その日、幻想郷はうだるように蒸し暑かった。
陽射しは雲に隠れているが、湿気と熱気が籠もるように地面に留まっている。一雨来れば少しは涼しくなるのかもしれないが、雲はどこまでも重苦しく空を覆うばかりで、なかなか雫を降り注いではくれなかった。
こんな暑さの中、神社でじっとしていては溶けてしまう。
飛べば涼しくなるかとも思ったが、大差無かった。
「……暑い」
何度目になるかも考えたくない呟きを漏らして、博麗霊夢はふわふわと幻想郷の空を飛ぶ。
まとわりつくような湿気が息苦しい。高速移動する元気も沸かなかった。
「冥界でも行けば少しは涼しいかしらね……」
何しろ初夏に雪が降るような場所である。いや、あれはどこぞの天人のせいだが。
そうでなくても、冥界の幽霊でも捕まえればひんやりとして気持ちいいに違いない。
どうせすることもないし、あてもなく飛んでいても暑いのだから、少しでも涼しく過ごせる場所を探そう。とりあえずは冥界を目指すか、と霊夢は顔を上げ、
――不意に、ぽつりと額に雫を感じた。
「うぇ?」
手のひらを天にかざすと、ぽつり、ぽつりとそこに雫が落ちてくる。
恵みの雨――と期待したのも束の間。
「ちょっ、何よこれ!」
全く唐突に、雨は土砂降りに変わった。今の今まで溜め込んでいた雨粒が、堪えきれずに空から氾濫を起こしたような降り方だった。
もちろん、空を飛ぶ霊夢にそれを防ぐものなどあるはずがない。
慌てて霊夢は地面に舞い降りる。木陰に避難しようとしたが、雨脚が強すぎて他の場所と大差無かった。たちまちぐっしょりと濡れる巫女装束の重さにげんなりしながら視線を巡らす。――と、見える範囲に小さな洞穴があった。
「ああもうっ」
雨の中を走って、洞穴の中に避難する。既にずぶ濡れだったが、それでも雨に打たれ続けるよりは幾分ましだ。ひんやりとした暗がりに飛び込んで、霊夢は息をついた。
洞穴の岩肌に手をつく。雨音が少し遠ざかった気がしたが、相変わらず雨自体は止む気配が無い。止むまでここで雨宿りするかしかないか、とため息をついて。
――洞穴の奥に、何者かの気配を感じた。
振り返る。小さな洞穴に見えて、意外と中は深いようだった。暗がりの奥は判然としないが、しかしその奥には確かに、気配を感じた。
熊のねぐらにでも入り込んでしまっただろうか。霊夢は身を竦め、スペルカードを取り出しておく。弾幕ごっこも何だかんだで護身には有効なのだ。
ともかく、気配の主を確かめなければ。危険そうな相手なら雨宿りどころではない。
足音を潜めつつ、霊夢は洞穴の奥へ歩を進める。岩肌から滴る雫が静かな音をたてた。
暗く狭い岩肌の中、そろそろと足を進め――そして不意に、視界が僅かに開ける。
霊夢は微かに身構えた。気配がある。
洞穴の最奥部、まるで一室のように開けたその空間に。
――静かに横たわる影があった。
「…………って」
そろそろとそこに歩み寄って、その姿を見下ろし。
――そして霊夢は、盛大にため息を漏らした。
警戒していた自分が馬鹿みたいだ、と濡れた髪をかき上げて頭を抱える。
そこに横たわっていた気配は、見覚えのある顔だった。
「……むにゃ」
地面に敷いた藁の上、脳天気な寝顔で惰眠を貪るその姿は。
冬妖怪、レティ・ホワイトロックのものだったのである。
◇
レティは霊夢が近付いても、全く目を覚ます気配は無かった。
この蒸し暑い日にも、洞穴の奥はひんやりとしている。冬にしか姿を現さないこの妖怪は、春から秋にかけてはどうやらここで眠っているらしい。
春夏秋眠。熊が出るかと思ったら、熊の逆だった。
やれやれと霊夢は首を振り、それから僅かに逡巡する。
とりあえず、雨はまだしばらく止みそうに無い。濡れて重い巫女服を脱いで、そのへんの岩に引っかけておきたかったが――。
「んぅ……」
レティがごろりと寝返りを打った。……気にする程のこともないか。
どうせ、目を覚ましたところで真夏に冬妖怪が何を出来るわけでもないだろう。いつぞやの異変でやり合った時だって、冬の終わりだったとはいえ大した強さではなかった。スペルカードさえ手元に置いておけば、霊夢が負ける道理は無い。
そうと決まれば、と霊夢は濡れた巫女服をさっさと脱いだ。さらしとドロワーズだけの姿になって、巫女服は岩肌に引っかけておく。この涼しい洞穴の中で乾くかどうかは怪しかったが、濡れた服をいつまでも着ているよりはいい。
「……で、どうしてくれようかしらね、これ」
ちょうど椅子のように置かれた大きな石に腰を下ろして、霊夢はレティを見下ろした。
どんな夢を見ているのだか知らないが、幸せそうな寝顔である。
――見ていたらなんだか腹が立ってきた。
「こっちは暑くて死にそうな上に雨にまで降られたってのに――」
惰眠を貪るは冬妖怪。この世の理不尽がそこに結集されている。
霊夢はつかつかとレティの元に歩み寄り、その顔を覗きこんだ。「ん~……」と身じろぐレティの寝顔はどこまでも長閑。ああもう、腹が立つ。
むに。
とりあえず、その頬を引っぱった。
「おお、伸びる伸びる」
むに~、と柔らかい頬はよく伸びた。レティが身じろぐ。構わず霊夢はさらにその頬をむにむにと弄くり回す。もちもちと大福のような手触りで、お茶が飲みたくなった。
「ん~、うぅ~……ちるの、やめ~……」
ぺち、とレティの手が霊夢の頬を叩いた。
どうやら寝ぼけて、霊夢をチルノと勘違いしているらしい。あるいはチルノにこんな風に普段から悪戯されているのかもしれない。
「人をあの妖精と間違えるとか、いい度胸じゃない」
むにー。さらに引っぱった。
「い、いひゃいいひゃい~……んぅ?」
ぼんやりと薄目を開けて、レティは霊夢を見上げた。
「……ふぇ?」
その目をしばたたかせるレティに、「あら、おはよう」と空々しく霊夢は挨拶。
さらに数度、レティは瞬きを繰り返して――「ふぁぁっ!?」と素っ頓狂な声をあげた。
「れ、れれれ、霊夢?」
「はい正解」
ぱっと手を離すと、レティはいわく名状しがたい表情で霊夢を見つめた。
「……な、なんでここにいるの~?」
「たまたま雨宿りしてたら、あんたを見つけたのよ」
「た、食べ物は無いわよ~?」
「――人を何だと思ってるのよ」
思い切り半眼で睨みつけると、レティは身を竦めて、それからのろのろと身を起こした。
「……ていうか、もう冬~? なんだか随分早い気がするけど~……」
「残念だけど、まだ夏真っ盛りよ」
「ふぇ」
ぱちくりと目を見開いて、それからレティはぶるりと身を震わせた。
「な、なんでそんな季節に起こすの~!」
「知らないわよ」
「知らないって~」
頬を膨らませてレティは霊夢を睨む。なんでと言われても、そこに理不尽があったからだ。
と、不意にレティが視線を落として、それから顔を赤くした。その視線に、そういえば自分が下着姿だったことを霊夢は思い出す。
「そ、それにその格好、なに~?」
「服が濡れたから乾かしてるの」
「人前でそれはどうかと思うわ~」
「妖怪でしょ」
「そうだけど~」
別に気にするほどのこともない。霊夢としてはそのつもりなのだが、レティは目のやり場に困ったという様子で視線を逸らした。
「う~、でも本当になんでこんな季節に起こすの~?」
「だったら二度寝すれば? 別に取って食いやしないから」
「なんで妖怪の私が人間にそんなこと言われなきゃいけないのかしら~」
唸るレティに肩を竦めて、それから霊夢は洞穴の出入口の方を見やった。雨音はここまでは届かないが、どうやら雨はまだ降り続いているようだ。
「とりあえず、雨止むまでこの場所借りるから」
「勝手に決めないで~」
「邪魔はしないわよ」
「今、思いっきり安眠妨害された気がするんだけど~」
「細かいことは気にしない」
「細かくないわ~」
何やら恨み言を呟くレティをスルーして、霊夢はレティが横になっていた藁に横になってみた。ふわりと身体を受け止める柔らかい藁。少々くすぐったいが、案外と悪くない。
「れ、れいむ?」
「ふあ……涼しくて気持ちいいわね、ここ」
何しろ昨日は熱帯夜で寝不足なのだ。横になると急に眠気が襲ってきた。
――隣に妖怪がいるのに。どうにもレティが相手では警戒心が沸いてこない。
その間延びした喋り方もそうだし、だいいち夏場の冬妖怪など冬眠中の蛍のようなものだ。
取って喰われそうになったら、夢想封印でもっと長く眠らせてやればいいのである。
「雨、止んだら起こして。……おやすみ」
「ちょ、ちょっと、れいむ~」
レティの声に構わず、霊夢は目を閉じた。
――睡魔は驚くほどあっという間に、霊夢の意識を刈りとっていった。
◇
いったいこの状況、自分にどうしろというのだ。
あっという間に寝入ってしまった霊夢を見下ろして、レティはまた小さく唸った。
まだ冬の気配はどこにも無い。どうやら本当に夏場に起こされてしまったらしい。それだけでなく、いつもの寝場所に余計なおまけがくっついてきて。
無防備にも程がある格好で眠る霊夢に、レティはため息をひとつ漏らす。
何なのだ、彼女は。雨宿りでこの洞穴にやって来た、それはいい。しかしそこで自分を見つけて、あろうことかその前で無警戒に服を脱いで寝入ってしまうなんて――まともな人間のすることではない。いや、博麗の巫女はまともな人間では無いのだろうが。
というか、人の安眠を妨害した挙げ句に寝床を横取りとか、傍若無人にも程があるだろう。雨が止んだら起こして、などと言っていたが、このまま雨の中に放り出してやろうか。
――などと、考えてはみるのだけど。
「……れいむ」
どうにもその寝顔を見下ろしていると、毒気を抜かれてしまった。
妖怪の自分を傍らに、本当に脳天気な顔で眠っているのだ、この少女は。
単にそれは、妖怪が近くにいるということに慣れているだけなのだろうが――。
その頬におそるおそる手を伸ばしてみる。……触れた頬は柔らかく、温かかった。
「う~……」
自分がされたように、その頬を引っぱって起こしてしまおうか。
――それで、起こしてどうする?
ここは自分のねぐらだから出ていって――と、本来なら言うべきところなのだろう。
脅しが通用するのかどうかはさておき、ここは自分のお気に入りの寝場所なのだ。邪魔に入られるのは真っ平御免――のはずなのだけれども。
ためらいがちに、レティは頬に触れていた手を離す。
「れい、む」
彼女の名前を、呟いてみた。
なんだか急にもやもやとしたよく解らない感情に襲われて、レティは呻いた。
頭がぼんやりするのは、こんな季節に起こされて寝不足なせいだ。
そう思うことにして――レティはもう一度、藁の上に身を横たえた。霊夢の隣に。
考えてもいても仕方ないので、二度寝してしまおう。
それが一番、手っ取り早い。
「……ん」
霊夢が微かに身じろいで、その手がレティの手に触れた。
ひとつ、小さく心臓が跳ねて――レティは身を竦めて、霊夢から視線を逸らして目を閉じた。
――いったい、自分は何をしているのだろう。
考えてみても、さっぱり答えは出なかった。
◇
「……何やってるのかしらねえ」
むくりと身を起こし、背中の藁を払って、それから霊夢はぽつりと呟いた。
気が付けば、隣でレティが眠っていた。冬妖怪と一緒に昼寝とか、脳天気にも程がある。
まあ、こんな暑くておまけに雨の日なのだから、仕方ないということにしておこう。
「ん、雨止んだかしら」
洞穴の入り口のほうを見やれば、雨脚は弱まっているように見えた。
立ち上がり、引っかけていた巫女服を手に取る。まだ湿っていたが、贅沢は言っていられない。手早く身に纏って、さっさと返ろうか、と霊夢はひとつ伸びをし、
「れいむ~……?」
眠そうな声が背後から響いて、振り返る。
レティが目を擦りながら、身を起こしてこちらを見つめていた。
「雨、止みそうだから帰るわね。お邪魔したわ」
「ふぇ」
「じゃ」
軽く手を振って、霊夢は歩き出そうとし――、
「れいむっ」
不意にその手を掴まれて、霊夢はもう一度振り返る。
レティが起きあがって、霊夢の手を掴んで――こちらを、見つめていた。
「何よ」
「――――」
レティは言葉に詰まったように、何度か口をぱくぱくさせて。
「……まだ、雨、止んでないわ~」
ようやく言葉を見つけたという調子で、そんなことを言った。
「もう小降りでしょ。このぐらいなら別に――」
「まだ、止んでないから」
霊夢の言葉を遮って、レティは言いつのる。
「……こんな季節に起こされて、やること、ないから」
「何よ」
「もうちょっと……ここに、いてほしいわ~」
霊夢は目を細めて、自分の手を握りしめる冬妖怪を見つめた。
「ここにいて、何しろって言うのよ」
「な、なんでもいいけど~……」
「押し倒しても?」
「ふぇっ!? い、いやいやいや、それはその~」
「冗談よ」
「……う~」
さすがにそんな、行きずりでどうこうするほどふしだらではないつもりだが。
真っ赤になって俯いたレティに、霊夢は首を傾げる。
――自分にいったい、何をどうしろというのだろう、この冬妖怪は。
「責任」
「え?」
「責任、取って~」
唐突に、レティはそんなことを言い出した。
「何よ、それ」
「こんな季節に、起こした責任よ~」
頬を膨らませて、レティは言う。霊夢はやれやれと肩を竦めた。
「そんなこと言われもね」
「むぅ~」
唸ったまま、霊夢の手を離そうとしないレティ。さて、どうしたものか。
雨の中、どうも自分は妙なものを拾ってしまったらしい。
「――あ、そうだ。なら、うち来なさいよ」
「え?」
「最近ホント暑いから、涼しくしてよ。冬妖怪なんだから出来るでしょ?」
「え、で、でも~」
「ご飯ぐらいは出すわよ。――それでいい?」
「ふぇ……う、うん~」
しゃっくりをするように、レティは頷いた。
「よろしい。――ん、雨も上がったわね」
掴まれた手を引いて、霊夢は歩き出す。洞穴の入り口から、陽光が射し込んでいた。雲はいつの間にか風に流され、長閑な午後の晴天が頭上に広がる。
「じゃ、帰りましょ――レティ」
「あ……うんっ」
さて、これで少しはこの夏を快適に過ごせるといいのだけども。
後ろで何やら嬉しそうにしているレティを見やりながら、霊夢は蒼天を見上げた。
夏の空はどこまでも馬鹿みたいに透き通って、陽光を幻想郷に降り注いでいた。
レティさん可愛かったです。
でも、レティが可愛いです♪
れてぃさんかわいいよれてぃさん
これは球宴異変前の二人なのか…? 霊夢もレティも可愛くて困るw
異論なんざ知った事かです。
くろまくみこは我が正義なり
色々と。