天界のとある屋敷。
表札には「比那名居」とある。
広い屋敷の一室に、比那名居天子はいた。
普段から我儘で自由奔放な彼女はここにはいない。
彼女にしては珍しく、机に向かって何やら考え事をしているようだ。
その様子を見た使用人たちは生乾きの洗濯物を取り込んだり、急いで買い物に行ったりするなど突然の雨に備える。
いつもならここで天子が、何らかの反応を示すはずなのだが、今日に限ってはそのようなことはない。
天子の様子がおかしいということに気付いた使用人たちは、こっそりと彼女の部屋を覗くことにした。
初めの内は、周囲の雰囲気が変わったことに不信感を抱いていた天子だったが、しかし使用人たちに気付くことはない。
次第にまた考えに耽っていく天子。
時々奇声を上げたり、挙動不審になったりする天子に使用人たちもドキドキである。
ここである使用人が、遠くの音がよく聞こえる程度の能力を発揮することにした。
じゃあ俺も私も、と全員が天子の声を聞くために壁にコップを当てたり、部屋の戸に耳を当てたりし始めた。
決してやましい思いで盗聴するわけではなく、純粋に天子を心配しての行為である、というのが彼らの弁であった。
そして使用人たちは天子の独り言に耳を傾けた。
▼
天子は悩んでいた。
自称カリスマ天人の天子はこのような事態に直面したことがなかったからだ。
解決策は当然浮かんでくるはずもない。
しかし、誰かに頼るわけにもいくまい。
なぜなら天子は、この幻想郷において誰かに弱みを見せれば酷い目に遭うということを理解していたからだ。
ならば親に相談してみればどうだろうか、と天子は一瞬考えた。
だが、この問題に関しては親に頼ることを避けたい、そうも考えた。
この問題はデリケートな問題であり、それに親に頼ると後々面倒なことになりそうだからだ。
だから天子は一人で解決する他ない。
そこまで天子を考えさせる問題とは、
「……はぁ…なんで衣玖は私の事を避けるの?」
天子にとって比較的親しい存在である、永江衣玖のことだった。
何だ微笑ましい悩みじゃないか、と使用人たちが思ったときだった。
「……私はこんなにも衣玖の事が好きなのに」
盗聴していた彼らの時間が一瞬止まった。
しかしすぐに動き出すと、ある者は項垂れ、ある者はガッツポーズを取る。
そのまま彼らは激しい論争を開始するのだが、考え込んでいる天子はそれに気付くことはなかった。
天子は考える、ひたすら考え続ける。
空気を読める衣玖が自分を避ける理由は何なのだろうか。
1.天子に対して怒っている。
2.そもそも天子が嫌い。
3.何らかの隠し事をしている。
1番について考えるとすれば、つい先日衣玖の家に忍び込んで、彼女のスカートをすべて膝上10cmにしてきたことだろうか。
あれは、ただ衣玖の生足を拝みたかっただけの可愛いいたずらに過ぎなかった。
しかし、その翌日に家に乗り込んできた衣玖にこっ酷く叱られたために、その件はすでに終了したと考えても問題ないだろう。
では2番だろうか。
そんなはずはない、そう天子は考える。
なぜなら嫌われる要素が全くないからだ
そもそも好かれる要素もない、ということを天子は考えない、というか気付かない。
天子は衣玖のことが大好きで、それをいつも表現している。
先日の不法侵入もその一種である。
衣玖としても、それを若干疎ましく思うことはあっても、明らかに嫌そうな顔はしていない。
だから大丈夫、と天子は以後このことについてはあまり考えないようにする。
別に心当たりが多すぎる、とかそう言うことではない、断じてない。
では3番だろうか?
天子と衣玖がいくら親しくてもやはりお互いに隠し事はする。
天子が衣玖の所有物を拝借していることだってそうだ。
以前衣玖から、どうしてか自分の衣類が減っている、という相談を受けた際には苦労した。
なぜなら彼女は明らかに天子の事を疑っており、事あるごとに箪笥を見てもいいですか、部屋を少し調べさせて下さい、などと言ってきたからだ。
しかし流石の衣玖であっても、畳の下に隠してあるということには気づかなかったようで、天子は危機を何とか乗り越えることができた。
逆に衣玖が天子に何か隠し事をしているとすれば、それは何であろうか。
衣玖は基本的に天子に対してはあまり隠し事はしない。
もし隠し事をしていたとしても、それはとても些細なことである。
例えば先日のスカートをこっそりと試着して、鏡の前でクルクル回っていたことだろうか。
頬を赤らめながら、似合いますかね? と一人ファッションショーをしている衣玖を天子が見逃すはずがない。
どこぞの烏天狗に一部始終を撮影してもらっていたりもする。
こうしてまた一つ天子の隠し事が増えていくのだった。
話を戻すが、最近の衣玖の挙動不審っぷりはもしかすると3番に起因するものがあるのではないだろうか。
彼女は天子の姿を見れば高速で飛び去り、無理矢理捕まえて会話をしたとしても口を閉ざしたまま何も話そうとしない。
もしかすると衣玖は何かとんでもないことを自分に隠しているのだろうか。
ではそうとするならば、一体何を隠しているのか。
天子は再び思考し始める。
しかし、やはり何も思い浮かばない。
不意に天子は勢いよく立ちあがると、
「ウジウジ悩んでいても仕方ないわ! 衣玖に聞きに行きましょう!!」
そう言って部屋の戸を開くと、部屋の前で殴り合いをしていた使用人たちを蹴散らし、衣玖の元へ向かったのだった。
▼
「……で、彼女に会いに行ったら逃げられたと」
「に、逃げてないもん!」
驚いたから距離を取っただけ、それもかなりの距離を、そう言い切る天子。
衣玖に会いに行った天子はまず、衣玖の居場所を探す必要があった。
しかし、それは意外とすんなり見つけることができたのだった。
そして背後からこっそりと忍び寄り、逃げないように後ろから抱き締めた。
その時、偶然手が彼女の胸辺りに当たっていたのだが、偶然なら仕方ないのだった。
当然ながら驚いた衣玖は背後に振り向き、そして、
「げぇ! 総領娘様!」
と言って、天子の手を振りほどいてからエレキテル一発。
天子が痺れている間に、どこかに行ってしまったのだ。
残された天子はちょっぴり泣いた。
するとそこに偶然紫が現れたのだった。
初めは何でもない、と言い張る天子だったが、何やら面白そうなにおいを嗅ぎつけたのか、紫は天子を問い詰めた。
そうしてついつい話してしまった天子であった。
「どうして避けられるのか、理由を考えてみたかしら?」
「……わかんない」
「じゃあ、単純に嫌われているとかかしら?」
「そ……そんなことがあるはず―――」
ふと、天子の脳裏にあることが浮かぶ。
少し前のことだが、天子が衣玖の家に(勝手に)遊びに行った時のことだ。
衣玖が渋々、お茶でもどうですか、と台所にお茶を淹れに行っている間に、天子はこっそりと盗聴・盗撮用の機材を仕込もうとした。
しかし、何やら不穏な空気を感じ取った衣玖に見つかったために、計画は失敗に終わった。
その時の衣玖は、こんなことをするのだったら二度と来ないでください、と酷くお怒りだった。
まさか、それが尾を引いているの……?
天子が内心焦っていると、紫は訝しげな眼で、
「ふぅん、心当たりがあるのね?」
「な、ないわよっ! 全然、全く、皆無よ!!」
「…………」
じとー、という目で天子を見る紫。
その視線に耐えかねてか、天子は視線をそらす。
そして訪れる沈黙。
しばらくして沈黙に耐えかねた天子が、
「……あっ! そう言えば用事を思い出したわ、それじゃあ―――」
「……待ちなさい!」
てんしはにげだした!
しかしまわりこまれてしまった!
逃げられないようにしっかりと腕を掴まれる天子。
どうやら心当たりを話すまで逃がしてくれないようだ。
少し考えた後、天子は思い出す。
「……そう言えば衣玖は私に隠し事をしているのかも」
「……隠し事?」
「ええ、きっとそうよ。衣玖は隠し事をしているから私に会いたくないのよ!」
「貴女に隠れて、誰かに会っているとか?」
「……えっ!?」
「あの娘は可愛いから、もしかして恋人かもしれないわね」
「―――っ!」
天子は思わず絶句する。
そんなことは、考えたこともなかったからだ。
隠し事といっても、衣玖の事だからもっと単純なものかと思っていた。
しかし、紫の発言も一理ある。
衣玖は確かに可愛く、それは誰もが認める事実である、と天子は思っている。
そして衣玖は空気を読める故に、誰からも嫌われることはない。
そんな衣玖に近寄ろうとする輩どももいたが、全て天子が撃退してきたのだった。
だが、もし衣玖に好きな人ができたと仮定する。
これだけ好き好き言ってくる天子に面と向って、好きな人ができました、なんて言うはずがない。
まさか、という思いと、もしかして、という二つの思いが頭をよぎる。
そんな天子に対し、紫は内心ほくそ笑む。
あれこれ考えても結論が出ない天子は、最後の手段とばかりに紫に詰め寄る。
そして、襟元を掴んで叫んだ。
「ど、どうすればいいのよっ!」
「……そうねぇ」
そして紫は考えるふりをする。
その動作をまじまじと見つめていた天子だったが、それがいけなかった。
天子の一瞬の隙を突いた紫は、襟元にある天子の手を外し、耳元でそっと囁いた。
「……私に乗り換えてみない?」
「―――えっ!?」
突然の発言に驚き、天子は一瞬何を言われたのか理解できない。
ただ、紫の蠱惑的な声だけが耳に残る。
そのまま紫は天子の顎に手をかけると、ゆっくり顔を近づける。
そして、お互いの距離がなくなる、というところまで来てようやく天子は自分の置かれた状況を理解し、顔を赤らめた後、
「や、やめてっ!!!」
「あいたっ!」
天子のスナップの利いた平手が見事に紫の頬に決まった。
そして天子は目に涙を浮かべると、
「うわぁぁぁああああん!!!」
目にもとまらぬ速さで走り去ったのだった。
残された紫は、頬の痛みを感じつつ呆然とする他なかった。
ようやく正気に戻ると、ゆっくりと立ち上がり呟いた。
「……あらら、振られちゃったわね」
そうして紫は背後へと振り返る。
紫の後ろには、何時から居たのであろうか彼女の式神である、八雲藍がいた。
藍は、紫の姿を見ると、
「全く……からかい過ぎですよ紫様」
「うふふ、だって面白いんだもの」
「……はぁ」
ため息をつく藍。
紫はそんな彼女に近づくと、
「ねぇ藍、私振られちゃったわ」
「そうですね、見てました」
「だからね……慰めてっ!」
「嫌っスよ」
「即答ッ!?」
心底嫌そうな顔の藍、項垂れる紫。
少しして、紫は顔をあげ、引き攣った笑みを浮かべると、
「と、ところで藍、あれはもう大丈夫なのかしら?」
「はい、先ほど無事送り出しましたので……ちょうどいい感じですよ」
「うふふ、私が振られた甲斐があればいいわね」
「……そうスね」
「あらぁ? どうしたの不機嫌な顔をして」
「……何でもありませんよ」
そう言って、ぷいっと顔を背ける藍、心なしか尻尾も垂れ下がっているように見える。
紫は少し考えた後、ある考えに至った。
そして藍を手招きして呼ぶ。
藍は、何だろうと思いつつも紫に近づく、と、紫はいきなり藍を抱きしめた。
そのまま紫は藍の耳元で言った。
「嫉妬するなんて……藍もまだまだ未熟ね」
「……してません」
「あら、そうなの? じゃあ―――」
紫は藍を引き離そうとする。
やけにあっさりと引き下がる紫に、離れたくないと思った藍は、思わず紫を見てしまった。
そして紫と視線がぶつかる。
ニヤニヤと藍を見る紫、嵌められたことに気付き赤くなる藍。
紫は再び藍を優しく抱きしめると、
「全く、素直じゃないわね」
「………すいません」
「まあ、あの娘のお礼として先に受け取っておくことにするわ」
▼
必死に逃げていた天子は、自分が屋敷に戻ってきていることに気付いた。
そこでようやく後ろに振り向き、紫がいないことを確認する。
頭に浮かぶのは先ほどの出来事。
顔が火照るのを感じた天子は、頭を振ってその出来事を忘れようとする。
しかし、ついつい紫のことを思い浮かべてしまう自分がいる。
そして次に思い出すのは衣玖のことだった。
先ほど紫は、衣玖は誰かが好きなのではないか、と言っていた。
そんなことがあるはずはない、と思いつつも完全には否定できないことに歯痒さを覚える。
今度衣玖に会ったら、絶対に逃がさないようにして問い詰めることにしよう、そう誓った。
そして天子は、肩を落としつつ自分の部屋へと戻る。
部屋の戸に手を掛けて、開く―――
パァン!
「―――へっ!?」
火薬が炸裂する音が部屋に響く。
天子は思わず耳を塞ぎ、音の原因を探す。
するとそこには、使い終わったクラッカーを持った衣玖が居た。
衣玖は天子の姿を確認すると、拍手とともに言った。
「おめでとうございます、総領娘様!」
「………え?」
「え……? って今日が何の日か覚えてないんです…か?」
「……今日?」
衣玖に言われて、天子は考えてみることにした。
しかし、今日は特に何か特別な日であった気がしないのだ。
全く思い出せない、そんな様子の天子を見かねた衣玖は、
「全く……今日は総領娘様の誕生日ですよ」
「……私の誕生日!?」
「はぁ……まさか忘れているとは思いもしませんでした」
呆れた様子の衣玖、しかし天子はここしばらく誕生日を祝ってもらった記憶がない。
だから自分の誕生日を忘れていても仕方ないじゃないか、そう思った。
天子が色々考えていると、ふと机の上にある物が置いてあることに気付いた。
天子の視線に気付いた衣玖は、
「はい、今日は総領娘様の誕生日ということでケーキを焼いてきました」
そう言って衣玖は恥ずかしそうな顔で続けた。
「……実は私、ケーキを作ったことがなかったので教わりに行っていたんです」
「……だ、誰に!?」
「はい、初めは紅魔館に行こうと思っていたのですが、少々気まずいということがありまして……そこで紫さんの式の藍さんに教えてもらっていたんです」
「そ、そうだったの」
天子はようやく、今までの衣玖の行動の全体像が見え始めた。
つまり、衣玖が自分を避けていたのは、
「……衣玖が私を避けてたのは、私に内緒にするためなの?」
「そうですね、総領娘様には申し訳なかったのですが、やはりこういうものは相手に知らせないようにすべきだと藍さんにも言われていましたので……今まで本当に申し訳ありませんでした」
そう言って深々と頭を下げる衣玖。
まさか、誰も覚えていないような自分の誕生日の為に動いてくれていた衣玖。
そんな彼女の行いに対して、自分は勝手に勘違いし、果ては大変な誤解までしてしまっていた。
そう思った天子は、何だか衣玖に対して申し訳ないような嬉しいような、よくわからない気持ちになってしまい、とうとう泣いてしまった。
止めようと思っても、止まらない涙に天子は焦る。
そして、何故か突然泣き出してしまった天子に、衣玖も焦り始める。
「ど、どうして泣いているんですかっ!?」
「……ご、ごめんね衣玖」
……まさか、私が総領娘様を避けていた所為ですかー!?
そう考えた衣玖は、慌てて天子を泣きやませようとする。
そして、つい言ってしまった。
「な、何でもしますから、泣きやんで下さい総領娘様!」
この言葉にピクッと反応した天子は、涙が止まるのを感じた。
あれ……もしかしてこれ、チャンスなんじゃないの?
天子はそう思うと、内心ほくそ笑む。
そして、泣いた振りをしながら言った。
「い、衣玖は私の事を総領娘様って呼ばないでよ……」
「えっ!? ど、どうすればいいんですか?」
「……天子って呼んで」
「は、はい!? そ、それはちょっと……」
「衣玖はやっぱり、私の事嫌いなんだ……」
そうしてまた泣き始める天子、もちろん本当に泣いてはいない。
しかし、演技だと読み取ることができなかった衣玖は、天子を泣きやませるためならば、と観念する他なかった。
「て…天子……様」
恥ずかしさで頬を赤く染めながらも、衣玖は言った。
様付けだけど仕方ないか、そう思った天子はここぞとばかりに攻め立てる。
天子は、鼓動が高まるのを感じつつ言った。
「……それから衣玖、目を瞑りなさい」
「……はぁ?」
言われた通りに目を瞑る衣玖、この時点でもまだ天子の演技に気付くことはなかった。
目を瞑っているのだから、天子の目が怪しく輝いていることなんて気付くはずもない。
天子はゆっくりと衣玖と顔を近づける。
そして、
「……んっ」
「――――っ!」
唇に受けた感触から思わず目を開けてしまった衣玖は、眼前にある天子の顔に更に驚く。
それを確認しつつ、ゆっくりと顔を離す天子。
衣玖は、自分が何をされたのかを考え、だんだん顔を赤く染め始める。
天子も、今更ながら恥ずかしくなったのか、衣玖同様赤くなる。
そしてお互いの顔を見て、ますます赤くなる両者。
衣玖は慌てて天子から離れると、
「な、何をやっているんですかー!」
「え……わからなかったの? じゃあもう一回」
「い、いえ、もう結構ですから!」
「そう、残念ね……」
思わず断ってしまった衣玖だったが、内心では少し残念がっていた。
しかし、ここで何か言えば絶対に後が怖い、そのことを理解していた衣玖は何も言わなかった。
代わりに、というように衣玖はケーキを指差し、
「あ……そ、そうです、ケーキを食べましょう、天子様」
「そ、そうね、衣玖の作ってくれたケーキ、楽しみねー」
「ロウソクはありませんので、すぐに切り分けますね」
そう言って衣玖は机の上の包丁に手を伸ばそうとする。
すると、緊張の所為もあったのだろうか、思わずバランスを崩してしまう衣玖。
衣玖はそのまま机の上に倒れ込んでしまう。
衣玖を助けようと手を伸ばす天子、しかし届かない。
衣玖の顔の落下点にはちょうどケーキが。
そして、
「―――あっ!!!」
べちゃっ。
表札には「比那名居」とある。
広い屋敷の一室に、比那名居天子はいた。
普段から我儘で自由奔放な彼女はここにはいない。
彼女にしては珍しく、机に向かって何やら考え事をしているようだ。
その様子を見た使用人たちは生乾きの洗濯物を取り込んだり、急いで買い物に行ったりするなど突然の雨に備える。
いつもならここで天子が、何らかの反応を示すはずなのだが、今日に限ってはそのようなことはない。
天子の様子がおかしいということに気付いた使用人たちは、こっそりと彼女の部屋を覗くことにした。
初めの内は、周囲の雰囲気が変わったことに不信感を抱いていた天子だったが、しかし使用人たちに気付くことはない。
次第にまた考えに耽っていく天子。
時々奇声を上げたり、挙動不審になったりする天子に使用人たちもドキドキである。
ここである使用人が、遠くの音がよく聞こえる程度の能力を発揮することにした。
じゃあ俺も私も、と全員が天子の声を聞くために壁にコップを当てたり、部屋の戸に耳を当てたりし始めた。
決してやましい思いで盗聴するわけではなく、純粋に天子を心配しての行為である、というのが彼らの弁であった。
そして使用人たちは天子の独り言に耳を傾けた。
▼
天子は悩んでいた。
自称カリスマ天人の天子はこのような事態に直面したことがなかったからだ。
解決策は当然浮かんでくるはずもない。
しかし、誰かに頼るわけにもいくまい。
なぜなら天子は、この幻想郷において誰かに弱みを見せれば酷い目に遭うということを理解していたからだ。
ならば親に相談してみればどうだろうか、と天子は一瞬考えた。
だが、この問題に関しては親に頼ることを避けたい、そうも考えた。
この問題はデリケートな問題であり、それに親に頼ると後々面倒なことになりそうだからだ。
だから天子は一人で解決する他ない。
そこまで天子を考えさせる問題とは、
「……はぁ…なんで衣玖は私の事を避けるの?」
天子にとって比較的親しい存在である、永江衣玖のことだった。
何だ微笑ましい悩みじゃないか、と使用人たちが思ったときだった。
「……私はこんなにも衣玖の事が好きなのに」
盗聴していた彼らの時間が一瞬止まった。
しかしすぐに動き出すと、ある者は項垂れ、ある者はガッツポーズを取る。
そのまま彼らは激しい論争を開始するのだが、考え込んでいる天子はそれに気付くことはなかった。
天子は考える、ひたすら考え続ける。
空気を読める衣玖が自分を避ける理由は何なのだろうか。
1.天子に対して怒っている。
2.そもそも天子が嫌い。
3.何らかの隠し事をしている。
1番について考えるとすれば、つい先日衣玖の家に忍び込んで、彼女のスカートをすべて膝上10cmにしてきたことだろうか。
あれは、ただ衣玖の生足を拝みたかっただけの可愛いいたずらに過ぎなかった。
しかし、その翌日に家に乗り込んできた衣玖にこっ酷く叱られたために、その件はすでに終了したと考えても問題ないだろう。
では2番だろうか。
そんなはずはない、そう天子は考える。
なぜなら嫌われる要素が全くないからだ
そもそも好かれる要素もない、ということを天子は考えない、というか気付かない。
天子は衣玖のことが大好きで、それをいつも表現している。
先日の不法侵入もその一種である。
衣玖としても、それを若干疎ましく思うことはあっても、明らかに嫌そうな顔はしていない。
だから大丈夫、と天子は以後このことについてはあまり考えないようにする。
別に心当たりが多すぎる、とかそう言うことではない、断じてない。
では3番だろうか?
天子と衣玖がいくら親しくてもやはりお互いに隠し事はする。
天子が衣玖の所有物を拝借していることだってそうだ。
以前衣玖から、どうしてか自分の衣類が減っている、という相談を受けた際には苦労した。
なぜなら彼女は明らかに天子の事を疑っており、事あるごとに箪笥を見てもいいですか、部屋を少し調べさせて下さい、などと言ってきたからだ。
しかし流石の衣玖であっても、畳の下に隠してあるということには気づかなかったようで、天子は危機を何とか乗り越えることができた。
逆に衣玖が天子に何か隠し事をしているとすれば、それは何であろうか。
衣玖は基本的に天子に対してはあまり隠し事はしない。
もし隠し事をしていたとしても、それはとても些細なことである。
例えば先日のスカートをこっそりと試着して、鏡の前でクルクル回っていたことだろうか。
頬を赤らめながら、似合いますかね? と一人ファッションショーをしている衣玖を天子が見逃すはずがない。
どこぞの烏天狗に一部始終を撮影してもらっていたりもする。
こうしてまた一つ天子の隠し事が増えていくのだった。
話を戻すが、最近の衣玖の挙動不審っぷりはもしかすると3番に起因するものがあるのではないだろうか。
彼女は天子の姿を見れば高速で飛び去り、無理矢理捕まえて会話をしたとしても口を閉ざしたまま何も話そうとしない。
もしかすると衣玖は何かとんでもないことを自分に隠しているのだろうか。
ではそうとするならば、一体何を隠しているのか。
天子は再び思考し始める。
しかし、やはり何も思い浮かばない。
不意に天子は勢いよく立ちあがると、
「ウジウジ悩んでいても仕方ないわ! 衣玖に聞きに行きましょう!!」
そう言って部屋の戸を開くと、部屋の前で殴り合いをしていた使用人たちを蹴散らし、衣玖の元へ向かったのだった。
▼
「……で、彼女に会いに行ったら逃げられたと」
「に、逃げてないもん!」
驚いたから距離を取っただけ、それもかなりの距離を、そう言い切る天子。
衣玖に会いに行った天子はまず、衣玖の居場所を探す必要があった。
しかし、それは意外とすんなり見つけることができたのだった。
そして背後からこっそりと忍び寄り、逃げないように後ろから抱き締めた。
その時、偶然手が彼女の胸辺りに当たっていたのだが、偶然なら仕方ないのだった。
当然ながら驚いた衣玖は背後に振り向き、そして、
「げぇ! 総領娘様!」
と言って、天子の手を振りほどいてからエレキテル一発。
天子が痺れている間に、どこかに行ってしまったのだ。
残された天子はちょっぴり泣いた。
するとそこに偶然紫が現れたのだった。
初めは何でもない、と言い張る天子だったが、何やら面白そうなにおいを嗅ぎつけたのか、紫は天子を問い詰めた。
そうしてついつい話してしまった天子であった。
「どうして避けられるのか、理由を考えてみたかしら?」
「……わかんない」
「じゃあ、単純に嫌われているとかかしら?」
「そ……そんなことがあるはず―――」
ふと、天子の脳裏にあることが浮かぶ。
少し前のことだが、天子が衣玖の家に(勝手に)遊びに行った時のことだ。
衣玖が渋々、お茶でもどうですか、と台所にお茶を淹れに行っている間に、天子はこっそりと盗聴・盗撮用の機材を仕込もうとした。
しかし、何やら不穏な空気を感じ取った衣玖に見つかったために、計画は失敗に終わった。
その時の衣玖は、こんなことをするのだったら二度と来ないでください、と酷くお怒りだった。
まさか、それが尾を引いているの……?
天子が内心焦っていると、紫は訝しげな眼で、
「ふぅん、心当たりがあるのね?」
「な、ないわよっ! 全然、全く、皆無よ!!」
「…………」
じとー、という目で天子を見る紫。
その視線に耐えかねてか、天子は視線をそらす。
そして訪れる沈黙。
しばらくして沈黙に耐えかねた天子が、
「……あっ! そう言えば用事を思い出したわ、それじゃあ―――」
「……待ちなさい!」
てんしはにげだした!
しかしまわりこまれてしまった!
逃げられないようにしっかりと腕を掴まれる天子。
どうやら心当たりを話すまで逃がしてくれないようだ。
少し考えた後、天子は思い出す。
「……そう言えば衣玖は私に隠し事をしているのかも」
「……隠し事?」
「ええ、きっとそうよ。衣玖は隠し事をしているから私に会いたくないのよ!」
「貴女に隠れて、誰かに会っているとか?」
「……えっ!?」
「あの娘は可愛いから、もしかして恋人かもしれないわね」
「―――っ!」
天子は思わず絶句する。
そんなことは、考えたこともなかったからだ。
隠し事といっても、衣玖の事だからもっと単純なものかと思っていた。
しかし、紫の発言も一理ある。
衣玖は確かに可愛く、それは誰もが認める事実である、と天子は思っている。
そして衣玖は空気を読める故に、誰からも嫌われることはない。
そんな衣玖に近寄ろうとする輩どももいたが、全て天子が撃退してきたのだった。
だが、もし衣玖に好きな人ができたと仮定する。
これだけ好き好き言ってくる天子に面と向って、好きな人ができました、なんて言うはずがない。
まさか、という思いと、もしかして、という二つの思いが頭をよぎる。
そんな天子に対し、紫は内心ほくそ笑む。
あれこれ考えても結論が出ない天子は、最後の手段とばかりに紫に詰め寄る。
そして、襟元を掴んで叫んだ。
「ど、どうすればいいのよっ!」
「……そうねぇ」
そして紫は考えるふりをする。
その動作をまじまじと見つめていた天子だったが、それがいけなかった。
天子の一瞬の隙を突いた紫は、襟元にある天子の手を外し、耳元でそっと囁いた。
「……私に乗り換えてみない?」
「―――えっ!?」
突然の発言に驚き、天子は一瞬何を言われたのか理解できない。
ただ、紫の蠱惑的な声だけが耳に残る。
そのまま紫は天子の顎に手をかけると、ゆっくり顔を近づける。
そして、お互いの距離がなくなる、というところまで来てようやく天子は自分の置かれた状況を理解し、顔を赤らめた後、
「や、やめてっ!!!」
「あいたっ!」
天子のスナップの利いた平手が見事に紫の頬に決まった。
そして天子は目に涙を浮かべると、
「うわぁぁぁああああん!!!」
目にもとまらぬ速さで走り去ったのだった。
残された紫は、頬の痛みを感じつつ呆然とする他なかった。
ようやく正気に戻ると、ゆっくりと立ち上がり呟いた。
「……あらら、振られちゃったわね」
そうして紫は背後へと振り返る。
紫の後ろには、何時から居たのであろうか彼女の式神である、八雲藍がいた。
藍は、紫の姿を見ると、
「全く……からかい過ぎですよ紫様」
「うふふ、だって面白いんだもの」
「……はぁ」
ため息をつく藍。
紫はそんな彼女に近づくと、
「ねぇ藍、私振られちゃったわ」
「そうですね、見てました」
「だからね……慰めてっ!」
「嫌っスよ」
「即答ッ!?」
心底嫌そうな顔の藍、項垂れる紫。
少しして、紫は顔をあげ、引き攣った笑みを浮かべると、
「と、ところで藍、あれはもう大丈夫なのかしら?」
「はい、先ほど無事送り出しましたので……ちょうどいい感じですよ」
「うふふ、私が振られた甲斐があればいいわね」
「……そうスね」
「あらぁ? どうしたの不機嫌な顔をして」
「……何でもありませんよ」
そう言って、ぷいっと顔を背ける藍、心なしか尻尾も垂れ下がっているように見える。
紫は少し考えた後、ある考えに至った。
そして藍を手招きして呼ぶ。
藍は、何だろうと思いつつも紫に近づく、と、紫はいきなり藍を抱きしめた。
そのまま紫は藍の耳元で言った。
「嫉妬するなんて……藍もまだまだ未熟ね」
「……してません」
「あら、そうなの? じゃあ―――」
紫は藍を引き離そうとする。
やけにあっさりと引き下がる紫に、離れたくないと思った藍は、思わず紫を見てしまった。
そして紫と視線がぶつかる。
ニヤニヤと藍を見る紫、嵌められたことに気付き赤くなる藍。
紫は再び藍を優しく抱きしめると、
「全く、素直じゃないわね」
「………すいません」
「まあ、あの娘のお礼として先に受け取っておくことにするわ」
▼
必死に逃げていた天子は、自分が屋敷に戻ってきていることに気付いた。
そこでようやく後ろに振り向き、紫がいないことを確認する。
頭に浮かぶのは先ほどの出来事。
顔が火照るのを感じた天子は、頭を振ってその出来事を忘れようとする。
しかし、ついつい紫のことを思い浮かべてしまう自分がいる。
そして次に思い出すのは衣玖のことだった。
先ほど紫は、衣玖は誰かが好きなのではないか、と言っていた。
そんなことがあるはずはない、と思いつつも完全には否定できないことに歯痒さを覚える。
今度衣玖に会ったら、絶対に逃がさないようにして問い詰めることにしよう、そう誓った。
そして天子は、肩を落としつつ自分の部屋へと戻る。
部屋の戸に手を掛けて、開く―――
パァン!
「―――へっ!?」
火薬が炸裂する音が部屋に響く。
天子は思わず耳を塞ぎ、音の原因を探す。
するとそこには、使い終わったクラッカーを持った衣玖が居た。
衣玖は天子の姿を確認すると、拍手とともに言った。
「おめでとうございます、総領娘様!」
「………え?」
「え……? って今日が何の日か覚えてないんです…か?」
「……今日?」
衣玖に言われて、天子は考えてみることにした。
しかし、今日は特に何か特別な日であった気がしないのだ。
全く思い出せない、そんな様子の天子を見かねた衣玖は、
「全く……今日は総領娘様の誕生日ですよ」
「……私の誕生日!?」
「はぁ……まさか忘れているとは思いもしませんでした」
呆れた様子の衣玖、しかし天子はここしばらく誕生日を祝ってもらった記憶がない。
だから自分の誕生日を忘れていても仕方ないじゃないか、そう思った。
天子が色々考えていると、ふと机の上にある物が置いてあることに気付いた。
天子の視線に気付いた衣玖は、
「はい、今日は総領娘様の誕生日ということでケーキを焼いてきました」
そう言って衣玖は恥ずかしそうな顔で続けた。
「……実は私、ケーキを作ったことがなかったので教わりに行っていたんです」
「……だ、誰に!?」
「はい、初めは紅魔館に行こうと思っていたのですが、少々気まずいということがありまして……そこで紫さんの式の藍さんに教えてもらっていたんです」
「そ、そうだったの」
天子はようやく、今までの衣玖の行動の全体像が見え始めた。
つまり、衣玖が自分を避けていたのは、
「……衣玖が私を避けてたのは、私に内緒にするためなの?」
「そうですね、総領娘様には申し訳なかったのですが、やはりこういうものは相手に知らせないようにすべきだと藍さんにも言われていましたので……今まで本当に申し訳ありませんでした」
そう言って深々と頭を下げる衣玖。
まさか、誰も覚えていないような自分の誕生日の為に動いてくれていた衣玖。
そんな彼女の行いに対して、自分は勝手に勘違いし、果ては大変な誤解までしてしまっていた。
そう思った天子は、何だか衣玖に対して申し訳ないような嬉しいような、よくわからない気持ちになってしまい、とうとう泣いてしまった。
止めようと思っても、止まらない涙に天子は焦る。
そして、何故か突然泣き出してしまった天子に、衣玖も焦り始める。
「ど、どうして泣いているんですかっ!?」
「……ご、ごめんね衣玖」
……まさか、私が総領娘様を避けていた所為ですかー!?
そう考えた衣玖は、慌てて天子を泣きやませようとする。
そして、つい言ってしまった。
「な、何でもしますから、泣きやんで下さい総領娘様!」
この言葉にピクッと反応した天子は、涙が止まるのを感じた。
あれ……もしかしてこれ、チャンスなんじゃないの?
天子はそう思うと、内心ほくそ笑む。
そして、泣いた振りをしながら言った。
「い、衣玖は私の事を総領娘様って呼ばないでよ……」
「えっ!? ど、どうすればいいんですか?」
「……天子って呼んで」
「は、はい!? そ、それはちょっと……」
「衣玖はやっぱり、私の事嫌いなんだ……」
そうしてまた泣き始める天子、もちろん本当に泣いてはいない。
しかし、演技だと読み取ることができなかった衣玖は、天子を泣きやませるためならば、と観念する他なかった。
「て…天子……様」
恥ずかしさで頬を赤く染めながらも、衣玖は言った。
様付けだけど仕方ないか、そう思った天子はここぞとばかりに攻め立てる。
天子は、鼓動が高まるのを感じつつ言った。
「……それから衣玖、目を瞑りなさい」
「……はぁ?」
言われた通りに目を瞑る衣玖、この時点でもまだ天子の演技に気付くことはなかった。
目を瞑っているのだから、天子の目が怪しく輝いていることなんて気付くはずもない。
天子はゆっくりと衣玖と顔を近づける。
そして、
「……んっ」
「――――っ!」
唇に受けた感触から思わず目を開けてしまった衣玖は、眼前にある天子の顔に更に驚く。
それを確認しつつ、ゆっくりと顔を離す天子。
衣玖は、自分が何をされたのかを考え、だんだん顔を赤く染め始める。
天子も、今更ながら恥ずかしくなったのか、衣玖同様赤くなる。
そしてお互いの顔を見て、ますます赤くなる両者。
衣玖は慌てて天子から離れると、
「な、何をやっているんですかー!」
「え……わからなかったの? じゃあもう一回」
「い、いえ、もう結構ですから!」
「そう、残念ね……」
思わず断ってしまった衣玖だったが、内心では少し残念がっていた。
しかし、ここで何か言えば絶対に後が怖い、そのことを理解していた衣玖は何も言わなかった。
代わりに、というように衣玖はケーキを指差し、
「あ……そ、そうです、ケーキを食べましょう、天子様」
「そ、そうね、衣玖の作ってくれたケーキ、楽しみねー」
「ロウソクはありませんので、すぐに切り分けますね」
そう言って衣玖は机の上の包丁に手を伸ばそうとする。
すると、緊張の所為もあったのだろうか、思わずバランスを崩してしまう衣玖。
衣玖はそのまま机の上に倒れ込んでしまう。
衣玖を助けようと手を伸ばす天子、しかし届かない。
衣玖の顔の落下点にはちょうどケーキが。
そして、
「―――あっ!!!」
べちゃっ。
ゆ・か・らん!ゆ・か・らん!
隠し味のゆからんがこれまたたまりませぬ