月の輝きに満ちた夜だった。青い光が風の爽やかに吹き抜ける竹林の上にしずしずと降り注いで、この上なく清浄な印象をわたしに与えた。穢れのない、氷の張った泉のように澄み切ったその光景から、ずぅっと前に逃げだした月の都を思い出して、わたしはなんとなく懐かしい気持ちになった。その懐かしさにはちょっぴり悲しみが混じっていて、喉の奥にくぅと何かが詰まったような気がしたけれど、唾をのみ込んだら消えてしまう、一瞬の幻覚だった。
わたしは縁側の下にだらりと垂らしていた脚をまげて、両腕でそれを抱え込んだ。体育座りというやつだ。顔を少し前に傾けて両の膝の間に埋めると、視界から空が消えて竹林の前にそびえたつ永遠亭の壁しか見えなくなった。それでも月の光は変わらずに降り注いで、その淡くて脆い彩色が眠気を誘った。そのままころんと横に転がって、眠ってしまいたい気分だった。どこかから花の匂いがする。もうそろそろ、春だ。
自分が月に戻りたがっているのか、きっぱり言ってしまえばそれはノーだけれど、それでもやっぱりこうして眺めてみると、ちょっとだけなら帰ってもいいかな、なあんていう気分にさせるのだから危ないことこの上ない。
だって今日は満月だ。月の住人たちは、満月の日に地上と月を行き来する。つまり、地上から月への道が出来上がる。その魔力も最大限に高まる。こんな日なのだから、月兎であるところのわたしが、肉体か精神のどっちかに影響を及ぼされるのは当たり前。そして今、見事にわたしは憂鬱な気分に浸っているのだった。
「月に帰りたいなぁ……」
と、危険な一言を呟いてみて、すぐに「ないない」と呟いて否定した。心にもないことを言ってみて、気をまぎらわせようとしたのだけれど、それが心にもあることになってしまいそうで怖かった。耳がしょぼんと垂れ下がっているのを見ると、どうしてか視界が滲んできた。その理由がちっともわからず途方に暮れて、ふぅと溜息をついて落ち付くことにした。膝に目をこすりつけるとそこが少しだけ濡れた。喉がまた、何かが詰まるように痛くなった。
「イナバ?」
ふと後ろから声がかかって、わたしは慌てて脚を伸ばし、両の目をブレザーの袖でごしごしとぬぐった。でも完全に涙の跡をこそぎおとす前に、姫様がわたしの隣に座りこんだ。
「どうかしたの?」
「な、なんでも、ない、です」
しまった、とわたしは思った。まだ喉の痛みがとれてなくて、声がうまく出せなかったのだ。
姫様はいつものように合わせた両の袖で口元を隠し、悪戯っぽい笑みを目の中に浮かべていた。
「嘘つき兎じゃないんだから、そんな風にごまかしてもすぐにばれちゃうわよ」
「う…………」
「まぁいいわ。どうしても悲しくなるときってあるものねぇ」
姫様も同じようにふうわりした着物で包まれた両脚を下に垂らして、ゆっくりと月を見上げた。両手が膝の上に置かれたので、少し高慢ちきな笑みを浮かべた口元があらわになる。わたしは姫様の顔をぼんやりと眺めていた。その気品と美しさ、そして気高い自信に満ち溢れたお顔を見ると、姫様が月を見下しているような――そんな風な印象を受ける。そのことが、わたしをとても安心させた。このお方の傍にいれば、月の魔力にも負けることはないと、そう思った。
「私より偉そうにしてる奴を見るとね、腹が立ってくるの」
わたしの視線に気づいたのか、姫様はこっちに顔を向けて、唇をくいと歪めて不敵な笑いを浮かべてみせた。
「……姫様より偉い奴なんて、いませんよ」
わたしは唾を飲み込んでそう言った。今度は声も震えず、喉の痛みもいつの間にか消えていた。
「あらあら、嬉しいわ」
今度はにこやかに姫様が笑う。
「ところで、今日もあの嘘つき兎はいないのかしら?」
「ええ、はい。また妹紅と飲んでるみたいです。やっぱりウマが合うみたいで」
「まったく、貴女が寂しがってえぐえぐ泣いてるっていうのに、薄情な兎だわ」
「うぅ……確かに、泣いてましたけど、泣いてましたけどぉ!」
「あらら、どうしたの?」
「そんな風に言うことないじゃないですか……」
わたしは顔を俯けた。やっぱり、泣いているところを見られたのが恥ずかしかった。姫様にそれをからかわれたことは、実はちっとも不快じゃなかったけれど、その恥ずかしさが先に立って、ついつい言ってしまったのだ。
頑なに顔を下げたままでいると、衣ずりの音がして、姫様が立ち上がるのがわかった。まさか怒ってしまったのか、と一瞬不安になった。でも姫様はその場を離れず、わたしの後ろに回りこんだだけだった。
「あの、姫さ――」
ふわりと一瞬風が吹いて、わたしの髪をふくらませた。柔らかくて暖かい布の感触があって、気がつくとわたしは姫様に後ろから抱かれていた。
「え、えーと、その」
頭が混乱して、顔が熱く火照った。姫様の薄い胸と、もたりとした袖に覆われた腕がすっかりわたしを抱え込んで、まったく身動きとれない状況だった。
「…………姫様?」
「忘れてしまったのかしらね」
姫様が私の肩に喉を押しつけるようにして顔を出すと、優しい声音で柔らかく言った。
「貴女は今は私のペットなのよ。その耳のてっぺんから足の指の先まで私のものなの。それなのに、月を見て昔のご主人様を懐かしがるなんて許さない。貴女が寂しがっていいのはね、この私か、永琳か、イナバか、それともこの永遠亭を思い出した時だけ。貴女がこのお屋敷を出るなんてことはないでしょうから、つまり寂しがるなんて感情は許されていないのよ。わかった? これは命令よ」
考えようによっては、物凄く傲慢なことではある――だって、どう感じるかは人の自由なはずなのに、その感情すらも許さないというのだから――けれど、わたしは全然怒りを覚えなかった。むしろ、骨の髄まで暖められるような安堵が、わたしに深く息を吐き出させた。
「……はい、わかりました」
「それならいいわ」
姫様の右手がすっと上げられ、わたしの頭を撫でる。まるで幼い子供をあやすみたいに。ふわりと、昔嗅いだことのある匂いが鼻腔を満たした。この匂い、どこで嗅いだんだっけ。もう少しで思い出せそうだけれど、記憶の蓋の端っこに引っ掛かって、すんなりとわきあがってはこなかった。
「最近、どうかしら?」
姫様がわたしを撫でたまま、月を見上げて言った。
「なにがですか?」
「永琳とか、イナバの様子」
「あぁ、えぇ、いつもどおりです。お師匠様は相変わらず研究で忙しいし、てゐは相変わらず嘘ばっかりですし」
「まったく、いつもと同じだと面白味がないわよねぇ。なんだかこう、たまにはあっと驚くようなことが起きてくれないものかしら」
「驚くこと……ですか。たとえばどんなことですか?」
「そうねぇ、空からもう一匹兎が落ちてくるとか、月が誰かに攻め込まれるとか、なんでもいいわ」
「姫様……もしかしてそれ、わたしがここに来る前にもお師匠様とかてゐとかに言いませんでした?」
「あら、なんでわかったの?」
姫様は不思議そうに頭を傾けた。わたしはそれを横目で見て、姫様は可愛らしいな、と思った。
「兎の勘です」
「へぇ、そんなものがあるの?」
「えぇ、あるんですよ。ものすごい気まぐれにしか当たりませんけど」
「ふぅん。なんだか嘘くさいわね」
「嘘ですから」
「あら、生意気な」
嘘をつくのはこの口か、とでも言うように、姫様は袖でわたしの口元を覆い隠した。その時、またあの懐かしい匂いを嗅いで、その正体がなんなのか、ようやく思い出した。
月の都の匂いなのだ。
甘くかぐわしい桃の芳香と、雅な雰囲気の醸し出す、古色蒼然たる月の宮殿。
そのことに気づいたとき、また目の奥が熱くなった。
「……姫様」
「なに?」
「ごめんなさい、命令守れないです」
わたしの顔を見ても、姫様はなにも言わなかった。その代わり、口元を覆っていた袖が下げられて、また両腕でわたしを抱きしめた。さっきよりも強い抱きしめ方だった。
命令は守れない。
だって、どうしても思い出しちゃうから。
鼻の先がツンとなって、また喉元になにかが詰まるのを感じた。
視界はぼやけるにまかせたまま、涙は流れるにまかせたまま。
わたしと姫様はしばらくその場でじっとしていた。
そのうちどちらからともなく眠りこんでいたらしく、目が覚めた時には床に寝転がっていて、体があちこち痛かったけれど。
姫様と手はつないだままだった。
しっかりと。
良いお話を有難う!!!
鈴仙の死亡フラグ立ちました
しっとりとしていながら可愛い二人です。氏のこの組み合わせが大好き。
姫様株が急上昇です。ごちそうさまでした。
これは俺のイメージそのまんまだな。
優しい良い話でした。
見せてる輝夜が素敵でたまりません
私も故郷のことを思い出して、ちょっぴり悲しい気持ちになりました。
良いお話をありがとうございました。
『あなたは私のもの』と
言うような言葉をいただいたら、
やっぱり、嬉しくなるものですね。
姫様、いい人だ。