昼寝をしていたてゐが眼を覚ました。
竹林の隠れ家である。
(誰か、落ちたな)
右手の方で、からからと鳴子が音を立てていた。周囲に巡らせた落とし穴がどれか働いたらしい。
てゐは素早く起き上がり、にたりと笑った。
「どんな阿呆だろう。もしや、月の賢いお方がこんな罠にかかる! なーんてことは、いやはや、まさかねえ!」
大声で呟きながら、穴を覗きこんだ。
「悪いね。こんなアホで」
こいしが落ちていた。
てゐは呆然とした。
「ひどいじゃない。これ、あなたが仕掛けたの?」
てゐは確かに覚えていた。
(あれは明治の……)
製菓ではない。
「兎の妖怪さん。手を貸してもくれないの?」
「今、助けるさ」
こいしの伸ばした手を、しっかりと掴み取った。
少し古い話になる。
時は明治となり、世は乱れていた。
戦争などは、
「知らないよ」
といった顔をして、てゐは山奥の秘湯にふやけていた。
人の世はすでに、妖怪然とした姿では全く暮らせなくなっている。それでも一部の妖怪は、人に紛れて俗な生活を楽しんでいた。
てゐもその一人になる。だが、
「白けた時代だよ」
などと時折ぼやいては、耳と尻尾を伸ばしに山へ入るようになった。
ぱたりと、長い耳を地面に垂れた。
(来る。人か何かだ)
足音が聞こえた。
てゐは湯を抜け、木陰に身を隠した。
(おかしいなあ?)
辺りに仕掛けた罠は、全てかわされたらしい。
足音が、最後の落とし穴まで一歩の位置に来た。
「そこで落ちろ、ですって?」
声がして、足音が止んだ。
「あーあ。最初に見つけた地上の妖怪が、こんなにもケチな心をした奴とはね」
姿は見えない。
(石だ。私は石くれ。石になれ……)
てゐは無心に努めた。
声の主は実につまらなさげに言った。
「ふ、ん……近くにいれば殺してしまいそう。さよなら! 私はね、せっかく外に出たんだから、ステキな人を見つけて楽しいひと時を過ごすのよ」
足音は遠ざかった。
しばらくして、
「さとり……だったかな?」
心を読むという妖怪の名を思い出していた。
(まあいいや。ごくらく、ごくらく)
呟きは泡と消えた。
後日。
「まいど。最後の新聞です」
てゐは自宅で、それを見た。
「家出……心を読む妖怪、こいし? ふうん」
「面白い記事でもありましたか?」
新聞の配達員が、わずかに嬉しそうにした。
「たずね妖怪。見つけたら小判、十枚だってさ」
「へえ。どこの誰です?」
「地獄にいるはずの古明地こいしが、家出したと……自分の新聞だろ?」
「そうですね」
配達員は苦笑した。
見れば、新聞の日付は半月も前だった。
古くから、妖怪の間には独自の連絡網がある。配達員は、
「皆さんに知らせを届けることが、私の生き方でした」
と言った。
てゐは嘆息した。
「聞き飽きたよ」
配達員は、嬉しそうに笑った。
「昔は、この口が、この舌が、記事でした」
「唄うようだったね」
「それから、木版は楽しかった。紙も良かった。記事を一枚ずつ配れるようになったせいで、重くて痺れて……」
「秋にはそれで芋を焼いたよ」
「それがですよ。文明ってやつは、こんなにも速く、軽くって……ふふ。便利になりましたね」
持ってきた新聞紙をつまみ上げ、からからと笑った。
しばらくして、
「さて。時が過ぎたようです」
外に出ると、冷たい風が吹いていた。
「幸運を祈るよ」
「お達者で。ふふ、最後の新聞も届け仰せたことですし、幻想の郷へでも行きますかあ」
配達員は立ち去った。
てゐは表戸を開け、中へ戻った。
(妹さんだったか)
てゐは山奥での一件を思い出していた。
無理な開発が進み、どこの山も深く削られている。大方、何かの拍子に地獄を掘り当てでもしたのであろう。
「十両あれば、ちょいと遊べるね」
にたりと笑った。
大急ぎで山へ行き、手下の兎を集めて言った。
「捜せ。そう遠くじゃない。人も妖も行きそうにない場所で、膝でも抱えているはずさ!」
担いできた人参の束を一本ずつ砕き、ばらまいていった。
人知れず、兎たちの狂宴が始まった。
てゐが見た時、こいしは墓地でくたびれていた。
(阿呆な奴さ)
てゐは渋い顔をした。
こいしの心眼……心を視る目には、斬り裂いたような傷が大きくはしり、半身が血の跡に汚れていた。
(あれでは視えまい。まあいい。いや、都合がいいね。策を練らないと)
てゐは、人の姿で近付くことにした。
がらんとした墓地に、二匹の妖怪がいる。少女のようなてゐが日傘を差して歩き、こいしへと近付いていった。
「どいてくれる?」
てゐが声をかけた。
墓石に腰かけていたこいしが、ぬったりと動いた。
かちゃ……かちゃ……と、てゐはその墓石に水をかけ、拭き清めた。
(うねざき某の墓? 良いね)
線香を焚き、黙祷した。
その様子を、傷だらけのこいしが、黒い帽子の下から無言で見つめていた。
「どうしたの?」
てゐが見返すと、こいしは帽子を深くした。
(やはり、だいぶ傷付いてるね)
見てくれは、歳の近い少女二人であった。
「あなた、ひとりなの?」
「……」
「私も先日、一人きりになったところさ」
てゐは墓前に花を供えると立ち上がり、日傘を傾けて、こいしを陰に入れた。
「帰る家があるなら、早くお帰り」
「ない」
ぽつりと言った。
てゐは沈黙し、こいしが喋るのを待った。しかし、唇をきつく結んで震えているばかりだった。
(太公望、太公望)
すう……と日傘を引いてゆくと、こいしは、すがるような目をした。そして、
「私は、妖怪だもの」
消え入るような声音だった。
「それで?」
「だから、この眼が視えれば、どうせあなたも……」
汚れた腕で両目をこすり、帽子をさらに深くした。
てゐは何も言わず、ぐいっ、と日傘を押し付けた。
不思議そうに見上げたこいしの顔を、てゐは取り出した手巾を使い、優しく拭ってやった。
「兎のように赤い目をしちゃって」
すると、何かが触れたのであろう……。
こいしは声を殺して泣き始めた。手巾が濡れて使えなくなると、てゐにしがみついて静かに泣き暮れた。
ようやく落ち着いたこいしを、てゐはそっと胸から引きはがした。
「うちに来る?」
「うん」
「私の名は、たゑ。宇根崎たゑ」
てゐが偽名を言うと、こいしは嬉しそうにして言った。
「私は古明地こいし」
こいしの手を握れば、しっかりと握り返してきた。
これが二匹の出会いだった。
(よし。抜かりはない)
古参の手下の中には、妖怪と化した兎もいる。心得たもので、てゐが帰り着いた時には、因幡てゐ、と知れるようなものは全て片付けられていた。
ところで。こいしは拾ってきた猫のように、暴れた。
「落ちつけ」
と言って、聞くものではない。小さな部屋を駆け回り、かめの蓋や箪笥の引き出しを開けては首を突っ込んだ。
やがて、ふと静かになり、見れば眠っていた。
(やれやれ)
ひょいと抱え上げて布団へ放り込むと、てゐは足音もなく外へ出た。
地獄へ連絡に遣った兎が、小包みを下げて戻っていた。
開くと、小判五枚と手紙であった。
「まずいなあ……」
地獄には厳しい掟があり、往来の許可が降りるのには時間がかかる。迎えを出すまでの間、こいしの面倒を見てほしい――と、手紙は云う。
てゐは兎の頬を優しくなでた。
「ご苦労だけど、もう一度遣いに行っておくれ」
急がせる必要があった。
「七日以内に迎えをよこすこと。この五両は当面の費えとするので、報酬の十両は別に用意すること」
手紙をくわえるや、兎は韋駄天の如く駆け去った。
(七日が限度さ。それ以上は騙しきれん)
月を見れば、かつ、と真二つに欠けて光っていた。
てゐは部屋に戻るとすぐ、こいしの寝ている布団に忍び込み、すうっと眠りについた。
翌日。
てゐは洋服を買ってきて、こいしに着替えさせた。
「かわいい?」
こいしは鏡の前で、くるりと回った。
人型の妖怪である。大きめの服で心眼さえ隠してしまえば、見た目はごまかせる。
「うんうん。良いんじゃないかな」
言うと、こいしが嬉しそうに笑った。
てゐは微笑を浮かべた。
「さて。行くぞい」
「どこへ?」
「決まっている。銭湯さ」
こいしが不安げな顔をした。
昼前から湯浴みに行く者は少ない。それでも、湯舟を見れば人影が無いわけではなかった。
「え……と、裸になるの?」
「妖怪ってことは意識するな。暗い湯煙の中で、知られやしないよ」
「いや、そうじゃなくて!」
「脱衣場で人が来たらまずい。急げ」
てゐは、もたつくこいしの衣服を引っ剥がした。
早足で湯舟へ向かうこいしを、後ろから掴んで止めた。
「な、何?」
「体は、洗ってから入れ。汚れがひどいんだから」
こいしは顔を赤くして、ふらふらと体を洗い始めた。
てゐは掛け湯を済ませると、こいしの頭を掴んでがしがし洗った。
(一週間か)
ざばりと湯をかぶせると、ひゃうっ、と悲鳴が響き渡った。
他にはしなびた老婆が二体いるだけと見て、てゐは心身をゆるめた。
「ごくらく、ごくらく」
湯に浸かり、ぐてりと頭を垂れた。その隣で、こいしは傷が痛むらしく、ひどく辛そうにしていた。
「無理しなくていいよ」
「……」
「先にあがって、服を着て待ってればいい」
「私を……私を、置いて、どっか行ったりしない?」
「しないしない。するもんか」
てゐは苦笑した。
こいしが出て行くと、てゐは嘆息した。
老婆もすでにいない。耳を垂らし、尾しりをぷかりと浮かべた。
(眠い……)
まどろみの中で、一瞬、夢をみた。
体中を赤く引き裂かれ、潮水に沁みる傷口はひりひりと渇してゆく……古い記憶だった。
漆黒の陽に焼かれて、てゐは孤独のうちに死のうとした。足音がして、助けを求めれば、嘲笑を浴びせられた。
(ひどい。誰だよ……)
見れば、冷たい目をして、てゐが立っていた。
「……」
ほんの数秒、寝たらしい。耳と尾をしまい、急いで風呂場を出た。
「たゑっ!」
跳びついてきたこいしが、濡れるのも厭わず頭を拭いてくれた。
帰り道。また新しい洋服と赤い靴を買い与えると、満月のように明るい笑顔をした。
それは、有無を云わせぬ語気だった。
「待っててね。今、ごはん作るから」
「はい……えっ?」
てゐは、着替えさせてから洋食屋に連れて行くつもりだった。
ところがこいしは、割烹着を身につけ、妙に真剣な表情で米を研いでいる。
「はて。まあいいか。味噌は……」
「ここだよね」
「塩と醤油は」
「これ」
こいしが指差し、にたりと笑った。
(なるほどね)
と思い出すのは、昨夜の暴れっぷりである。
こいしの不慣れな手つきが時折止まり、必死で考え込むようすを笑いながら観察していたが、
「ちょっと厠へ」
てゐは、さり気なく台所を離れた。
心臓が、早鐘を打っていた。
子供のように、はしゃいでいる……としか昨夜は思わなかった。
(家捜しだったのか? 案外したたかな奴)
家を手下に片付けさせたことで、気にかかっていた。
密かに点検して廻り、
「よし。問題ない」
確認するように呟いた。
どこにも、己の正体が知られるような跡は見当たらなかった。
「ごはんできたよ」
「あいよ」
てゐは早足で食卓へ向かった。足を止め、振り返って見たところで、
(大丈夫さ)
何もない。
食卓についた。
「この味噌汁」
「おいしい?」
「いや。具はどこに?」
「……」
「これは米?」
「おいしい?」
「いや。明日は炊き方を教えてやろう」
「……」
「この野菜の炭は」
「……」
「人参が多くて大変よろしい」
「え、あっ……えへんっ」
黒くなった野菜炒めを、仏のような顔をして食した。
(七日間かあ)
他愛のない会話をしているうちに、気がつけば全て平らげていた。
「ごちそうさま」
なぜか、こいしの顔をまっすぐ見られなかった。
昼も大方過ぎていた。
「あそぼっ!」
「もちろん」
外へ出て、思いっきり駆け回った。
町の通りを追いかけあって、野原に隠れて転がり回り、影が長く伸びて、やがて一つ闇の中にくるまれてゆく。
「タラッタラッタラッタ、可愛いダンス~♪」
「なにそれ」
「兎のダンス。こうさ」
蹴り、蹴り、跳んでくるりと回った。
「こう?」
こいしは変てこな構えをとった。
「それこそ何さ。こうだってば」
「むう?」
赤い靴をぴょこりと蹴り上げ、ふらふらと両手を広げてバランスを取る様子は、
「ヤジロベエじゃないか。それじゃ、幸運は呼べないよ」
てゐはケラケラと笑った。
「幸運が来るの?」
「そうさ!」
「たゑがずっといてくれたら、それでいいよ」
くるりと後ろへ回りながら、てゐも言った。
「じゃあ、私もそれでいい」
ぴたりと一回転。見れば、こいしは妙な構えをとっていた。
少しの沈黙の後、
「ふ、ふふ……」
どちらともなく、くすぐられたような声が洩れ始めた。
声は次第に大きくなった。
「あはっ。ははは、ああっははは……」
二匹は顔をあわせて笑った。
そして七日に渡る時は過ぎていった。
地獄からの音沙汰はなかった。
「縁日に行こう」
「お祭り?」
「屋台さ」
てゐは、にたりと笑った。
(まだ金はたっぷりある。思いきり楽しもう)
夕刻になる。
ふうら……ふうら……と、風がそよいでいた。
境内にぼんぼりが灯ると、人々の営みにほのかな揺らめきを残して、影をより深くへ落としていた。
(ちっ。古い臭いがする)
訪ってすぐ、てゐは異様な気配に気が付いた。
「こいし。おこづかい」
興奮気味のこいしを掴まえて、小銭を握らせた。
「たゑは?」
「知り合いが来てるんだ。すぐ戻る」
こいしを雑踏へ残して、気配の元へと嗅ぐようにして進んだ。
近付くほどに、それは強烈な威圧感へと変わった。
やけに大柄な女だった。
「これはこれは。どちらからお越しでしょう?」
「うん? お前さん、妖怪か? 俗っぽい奴もいたもんだね」
「……」
「ま、よそのことは言えないけど……私は山の方に棲む神さ。いやあ、やっぱ、神のやることじゃないよねえ」
(勘違いか)
地獄の連中ではないと見て、てゐはゆったり息を吐いた。
「こいしって妖怪を知らないかい?」
「さあ。存じませんが」
「見つけたら結構な賞金が出るってんで、探してたんだ」
「神様ともあろう御方が……?」
「こんな時代さ。儲けが悪くて」
女は苦笑した。
別れ際、
「いなばの――」
と呼ばれて、ぎくりとした。
「怪しい気配は多いよ。本当に大切なものなら、見失わないようにね」
てゐは、全身に冷や汗をかいた。
女は苦笑のまま、雑踏へ紛れて二度と姿を見せなかった。
「こいし! どこだ、こいし!」
てゐは得たいの知れぬ不安に駆られて、常になく心を乱した。
そんな折。背後から、ぐいっ、と肩を掴まれた。
「どうしたの?」
「こい……ひっ?」
きつねの顔が、目前に現れた。
「へへっ」
お面を外し、こいしはにたりと笑った。
「たゑ、あれ食べたい」
うなぎの屋台であった。
こいしが手を引っ張るのを、きつく握り返した。
のれんの内に入ると、妙に暗くなり手元もおぼろげだった。
ただ、温もりだけは確かに掴んでいた。
「お客さん。どれにしましょう?」
「えーと」
「やつめうなぎの蒲焼。やつめうなぎの踊り食い。やつめうなぎすくい。ふふ。私の歌声をお望みなら――」
「こんな屋台があるか、阿呆!」
てゐは屋台を蹴っ倒し、銭をばらまいて逃げた。
(金ならくれてやるさ)
こいしを連れて、家へ駆け戻った。
満月が光っていた。
(今夜さえ過ぎてしまえば……)
陰りのない夜空を睨んで、にたりと笑った。
「ねえ。たゑ……」
「どうした?」
見れば、こいしは戸惑ったような顔をしていた。
「本当に引っ越すの?」
「ああ。遠くへな」
てゐは、手荷物ひとつで出るつもりだった。
(他には、ほんの少しの幸運でいい)
家族ごっこは終わりにしたかった。逃げた先で全てを打ち明け、もし受け入れてくれたなら……。
(友達になり、ずっと一緒にいよう)
それだけだった。
愛という言葉を知っていれば、少しは思ったかもしれない。
こいしは洋服などを選んで、背負い鞄に詰めていた。とても、全てを持っては行けない。
「たくさん買ったもんさ。我ながら」
苦笑した。
衣装箪笥を開けると、出会った時にこいしが身に着けていたボロが、今はひどく目立っていた。
(七日間か……)
持ち上げると、ボロの狭間から紙きれのようなものが落ちた。
てゐはそれを拾うと、元通り、ボロの中へ差し入れた。
(最初から、ばれていたのか)
てゐは涙を抑え、あふれようとする嗚咽を必死に噛み殺した。
いつかの、薄い新聞だった。
古馴染みの妖怪が最後に配ってくれたそれは、こいしの胸の内に仕舞いこむように挟んであった。
くるりと振り返って、いつもの如くにたりと笑った。
「行こう。こいし」
「あっ。待って!」
てゐは駆け出した。
表へ出ると、すぐに立ち止まって空を見上げた。
「ははっ。何も見えやしない。そうさ……ツキがなかったかな」
それだけのことだった。
ぐいっと眼をぬぐうと、後ろの闇から足音が迫るのをはっきりと聞き取れた。
足音が止まり、背中にしがみついてきた。
「置いてかないで」
「……」
「たゑ?」
「ほら。あんなにもきれいなお月様だ。まだ、少し時間があるからさ」
振り返って見ると、こいしは裸足で出たらしく、手にも何も持っていなかった。
「行こう。舞踏会へ」
その手を握り、駆け出した。
背の高いすすきの平原をかき分けて進むと、やがてまん丸い広場に出た。
てゐが振り向いて言った。
「踊ろう。こいし」
さあっ。
と兎たちが飛び出して、月光に輝く羽毛をなびかせ、辺りをくるくると廻り始めた。
てっ。
と一匹、大きく飛び跳ねた。
「タラッタラッタラッタ、うさぎのダンス~♪」
「負けるもんか」
と言って、こいしも踊りだした。
「へったくそ」
「うるさい」
やがて二匹は両手をつなぎ、ぐるぐると競うように回り回った。
顔を見合わせて、あははと笑った。
(家族ごっこでもいいさ。月が沈んだら、遠くへ行こう)
手のぬくもりを、きつく掴もうとした。
その時。夜空を、星が流れてどこかへ堕ちた。追いかけたてゐの瞳に、一匹の野兎が映っていた。
地獄へ遣わせた手下が、奇妙な猫を連れて、戻っていた。
(散れ!)
てゐが目配せすると、二匹を残して広場には何者もいなくなった。
「あれ?」
と言った隙に、てゐも姿を消した。
すすきの茂みの中で、地獄の猫は古明地さとりの言伝てを喋った。
「妹がお世話になりました。ほんの心積もりに過ぎませんが、どうか御礼の品をお受け取り下さい……だってさ」
化け猫は、吐き捨てるように言って小判を置いた。
てゐはそれを抱えて、家へ走り去った。
しばらく、呆然と座り込んでいた。
それが、ふと、である。
「ひい、ふう、み……十一両ある。ははっ。地獄のお人よしどもめ。ましてあいつと来たら、買ってやった服も忘れて行った。みんな私の丸儲けさ」
尻っぽはツンと張り、大きな耳が、震えていた。
「予定通りさ。
家族なーんて柄じゃないんだ。
あいつにゃ家族が、ちゃんといる。
何か、ちょいと、私も勘違いをしていたけれど、こんなもん。こんなもんさ。
私が妖怪とばれていたのは予想外。だが、薄い新聞読まれた程度の話。よもや因幡てゐとは知られまい。
最初に騙した私じゃないか。騙されたマヌケも、この私。
お互い様ったらお互い様。
あいつは家に帰ったんだ。
二度と会えない、去なば山。友達なんて、もっての他さ。
そうさ……」
ぼろぼろと、大粒の涙があふれて止まらなかった。
だッ! と立ち上がり、
「淋しいんだよお」
ありったけの武器を身につけ、夜道を疾駆した。
停止された坑道をくだって行くと、大声で呼び止められた。
「迷子かい? ここは立ち入り禁止だよ」
額に一本角の生えた女が、盃を口に傾けていた。
てゐは無視して進んだ。
「ちょっと、人間。聞こえないのかい?」
「……」
「この先は地獄に通ずる深い穴。いい子だから、引き返すんだ。酒をやるから」
「小石を蹴っ転がしてね」
「あん?」
「追いかけてるうちに、こんな奥まで来ちまったのさ」
「お前……妖怪か?」
「タラッタラッタラッタ、可愛いダンス~♪」
「そうか。こいしちゃんが世話になったって奴か」
「何か言ってた?」
「何も。ただ、その歌を唄ってたんでね」
「幸運を呼ぶ歌なのさ」
「歌なんかで幸運を呼べるもんか」
「呼べるさ」
てゐの声が、少し上ずっていた。
「とにかく、早く帰んな。地上の妖怪なら尚のこと、ここは通せない」
「……仕方ないね。諦めるか」
耳と尻尾を伸ばして、にたりと笑った。
「うん? お前さんもしや、昔話に聞く、いなばの……」
鬼が眼を丸くした。
てゐは赤い靴を履き、耳に鉢巻きをかけると、蹴り、蹴り、回った。
「呼べば、てゐが、来るのさ」
ぎらりと刀を抜くと、目の前の鬼へ向かって、跳んだ。
剣法などは知らない。
「叩っ斬る!」
と叫び、全力、喉元を狙って突いた。
鬼は棒きれでも扱うかのように、無造作に刀を掴み取って、
「やる気かい?」
と言った。
てゐは刀を手離した。両手を素早く懐へやると、抜く手で、ばらっと炒り豆をまいた。
鬼の怯んだところへ、銃弾を次々に撃ち込んだ。
(文明ってやつは、こんなにも、小さくなったのさ)
いわゆる、ピストルだった。
てゐが刀を拾うと、
「やってくれたね」
鬼は落とした盃を拾い、顔をしかめて立ち上がった。
首根っこを掴み取られ、岩壁に叩きつけられた。
てゐがどれほどの力で腕を解こうとしても、鬼の怪力の前には意味をなさなかった。
「いてて……鉄砲とは思わなかったよ。まあ、それはいい」
「……」
「それで、お前さんは、どうしたいんだ? 答えなければここで殺す。嘘をついてもね」
穏やかな表情だった。
息ができる程度に、怪力がゆるんだ。
「へっへっへ。冗談じゃない。私は、足の爪先から耳の毛先まで、嘘をつくように出来ているってのに」
「それは本当のようだね」
「そんな私が……」
鬼の首を、全力で蹴った。
びくともしない。逆に己の首がきつく絞まり、吐き出すような声になった。
「傷ついた兎を騙して、粗塩を擦り込むようなマネだけは、しちゃいけないんだ。そうさ。いけなかったのさ」
「……」
「こいしを助けたい」
消え入るような声音だった。
しばらく鬼は沈黙していたが、やがて凄まじい形相をした。
「怪力乱神を語らず。行け!」
地底を揺るがす大音量だった。
ふっ、と盃に不思議な酒が湧き、てゐは首が絞まったまま、それを喉へ流し込まれた。
鬼神の力でも宿ったのかもしれない。
てゐは鬼の腕を力ずくで剥がし、疾風となって地獄を駆けた。
がらがらと、背後で笑い声が響いていた。
化け猫が立ちはだかった。
「帰れ詐偽兎! 我らが家計は火の車。あんたのせいで、あたいの小遣い、どんだけ減らされたと思ってる! カラスの餌にされたいか!」
「やあ馬鹿猫、今ここに化け兎が通ったろう」
「へっ?」
「こいしの姿に化けて通った、あいつこそが本物の詐偽兎さ」
「にゃんと!」
「追うぞ!」
てゐは、にたりと笑った。
化け猫は足の向きを変え、走り出したが、
「いやいや。おかしいって!」
振り返ったとき、てゐは懐に潜り込んでいた。
「そっちか」
化け猫を池に蹴飛ばし、ひたすら駆けた。
足が、ぴたりと止まった。
(いる。古明地さとり。それに、こいし)
物陰にひそみ、思案した。
武器となるものは何一つない。また、必要もなかった。
(助ける、だって? 阿呆か私は。家族がいるのに、来るはずないじゃないか。どうせ、勘違いだ。世の中なんて、そういうもんさ)
それでも、一声だけ呼んでみようと思った。
(少しの幸運でいい……)
ただ、声が出なかった。
吐き続けてきた嘘が、てゐの奥歯を震わせていた。
こいしによく似た声がした。
「たゑという人が、来てますねえ」
続いて、確かにこいしの声がした。
「どこ?」
てゐは深く身を隠した。
「もし会いたければ、両目を閉じなさい」
「どうして?」
「視られたくないものは、誰にでもあるのよ。本当に信頼しているなら、今は目を閉じておやり」
眼を閉じたかどうかは、分からない。てゐは運に身を任せ、姿を現した。
ふらふらと歩み寄ったてゐは、震える手で、耳から鉢巻きを外した。
こいしの正面に立つと、その目ぶたに鉢巻きを覆って包み隠し、
「ありがとう」
と言った。
さとりへは、心の中で詫びた。
手を掴み取り、地獄の街を走り抜けた。
邪魔する者はいなかった。先導する化け猫が、時折振り返っては、恨みがましい面をした。
「ごめんね。私、あなたにいっぱい嘘をついた」
「そうでもないさ」
「お姉ちゃんと喧嘩して……たまたま見つけた抜け穴から、ここを脱走したの」
「今度、抜け道を掘ってやろう」
「憧れてたんだ。地上で光を一杯に浴びて、生きる人間に」
声が高くなった。
ちらりと振り返ると、目隠しをつけたまま、こいしは泣いているようだった。
「ただ、ちょっとね。ちょっと心が視えるのが嫌になって、自分でこの眼を傷つけちゃったんだ」
手をきつく握り、二匹で地獄を駆け上った。
ぬくもりが、心を伝えていた。
夜が明けようとしていた。
崩れかけた鉱山から現れた二匹の妖怪は、手を繋いで暗い山道を歩き始めた。
「ずっと一緒にいたかったな」
「うん。あなたと出会えて、楽しかった」
すでに、言葉は尽きていた。
てゐは満足だった。
(これ以上は、嘘になるが……)
それでも、白々と明けてゆく空を眺めながら、沈黙を破って話し始めた。
「しかしお前は、ちょっと勘違いをしている」
「へっ?」
「人間もそう捨てたもんじゃないさ。いつか言ったろう。意識するなって」
「意識?」
「妖怪だとか人間だとか、関係ないのさ。ほら。あの家なんて、人に親切にしたら譲ってくれたんだ」
てゐは、にたりと笑った。
騙し取ったものなど、数知れない。
「さあ、やり直しだ。私は遠くへ行くが、家は自由に使え。好きなだけ俗にまみれて、気が済んだら本当の家に帰るといい」
「……」
「そうだ。困ったことがあったら、あの変てこダンスを踊るといい。どんな苦しい時でも、辛い時でも幸運が、やって来るのさ」
「うん」
「じゃあ、達者でな」
こいしの目隠しを取ろうとした。
「もし、傷が癒えて、私の眼が視えるようになったら……」
「うん?」
「あなたの心を、一度でいい。覗かせて」
「もちろんいいさ」
「約束だよ」
「ああ。ただし、その時までお前は、他人の心を視るなよ。自分の意志で眼を閉じるのさ。約束だ」
目隠しを取ると、てゐは音もなく跳躍した。
赤い靴を履いたまま、山に紛れて、そのまま遠くへ移って棲み処を変えた。
(二度と会うことはないさ)
そのつもりだった。
てゐは何年か、あてもなく漂うように暮らしていた。
ある日、町で奇妙な人足を見かけたので、からかいに行った。
「仙人の匂いがする」
人力車に乗り込み、にたりと笑った。
人足は振り向きもせずに呟いた。
「ただの妖怪ですよ」
「うん? ひょっとして、支那の生まれか?」
「さてね。それより、どこへ運びましょう?」
ふと。
「幻想郷」
と言って、はっとした。
(私も、潮時なのかなあ。まあ、いいか。妖怪も神も、すっかり見かけなくなっちゃったし)
戦争には勝ったらしい。この人足も、それで何かの拍子に流れてきたのであろう。
ただ、
(白けた時代になった。次は、もう分からん。良くて五分。悪ければ……。八百万だかの神々も、くたびれてるよ)
などと思うのであった。
「どこですって?」
人足は振り向き、興味深そうな顔をした。
「道は案内するよ。進んでくれ」
人力車は猛烈な勢いで走りだした。
「幻想郷か。私も、そこへ行ってみましょうかねえ」
「入ったら、二度とは出られないらしいよ」
昔はそうではなかった。
てゐは嘆息した。
「良いんですよ。一日中陽のあたるところで、平和にのんびり昼寝でもできれば」
「疲れてるね」
「お客さんは?」
「ふむ」
てゐは思案した。
ぽつりと、
「家族でも見つけるかな」
言った顔は、にやけていた。
(あれは楽しかった。今度はもう少し、大家族にしよう。私よりも年寄りがいて、優しい人がいて、ちょっと甘えられる……)
てゐを積んで、二つの車輪はくるくると回って進んだ。
てゐは、落とし穴からこいしを引っ張り上げた。
「兎の妖怪さん。ありがとうね」
「いえいえ」
「……」
「どうかしましたか?」
こいしは、てゐの手を掴んだまま動かなくなった。
片手はきつく握りしめ、残りの手で確認するように、指を、手を、さすっていた。
てゐは焦って言った。
「ぞくぞくするじゃない。やめてくれ」
見れば、こいしは第三の眼を開いていた。
熱いものが、喉を駆け上ってきて、耐えられなかった。
きつ、と空を睨みつけて気を張ったが、針のように毛が逆立ち、耳の先まで痺れるようだった。
「会いたかった、てゐ!」
胸がぬくもった。
ぐっ、と堪えるように、てゐは立ち尽くしていた。
こいしを胸から引き剥がすと、
「踊ろう!」
と叫んで、にたりと笑った。
兎の群れが跳び出してきて、辺りを満月のように廻り廻った。
太陽の下、二匹の笑い声が、どこまでも響いた。
竹林の隠れ家である。
(誰か、落ちたな)
右手の方で、からからと鳴子が音を立てていた。周囲に巡らせた落とし穴がどれか働いたらしい。
てゐは素早く起き上がり、にたりと笑った。
「どんな阿呆だろう。もしや、月の賢いお方がこんな罠にかかる! なーんてことは、いやはや、まさかねえ!」
大声で呟きながら、穴を覗きこんだ。
「悪いね。こんなアホで」
こいしが落ちていた。
てゐは呆然とした。
「ひどいじゃない。これ、あなたが仕掛けたの?」
てゐは確かに覚えていた。
(あれは明治の……)
製菓ではない。
「兎の妖怪さん。手を貸してもくれないの?」
「今、助けるさ」
こいしの伸ばした手を、しっかりと掴み取った。
少し古い話になる。
時は明治となり、世は乱れていた。
戦争などは、
「知らないよ」
といった顔をして、てゐは山奥の秘湯にふやけていた。
人の世はすでに、妖怪然とした姿では全く暮らせなくなっている。それでも一部の妖怪は、人に紛れて俗な生活を楽しんでいた。
てゐもその一人になる。だが、
「白けた時代だよ」
などと時折ぼやいては、耳と尻尾を伸ばしに山へ入るようになった。
ぱたりと、長い耳を地面に垂れた。
(来る。人か何かだ)
足音が聞こえた。
てゐは湯を抜け、木陰に身を隠した。
(おかしいなあ?)
辺りに仕掛けた罠は、全てかわされたらしい。
足音が、最後の落とし穴まで一歩の位置に来た。
「そこで落ちろ、ですって?」
声がして、足音が止んだ。
「あーあ。最初に見つけた地上の妖怪が、こんなにもケチな心をした奴とはね」
姿は見えない。
(石だ。私は石くれ。石になれ……)
てゐは無心に努めた。
声の主は実につまらなさげに言った。
「ふ、ん……近くにいれば殺してしまいそう。さよなら! 私はね、せっかく外に出たんだから、ステキな人を見つけて楽しいひと時を過ごすのよ」
足音は遠ざかった。
しばらくして、
「さとり……だったかな?」
心を読むという妖怪の名を思い出していた。
(まあいいや。ごくらく、ごくらく)
呟きは泡と消えた。
後日。
「まいど。最後の新聞です」
てゐは自宅で、それを見た。
「家出……心を読む妖怪、こいし? ふうん」
「面白い記事でもありましたか?」
新聞の配達員が、わずかに嬉しそうにした。
「たずね妖怪。見つけたら小判、十枚だってさ」
「へえ。どこの誰です?」
「地獄にいるはずの古明地こいしが、家出したと……自分の新聞だろ?」
「そうですね」
配達員は苦笑した。
見れば、新聞の日付は半月も前だった。
古くから、妖怪の間には独自の連絡網がある。配達員は、
「皆さんに知らせを届けることが、私の生き方でした」
と言った。
てゐは嘆息した。
「聞き飽きたよ」
配達員は、嬉しそうに笑った。
「昔は、この口が、この舌が、記事でした」
「唄うようだったね」
「それから、木版は楽しかった。紙も良かった。記事を一枚ずつ配れるようになったせいで、重くて痺れて……」
「秋にはそれで芋を焼いたよ」
「それがですよ。文明ってやつは、こんなにも速く、軽くって……ふふ。便利になりましたね」
持ってきた新聞紙をつまみ上げ、からからと笑った。
しばらくして、
「さて。時が過ぎたようです」
外に出ると、冷たい風が吹いていた。
「幸運を祈るよ」
「お達者で。ふふ、最後の新聞も届け仰せたことですし、幻想の郷へでも行きますかあ」
配達員は立ち去った。
てゐは表戸を開け、中へ戻った。
(妹さんだったか)
てゐは山奥での一件を思い出していた。
無理な開発が進み、どこの山も深く削られている。大方、何かの拍子に地獄を掘り当てでもしたのであろう。
「十両あれば、ちょいと遊べるね」
にたりと笑った。
大急ぎで山へ行き、手下の兎を集めて言った。
「捜せ。そう遠くじゃない。人も妖も行きそうにない場所で、膝でも抱えているはずさ!」
担いできた人参の束を一本ずつ砕き、ばらまいていった。
人知れず、兎たちの狂宴が始まった。
てゐが見た時、こいしは墓地でくたびれていた。
(阿呆な奴さ)
てゐは渋い顔をした。
こいしの心眼……心を視る目には、斬り裂いたような傷が大きくはしり、半身が血の跡に汚れていた。
(あれでは視えまい。まあいい。いや、都合がいいね。策を練らないと)
てゐは、人の姿で近付くことにした。
がらんとした墓地に、二匹の妖怪がいる。少女のようなてゐが日傘を差して歩き、こいしへと近付いていった。
「どいてくれる?」
てゐが声をかけた。
墓石に腰かけていたこいしが、ぬったりと動いた。
かちゃ……かちゃ……と、てゐはその墓石に水をかけ、拭き清めた。
(うねざき某の墓? 良いね)
線香を焚き、黙祷した。
その様子を、傷だらけのこいしが、黒い帽子の下から無言で見つめていた。
「どうしたの?」
てゐが見返すと、こいしは帽子を深くした。
(やはり、だいぶ傷付いてるね)
見てくれは、歳の近い少女二人であった。
「あなた、ひとりなの?」
「……」
「私も先日、一人きりになったところさ」
てゐは墓前に花を供えると立ち上がり、日傘を傾けて、こいしを陰に入れた。
「帰る家があるなら、早くお帰り」
「ない」
ぽつりと言った。
てゐは沈黙し、こいしが喋るのを待った。しかし、唇をきつく結んで震えているばかりだった。
(太公望、太公望)
すう……と日傘を引いてゆくと、こいしは、すがるような目をした。そして、
「私は、妖怪だもの」
消え入るような声音だった。
「それで?」
「だから、この眼が視えれば、どうせあなたも……」
汚れた腕で両目をこすり、帽子をさらに深くした。
てゐは何も言わず、ぐいっ、と日傘を押し付けた。
不思議そうに見上げたこいしの顔を、てゐは取り出した手巾を使い、優しく拭ってやった。
「兎のように赤い目をしちゃって」
すると、何かが触れたのであろう……。
こいしは声を殺して泣き始めた。手巾が濡れて使えなくなると、てゐにしがみついて静かに泣き暮れた。
ようやく落ち着いたこいしを、てゐはそっと胸から引きはがした。
「うちに来る?」
「うん」
「私の名は、たゑ。宇根崎たゑ」
てゐが偽名を言うと、こいしは嬉しそうにして言った。
「私は古明地こいし」
こいしの手を握れば、しっかりと握り返してきた。
これが二匹の出会いだった。
(よし。抜かりはない)
古参の手下の中には、妖怪と化した兎もいる。心得たもので、てゐが帰り着いた時には、因幡てゐ、と知れるようなものは全て片付けられていた。
ところで。こいしは拾ってきた猫のように、暴れた。
「落ちつけ」
と言って、聞くものではない。小さな部屋を駆け回り、かめの蓋や箪笥の引き出しを開けては首を突っ込んだ。
やがて、ふと静かになり、見れば眠っていた。
(やれやれ)
ひょいと抱え上げて布団へ放り込むと、てゐは足音もなく外へ出た。
地獄へ連絡に遣った兎が、小包みを下げて戻っていた。
開くと、小判五枚と手紙であった。
「まずいなあ……」
地獄には厳しい掟があり、往来の許可が降りるのには時間がかかる。迎えを出すまでの間、こいしの面倒を見てほしい――と、手紙は云う。
てゐは兎の頬を優しくなでた。
「ご苦労だけど、もう一度遣いに行っておくれ」
急がせる必要があった。
「七日以内に迎えをよこすこと。この五両は当面の費えとするので、報酬の十両は別に用意すること」
手紙をくわえるや、兎は韋駄天の如く駆け去った。
(七日が限度さ。それ以上は騙しきれん)
月を見れば、かつ、と真二つに欠けて光っていた。
てゐは部屋に戻るとすぐ、こいしの寝ている布団に忍び込み、すうっと眠りについた。
翌日。
てゐは洋服を買ってきて、こいしに着替えさせた。
「かわいい?」
こいしは鏡の前で、くるりと回った。
人型の妖怪である。大きめの服で心眼さえ隠してしまえば、見た目はごまかせる。
「うんうん。良いんじゃないかな」
言うと、こいしが嬉しそうに笑った。
てゐは微笑を浮かべた。
「さて。行くぞい」
「どこへ?」
「決まっている。銭湯さ」
こいしが不安げな顔をした。
昼前から湯浴みに行く者は少ない。それでも、湯舟を見れば人影が無いわけではなかった。
「え……と、裸になるの?」
「妖怪ってことは意識するな。暗い湯煙の中で、知られやしないよ」
「いや、そうじゃなくて!」
「脱衣場で人が来たらまずい。急げ」
てゐは、もたつくこいしの衣服を引っ剥がした。
早足で湯舟へ向かうこいしを、後ろから掴んで止めた。
「な、何?」
「体は、洗ってから入れ。汚れがひどいんだから」
こいしは顔を赤くして、ふらふらと体を洗い始めた。
てゐは掛け湯を済ませると、こいしの頭を掴んでがしがし洗った。
(一週間か)
ざばりと湯をかぶせると、ひゃうっ、と悲鳴が響き渡った。
他にはしなびた老婆が二体いるだけと見て、てゐは心身をゆるめた。
「ごくらく、ごくらく」
湯に浸かり、ぐてりと頭を垂れた。その隣で、こいしは傷が痛むらしく、ひどく辛そうにしていた。
「無理しなくていいよ」
「……」
「先にあがって、服を着て待ってればいい」
「私を……私を、置いて、どっか行ったりしない?」
「しないしない。するもんか」
てゐは苦笑した。
こいしが出て行くと、てゐは嘆息した。
老婆もすでにいない。耳を垂らし、尾しりをぷかりと浮かべた。
(眠い……)
まどろみの中で、一瞬、夢をみた。
体中を赤く引き裂かれ、潮水に沁みる傷口はひりひりと渇してゆく……古い記憶だった。
漆黒の陽に焼かれて、てゐは孤独のうちに死のうとした。足音がして、助けを求めれば、嘲笑を浴びせられた。
(ひどい。誰だよ……)
見れば、冷たい目をして、てゐが立っていた。
「……」
ほんの数秒、寝たらしい。耳と尾をしまい、急いで風呂場を出た。
「たゑっ!」
跳びついてきたこいしが、濡れるのも厭わず頭を拭いてくれた。
帰り道。また新しい洋服と赤い靴を買い与えると、満月のように明るい笑顔をした。
それは、有無を云わせぬ語気だった。
「待っててね。今、ごはん作るから」
「はい……えっ?」
てゐは、着替えさせてから洋食屋に連れて行くつもりだった。
ところがこいしは、割烹着を身につけ、妙に真剣な表情で米を研いでいる。
「はて。まあいいか。味噌は……」
「ここだよね」
「塩と醤油は」
「これ」
こいしが指差し、にたりと笑った。
(なるほどね)
と思い出すのは、昨夜の暴れっぷりである。
こいしの不慣れな手つきが時折止まり、必死で考え込むようすを笑いながら観察していたが、
「ちょっと厠へ」
てゐは、さり気なく台所を離れた。
心臓が、早鐘を打っていた。
子供のように、はしゃいでいる……としか昨夜は思わなかった。
(家捜しだったのか? 案外したたかな奴)
家を手下に片付けさせたことで、気にかかっていた。
密かに点検して廻り、
「よし。問題ない」
確認するように呟いた。
どこにも、己の正体が知られるような跡は見当たらなかった。
「ごはんできたよ」
「あいよ」
てゐは早足で食卓へ向かった。足を止め、振り返って見たところで、
(大丈夫さ)
何もない。
食卓についた。
「この味噌汁」
「おいしい?」
「いや。具はどこに?」
「……」
「これは米?」
「おいしい?」
「いや。明日は炊き方を教えてやろう」
「……」
「この野菜の炭は」
「……」
「人参が多くて大変よろしい」
「え、あっ……えへんっ」
黒くなった野菜炒めを、仏のような顔をして食した。
(七日間かあ)
他愛のない会話をしているうちに、気がつけば全て平らげていた。
「ごちそうさま」
なぜか、こいしの顔をまっすぐ見られなかった。
昼も大方過ぎていた。
「あそぼっ!」
「もちろん」
外へ出て、思いっきり駆け回った。
町の通りを追いかけあって、野原に隠れて転がり回り、影が長く伸びて、やがて一つ闇の中にくるまれてゆく。
「タラッタラッタラッタ、可愛いダンス~♪」
「なにそれ」
「兎のダンス。こうさ」
蹴り、蹴り、跳んでくるりと回った。
「こう?」
こいしは変てこな構えをとった。
「それこそ何さ。こうだってば」
「むう?」
赤い靴をぴょこりと蹴り上げ、ふらふらと両手を広げてバランスを取る様子は、
「ヤジロベエじゃないか。それじゃ、幸運は呼べないよ」
てゐはケラケラと笑った。
「幸運が来るの?」
「そうさ!」
「たゑがずっといてくれたら、それでいいよ」
くるりと後ろへ回りながら、てゐも言った。
「じゃあ、私もそれでいい」
ぴたりと一回転。見れば、こいしは妙な構えをとっていた。
少しの沈黙の後、
「ふ、ふふ……」
どちらともなく、くすぐられたような声が洩れ始めた。
声は次第に大きくなった。
「あはっ。ははは、ああっははは……」
二匹は顔をあわせて笑った。
そして七日に渡る時は過ぎていった。
地獄からの音沙汰はなかった。
「縁日に行こう」
「お祭り?」
「屋台さ」
てゐは、にたりと笑った。
(まだ金はたっぷりある。思いきり楽しもう)
夕刻になる。
ふうら……ふうら……と、風がそよいでいた。
境内にぼんぼりが灯ると、人々の営みにほのかな揺らめきを残して、影をより深くへ落としていた。
(ちっ。古い臭いがする)
訪ってすぐ、てゐは異様な気配に気が付いた。
「こいし。おこづかい」
興奮気味のこいしを掴まえて、小銭を握らせた。
「たゑは?」
「知り合いが来てるんだ。すぐ戻る」
こいしを雑踏へ残して、気配の元へと嗅ぐようにして進んだ。
近付くほどに、それは強烈な威圧感へと変わった。
やけに大柄な女だった。
「これはこれは。どちらからお越しでしょう?」
「うん? お前さん、妖怪か? 俗っぽい奴もいたもんだね」
「……」
「ま、よそのことは言えないけど……私は山の方に棲む神さ。いやあ、やっぱ、神のやることじゃないよねえ」
(勘違いか)
地獄の連中ではないと見て、てゐはゆったり息を吐いた。
「こいしって妖怪を知らないかい?」
「さあ。存じませんが」
「見つけたら結構な賞金が出るってんで、探してたんだ」
「神様ともあろう御方が……?」
「こんな時代さ。儲けが悪くて」
女は苦笑した。
別れ際、
「いなばの――」
と呼ばれて、ぎくりとした。
「怪しい気配は多いよ。本当に大切なものなら、見失わないようにね」
てゐは、全身に冷や汗をかいた。
女は苦笑のまま、雑踏へ紛れて二度と姿を見せなかった。
「こいし! どこだ、こいし!」
てゐは得たいの知れぬ不安に駆られて、常になく心を乱した。
そんな折。背後から、ぐいっ、と肩を掴まれた。
「どうしたの?」
「こい……ひっ?」
きつねの顔が、目前に現れた。
「へへっ」
お面を外し、こいしはにたりと笑った。
「たゑ、あれ食べたい」
うなぎの屋台であった。
こいしが手を引っ張るのを、きつく握り返した。
のれんの内に入ると、妙に暗くなり手元もおぼろげだった。
ただ、温もりだけは確かに掴んでいた。
「お客さん。どれにしましょう?」
「えーと」
「やつめうなぎの蒲焼。やつめうなぎの踊り食い。やつめうなぎすくい。ふふ。私の歌声をお望みなら――」
「こんな屋台があるか、阿呆!」
てゐは屋台を蹴っ倒し、銭をばらまいて逃げた。
(金ならくれてやるさ)
こいしを連れて、家へ駆け戻った。
満月が光っていた。
(今夜さえ過ぎてしまえば……)
陰りのない夜空を睨んで、にたりと笑った。
「ねえ。たゑ……」
「どうした?」
見れば、こいしは戸惑ったような顔をしていた。
「本当に引っ越すの?」
「ああ。遠くへな」
てゐは、手荷物ひとつで出るつもりだった。
(他には、ほんの少しの幸運でいい)
家族ごっこは終わりにしたかった。逃げた先で全てを打ち明け、もし受け入れてくれたなら……。
(友達になり、ずっと一緒にいよう)
それだけだった。
愛という言葉を知っていれば、少しは思ったかもしれない。
こいしは洋服などを選んで、背負い鞄に詰めていた。とても、全てを持っては行けない。
「たくさん買ったもんさ。我ながら」
苦笑した。
衣装箪笥を開けると、出会った時にこいしが身に着けていたボロが、今はひどく目立っていた。
(七日間か……)
持ち上げると、ボロの狭間から紙きれのようなものが落ちた。
てゐはそれを拾うと、元通り、ボロの中へ差し入れた。
(最初から、ばれていたのか)
てゐは涙を抑え、あふれようとする嗚咽を必死に噛み殺した。
いつかの、薄い新聞だった。
古馴染みの妖怪が最後に配ってくれたそれは、こいしの胸の内に仕舞いこむように挟んであった。
くるりと振り返って、いつもの如くにたりと笑った。
「行こう。こいし」
「あっ。待って!」
てゐは駆け出した。
表へ出ると、すぐに立ち止まって空を見上げた。
「ははっ。何も見えやしない。そうさ……ツキがなかったかな」
それだけのことだった。
ぐいっと眼をぬぐうと、後ろの闇から足音が迫るのをはっきりと聞き取れた。
足音が止まり、背中にしがみついてきた。
「置いてかないで」
「……」
「たゑ?」
「ほら。あんなにもきれいなお月様だ。まだ、少し時間があるからさ」
振り返って見ると、こいしは裸足で出たらしく、手にも何も持っていなかった。
「行こう。舞踏会へ」
その手を握り、駆け出した。
背の高いすすきの平原をかき分けて進むと、やがてまん丸い広場に出た。
てゐが振り向いて言った。
「踊ろう。こいし」
さあっ。
と兎たちが飛び出して、月光に輝く羽毛をなびかせ、辺りをくるくると廻り始めた。
てっ。
と一匹、大きく飛び跳ねた。
「タラッタラッタラッタ、うさぎのダンス~♪」
「負けるもんか」
と言って、こいしも踊りだした。
「へったくそ」
「うるさい」
やがて二匹は両手をつなぎ、ぐるぐると競うように回り回った。
顔を見合わせて、あははと笑った。
(家族ごっこでもいいさ。月が沈んだら、遠くへ行こう)
手のぬくもりを、きつく掴もうとした。
その時。夜空を、星が流れてどこかへ堕ちた。追いかけたてゐの瞳に、一匹の野兎が映っていた。
地獄へ遣わせた手下が、奇妙な猫を連れて、戻っていた。
(散れ!)
てゐが目配せすると、二匹を残して広場には何者もいなくなった。
「あれ?」
と言った隙に、てゐも姿を消した。
すすきの茂みの中で、地獄の猫は古明地さとりの言伝てを喋った。
「妹がお世話になりました。ほんの心積もりに過ぎませんが、どうか御礼の品をお受け取り下さい……だってさ」
化け猫は、吐き捨てるように言って小判を置いた。
てゐはそれを抱えて、家へ走り去った。
しばらく、呆然と座り込んでいた。
それが、ふと、である。
「ひい、ふう、み……十一両ある。ははっ。地獄のお人よしどもめ。ましてあいつと来たら、買ってやった服も忘れて行った。みんな私の丸儲けさ」
尻っぽはツンと張り、大きな耳が、震えていた。
「予定通りさ。
家族なーんて柄じゃないんだ。
あいつにゃ家族が、ちゃんといる。
何か、ちょいと、私も勘違いをしていたけれど、こんなもん。こんなもんさ。
私が妖怪とばれていたのは予想外。だが、薄い新聞読まれた程度の話。よもや因幡てゐとは知られまい。
最初に騙した私じゃないか。騙されたマヌケも、この私。
お互い様ったらお互い様。
あいつは家に帰ったんだ。
二度と会えない、去なば山。友達なんて、もっての他さ。
そうさ……」
ぼろぼろと、大粒の涙があふれて止まらなかった。
だッ! と立ち上がり、
「淋しいんだよお」
ありったけの武器を身につけ、夜道を疾駆した。
停止された坑道をくだって行くと、大声で呼び止められた。
「迷子かい? ここは立ち入り禁止だよ」
額に一本角の生えた女が、盃を口に傾けていた。
てゐは無視して進んだ。
「ちょっと、人間。聞こえないのかい?」
「……」
「この先は地獄に通ずる深い穴。いい子だから、引き返すんだ。酒をやるから」
「小石を蹴っ転がしてね」
「あん?」
「追いかけてるうちに、こんな奥まで来ちまったのさ」
「お前……妖怪か?」
「タラッタラッタラッタ、可愛いダンス~♪」
「そうか。こいしちゃんが世話になったって奴か」
「何か言ってた?」
「何も。ただ、その歌を唄ってたんでね」
「幸運を呼ぶ歌なのさ」
「歌なんかで幸運を呼べるもんか」
「呼べるさ」
てゐの声が、少し上ずっていた。
「とにかく、早く帰んな。地上の妖怪なら尚のこと、ここは通せない」
「……仕方ないね。諦めるか」
耳と尻尾を伸ばして、にたりと笑った。
「うん? お前さんもしや、昔話に聞く、いなばの……」
鬼が眼を丸くした。
てゐは赤い靴を履き、耳に鉢巻きをかけると、蹴り、蹴り、回った。
「呼べば、てゐが、来るのさ」
ぎらりと刀を抜くと、目の前の鬼へ向かって、跳んだ。
剣法などは知らない。
「叩っ斬る!」
と叫び、全力、喉元を狙って突いた。
鬼は棒きれでも扱うかのように、無造作に刀を掴み取って、
「やる気かい?」
と言った。
てゐは刀を手離した。両手を素早く懐へやると、抜く手で、ばらっと炒り豆をまいた。
鬼の怯んだところへ、銃弾を次々に撃ち込んだ。
(文明ってやつは、こんなにも、小さくなったのさ)
いわゆる、ピストルだった。
てゐが刀を拾うと、
「やってくれたね」
鬼は落とした盃を拾い、顔をしかめて立ち上がった。
首根っこを掴み取られ、岩壁に叩きつけられた。
てゐがどれほどの力で腕を解こうとしても、鬼の怪力の前には意味をなさなかった。
「いてて……鉄砲とは思わなかったよ。まあ、それはいい」
「……」
「それで、お前さんは、どうしたいんだ? 答えなければここで殺す。嘘をついてもね」
穏やかな表情だった。
息ができる程度に、怪力がゆるんだ。
「へっへっへ。冗談じゃない。私は、足の爪先から耳の毛先まで、嘘をつくように出来ているってのに」
「それは本当のようだね」
「そんな私が……」
鬼の首を、全力で蹴った。
びくともしない。逆に己の首がきつく絞まり、吐き出すような声になった。
「傷ついた兎を騙して、粗塩を擦り込むようなマネだけは、しちゃいけないんだ。そうさ。いけなかったのさ」
「……」
「こいしを助けたい」
消え入るような声音だった。
しばらく鬼は沈黙していたが、やがて凄まじい形相をした。
「怪力乱神を語らず。行け!」
地底を揺るがす大音量だった。
ふっ、と盃に不思議な酒が湧き、てゐは首が絞まったまま、それを喉へ流し込まれた。
鬼神の力でも宿ったのかもしれない。
てゐは鬼の腕を力ずくで剥がし、疾風となって地獄を駆けた。
がらがらと、背後で笑い声が響いていた。
化け猫が立ちはだかった。
「帰れ詐偽兎! 我らが家計は火の車。あんたのせいで、あたいの小遣い、どんだけ減らされたと思ってる! カラスの餌にされたいか!」
「やあ馬鹿猫、今ここに化け兎が通ったろう」
「へっ?」
「こいしの姿に化けて通った、あいつこそが本物の詐偽兎さ」
「にゃんと!」
「追うぞ!」
てゐは、にたりと笑った。
化け猫は足の向きを変え、走り出したが、
「いやいや。おかしいって!」
振り返ったとき、てゐは懐に潜り込んでいた。
「そっちか」
化け猫を池に蹴飛ばし、ひたすら駆けた。
足が、ぴたりと止まった。
(いる。古明地さとり。それに、こいし)
物陰にひそみ、思案した。
武器となるものは何一つない。また、必要もなかった。
(助ける、だって? 阿呆か私は。家族がいるのに、来るはずないじゃないか。どうせ、勘違いだ。世の中なんて、そういうもんさ)
それでも、一声だけ呼んでみようと思った。
(少しの幸運でいい……)
ただ、声が出なかった。
吐き続けてきた嘘が、てゐの奥歯を震わせていた。
こいしによく似た声がした。
「たゑという人が、来てますねえ」
続いて、確かにこいしの声がした。
「どこ?」
てゐは深く身を隠した。
「もし会いたければ、両目を閉じなさい」
「どうして?」
「視られたくないものは、誰にでもあるのよ。本当に信頼しているなら、今は目を閉じておやり」
眼を閉じたかどうかは、分からない。てゐは運に身を任せ、姿を現した。
ふらふらと歩み寄ったてゐは、震える手で、耳から鉢巻きを外した。
こいしの正面に立つと、その目ぶたに鉢巻きを覆って包み隠し、
「ありがとう」
と言った。
さとりへは、心の中で詫びた。
手を掴み取り、地獄の街を走り抜けた。
邪魔する者はいなかった。先導する化け猫が、時折振り返っては、恨みがましい面をした。
「ごめんね。私、あなたにいっぱい嘘をついた」
「そうでもないさ」
「お姉ちゃんと喧嘩して……たまたま見つけた抜け穴から、ここを脱走したの」
「今度、抜け道を掘ってやろう」
「憧れてたんだ。地上で光を一杯に浴びて、生きる人間に」
声が高くなった。
ちらりと振り返ると、目隠しをつけたまま、こいしは泣いているようだった。
「ただ、ちょっとね。ちょっと心が視えるのが嫌になって、自分でこの眼を傷つけちゃったんだ」
手をきつく握り、二匹で地獄を駆け上った。
ぬくもりが、心を伝えていた。
夜が明けようとしていた。
崩れかけた鉱山から現れた二匹の妖怪は、手を繋いで暗い山道を歩き始めた。
「ずっと一緒にいたかったな」
「うん。あなたと出会えて、楽しかった」
すでに、言葉は尽きていた。
てゐは満足だった。
(これ以上は、嘘になるが……)
それでも、白々と明けてゆく空を眺めながら、沈黙を破って話し始めた。
「しかしお前は、ちょっと勘違いをしている」
「へっ?」
「人間もそう捨てたもんじゃないさ。いつか言ったろう。意識するなって」
「意識?」
「妖怪だとか人間だとか、関係ないのさ。ほら。あの家なんて、人に親切にしたら譲ってくれたんだ」
てゐは、にたりと笑った。
騙し取ったものなど、数知れない。
「さあ、やり直しだ。私は遠くへ行くが、家は自由に使え。好きなだけ俗にまみれて、気が済んだら本当の家に帰るといい」
「……」
「そうだ。困ったことがあったら、あの変てこダンスを踊るといい。どんな苦しい時でも、辛い時でも幸運が、やって来るのさ」
「うん」
「じゃあ、達者でな」
こいしの目隠しを取ろうとした。
「もし、傷が癒えて、私の眼が視えるようになったら……」
「うん?」
「あなたの心を、一度でいい。覗かせて」
「もちろんいいさ」
「約束だよ」
「ああ。ただし、その時までお前は、他人の心を視るなよ。自分の意志で眼を閉じるのさ。約束だ」
目隠しを取ると、てゐは音もなく跳躍した。
赤い靴を履いたまま、山に紛れて、そのまま遠くへ移って棲み処を変えた。
(二度と会うことはないさ)
そのつもりだった。
てゐは何年か、あてもなく漂うように暮らしていた。
ある日、町で奇妙な人足を見かけたので、からかいに行った。
「仙人の匂いがする」
人力車に乗り込み、にたりと笑った。
人足は振り向きもせずに呟いた。
「ただの妖怪ですよ」
「うん? ひょっとして、支那の生まれか?」
「さてね。それより、どこへ運びましょう?」
ふと。
「幻想郷」
と言って、はっとした。
(私も、潮時なのかなあ。まあ、いいか。妖怪も神も、すっかり見かけなくなっちゃったし)
戦争には勝ったらしい。この人足も、それで何かの拍子に流れてきたのであろう。
ただ、
(白けた時代になった。次は、もう分からん。良くて五分。悪ければ……。八百万だかの神々も、くたびれてるよ)
などと思うのであった。
「どこですって?」
人足は振り向き、興味深そうな顔をした。
「道は案内するよ。進んでくれ」
人力車は猛烈な勢いで走りだした。
「幻想郷か。私も、そこへ行ってみましょうかねえ」
「入ったら、二度とは出られないらしいよ」
昔はそうではなかった。
てゐは嘆息した。
「良いんですよ。一日中陽のあたるところで、平和にのんびり昼寝でもできれば」
「疲れてるね」
「お客さんは?」
「ふむ」
てゐは思案した。
ぽつりと、
「家族でも見つけるかな」
言った顔は、にやけていた。
(あれは楽しかった。今度はもう少し、大家族にしよう。私よりも年寄りがいて、優しい人がいて、ちょっと甘えられる……)
てゐを積んで、二つの車輪はくるくると回って進んだ。
てゐは、落とし穴からこいしを引っ張り上げた。
「兎の妖怪さん。ありがとうね」
「いえいえ」
「……」
「どうかしましたか?」
こいしは、てゐの手を掴んだまま動かなくなった。
片手はきつく握りしめ、残りの手で確認するように、指を、手を、さすっていた。
てゐは焦って言った。
「ぞくぞくするじゃない。やめてくれ」
見れば、こいしは第三の眼を開いていた。
熱いものが、喉を駆け上ってきて、耐えられなかった。
きつ、と空を睨みつけて気を張ったが、針のように毛が逆立ち、耳の先まで痺れるようだった。
「会いたかった、てゐ!」
胸がぬくもった。
ぐっ、と堪えるように、てゐは立ち尽くしていた。
こいしを胸から引き剥がすと、
「踊ろう!」
と叫んで、にたりと笑った。
兎の群れが跳び出してきて、辺りを満月のように廻り廻った。
太陽の下、二匹の笑い声が、どこまでも響いた。