうやら彼女は椛よりも早く神社を訪れ、お茶をまったりと楽しんでいたようだ。
「さて、早速だが椛」
魔理沙は椛に近寄りながら言った。初対面ではないが、二人が話をするのはほとんど初めてである。そのためか、椛は少し緊張して答えた。
「は、はい!」
「そう固くなるなって。昨日聞いた話だが、今晩紅魔館で世にも恐ろしい催し物があるらしいぞ。どんなものかは知らないけど、パチュリーが言ってた事だから間違いないはずだ」
魔理沙は胸を張って言った。彼女の言葉を聞き、椛の表情はみるみるうちに晴れ渡っていく。元来怖いものが嫌いな椛だが、ネタを教えてもらえたうれしさでその詳細を確認するのを忘れてしまっているようだ。
「あ、ありがとうございます!それじゃ、失礼します!」
そう言って椛は紅魔館を目指して飛び立った。まだ時間的には少し早いかもしれないが、先に許可を取っておいたほうがいいと考えたからだ。彼女を見送りながら霊夢は縁側に腰掛けた。
「なんで勘違いするような言い方したのよ。世にも恐ろしいですって?満月の夜にあいつがやる事といったらアレでしょ?」
「ああ、アレだ。本当の事言ったらたぶん椛も興味持ってくれなかったと思うぞ?だってわざわざあんなの見に行きたいと思わないだろ?」
「まあそうだけど……あんたそれ何枚目?」
魔理沙がさり気なく煎餅に手を伸ばすのを霊夢は見逃さなかった。魔理沙は苦笑いしながら手を引っ込めつつ答える。
「え、ええと、何枚だっけなぁ……とりゃ!!」
霊夢が瞬きをしたその一瞬を見逃さず、魔理沙は再び手を出した。が、そこは流石博麗の巫女、素早く盆を引き、結果魔理沙の手は空を裂いた。
「甘いわよ」
「チッ……しかしなんだ、取材、できるといいな」
「そうね」
日差しはすでに午後のそれに変わっていた。うだるような暑さも少し落ち着き、涼しげな風が吹く晩夏の夜が近づいている。この様子だと、椛が紅魔館にたどり着き、許可を取る頃にちょうど夜が訪れることだろう。そんな事をぼんやりと考えながら、二人はのんびりとお茶をすすった。
* * *
辺りは既に暗くなっている。このくらいの時間なら許可を取ってから待たずに取材に入れそうだ。そんな事を考えていた椛だが、紅魔館の近くまでやってくると妙な違和感を覚えずにいられなかった。神社と同様にこれも文から聞いた事だが、この辺りの森や湖などは妖精達の遊び場であり、普段なら常にそこかしこに彼女達の姿が見えるらしい。けれども、椛が訪れた時には一人として見当たらなかった。他に変な所はないようだから、妙な部分は妖精達がいないという所だけだと思う。それにしても、何故いないのだろう。消えてしまうとは思えないし、どこかへ行ってしまったのだろうか。しかし、一度でこんなにどこかに行く事などありえるだろうか。
そんな事を考えているうちに、椛は紅魔館の正門に着いていた。門の辺りを見回しても誰もいない。美鈴という名の門番がいるはずだが、彼女の姿は見えない。さて、どうしたものか。さすがに無断で入るのはまずいだろうし、気が引ける。かといって、門の中に入れない以上どうやって許可を取ろう。
「うおおーおくれたー!!」
不意に後ろから元気な声が聞こえてきた。椛が振り返ると、一人の妖精が門に向かって走ってくるところだった。
「ん?あんただれ?あたいチルノ!」
彼女は椛を見るなり声をかけてきた。その無遠慮な、しかし親しみの持てる様子に少しばかり気後れしながらも、椛は彼女に答えた。
「こんばんは、チルノちゃん。私は犬走椛よ。」
「よろしく、もみじ!もみじもパーティにきたの?」
思いもよらない質問に、椛は一度聞き返した。
「え?パーティ?」
「うん!レミリアがまいつきやるんだ。このへんのようせいはみんなさんかするんだよ!」
なるほど、「世にも恐ろしい催し物」とはパーティのことだったか。しかし、恐ろしいなどという形容詞のつくパーティとは如何なるものなのだろうか。椛がそんな事を考えていると、急にチルノが椛の腕を引っ張った。
「ねえ、いこ?」
「え?でも私、パーティに呼ばれてるわけじゃないし……」
「だいじょうぶ!さあいこういこう!」
椛の手を引いて、チルノは勝手に門を開けてずんずんと進んでいく。はじめのうちは心配してオロオロしていた椛だが、チルノと共にエントランスに入った瞬間、そんな悩みは吹き飛んでしまった。
広々とした床は一面の紅いカーペットで覆いつくされている。そこには数え切れないほどのテーブルがずらりと並び、それらは皆美しく飾られている。壁に目をやれば紅を基調とした優雅で落ち着いた雰囲気のデザインが細部にわたって施されており、思わず溜息が漏れるほどだ。高い天井の中央にはシャンデリアが煌びやかに飾られ、見たこともないくらいに輝いていた。
「うわあ、きれい……」
椛の口から自然と言葉が漏れた。椛はあまり山の外へ出ることはないから、西洋風の飾り付けを見るのも初めてだった。自然の美しさもいいが、こういうのも悪くない。そんな事を考えていると、一人のメイドらしき少女が声をかけてきた。
「あら、珍しいお客様ね。確か……椛だったかしら?」
「は、はい。咲夜さん、ですよね?」
数回宴会に同席したくらいの付き合いだが、二人ともお互いの事を憶えていた。我侭を言う主に寄り添う従者に、時折暴走する上司を抑える部下。立場は違っても、相手の傍を離れようとしない様子がそっくりだったから、その姿がお互い印象深かったのだろう。もしかすると、二人とも銀髪だというのも要因の一つかもしれないが。
なんにせよ、この人になら頼めそうだ。少し安心したせいか、館に入ってからピクピク動きっぱなしだった椛の尻尾は静かになり、立ち気味だった耳もぺたりと倒れた。
「あの……実は取材をさせてほしいんですが」
「取材?駄目……と言いたいところだけど、今宵はおめでたい夜だし見逃しましょう」
椛の言葉に咲夜は少しばかり難色を示したが、すぐにやれやれといった様子で笑った。
こういう忙しい場面ではなるべく気を遣う要因を排除しておきたいものだから、普段の咲夜ならためらうことなく取材を禁止しただろう。しかし、咲夜は椛の眼を見たときから彼女が文の代わりに頑張っている事を見抜いていた。その健気な態度に負け、鬼のメイド長もつい甘い顔をしてしまった、というわけだ。
「ありがとうございます!」
「いいのよ。ただあんまり掻き回さないでね。尤も、貴女は無茶しそうにないから大丈夫だと思うけど。じゃあ私はこれで。いい夜を」
挨拶も早々に咲夜は再び人混みへと消えていった。きっとまだ色々と準備が残っているのだろう。椛が辺りを見渡すと、ちょうどテーブルに料理が運ばれてくるところだった。テーブルの数が多いからメイド妖精達も大変そうだ。
「あ!もみじ、こっちおいでよ!」
振り返ってみると、少し離れたテーブルでチルノが椛を呼んでいた。それに応えて椛は彼女のほうへと歩いていく。本当は開催の挨拶前に色々話を聞いておきたかったが、彼女達に協力してもらえば問題ないだろう。
「もみじ、しょーかいするよ!このこは大ちゃん。あたいのだいしんゆうなんだよ!」
「よろしくお願いします、椛さん」
椛がチルノの傍に行くと、隣の緑髪の少女が挨拶してきた。その様子から、彼女の礼儀正しさが伝わってくる。
「よろしく、えーと、大ちゃん、でいいのかな?」
「ええと、皆そう呼びますから、それでおねがいします」
大妖精は少し照れたように言った。礼儀正しくて恥ずかしがり屋。そういえば、自分もよくそう言われるな、などと椛が考えているうちに、彼女達のテーブルにも料理が運ばれてきた。
椛は西洋文化にあまり触れたことがないので、こういう料理もそのほとんどが初めて見るものばかりだった。なるほど、これが本で見たオードブルというやつか、などと思っていると、不意にエントランスの照明がいっせいに消えた。突然の事で椛は少し慌ててしまったが、隣のチルノや大妖精は「お、はじまった!」などとうれしそうに話している。どうやら、これはパーティの演出の一つだったようだ。椛が冷静さを取り戻した頃、中二階の中心にスポットライトが当たった。
「ようこそ、我が館へ。今宵は満月、思う存分楽しんで頂戴。それでは、いい夜を」
ライトに照らし出され、口元に妖しげな笑みを浮かべて開催の挨拶をしたのはこの館の主、レミリア・スカーレット。彼女がライトの外へ消えると同時に照明が再び点き、いっせいに周りの妖精達がわいわいはしゃぎ声を上げ始めた。彼女達にとって、パーティはお祭のようなものらしい。椛の隣の二人も楽しそうにはしゃいでいる。
そんな中、ふと椛はエントランスの上に目をやった。テーブルが並んでいる場所は様々な照明で明るく照らされているのに対して、上の中二階部分からは落ち着いた灯りが漏れていた。それを見て、椛は急にレミリアと話してみたくなった。妖精達は彼女達なりに楽しんでいるが、レミリアも楽しんでいるのだろうか。おそらく、妖精達の楽しみ方は彼女が望んでいたものとは違うだろう。プライドの高い彼女が、自分の主催したパーティを滅茶苦茶にされて黙っているはずがない。それなのに、彼女は毎月このパーティを開いているという。いったい彼女は何を考えているのだろうか。
そんな思いが彼女の頭をよぎった瞬間、既に椛の体は中二階への階段へ向かっていた。喧騒の中、極力周りに影響を出さないように走り、一気に階段を駆け上がる。いきなり取材させてくれと言っても無駄だとか、そういう考えは何故か全く湧いてこなかった。これを記者の本能と文が呼んでいたのを思い出して、椛はこの日初めて自分が記者をしていると自覚した。
レミリアは一人で椅子に腰掛け、紅茶を飲んでいた。そこからは下の様子がよく見えるらしく、辺りを眺めている。暫くはそうしていたが、椛が声をかけようとするとそれを遮るようにして言った。
「取材かしら、新米記者さん?」
椛はてっきり自分に気づいていないものだと思っていたから、突然声をかけられて慌ててしまった。レミリアはそんな彼女を見て言う。
「あら、緊張しているの?あいつとは大違いだね。さあ、掛けなさい」
レミリアは隣の椅子を指差して言った。思わぬ展開に当惑した椛だが、歓迎してくれたのだからいいか、と思い薦められるがまま椅子に腰掛けた。
座って早々椛はレミリアに訊ねた。
「早速ですが、一つ質問してもいいですか?」
「ええ」
「あの……失礼かもしれませんが、どうして毎月パーティを開くのですか?妖精達の楽しみ方は、貴女が望んでいるものとは違うでしょう?」
レミリアは椛の顔を覗きこむようにして見ていたが、彼女が言い終わるとなんだ、そんなことかといわんばかりに肩をすくめた。
「ただの娯楽よ。というか、パーティはおまけみたいなもんだし」
「ええ!?お、おまけですか?」
「そう。普通パーティを主催する人は自分の権力を見せびらかしたりするのが目的でしょう?そんなのつまらないじゃない。私にとって、パーティは人をもてなすためのもの。彼女達が楽しんでくれればその作法なんてどうでもいいのさ。ほら、下をごらん」
椛はレミリアに言われたように下を覗いた。そこから見えたのは、実に楽しそうな光景だった。
わいわいはしゃぐ妖精達。よく見ると、メイド妖精達もその輪に混じって楽しんでいるようだ。中にはテーブルに昇ったりするマナーの悪い者も何人かはいるが、本当に楽しそうな顔をしている。
「楽しそうだろう?私はあれを見るのが好きなんだ。ついでに、こういう場を作った私にあいつらが感謝してくれればうれしいしね」
「そうですね。レミリアさんの仰る事、とってもよくわかりました。そういえば、どうして満月の夜なんですか?」
「んー……なんとなく、かな」
「は、はぁ……」
初めてレミリアを見たとき、椛はただの我侭なお嬢様だとしか思わなかった。だから、咲夜がどうしてあそこまで彼女に寄り添っているのかが理解できなかった。
けれど、彼女は違った。話してみてわかったが、彼女はただの「お嬢様」ではない。確かに子供っぽく振舞ったりする時もあるが、こういう館の主としての器の大きさも兼ね備えているのだ。だからこそ、色々な人が彼女に寄り添い、妖精達にも親しまれているのだろう。偶によくわからない事を言う事もあるけれど、やっぱりこの人は紅魔館の素敵な主だ。
椛が感心していると、レミリアが急に声を上げた。
「ああ、私としたことが客人にお茶も出さないなんて!咲夜、お願いできるかしら?」
「かしこまりました、お嬢様」
レミリアが視線を向けると、誰もいないはずの場所から返事が聞こえた。椛が驚いてそこを見ると、いつの間にか現れた咲夜がティーセットを持ってくるところだった。
レミリアはこういうのに慣れているし、自分で呼んだのだから驚くはずもないが、何も知らない椛にとっては神出鬼没としか言いようがない。気づかないようにしているだけで、本当はいつもずっと傍にいるのだろうか。いや、彼女も忙しい身だから他に色々と仕事もあるだろうし、ずっとレミリアの傍にいられはしないはずだ。しかし、こんなに準備がいいと本当にずっと傍で見ていてくれているような気分になる。今日たまたまこの場面に遭遇した自分がそう思うのだから、いつもそれを経験しているレミリアもきっとそう感じているだろう。
不意に、椛は文の事を思い浮かべた。主従の寄り添う姿を見て、今も一人苦しんでいるかもしれない彼女の事を思い出したのだ。一度心に浮かんでしまえば、その想いは簡単には消せない。椛の想いはすでに自分を待っていてくれているだろう文へと向かっていた。
「あ、あの!申し訳ないのですが、今晩はこのあたりでお暇してもよろしいでしょうか?実は私、今日は」
「いいのよ、文が気になるんでしょう?そのくらい私達だって気づいてるわ。ねぇ咲夜?」
「ええ、あんな眼をされては気づかないほうが変ですわ」
思わぬ返答に言葉を遮られ、椛は思わず固まってしまった。
そんなに気張っているように見えていただろうか。なんだか恥ずかしくてたまらない。
椛が頬を染めて俯いてしまうと、咲夜が彼女の肩に手を添えて言った。
「誰かを大切に想う気持。それを恥じることはないわ。貴女の想いがとても真っ直ぐだったから、私達にも自然と伝わってきただけの事よ。
さあ、行くといいわ。大切な人が待っているのでしょう?」
咲夜の言葉を聞いた瞬間、椛の心は再び燃え上がった。二人にお礼を言うと、エントランスを風のように駆け抜け、外へと飛び出した。今なら普段の文のスピードにもついていけるかもしれない。
彼女を見送った後、レミリアは咲夜に座るよう言った。咲夜は少しうれしそうに微笑んでそれに応え、彼女の隣に腰掛ける。
「行ったわね」
「ええ」
「しかしまあ、貴女があんな事を言うとは思わなかったわ」
「彼女の気持はよくわかりましたから」
「ふふ、それもそうね」
そう言ってレミリアは伸びをした。顔には出さないように努めていたが、その口元には笑みが零れていた。
「さて、そろそろ盆踊りの準備をするわよ」
「はい。では私は美鈴とパチュリー様を呼んできますね。フランドールお嬢様はご自分で呼びにいかれるのでしょう?」
「も、もちろんよ!私が行かないと来ないだなんて、本当にどうしようもない妹ね」
そう言いながら妹の部屋へ向かうレミリアの翼はうれしそうにピクピクと動いている。それを見てニヤニヤしながら、咲夜は中二階を後にした。
* * *
紅魔館からの帰り道を、椛は大急ぎで駆け抜けていく。昨晩文の家に遅れて向かった時はまったく動じていなかったのだが、この時ばかりは気持がどんどん前に出てきて冷静でいられなかった。
取材はなんとかできたけれど、文様の体調が快復していなかったらどうしよう。あの人のことだから、きっと私がいくら心配しても大丈夫だとしか言ってくれないと思う。それに、普段は他人に悟られないようにしているけれど本来あの人は寂しがり屋だから、私がこんなに遅くまで帰らなかったら一人で寂しがってはいないだろうか。
ああ、早く帰りたい。そして、あの人の顔を見たい。そんな思いが、椛を疾風のように走らせていた。
文の家に着いて、椛は思わず声を漏らした。台所の明かりが点き、薄く開けられた窓の隙間からはおいしそうな匂いが漏れていたのだ。
どうしてこの人は大人しく寝ていられないのだろう。でも、おなかが空くということは今朝よりは確実に元気になっているはずだ。椛はうれしそうに、しかしそれを悟らせず、少し怒ったように玄関を開け、大声で文を呼びながら台所へ向かった。
「文様!もう、どうして黙って寝ていてくださらないんですか!」
「あら、おかえり椛。おなかが減ったから何か作ろうかなあと思っただけよ。大丈夫、もうすっかり元気なんだから」
「本当ですか?」
椛は文の額に手を当ててみた。確かにまったく熱は感じられない。
「ねえ、貴女も食べるでしょ?文ちゃん特製・卵粥よ!」
「は、はい、いただきます。けど文様、それ私が教えたやつですよ」
「え?そうだっけ?」
文は粥をよそろうと椛に背を向けた。彼女は普段あまり料理をやるほうではないから、よそる仕草もどこか不慣れな感じがする。そのいつもと変わらないぎこちない姿を見て、椛は我慢できずに文の背中を抱きしめた。
「も、椛!?」
「よかった、文様、よかった……」
そう繰り返しながら椛は大粒の涙を零す。ずっと張り詰めていた糸が切れたように、彼女は声を上げて泣き始めた。文は手を止め、椛に向き直すとすぐに彼女を抱きしめる。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だから、泣かないで?」
「文様……文様ぁ……」
文は色々と手を尽くしてみたが、椛は一向に泣き止む気配がない。それほど心配してくれていたという事ではあるが、彼女の涙はあまり好きではない。だから、文は彼女を泣き止ませる方法を探そうと考えを張り巡らせた。そのうちに、自分が今朝火照った頭で密かに考えていた計画を思い出した。そうだった、これを使おう。椛に気づかれないようにいやらしい笑みを浮かべながら、文は椛を抱きしめる手を離した。
「ねえ椛、取材はうまくいったの?」
「ふぇ?」
涙目で見上げてくる椛に理性を持っていかれそうになりながらも、文は落ち着きを保ちながら続ける。
「取材よ取材。私の代わりに行ってくれたんでしょ?ちゃんとできたのかなあと思ってね」
椛は顔を上げ、手帖とカメラを取り出した。どうやら、文の作戦は成功したようだ。
「ちゃんとできましたよ。ほら、ちゃんと……あっ!!」
椛は自慢げに話していたが、突然固まってしまった。文が椛の顔を覗きこむと、彼女はまた泣き出しそうな顔をしていた。
「ちょ、どうしたのよ?何かあったの?」
「文様……ごめんなさい、私、私……」
ついに椛は泣き出してしまった。手帖もカメラも置き、両手で顔を押さえて泣いている。どうしたらいいのかわからない文はとりあえず手帖を確認してみることにした。そうすれば何かが書いてあると思ったからだ。しかし、彼女が見たのは今日の日付だけ。そのページから手帖の最後まで空白が続いていた。これはもしや、と思った文は椛の肩を軽く抱き、優しい口調で彼女に訊ねた。
「忘れちゃったの?」
「はい……ごめんなさい、文様。私、ぜんぜんお役に立てませんでした。やっぱり私なんて……」
泣きながら謝る椛を、何故か文はニヤニヤしながら眺めている。やがて彼女は椛が床に置いたカメラを静かに手に取り、ぺたりと座り込んだ椛を嘗め回した。
帰ってきた時にはあんなにうれしそうにくるくるしていた耳や尻尾も、今はへたりと力なく垂れている。暫くは黙ってレンズ越しに様々なアングルから覗き込んでいた文だが、その様子があまりに可愛くてついシャッターを切ってしまった。
椛の泣き声だけが響いていた空間に、カシャッという音が響く。その音に驚いて、椛は思わず顔を上げた。
「文様……?」
「ごめんごめん、可愛かったからつい撮っちゃった」
自分が真剣に悩んでいるのにどうして文がこんな態度を取るのかわからず、椛はポカンとしていた。しかし、勘のいい彼女はすぐに文の意図を全てではないにせよ理解できた。
「も、もしかして私、何か勘違いしてましたか?」
「ええ。実はね、明日は休刊日なのよ。だから仮にネタがあっても記事は書けない、だからはじめから貴女の取材に意味はなかったのよ」
「ええ!?……いえ、文様の事ですから何か他に考えがあったんでしょう?私にはわかります。文様は私に無駄なことをさせて楽しむような人ではありませんから」
うんうん、本当にいい子だな、椛は。私の事もよくわかってくれているし、本当に可愛らしいことだ。
文は椛の瞳を見つめて言った。
「流石は椛ね。私はね、貴女に違う世界を見せてあげたかったのよ」
「違う世界……ですか?」
「そう。警備の仕事は大切だし、私が口を出せることではないわ。でも、山で過ごしているだけじゃ触れることの出来ない出来事がたくさんあるの。今日取材をしてみて貴女もわかったでしょ?自分の知らない事、知らない文化、知らない人物。それらを知るのって、それだけで楽しいじゃない。でしょ?」
「はい。今日だけでも本当に色々な事があって、たくさんの事を学ぶことが出来ました」
「よかった!それなら、今日の貴女の取材は上出来よ。尤も、記者としてはまだまだだけどね」
文はわざと意地悪く白紙の手帖をひらひらさせて椛に言った。椛は少し膨れっ面になって彼女に答える。
「意地悪な事言うと、もうご飯作りませんよ」
「え!?そ、それは卑怯でしょ……あ、椛ごめん!ごめんてばぁ!」
「ふふ、慌てた文様も可愛いですよ」
「む、生意気な」
「いたたっ!耳は引っ張っちゃだめですよぉ」
二人はふざけあいながら居間へ向かった。少し遅い夕飯を食べて、それから今日の出来事を話し合うために。
ふと椛が窓の外を眺めると、夜空にそれは見事な満月が浮かんでいた。季節の移り変わりとともに、これからは空気も透き通り、月も美しく見えるようになることだろう。その月を見て、椛は一組の主従を思い出していた。
思えば、今日は本当に色々な人と出会った。ほとんどは顔見知りではあったが、彼女達と話すうちに自分の知らない世界を学ぶことが出来た。この一日で、椛は大きく成長することが出来たと言える。
今日出会った全ての人に、そしてこの機会を与えてくれた文に心から感謝して、椛は文の作った粥を一口食べた。
うん、おいしい。
糖分は過多だがなwww