ある日。
目覚めると、魔理沙は猫の姿になっていた。
「まあいいか」
疑問は感じなかった。
それに、鏡に写った猫の姿が可愛くて、気に入った。
「あっ。そうか、夢か」
と思ったのは、目線の高さが人間の位置だったからである。
「夢の中で夢と気付いたのは初めてだ。しかし、これじゃつまらんな」
目を閉じて、強く念じた。しばらくして目を開けると、考え得る限りの世界観が猫のものになった。
「さて、行くか」
一匹の猫が鳴いて、音もなく地を駆った。
ドアの前で叫んだ。
「アリス。おーい。こら。出て来ないなら泥棒を呼ぶぜ」
返事がなかった。
しばらくして、
「アリス。おい、死んでるのか? ……なら勝手に入るぞ」
「何だってのよ。猫のくせに、にゃがにゃが五月蝿いわね」
ようやくのことでドアが開き、アリスが不機嫌そうな姿を見せた。
「腹が減った。メシ」
「シッ、シッ」
「私だぜ?」
「五月蝿いわね。水まくわよ」
ドアが閉まった。
「ふむ」
魔理沙は思案した。
正体が分かるかどうか試すつもりでいたのだが、
「アリスのことだから、私だと分かっても、ああだろうな」
人選を間違えたと思った。
再びドアが開いた。
「げっ」
嫌な予感がした。
アリスが無表情で、手に皿を持っている。
「私を食べたら美味しいぜ」
と言ってから、言葉が通じないでくれよ、と願った。
皿にはぬるいミルクが入っていた。
「結局どうだったやら」
魔理沙には分からなかった。アリスが正体に気付いていたものかどうか……。
無言で皿を置いたアリスは、無表情のまま立っていた。ミルクを飲み終わると、
「じゃあね」
とだけ言って皿を下げた。
そのときのアリスは、どこか寂しそうに見えた。
博麗神社に着いた。
裏手に回ると、霊夢が縁側で茶をすすっている。
「よう、霊夢。招き猫の押し売りに来たぜ」
「ああ、魔理沙? 何してんのよ」
「なぜ私だと分かる?」
「いや、あまり分からん」
気にもならないのか、再び茶をすすっている。
魔理沙は苦笑した。
「眠そうね」
霊夢にはあくびに見えたらしい。
しかし、そう言われると眠くなった。魔理沙は軽く跳ぶと、霊夢の膝の上に乗った。
「こういう拷問ってあったっけ?」
「分からんってば」
本格的に眠気に支配された。
(この夢も、ここまでか)
そして時が過ぎた。
魔理沙は猫のままだった。
(おかしいな。それに、深くなったか……?)
眠る前に比べると、奇妙な現実感があった。
どこを見ても、はっきりと影が垂れている。
(深い夢だ)
そう思った。
霊夢が指で、顎をなでてきた。
「あとにしてくれ」
「……」
魔理沙は自分の耳を疑った。
霊夢の言葉が、何も分からなかった。
魔理沙は必死で神経を研ぎ澄まし、次の言葉を待った。
やけに蒸し暑く、針のような悪寒が差してきた。
「やっぱり、勘違いね」
と霊夢が言った。
魔理沙はようやく言葉を聞き取れて、安堵の息を吐いた。
また指が、顎をなでてきた。
「お前を魔理沙と思ったこともあるんだけどねえ」
「……」
「あいつ、どこへ行ったんだか」
「にゃあ」
「お前も老いたわね。もう十年も昔の話だもの」
辛い。
霊夢の指を噛むと、血の味がした。
(十年だと?)
慌てて膝から跳び降りた。
体が重く、ひどく息苦しかった。
「どこへ行くの?」
後ろで霊夢が言った。暗く冷たい声である。
(あれは、本当に霊夢なのか?)
魔理沙は振り返るのが怖くなった。あれは、姿を見てはいけないものだと思った。
「……」
何か、後ろで声がした。
寒気がして、魔理沙は逃げ出した。
アリスの家である。
ここまで、一度も後ろを振り返らずに来た。
(最悪だ)
アリスは留守だった。
体毛が汗でぐっしょり濡れていた。
(帰ろう。私の、霧雨魔法店へ)
魔理沙は目をつむり、息を止めて振り返った。
「そうか。お前も、私を置いて行くんだな」
闇の中で、しわがれた声が響いた。
一気に駆け抜けた魔理沙の耳に、
「さよなら。魔理沙」
と聞こえて、いつまでも耳に残った。
(やはりあれは、霊夢だったのかもしれない)
と思ったが、闇の中をまっすぐ駆けて、霧雨魔法店へもぐり込んだ。
目を開けると、見慣れた散らかりように安心した。
魔理沙の部屋である。
ただ、白く埃が積もっていて、歩くと足あとが黒く残っていった。
(もう休もう……。ああ、疲れたよ)
空気が抜けるように、心がしぼむのを感じた。汗がしたたり、床に落ちた。
そんな中、ふと感じた。
(私の寿命は、今日までらしい)
そして奇妙にも確信した。
鏡を見ると、くたびれた老猫が写っていた。
魔理沙は倒れ、動けなくなった。
(そんな馬鹿な。私はまだ、何もしちゃいない)
鏡の向こうで、死体のような猫の、目だけが光って見つめている。
(識りたい魔法がある。呑みたい酒がある。勝ちたい奴がいるんだ)
息が乱れ、視界が赤黒く染まった。
(嫌だ。死にたくない……)
目の光が消えて、意識まで暗くなった。
やがて、死体はぽつりと呟いた。
「やめてやる。猫なんか」
そして時が過ぎた。
魔理沙は妖怪になった。
鏡を見る限りでは、尻尾が二本になった他は、前と変わらない。
「こんな奴、どっかにいたなあ」
と言ってから、人語を使えることに気が付いた。
「ふむ。見た目も人型になりたいが、まだ無理か」
とりあえず外へ出た。
嫌な気配はまるで感じなくなっていた。
「時間はいくらでもある。ゆるりとゆこう」
ふらふらと博麗神社へ向かった。
裏手に回ると、霊夢が縁側に腰掛けている。
魔理沙はふわりと跳んで、霊夢の膝に乗った。
「よう。私は人間をやめたよ」
自分の言葉に、何か妙だなと思ったが、分からなかった。
鼻の先に、ぽとりと落ちてきた物があったので、口にくわえた。こりこりとしている。
「霊夢も妖怪になれよ。悪くないもんだぜ」
また、ぽとぽとと落ちてきた。白い指のような形をしている。
前と違い、膝が冷たいことに気が付いた。
「おい。霊夢?」
口のものを噛み砕くと、骨の味がした。
膝から跳び降りて、振り返った。
霊夢は白く乾いていて、石灰のようだった。
「死んだのか?」
返事はない。風が吹いて、霊夢は粉々に砕け散った。
虫だけが煩く鳴いている。
鼻の奥で、じりじりと痺れるような感じがあった。
「あばよ。指、噛んじまってごめんな」
ふらふらと歩き出した。
振り返っても、縁側には何者もいなかった。
アリスの家に入り、テーブルへ跳び乗った。
「留守だと思ったぜ。紅茶をくれ、熱い紅茶を」
「分かったわ」
アリスは、台所で湯を沸かし始めた。その後ろ姿へ向かって、魔理沙はひたすら喋り続けた。
時折、
「そうね」
などと無愛想に返ってくるのが、妙に嬉しかった。
「紅茶が入ったわ」
「サンキュー」
紅茶を飲もうとして気が付いた。
「しまった。猫舌になってんだった」
「どうするの」
「待つさ。時間はいくらでもあるぜ」
窓の外を眺めると、影が薄くなり、世界は白っぽくなっていた。
やがて紅茶が冷めた。
(もっと早く妖怪になるんだった。私は何を怖れてたんだろうな)
アリスが立ったまま見つめていた。
「座れよ。話したいことがたくさんあるんだ」
ガラリ、と音を立てて、アリスは椅子に座った。
からからと、何かが鳴っている。
「なあアリス」
「なに」
「お前、いつから人形になったんだ?」
アリスの目が動いて、からりと鳴った。
魔理沙は興ざめして、早々にアリスの家を出た。
振り返ると、人形のアリスが玄関先から見送ってくれていた。
(自律人形か)
魔理沙は苦笑した。
「紅茶、旨かったぜ」
かくん、と首が垂れるのが見えた。
魔理沙は霧雨魔法店に帰り着くと、居眠りを始めた。
そして時が過ぎた。
魔理沙は人型に成長した。
外に出ると灰が降っていて、世界が白く包まれていた。
「どこだよう……」
道も分からない。それでも魔理沙は漆黒のローブをまとって歩き出した。
「みんな、どこ行っちまったんだ」
気が付けば、博麗神社の裏手へ着いて足を止めていた。
妙ににぎやかな声が聞こえた。
縁側にあがって見ると、障子の向こうで誰かが宴会をしているらしい。
魔理沙はひどく喜んだ。
「私だ。混ぜてくれ」
誰もいなかった。
障子には人影だけが黒く映っていて、楽しそうに騒いでいる。
魔理沙は酒を用意して、とくとくと注いだ。
「霊夢」
杯を置いた。
「アリス」
また杯を置いた。
思い出せる限りの名を呼びながら、一つ一つ杯を配っていった。
「魔法は知り尽くした。酒はいくらでもある。それに、誰よりも強くなったぜ」
最後の杯になみなみと酒を注ぐと、一気に飲み干した。次々、浴びるように呑んだ。
障子の影たちが、どっと笑った。
「私を……置いていかないでくれ」
震える手で握りしめた杯に、水滴が落ちていった。
ふと、肩を叩かれた気がした。
「魔理沙」
名を呼ばれ、ぞくりとして見上げた。
アリスがいた。
「アリス?」
確認するように言った。
アリスは空の杯に酒を注いだ。
「魔理沙」
杯を、すっと差し出してきた。
「呑まないの?」
手を握ると暖かった。魔理沙はきつく、何度も握り直した。
「アリス……アリスよう……」
震える手で酒を注ぎ返して、二人きりで乾杯した。
神社を出ると、灰が吹雪いて何も見えなかった。
アリスが話しかけた。
「あなたはどこへ行くの?」
「ふむ」
魔理沙は思案した。
「帰りたい」
「どこへ?」
「それが、分からないんだ」
アリスは微笑んで言った。
「うちに来る?」
魔理沙は黙ってうなずいた。
振り返って見ても、何もない。
「あっ。ちょっと待ってくれ」
魔理沙は博麗神社へ駆け戻った。
今を過ぎればもう二度と、ここを訪れない予感がする。
(何か、忘れ物をした)
魔理沙はあちこち探し回った。
「おかしいな。アリス、知らないか?」
「分からないわ」
魔理沙は障子を開けて、先の部屋へ入った。影は消えていて何の気配もない。
アリスが壁を指差した。
「ひょっとして、あれじゃない?」
写真の収まった額が掛けてある。
「そうか……うん。これだと思う」
魔理沙はそれを外すと神社を後にした。
遠い昔の写真である。
歩きながら、魔理沙はアリスへ話しかけた。
「私は、やはり帰らなきゃならないんだ」
「どこへ?」
「霧雨魔法店。ただ、道が分からない」
「案内してあげる」
冷たい灰が降りしきる中、二人で歩いていった。
魔理沙は鏡の前へ立った。
「帰れるかどうかは分からん。でもアリス、私は行くよ」
アリスは黙ってうなずいた。
「ごめんな。私はあの日へ帰りたい」
魔理沙は写真をアリスに手渡した。
アリスは少し戸惑ったようだった。
「帰り道で迷わない?」
「分からん」
魔理沙は鏡に掌を押し当てた。
「さよなら。アリス」
するりと、鏡の中へ入って行った。
鏡で囲まれた小部屋である。
向かい合った鏡が、虚像を無限に作り出していた。
(きっとこっちだ)
魔理沙は一方の鏡を選んで手を当て、通り抜けた。
また鏡の小部屋だった。
(見つけなきゃ、生きた証を。私が帰りたい、私の姿を)
魔理沙はまっすぐ歩き続けた。
幾百もの小部屋を抜けて、魔理沙は立ち止まった。
(本当にこっちで良かったのか?)
迷いが生じていた。
じぐざぐに進むようになり、やがて迷いと疲労で一歩も動けなくなった。
「私は何をしてきたんだ?」
魔理沙は膝を付き、握りしめた両腕にきつく爪が食い込んだ。
その腕を掴み取る者がいた。
「こっちだよ」
誰かが魔理沙の腕を引っ張った。
向かい風が吹き付けてきて、まともに目を開けられなかった。
(誰だ……?)
妙に懐かしかった。
ぐんぐんと引っ張られ、どこかで見た風景が光のように流れて行った。
(待って。服が脱げちゃう)
ローブを抑えようとしたが、手が短かった。魔理沙は幼くなっていた。
(苦しい……)
引っ張る手は、渦を描くように疾走した。
魔理沙はついに、胎児にまで戻って消滅した。
「目を開けな」
霧雨魔法店。
(精一杯やれ、魔理沙。あたしゃ、ここにいるよ)
そして魔理沙は目が覚めた。
魔理沙は跳ね起きると、ほうきを掴み取って疾駆した。
吐き気がする中、全力で走った。
「懐かしい。懐かしいぜ……」
魔法の森の朝は、光と陰の迷宮のようだった。
走り続けて、アリスの家が見えた。
ドアを叩き鳴らし、叫んだ。
「アリス! アリス!」
深呼吸して続けた。
「私たちはここにいる。でも、いつかお前は私を置いて行くんだろうな」
すまない、と口の中で呟いた。
振り返って胸を抑えると、ドアにもたれ掛かった。
「……それだけだぜ。ただ、そう思うとたまらなくてさ」
どかんとドアが開いて、魔理沙はふっとばされた。
「ふうん。そんなくだらない事を言いたくて、叩き起こしてくれたの?」
アリスが不機嫌そうに出現した。
魔理沙の枕元に、ミルクティーとパンケーキが二人分運ばれた。
「今度はどんな幻覚見たのよ」
アリスは椅子に腰掛け、静かに食事を取った。
魔理沙は顔まで布団にうずくまり、独り言のように話し始めた。
「アリスがひどい奴で、私を切り刻んで食おうとするんだぜ」
「怖いわね」
「霊夢のとこに逃げたら、霊夢は死んでたんだ」
「そっちは想像できないわ」
「私も歳を取って、死んだと思った」
「……」
「でも私は妖怪になって、まあ、少し生き過ぎたな」
「ふうん」
「わけわからんほど寂しくなってさ。アリスが現れた時はほっとしたよ」
「はいはい」
「でも私はアリスを置いて、一人で帰って来たんだ」
「あなたの方が怖いわ」
「ごめんな。あと……何だったかな。もう忘れちまったぜ」
「じゃあ食べなさい。冷めるわよ」
魔理沙が布団から顔を出した時には、アリスは食事を終えていた。
「アリス。食わせてくれ。あーん」
「切り刻んでほしいのかしら?」
魔理沙は一人で食った。
ドアが開き、霊夢が現れた。
「ノックくらいしなさい」
「趣味じゃないわ。魔理沙いる?」
「居留守を使ってるぜ」
魔理沙は体を起こした。
(頭痛がしやがる)
口を歪め、にたりと笑った。
「置いてかないでよ」
「え?」
霊夢は帽子を放り投げてきた。魔理沙の愛着しているとんがり帽子である。
「忘れ物よ。それから魔理沙が……ん、どうかした?」
「いや。昨日は宴会でもしたんだっけ?」
アリスが即答した。
「そうよ。酔いつぶれたあなたを、私が家まで運んでやったんだから」
(ああ……なるほどな)
「感謝の言葉は?」
「愛してるぜ」
霊夢が一枚の紙きれを差し出した。
「それから、宴会中に魔理沙が撮った写真。現像できたってさ」
見ると、皆が楽しそうに騒いで写っている。
「くっくっく。こりゃいいや」
「何がおかしいのよ?」
「さてね。この写真、私だけ写ってないじゃないか」
当然のことだった。霊夢とアリスは不審そうに魔理沙を見つめた。
魔理沙は一人、からからと笑った。
「用は済んだわ。酔っ払いの相手をする気はないの」
霊夢は帰っていった。
魔理沙はアリスの家の庭に、写真を埋めた。
「永久保存版だ。淋しくなる時が来たら、開けるんだぜ」
「……開けないわよ」
「さあて、位置について」
言うと、魔理沙は走り出した。
「よーい」
ほうきを振り上げ、虚空の中にぴたりと固定した。
それから鉄棒を使うようにくるりと弧を描き、ほうきにまたがった。
「ドン!」
魔理沙は黒い光となって飛んだ。
他愛もなく過ぎ去った、ある日のことの話である。
褒めたいんだか貶したいんだか自分でも判らない/^o^\
夢オチじゃなかったらどうしたかなぁ……不気味な話だ
なんかよく分からないけど
いい意味で何と言えばいいのやらって感じ
でもほのぼのタグは嘘だと思うw
面白かったです。
とかなんとかそんな感じ。
幻想って危ないよね
引き込まれる