地霊殿もついに炊飯器を導入した。河童が開発したものだ。
おくうの発電する電力によってふっくらご飯を炊き上げてくれる素晴らしい品である。
さとりは炊飯器導入までに至った過程を思い出しながら、そのために手放すことになった、お釜を手にとって眺めていた。
このお釜はそれこそさとりが地霊殿に来た位から使っているものだ。何度も釜戸の火に炙られて中ほどまで黒く変色している。
そのため錆びもつかずいまだに丈夫で、まだ充分使えるものだ。
色々と思い出のこもった品だがさとりは炊飯器と入れ替わりにきっぱり別れることにした。
もともと炊飯器を使う前から使用頻度は減っていたのだ。
理由は簡単でこのお釜はとても小さかったのである。米にしたらせいぜい三、四人分しか炊けない。
さとりは底を撫でるようにしながら呟いた。
「昔はそれで充分だったんですけどね」
地霊殿に来た頃はさとりもまだそれほどペットを飼っておらず、こいしも帰ってこない日の方がはるかに多かった。
さとりは何度と無くこの釜で一人分の米を焚き一人分の料理を作った。初めはお釜を大きすぎて重いと思っていたくらいだった。
それはペットを大量に飼うようになってからも続いた。ご飯を食べないペットのほうが多いから、さとりは最近まで一人で米を研ぎ一人でご飯を炊いていた。
それがあの地底の事件以来、大量のご飯を炊き、幾種類もの料理を準備するようになった。
米も空になった米櫃の底を見て買い足すことが多くなった。研ぐ水の冷たさが快く感じるようになってきた。
さとりは料理からも地底が変わったことを肌で感じる。
鬼から大きな釜を譲り受け、ペットにも手伝ってもらうようになった。
おくうが火加減を覚えるまで何度も教えるのは大変だった。「初めちょろちょろ中ぱっぱ、赤子泣いても蓋取るな」の歌を録音して朝まで耳元で流したこともある。今では火力調節はばっちりだ。
さとりは静かに釜のふちをなぞった。懐かしむように釜を眺めながら思う。
最近ではとんと、このお釜を使うことがなくなった。
こいしも帰ってくるようになったし、地霊殿で開く宴会も多くなった。
呼んでもいないのに来る客が増え、お燐もおくうも人間の真似をして食事をすることが多くなった。
地霊殿は今は暗く寂しい地底の館ではない。
さとりが一人で食事をする回数はどんどんと減っていった。
今日の昼食は、その、今では珍しくなったさとりが一人で食事をする数少ない機会である。
「さて」
さとりは立ち上がるとお釜を抱えて台所に向かった。
米櫃から四杯お米を入れると台所の水で手早く研ぐ。お釜に蓋をして火にかける。
火加減に注意した後は、釜戸の前の小さな丸椅子に腰を下ろして待った。
この釜で炊くのは最後になるだろうとさとりは思った。今まで何度となく繰り返して、もう目をつぶっていても炊けるのに、さとりは釜戸の火をじっと見つめて離れなかった。
炊けると布を使ってすぐに火から降ろした。
用意しておいた風呂敷でくるみ、しっかりと縛って動かないようにする。さとりはそのまま中庭へと通じる廊下を通って外へと飛び上がった。着くまでには蒸らせるし、一石二鳥だと考えていた。
さとりはそのまま地獄の奥、是非曲直庁へと向かった。そこには彼女の旧友がいるはずである。
複雑な内部を自分の屋敷と同じように通り、たまにすれ違う役人に目を丸くされながら、さとりは目的の部屋を目指した。
「こんにちは」
さとりは執務室をノックして、扉が開くと同時にそう言った。顔をのぞかせた四季映姫は奇妙な来客に眉をひそめる。
「どうしたというのですか? 私はちょうど昼休みなのですが」
「もう食事は済ませましたか?」
「ちょうどあなたに邪魔されました」
「それは良かった。どうぞ、長らくお借りしていたお釜を返しにきたんです」
映姫はさとりの言葉に首をかしげ、大きな風呂敷包みに目をやり、またさとりの顔を見た。
「何をしに来たって?」
「お昼、まだなんでしょう? 一緒に食べませんか。昔みたいに」
「そのお釜はあなたにあげたつもりでしたが」
「いただいた覚えはありません。用が済んだので返しに来たのです」
映姫は二人分のお茶を入れると、さとりの前に持ってきた。
碗の一つをさとりの前へ、一つを自分の方へ置いて自身も椅子に座る。
二人は執務室の中に区切られた来客用の応接スペースに着いて静かにお茶を飲んだ。
机の上にはデンとお釜が置かれて見るからにシュールである。ほんのり湯気が立ち上り、しゃもじが刺さっている。
「言っておきますがこれは食べられませんよ」
「炊き加減は悪くないと思うんですが」
「あなたの料理の腕前の話をしているのではありません」
映姫はため息をついた。
無言で執務机の向こうを示す。さとりがそちらを見ると小さな作り付けの調理場があった。
二つの寸胴鍋が有り、火にかけられたやかんの脇には乾燥麺もある。いかにも料理途中という風情だった。
ふむ、とさとりは頷いた。
「実は自家製の佃煮も持ってきたんです」
「人の話を聞いて下さい」
「食べないんですか? おいしいのに」
「薄々感じてましたがあなた喧嘩売ってますね」
「お茶碗と箸、借りますよ」
「だからここはあなたの私物では………ああもう、勝手にしてください」
一人で席を立ち調理場のほうへふらふらと歩いていくさとりに、映姫はシッシと手を振って椅子にうずもれた。
食器棚から茶碗と箸(一番いいもの)を拝借したさとりは調理場の様子を見る。
右側には乾燥面と塩の瓶、それにやかんいっぱいの水がぐつぐつとお湯に変わろうとしている。
「なるほどパスタを茹でるつもりだったんですか」
「何故あなたのお茶に塩を混ぜなかったのだろうと後悔しています」
映姫のコメントを無視してさとりは傍らの鍋の中身を見た。
一つは空、これはパスタを茹でるためのものだろう。
「ふむ」
そして一つにはいっぱいのカレールーが入っていた。
「カレースパゲッティですか」
「違います。インディアンスパゲッティです」
「正式名称があるのにも驚きましたが、四季映姫、あなたって味覚が庶民ですよね」
「な! おいしいんですよ!」
顔を真っ赤にして憤慨する裁判長を尻目に、さとりは蓋を戻した。
「しかし、ご飯で食べられるものがあるじゃないですか」
「私はインディアンスパゲッティを食べたいんです」
「そんなトリッキーなメニューより素直にカレーライスを食べましょうよ」
「カレーとパスタをバカにしないでください。おいしいんです。奇跡の組み合わせです」
「フランスではそう言って、マカロニとヨーグルトを混ぜるそうですよ」
ところ変われば味覚も変わる。一番涙しているのはイタリア人だろう。
「やれやれ、これだからヤマザナドゥは」
「楽園の管理者を我がままの代名詞みたいに言わないでください。それから何気なく皿を出さないでください何するつもりですか」
「? いや、カレーライスを食べようかと」
「あなた、やはりこいしの姉ですね」
「やだ、かわいいですか」
「傍若無人だといったんです。頬を染めるな気持ち悪い!」
さとりは片手を頬に当てながらご飯をよそうという器用な真似をして、お茶碗にとってから皿に盛り付けた。
そのまま勝手に調理台に行きカレーまでよそう。
「福神漬けがないのは、まあ我慢しましょう」
「あなた、まさか誰にでもそういう態度じゃないですよね」
「まさか、あなただからですよ」
「安心して、さらにムカつきました」
「皆よく勘違いしていますが、私はそんないい人物ではないですよ」
カレーを持ってさとりは席に着き、これまた拝借したスプーンを手に取った。
「それでは、いただきます」
一口すくって口に入れる。静かに噛んで、飲み込む。
「……味はいいですね」
「ですから言ってるでしょう。スパゲッティ用に具を小さくしてますからご飯には会わないかもしれませんよ」
「いえ、おいしいですよ。とても」
映姫は、ちょっと、複雑な表情をした。
「ありがとう」
律儀にお礼を返してしまう映姫だった。
「あなたもどうですか? 本当に美味しいですよ」
「いえ、私は……」
くぅ。
そのとき映姫の腹が小さくなった。突然の腹の虫の反乱に映姫は顔を赤くする。
さとりは咥えていたスプーンをとって、静かに笑った。
「どうですか?」
「……いただきましょう」
さとりのもってきたご飯は釜のうちいっぱいまで膨らんでいた。
二人でもりもりカレーを食べて、お代わりもしたが、それでもご飯は三分の一ほど残っていた。
地底の管理者二人のうめき声が部屋に響く。
「うう、苦しい……一体何合炊いたんですか」
「さあ……。四合、くらいです」
「そもそも、何でわざわざここに持ってきたのですか」
「あなたと食べようと思ったからですよ」
「さっきも言いましたが引き取りませんよ」
「そうもいきません。家には新しく炊飯器がくることになったので」
「え……」
映姫は顔を上げた。
「そうだったんですか」
「ええ、ですからこの子も寿命です。まだ使えますが、使うことはないでしょう」
さとりの言葉に、映姫も静かにお釜を見た。お釜は黒い外装もつややかに、堂々と鎮座している。
さとりはどこかぼんやりした目つきで四季映姫に話しかけた。
「あなたはこのお釜をくれるとき、いつかこの釜いっぱいのご飯を炊くようになりなさいといいましたね」
「ええ、人に好かれること、それがあなたの積める善行だと」
「結局、このお釜いっぱいにご飯を炊くのはこれが初めてでした」
「そうなんですか?」
映姫は驚いたようにさとりを見た。
「でも、地霊殿にはもう人が来るのでしょう」
「来るときは来すぎるのですよ。この大きさでは足りません」
苦笑するようにさとりは言った
「それなら安心しました」
「ええ。まあ、地霊殿にも人が来るようになって少しずつ炊くお米が足りなくなっていきました。
まさかそんな日が来るとは思いませんでしたが」
「たしかに」
映姫はくすりと笑った。小さな花がつぼみを開くような笑いだった。
「初めは誰も来ないから。私と二人でばかり食べてましたからね」
「あなたも余計な気を使いましたからね。
いつも説教しがてらお昼を要求するので、いつか門を閉じてやろうと思ってましたよ」
「それは、良かった」
「まあ、あれはあれで、楽しかったですけどね」
さとりは遠くを思い出す目つきでそう言った。
映姫は再びお茶を二人分入れた。礼を言ってさとりは受け取り。しばし、二人は穏やかにくつろいだ。
「それでは、このお釜いっぱいにご飯を炊くのはこれが最初ですか」
「ええ、最後ですからね」
「そういうことなら、私が引き取りましょう。あなたが善行をなした記念です」
映姫はきっぱりと宣言した。こうなればもう、映姫は後で嫌とは言わないだろう
「でも、あなたも使わないでしょう? まさかパスタも茹でないでしょうし」
「あなたは私を何か勘違いしてますね。一年中麺類を食べているわけではありません。
まあ、ここでは使いませんが、家では役に立つこともあるでしょう」
「今度は私が食べに行きましょうか」
「冗談。私の家は客人を招くほど広くありません」
どちらともなく二人は笑いあう。
映姫は、さて、とお釜を見た。
「残ったこのご飯をどうしましょうか」
「お腹が空きました」
「ってはっや! もうですか?」
「なんか白いご飯だけで食べたくなるんですよ」
さとりはさっそくご飯をよそうと、最初の箸も取り出し佃煮もセットして準備万端整えた。
幸せそうに白米を食べる。
「ふう、佃煮だけでご飯三杯いける」
「あなたの舌も庶民的ですね」
「美味しい物を美味しいと言ってるだけです。あ、梅干あります?」
「はいはい」
もうとやかく言わず、映姫は食器棚の下をあさりに行った。ついでに自分の分の茶碗と箸も用意する。
「梅干あるんですか?」
「たしか、前に小町が持ってきてくれました。……あ、醤油と味噌もあった」
「いいですね。これで海苔があれば最高なんですが」
「……………食べますか?」
「あるんですか?」
「私はたまに外の世界にも行くんですよ」
映姫は食器棚の下をごそごそやると、お茶の缶を取り出しさとりに渡した。
中を開けると海苔が詰まっている。ほのかに磯の香りがした。
「よいですね、今度たかりにきましょう」
「ちょっと、人の親切を」
「白と黒、あなたの色ですね」
「その例えは嬉しくないですよ」
「むぐむぐパリパリ、はあ、海苔なんて食べるのいつ以来でしょう」
おいしそうにご飯を食べるさとりに、映姫は肩をすくめて自分の席に座る。
彼女も茶碗にご飯をよそって食べ始めた。
「佃煮もらいますよ……あら美味しい。私好みの味付け」
「好みも何も、あなたが教えてくれたものでしょう」
「そうでしたっけ」
「そうですよ」
「お腹がいっぱいで午後眠くならないといいのですが」
「能力を使ってしゃっきりしては?」
「あまり私用で能力を使わないようにしてるんです」
パリパリ、ポリポリ、モグモグ。
四季映姫の執務室に珍しく、賑やかな食事の音が響いていた。
たまに無性にご飯を食べたくなります。炊きたての白いご飯が、きらきら輝いて……それを想像するだけでお腹が空いてきますぜ。
疲れていた心が、癒されました。
良いお話をありがとうございました。
貴方のSSをスペカにしたらこんな感じ。
実に癒されました。
お見事!
・・・ごはんが。
傍若無人なさとり様は本当にかわいいです
とても暖かいお話でした。
>喉飴さん
わお! 一番に読んでいただきありがとうございます。
炊き立ての白いご飯は自分も大好きです。SSでは自分の食べたいものばかりを出すのでお腹が空きます。
>2. 名前が無い程度の能力
こんなSSで癒されたら本望です。米を研いでたら思いついたものなんですが。
>3. 名前が無い程度の能力さん
白米は本当においしいです。
>4. 名前が無い程度の能力さん
ほんわかほわほわが書けたらいいと思いました。ありがとうございます。
>5. しゅーまいと名乗る程度の能力さん
おいしい秋の新米をどうぞ。
>6. 過酸化水素ストリキニーネさん
こんな拙いSSを読んでいただいてうれしいです。会話文、もっとわかりやすくなるよう努力していきたいです。
さとり様は人を選んでSになると思います。こいしとかこういう面を知らないのかなあ。
>7. 名前が無い程度の能力さん
お釜はこれからも映姫さまが大事に使ってくれると思います。
皆さん読んでいただきありがとうございました。
この二人は好きなキャラのツートップなので作者GJ!としかいえません。
二人の会話が面白い。
トルコにはヨーグルトとミントのスープがあります。
「やだ、かわいいですか」
「傍若無人だといったんです。頬を染めるな気持ち悪い!」
ここの掛け合いが神、これだけであと三年は戦える気がする
四季様いい人だ。
映季の激しいツッコミが見られるのはさとりとの漫談だけ!
物理的に激しいツッコミが見られるのは小町への説教だけ!
楽しく見させてもらいました。ただ、カレーにスパゲティとか、マカロニにヨーグルトとか
想像したら……w
仕方ない、ご飯食べて来ますね、のりたまで。
お釜も愛されてるな