小腹が空いた。
そうだ、そろそろお茶にしようか。社務所にある2番目の戸棚に、昨日買ったばかりの羊羹があるはず。
人里で一番美味しいと評判のお店から、わざわざ1時間近く並んでまで買ったものだ。折角だから美味しいお茶も一緒に淹れて、のんびり夕日でも眺めながら縁側で味わいましょうか。
縁側+美味しいお茶+美味しいお菓子、これが博麗流・素敵な午後を過ごす方程式。それに今日はすっきり晴れて暖かいから、環境条件も最高ね。素敵な時間が過ごせそう、そう考えただけで顔が緩んでしまう。
「お茶ー、お菓子ー、羊羹ー、最高ー♪」
思わず即席で作詞作曲をしてしまうぐらい、足取り軽く社務所に戻った。竹箒をその辺に立てかけ、手水鉢で簡単に手を洗い、それから古びた木の戸棚の左から数えて2番目の戸に左手をかけ、期待と空腹感を混ぜ合わせた感情と一緒に引き開けた。
ガラリ。
パシッ、と微かに空間の閉じる音。一瞬だけ目に映った白い指。そして、確かにそこにあったはずの羊羹は跡形もなく消え失せていた。
……状況から推測するに、犯人と思しき妖怪はただ一人。
「……紫」
「あらあら、博麗の巫女がこんな時間に何の用?」
背後の空間がぐにゃりと歪んで、例の胡散臭い笑みを湛えた妖怪が現れた。口の端にちょっと黒っぽいものがくっついている。……なんと言うか、そういうキャラじゃなかったでしょアンタ。どこぞの大食い亡霊嬢じゃあるまいし。
「食べたでしょ。羊羹。ばれてんのよ」
「あら、何の話かしら?」
「分かってるくせに」
「知らないわよ?」
ひらひら、手を振ってそ知らぬ顔。こうなったらいくら正攻法で問い詰めたって埒が明かないのは、経験上知っている。
でも、こういう時の紫にはちゃんと攻め方があることも、最近知った。
「ふうん。で、美味しかった?」
「ええ、とっても。……あ」
しまった、という表情。このシーンだけ見ればこれが幻想郷の賢者の会話とは思えないだろう。
確かに紫は数学や哲学に造詣が深いらしく、並の人間には(私もだが)到底読みこなせないような難しい本も何冊も執筆している。だが生身の紫を見ていると意外に単純で悪戯っぽいところもかなり多い、気がする。
異変のときに見せる威厳のある畏怖されて然るべき大妖怪の横顔と、賢者らしさを欠片も見せない今の態度。そのあまりにも大きすぎる落差を私は知っている。
……だから、憎めないのかもしれない。
「ったく。折角1時間も並んで買った羊羹だったのに……。それにわざわざ私の所から盗もうっていう心情が分からないわ。アンタん家に羊羹なぞいっくらでもあるでしょーが」
「だって霊夢の家の空気に触れている方が美味しいんだもの」
「意味が分からないわ」
「妖怪の考えることなんてそんなものよ」
目の前の妖怪はすっかり畳に寝転んでくつろぎはじめていた。れいむのトコの畳って気持ちいいのよねー、などと言ってゴロゴロ転がったりしている。
人の食べ物を盗み食いした挙句、開き直って被害者の神社でくつろげるその神経が理解できない。
けれども(それでこそ紫だ)と頭の片隅で思ってしまっている私もいる。あぁダメだダメだ、気をしっかり持て博麗霊夢。ヤツのペースに乗せられちゃイカン。
「とにかく。羊羹の弁償。でなけりゃ代わりにお賽銭」
「相変わらずねぇ霊夢は。ま、そんなところも大好きなんだけどねー」
端正な顔をにっこりと緩め、さらりと言いのける紫。不覚にも可愛さを覚えてドキリと胸が動くが、ダメだダメだ、これもいつものはぐらかし方。ダイスキ? イヤイヤイヤ。あぁ、どうしてだか顔が熱い。いやいや、乗せられちゃイカンイカン!
「れいむー。顔真っ赤よ?ふふふ、ちょっと刺激的なお言葉だったかしらぁ」
「五月蝿いっ。そんな、ご、ごまかされないわよっ。それより、羊羹返しなさいよ、よ・う・か・ん!」
「分かった分かったわ、ほっぺた真っ赤にして涙目でかつ上目遣いな可愛い可愛い霊夢ちゃんに頼まれたら、断れないわよねぇ」
「がーっ! んな顔してないっ!! もういいわ、からかいに来たんなら、帰れ馬鹿スキマ!!」
あああ、結局奴のペースだ。乗っけられてしまった。顔が熱い。恥ずかしい。穴があったら岩戸隠れしたい。すっかり素敵な午後のまったりお茶タイム(仮称)がぶち壊しだ。紫の馬鹿。早く帰れちくしょう。
でも、そんな私の心を無視するかのように、紫は次の句をつないだ。
「あらー。折角今ちょうどこの時きっかりに、羊羹取り出せたのに。でも帰れって言われちゃぁ仕方ないわ。残念ねぇ」
「ぐ、いや、そうよ。もう羊羹はいいから帰っ」
ぎゅるるるるるるる………
絶妙すぎるタイミングで私のお腹の虫が鳴いてくれよった。紫の手に握られているのは、他でもないあのお店の羊羹。
「ふふ、カラダは正直なのねぇ、霊夢は。上のお口も素直になればいいのに」
「うるさい、それと言い方スケベ」
「あら、そんなつもりは無かったのだけど。ほら、そんなムッとした顔なんて霊夢には似合わないわ、一緒に食べましょ」
「……やだ」
ふいと顔を横に向け、紫から視線を逸らした。
なんだか嫌だったのだ。紫に振り回されている自分が……? いや、素直になりきれない自分が。
羊羹を紫に食べられたことは半ばどうでもよくなっていた。むしろ、紫と一緒に食べられる切っ掛けが出来たと思えば嬉しいことですらある、とどこかで思っている自分がいた。
でもそれを認めたくない自分もいて、結局意地を張ってしまう。前もそうだ。そして今も。
本当は、紫のこと、嫌いじゃない……いや、好き。なのかもしれない。他の友人たちに抱く好意の感情とはまた違ったような「好き」……つまり、世間で言うところの恋愛感情というもの、なんだろう。たぶん。
でも、そう思ってしまうと紫の行動にいちいち心を揺さぶられてしまう。こっち見た、とか、笑ってる、とか、隣にいる、とか。そんな些細なことでいちいち浮き沈みする自分が自分じゃないみたいで嫌で、それを見透かされるのは恥ずかしいからもっと嫌で、だから、普段は自分の気持ちを押さえつけて、強気で振舞ってしまう。本当は、素直に、なりたいって、思っているのだけど、……
「霊夢? ……ごめんなさいね、からかい過ぎちゃったかしら。悪かったわ」
心配そうな紫の顔が、わたしの目に映る。ああ、そんな寂しそうな紫なんて見たくない。わたしが見たいのは、いつもの胡散臭いような、それでいてどこか魅力的な、そんな紫なのだ。
なのに。わたしのせいで……
「そっか。分かったわ、霊夢。こうすれば、いいんでしょ?」
「え? ちょ」
ぐいっと腕を引かれ、ふわりと体が浮く。と思えば、気味の悪い配色の中から無数の目がこちらを睨む空間……もとい、スキマの中に体があった。そして次の瞬間には、見慣れない和室に投げ出される。
30cmほどの浪漫飛行の後、わたしの体は畳、もとい地上に叩きつけられた。
「あ痛たたたた……ちょっと、紫?」
「スキマツアー・1名様ご案内いたしまーす、なんて。というか投げ出しちゃうなんていささか乱暴だったわね。御免なさい。いらっしゃい霊夢、ここは八雲屋敷の応接間よ」
「へ、はあ? 何のつもりなのよ」
「ほら、私はちゃんと『帰った』じゃない。これなら文句無いでしょう、ね?」
だから、一緒に羊羹食べましょ。紫はそう言って目の前にあるちゃぶ台を指差した。
そこには、ご丁寧に切り分けられた羊羹と、湯気を立ち上らせる湯飲みが二つ。自信をたっぷりと携えて、にっこりと紫は微笑んでいる。
……確かにわたしはさっき、紫に「帰れ」と言った。それは、……つまり、その。
「ヘリクツ」
「何とでも言いなさいな。お腹が空いてるんでしょう? 我慢はよくないわよ、お食べなさい。それに、さっきは悪かったわ」
すまなさそうに謝る紫を見て、つまんない意地を張るのはやめよう、そう考え直した。それに、そろそろお腹と背中がくっつきそうだった。そんな状況下で食べ物を見せられて、断れるほどわたしの精神は強くない。
湯飲みのお茶を一口すすった。暖かい。羊羹をひとつつまんで口に入れた。しつこ過ぎない甘みと、程よい弾力、豊かな漉し餡の香りが三位一体となって口中で踊る。
美味しい。そうとしか言いようがない。深い感動を覚えたとき、人間は単純な言葉でしか物事を表せなくなるのかもなぁ、としみじみ感じてしまうほど美味しかった。
「どう、美味しい?」
「うん、とっても」
「そう、良かった。あぁあ、美味しいもの食べるって幸せねー」
自らも羊羹を口に運びながら、紫はそんな言葉を漏らした。ぐいっと伸びをして、あああー、などと間抜けな声を出しているところを見ると、十代の人間の女の子とそう変わりがないような気がしてしまう。
大勢でいる時はアクが強い(でもとっても格好良い)古参妖怪にしか見えないのに。でも、そんな落差を見るたびに(私の前だと気を許してくれているのかな)と少し嬉しくなったりする。
まあ、わたしの中の勝手な妄想に過ぎないのだろうけど……
「でもねー、霊夢」
不意に紫がわたしとまっすぐ目を合わせて来た。
何よりも澄んだ、紫色の瞳がわたしの目を射る。
「大好きな霊夢と一緒だから、もっともっと幸せよ」
わたしの心の一番やわっこい場所が、ぼわあと音を立てて爆ぜた。
「……っ、ちょ、何言ってんのよ」
「真実よ」
「そんな、紫、からかうつもりなら、やめてよ。それに、私たち、女同士でしょ?」
紫から距離を置こうとする言葉が、意図せずとも勝手に口から飛び出してしまう。
隔絶された幻想郷と言えども、外の世界の常識が通用することもある。幻想郷でも男と女が結びつかなければ、少なくとも人間は滅びてしまう。
つまり、女が女に惹かれるのは「異常」と認識されるのが普通なのだ。下手に本気で好きだと伝えれば、今の関係が壊れてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。
私が紫に対して素直になれないのは、その問題もあった。
しかし、それは人間だけの常識なのかもしれない。
「それでもいいじゃない。好きなんだから。からかってなんかいないわ。霊夢がどう、思っているかは判らないけれど。
とにかく、私は真剣に、霊夢のことが大好きなのよ」
「ゆ、かり……?」
夢なんじゃないか。右腕をつねった。普通に痛かった。
「夢じゃないわ、現実よ。霊夢。私の事、嫌いになった?」
「そんなこと、ない」
「良かった……嬉しいわ、霊夢」
いつの間にか紫が隣に座っていて、そっと抱き寄せられた。
紫の体温がほんのり伝わってきて、心音がはっきりと聞こえた。幸せすぎて何も考えられない。柔らかくて暖かくて優しい、そんな春の光に包み込まれたような感覚。
「っ……えっぐ、ひっく、紫、ゆかりぃ」
気がつくと、わたしは泣いていた。
幸せと不安から解放された喜びとがぐしゃぐしゃに絡み合って、涙が搾り出されていた。紫の胸にすがりついて莫迦みたいに泣きじゃくった。
紫は、しっかりとわたしを抱きしめて、それを肯定してくれる。
「ずる、だいすき……ゆかり。大好き、えぐっ」
「ふふ、やっと言ってくれたわね……素直じゃないんだから」
「だって、だってぇ……普通じゃ、ないから……こわ、怖かった、嫌われる、っぐ、事が」
「常識の境界なんて頼りないものよ。大丈夫、私が境界を操ってしまえばいい」
ゆっくり、ゆっくり、紫の指が髪を梳いてくれていた。わたしの髪はお世辞にもあまりサラサラとは言えないが、紫の指は絡みついた髪をほぐすよう丁寧に流れていく。
無言だった。ただひたすら、髪が指から零れ落ちる音だけが聞こえた。
時折頭皮に触れる指先がなんとも心地よくて、いつの間にかわたしは泣くことを忘れて紫に身を任せていた。
「落ち着いた?霊夢」
「うん……お陰様で」
「良かった。じゃあ、残りの羊羹も食べちゃいましょうか」
そう言って紫は、羊羹一切れに爪楊枝を突き刺した。そのまま自分の口に……と思ったら、それは緩い弧を描いて私の口の前に差し出された。
「はい、あーんして」
「え……あ、あーん」
ぎこちなく受け取った羊羹は、この上なく甘かった。さっきなんかとは比べ物にならない。
同じ食べ物のはずなのに、こんなに違ってくるものなのか。かの風祝ではないけれど、「恋とはまさにミラクルフルーツ。」
この感情を紫にも味わって欲しくて、おかえし、とばかりに私も羊羹を取り上げて紫の口へ運んだ。
「お返し。紫、あーん」
「ふふ、あーん」
そんな色々と甘いやりとりが、羊羹がすっかり無くなってしまうまで続いた。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした」
食べ終わってもなんだか離れがたくて、わたしと紫はずっと体をくっつけたまま座っていた。
おずおずと手をつないで、ちょっと指を絡ませて遊んでみたりして。
何かを喋るわけでもなく、ひたすら体温を感じ続ける。時々、目線を交わして微笑みあう、ただそれだけ。でも、それでわたしは満足だった。あえてそれ以上を踏み出す必要性も無いように思えた。
夜の帳が落ちきり、紫の式に真っ赤な顔で「済みませんが、今からここ掃除しますんで……」と言われるまで、わたし達はずっとそのままだった。
《後日談・紫の日記 ~ 一部抜粋》
第△△△季 ○月×日
……こうしてあの日は、私と霊夢にとっては特別な一日となった。
何が特別なのかは……書かないでも判るわね。
いつだったか彼女は私の事を「素直に好意を表せて羨ましい」と表現したけれど、私だって正攻法で攻めていたわけじゃないわ。
どうにかして彼女と接する切っ掛けを掴みたくて、だから慣れない泥棒の真似事などをやってみただけだったなのよね。
今思うと拙過ぎる技だわ。でも、それで今の状態に成れたのだから良しとしましょうか。……
そうだ、そろそろお茶にしようか。社務所にある2番目の戸棚に、昨日買ったばかりの羊羹があるはず。
人里で一番美味しいと評判のお店から、わざわざ1時間近く並んでまで買ったものだ。折角だから美味しいお茶も一緒に淹れて、のんびり夕日でも眺めながら縁側で味わいましょうか。
縁側+美味しいお茶+美味しいお菓子、これが博麗流・素敵な午後を過ごす方程式。それに今日はすっきり晴れて暖かいから、環境条件も最高ね。素敵な時間が過ごせそう、そう考えただけで顔が緩んでしまう。
「お茶ー、お菓子ー、羊羹ー、最高ー♪」
思わず即席で作詞作曲をしてしまうぐらい、足取り軽く社務所に戻った。竹箒をその辺に立てかけ、手水鉢で簡単に手を洗い、それから古びた木の戸棚の左から数えて2番目の戸に左手をかけ、期待と空腹感を混ぜ合わせた感情と一緒に引き開けた。
ガラリ。
パシッ、と微かに空間の閉じる音。一瞬だけ目に映った白い指。そして、確かにそこにあったはずの羊羹は跡形もなく消え失せていた。
……状況から推測するに、犯人と思しき妖怪はただ一人。
「……紫」
「あらあら、博麗の巫女がこんな時間に何の用?」
背後の空間がぐにゃりと歪んで、例の胡散臭い笑みを湛えた妖怪が現れた。口の端にちょっと黒っぽいものがくっついている。……なんと言うか、そういうキャラじゃなかったでしょアンタ。どこぞの大食い亡霊嬢じゃあるまいし。
「食べたでしょ。羊羹。ばれてんのよ」
「あら、何の話かしら?」
「分かってるくせに」
「知らないわよ?」
ひらひら、手を振ってそ知らぬ顔。こうなったらいくら正攻法で問い詰めたって埒が明かないのは、経験上知っている。
でも、こういう時の紫にはちゃんと攻め方があることも、最近知った。
「ふうん。で、美味しかった?」
「ええ、とっても。……あ」
しまった、という表情。このシーンだけ見ればこれが幻想郷の賢者の会話とは思えないだろう。
確かに紫は数学や哲学に造詣が深いらしく、並の人間には(私もだが)到底読みこなせないような難しい本も何冊も執筆している。だが生身の紫を見ていると意外に単純で悪戯っぽいところもかなり多い、気がする。
異変のときに見せる威厳のある畏怖されて然るべき大妖怪の横顔と、賢者らしさを欠片も見せない今の態度。そのあまりにも大きすぎる落差を私は知っている。
……だから、憎めないのかもしれない。
「ったく。折角1時間も並んで買った羊羹だったのに……。それにわざわざ私の所から盗もうっていう心情が分からないわ。アンタん家に羊羹なぞいっくらでもあるでしょーが」
「だって霊夢の家の空気に触れている方が美味しいんだもの」
「意味が分からないわ」
「妖怪の考えることなんてそんなものよ」
目の前の妖怪はすっかり畳に寝転んでくつろぎはじめていた。れいむのトコの畳って気持ちいいのよねー、などと言ってゴロゴロ転がったりしている。
人の食べ物を盗み食いした挙句、開き直って被害者の神社でくつろげるその神経が理解できない。
けれども(それでこそ紫だ)と頭の片隅で思ってしまっている私もいる。あぁダメだダメだ、気をしっかり持て博麗霊夢。ヤツのペースに乗せられちゃイカン。
「とにかく。羊羹の弁償。でなけりゃ代わりにお賽銭」
「相変わらずねぇ霊夢は。ま、そんなところも大好きなんだけどねー」
端正な顔をにっこりと緩め、さらりと言いのける紫。不覚にも可愛さを覚えてドキリと胸が動くが、ダメだダメだ、これもいつものはぐらかし方。ダイスキ? イヤイヤイヤ。あぁ、どうしてだか顔が熱い。いやいや、乗せられちゃイカンイカン!
「れいむー。顔真っ赤よ?ふふふ、ちょっと刺激的なお言葉だったかしらぁ」
「五月蝿いっ。そんな、ご、ごまかされないわよっ。それより、羊羹返しなさいよ、よ・う・か・ん!」
「分かった分かったわ、ほっぺた真っ赤にして涙目でかつ上目遣いな可愛い可愛い霊夢ちゃんに頼まれたら、断れないわよねぇ」
「がーっ! んな顔してないっ!! もういいわ、からかいに来たんなら、帰れ馬鹿スキマ!!」
あああ、結局奴のペースだ。乗っけられてしまった。顔が熱い。恥ずかしい。穴があったら岩戸隠れしたい。すっかり素敵な午後のまったりお茶タイム(仮称)がぶち壊しだ。紫の馬鹿。早く帰れちくしょう。
でも、そんな私の心を無視するかのように、紫は次の句をつないだ。
「あらー。折角今ちょうどこの時きっかりに、羊羹取り出せたのに。でも帰れって言われちゃぁ仕方ないわ。残念ねぇ」
「ぐ、いや、そうよ。もう羊羹はいいから帰っ」
ぎゅるるるるるるる………
絶妙すぎるタイミングで私のお腹の虫が鳴いてくれよった。紫の手に握られているのは、他でもないあのお店の羊羹。
「ふふ、カラダは正直なのねぇ、霊夢は。上のお口も素直になればいいのに」
「うるさい、それと言い方スケベ」
「あら、そんなつもりは無かったのだけど。ほら、そんなムッとした顔なんて霊夢には似合わないわ、一緒に食べましょ」
「……やだ」
ふいと顔を横に向け、紫から視線を逸らした。
なんだか嫌だったのだ。紫に振り回されている自分が……? いや、素直になりきれない自分が。
羊羹を紫に食べられたことは半ばどうでもよくなっていた。むしろ、紫と一緒に食べられる切っ掛けが出来たと思えば嬉しいことですらある、とどこかで思っている自分がいた。
でもそれを認めたくない自分もいて、結局意地を張ってしまう。前もそうだ。そして今も。
本当は、紫のこと、嫌いじゃない……いや、好き。なのかもしれない。他の友人たちに抱く好意の感情とはまた違ったような「好き」……つまり、世間で言うところの恋愛感情というもの、なんだろう。たぶん。
でも、そう思ってしまうと紫の行動にいちいち心を揺さぶられてしまう。こっち見た、とか、笑ってる、とか、隣にいる、とか。そんな些細なことでいちいち浮き沈みする自分が自分じゃないみたいで嫌で、それを見透かされるのは恥ずかしいからもっと嫌で、だから、普段は自分の気持ちを押さえつけて、強気で振舞ってしまう。本当は、素直に、なりたいって、思っているのだけど、……
「霊夢? ……ごめんなさいね、からかい過ぎちゃったかしら。悪かったわ」
心配そうな紫の顔が、わたしの目に映る。ああ、そんな寂しそうな紫なんて見たくない。わたしが見たいのは、いつもの胡散臭いような、それでいてどこか魅力的な、そんな紫なのだ。
なのに。わたしのせいで……
「そっか。分かったわ、霊夢。こうすれば、いいんでしょ?」
「え? ちょ」
ぐいっと腕を引かれ、ふわりと体が浮く。と思えば、気味の悪い配色の中から無数の目がこちらを睨む空間……もとい、スキマの中に体があった。そして次の瞬間には、見慣れない和室に投げ出される。
30cmほどの浪漫飛行の後、わたしの体は畳、もとい地上に叩きつけられた。
「あ痛たたたた……ちょっと、紫?」
「スキマツアー・1名様ご案内いたしまーす、なんて。というか投げ出しちゃうなんていささか乱暴だったわね。御免なさい。いらっしゃい霊夢、ここは八雲屋敷の応接間よ」
「へ、はあ? 何のつもりなのよ」
「ほら、私はちゃんと『帰った』じゃない。これなら文句無いでしょう、ね?」
だから、一緒に羊羹食べましょ。紫はそう言って目の前にあるちゃぶ台を指差した。
そこには、ご丁寧に切り分けられた羊羹と、湯気を立ち上らせる湯飲みが二つ。自信をたっぷりと携えて、にっこりと紫は微笑んでいる。
……確かにわたしはさっき、紫に「帰れ」と言った。それは、……つまり、その。
「ヘリクツ」
「何とでも言いなさいな。お腹が空いてるんでしょう? 我慢はよくないわよ、お食べなさい。それに、さっきは悪かったわ」
すまなさそうに謝る紫を見て、つまんない意地を張るのはやめよう、そう考え直した。それに、そろそろお腹と背中がくっつきそうだった。そんな状況下で食べ物を見せられて、断れるほどわたしの精神は強くない。
湯飲みのお茶を一口すすった。暖かい。羊羹をひとつつまんで口に入れた。しつこ過ぎない甘みと、程よい弾力、豊かな漉し餡の香りが三位一体となって口中で踊る。
美味しい。そうとしか言いようがない。深い感動を覚えたとき、人間は単純な言葉でしか物事を表せなくなるのかもなぁ、としみじみ感じてしまうほど美味しかった。
「どう、美味しい?」
「うん、とっても」
「そう、良かった。あぁあ、美味しいもの食べるって幸せねー」
自らも羊羹を口に運びながら、紫はそんな言葉を漏らした。ぐいっと伸びをして、あああー、などと間抜けな声を出しているところを見ると、十代の人間の女の子とそう変わりがないような気がしてしまう。
大勢でいる時はアクが強い(でもとっても格好良い)古参妖怪にしか見えないのに。でも、そんな落差を見るたびに(私の前だと気を許してくれているのかな)と少し嬉しくなったりする。
まあ、わたしの中の勝手な妄想に過ぎないのだろうけど……
「でもねー、霊夢」
不意に紫がわたしとまっすぐ目を合わせて来た。
何よりも澄んだ、紫色の瞳がわたしの目を射る。
「大好きな霊夢と一緒だから、もっともっと幸せよ」
わたしの心の一番やわっこい場所が、ぼわあと音を立てて爆ぜた。
「……っ、ちょ、何言ってんのよ」
「真実よ」
「そんな、紫、からかうつもりなら、やめてよ。それに、私たち、女同士でしょ?」
紫から距離を置こうとする言葉が、意図せずとも勝手に口から飛び出してしまう。
隔絶された幻想郷と言えども、外の世界の常識が通用することもある。幻想郷でも男と女が結びつかなければ、少なくとも人間は滅びてしまう。
つまり、女が女に惹かれるのは「異常」と認識されるのが普通なのだ。下手に本気で好きだと伝えれば、今の関係が壊れてしまうかもしれない。それだけは絶対に避けたかった。
私が紫に対して素直になれないのは、その問題もあった。
しかし、それは人間だけの常識なのかもしれない。
「それでもいいじゃない。好きなんだから。からかってなんかいないわ。霊夢がどう、思っているかは判らないけれど。
とにかく、私は真剣に、霊夢のことが大好きなのよ」
「ゆ、かり……?」
夢なんじゃないか。右腕をつねった。普通に痛かった。
「夢じゃないわ、現実よ。霊夢。私の事、嫌いになった?」
「そんなこと、ない」
「良かった……嬉しいわ、霊夢」
いつの間にか紫が隣に座っていて、そっと抱き寄せられた。
紫の体温がほんのり伝わってきて、心音がはっきりと聞こえた。幸せすぎて何も考えられない。柔らかくて暖かくて優しい、そんな春の光に包み込まれたような感覚。
「っ……えっぐ、ひっく、紫、ゆかりぃ」
気がつくと、わたしは泣いていた。
幸せと不安から解放された喜びとがぐしゃぐしゃに絡み合って、涙が搾り出されていた。紫の胸にすがりついて莫迦みたいに泣きじゃくった。
紫は、しっかりとわたしを抱きしめて、それを肯定してくれる。
「ずる、だいすき……ゆかり。大好き、えぐっ」
「ふふ、やっと言ってくれたわね……素直じゃないんだから」
「だって、だってぇ……普通じゃ、ないから……こわ、怖かった、嫌われる、っぐ、事が」
「常識の境界なんて頼りないものよ。大丈夫、私が境界を操ってしまえばいい」
ゆっくり、ゆっくり、紫の指が髪を梳いてくれていた。わたしの髪はお世辞にもあまりサラサラとは言えないが、紫の指は絡みついた髪をほぐすよう丁寧に流れていく。
無言だった。ただひたすら、髪が指から零れ落ちる音だけが聞こえた。
時折頭皮に触れる指先がなんとも心地よくて、いつの間にかわたしは泣くことを忘れて紫に身を任せていた。
「落ち着いた?霊夢」
「うん……お陰様で」
「良かった。じゃあ、残りの羊羹も食べちゃいましょうか」
そう言って紫は、羊羹一切れに爪楊枝を突き刺した。そのまま自分の口に……と思ったら、それは緩い弧を描いて私の口の前に差し出された。
「はい、あーんして」
「え……あ、あーん」
ぎこちなく受け取った羊羹は、この上なく甘かった。さっきなんかとは比べ物にならない。
同じ食べ物のはずなのに、こんなに違ってくるものなのか。かの風祝ではないけれど、「恋とはまさにミラクルフルーツ。」
この感情を紫にも味わって欲しくて、おかえし、とばかりに私も羊羹を取り上げて紫の口へ運んだ。
「お返し。紫、あーん」
「ふふ、あーん」
そんな色々と甘いやりとりが、羊羹がすっかり無くなってしまうまで続いた。
「ご馳走様」
「お粗末さまでした」
食べ終わってもなんだか離れがたくて、わたしと紫はずっと体をくっつけたまま座っていた。
おずおずと手をつないで、ちょっと指を絡ませて遊んでみたりして。
何かを喋るわけでもなく、ひたすら体温を感じ続ける。時々、目線を交わして微笑みあう、ただそれだけ。でも、それでわたしは満足だった。あえてそれ以上を踏み出す必要性も無いように思えた。
夜の帳が落ちきり、紫の式に真っ赤な顔で「済みませんが、今からここ掃除しますんで……」と言われるまで、わたし達はずっとそのままだった。
《後日談・紫の日記 ~ 一部抜粋》
第△△△季 ○月×日
……こうしてあの日は、私と霊夢にとっては特別な一日となった。
何が特別なのかは……書かないでも判るわね。
いつだったか彼女は私の事を「素直に好意を表せて羨ましい」と表現したけれど、私だって正攻法で攻めていたわけじゃないわ。
どうにかして彼女と接する切っ掛けを掴みたくて、だから慣れない泥棒の真似事などをやってみただけだったなのよね。
今思うと拙過ぎる技だわ。でも、それで今の状態に成れたのだから良しとしましょうか。……