暑い。
そのうちぐずぐずに身体が溶けきって、ここがマエリベリー・ハーンの墓場になってしまうんじゃないかと真剣に考えてしまうほどの蒸し暑さ。直射日光は当たらないとはいえ、断熱材もろくに入っていない安アパートの一室なんて夏場になればそりゃあそれなりの室温になるわけで、加えて少しでも涼しくなるようにと開け放たれた窓から入り込んで来るのはただ温いだけの空気とどことなく雨音に似た外の世界のノイズ。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合って溶け合ってこの部屋に充満しているせいで、今の私の気力だとか生命力だとかそういったものは最低ラインまで引き下げられていた。おまけに朝方からずっと鳴くのを止めない蝉達の唄声が頭の中にがんがんと響いていて、それが私の中にごく僅かに残っていたはずの体力をすっかり奪ってしまっているようだ。何もする気が起きない。
夏の間の短い命を精一杯謳歌している彼らの鳴き声なんて、違う種族の者からしてみれば交差点を大音量で走り抜けるバイクやら外国の童話に出てくるフライパンを麺棒で叩いて子供達を叩き起こすお母さんネズミと同じような害悪でしかない。それを言ってしまえば森を切り崩し平地にビルを建てる人間の行為だって蝉にとっては害悪でしかないのだろうが、まあここはお互い様ということで許してもらいたい。迷惑なんてもの何処にだって誰の元にだって、森にきのこが生えるかの如く当然のようにそこに湧いて出るものなのだから。
そんなことに脳みそをゆるゆると回転させている自分自身はどうなのかと思わないでもないが、だらけている時というものはとにかく目の前のものごとに関係のないことばかり考えてしまうものなのだ。人、それを現実逃避と言う。
そんな状態が昼過ぎからずっと続いているのだから、当然レポートなんて進むはずもない。最低五枚以上は書くようにと義務づけられたレポートはようやく一枚目の半分に差し掛かったところで、しかも何が恐ろしいってこのレポート、提出期限が明日までなのである。手が止まる度にペン回しをするせいで今日一日でやたらと上達してしまった。シャープペンをくるくる指の間で弄びながら、私はだらりと机に突っ伏したままの姿勢で、明日の自分についての想像を巡らせてみる。
どうしてレポートを提出しなかったのかと訊ねる教授。蝉がうるさかったんですと答える私。単位のひとつやふたつ落とされても納得のいってしまう光景である。
そんなふうにうだうだと過ごしていると、ガチャリ、と玄関のドアの開く音がした。二秒ほど経って、私のいる部屋のドアが勢い良く開け放たれる。
「……おお、一段と蒸し暑いわねーこの部屋」
インターホンくらい押せと視線に込めてみるものの、そんなことに物怖じする蓮子ではなかった。先程「今から部屋行くから」のメールを寄越してきたサークル仲間は平気な顔で部屋の中に押し入り、テーブルをはさんで私の正面にどっかりと座った。
「メリー生きてる?」
「死んでる」
「香典いくらがいいかしら」
「そうね、冷たい飲み物が買えるだけの額があればこの際充分だわ」
だらりと力の抜けきっていた手を蓮子の方に差し出す。
先程の返信メールにあった「差し入れよろしく」の八文字くらいは蓮子にだって読めたはずだ。蓮子は後ろ手に持ってきていたスーパーのビニール袋をがさがさと漁り、缶を取り出して私の手に握らせた。
熱かった。
「はい、おしるこ」
「ちゃんとこっちに顔向けてよ蓮子。殴るから」
「発汗はダイエットに良いのよ。良かったわねメリー」
「殺すぞ」
「ごめん、嘘」
どうせ謝るなら最初からしなければいいのに、とは思ったが口には出すまい。というかこの暑い中ホットのおしるこの缶を売っている店など見付けるのが大変だっただろうに、わざわざネタを仕込んでくる蓮子の根性には感服する。しかし代わりに手渡されたのはちゃんとよく冷えているラムネの缶で、私は迷うことなくそのプルトブを引いた。そういえば瓶のラムネを最近見なくなったのだが、最近の主流は缶なのだろうか。
しかし瓶だろうが缶だろうが喉を駆けるこの爽快感に何ら相違はない。ぐいと煽ったその缶をテーブルの上に勢い良く置く。
「……つぁぁ、生き返るわ……」
「日常の些細な場面で黄泉帰りを経験出来るなんて素敵なことね」
「本当に。生きてて良かった」
正直缶を置いた表紙にレポート用紙に水滴が飛んで濡れたのだが何かもう本格的にどうでも良くなってきた。レポート出さなくたって死ぬわけじゃないし、とかちょっと真面目に考え始めている自分に危機感を抱かないというのもそれはそれでまずい気がするのだが、やる気が出ないものはしかたがない。というか、考えてみれば蓮子が部屋にいる状態でまともなレポートなんて書けるはずもなかった。
視線をやれば、蓮子は嬉しそうな顔で先程の袋から数本の缶ジュースやら缶コーヒーやらスナック菓子やらを取り出してテーブルに並べていた。たいして広くはないこの部屋のテーブルはそれだけですぐに埋まってしまう。まるで高校生によるホームパーティーを思わせるような光景だ。
更にアイスクリームまで取り出すと「メリー、冷蔵庫借りるわねー」と私の返事も待たずに冷凍室に適当に詰め込んでいた。差し入れを頼んだのは確かに私だしそのアイスはありがたいと思うけれども、やっぱり買い過ぎだと思う。
「蓮子はレポート終わったの?」
「徹夜したわよ。まあぎりぎり四枚目の最終行までしか書いてないから、どんな反応されるか分からないけど」
「なんでそんな綱渡りを……」
「常に自分を限界まで追い込むのが宇佐見蓮子の生き様って奴よ」
「阿呆らし。ただ面倒だから今までやらなかっただけでしょ」
「それをあんたが言うか」
もっともである。私は肩をすくめ、知らんふりを決め込むことにした。そんな私にそれ以上突っ込むことはなく、蓮子はいつの間にかその手に握った缶ビールのプルトブを空けていた。
手伝う気ゼロだな、こいつ。
「飲む気なら家で飲んでくれば良いのに…」
「駄目ね、メリー。わざわざ他人の家に転がり込んで飲むからこそ楽しいんじゃない。一人で家で麦酒なんか飲んだってしみったれるだけで楽しくも何ともないわ」
「その割に差し入れは全部そっち持ちなのね。まあありがたいけど」
「いや、後でちゃんと半額要求する気だったけど」
私は溜め息を吐いて、戯言ばかり抜かすどうしようもない友人の頭に思い切りアッパーを食らわせてやった。
いや、動くと暑くてたまらない。
▽
星空である。
満天の、とまで形容出来ないのが残念だが、ともかく星空には変わりない。
見知った星座も流れ星もないし、辺りはアルプスの広大な自然と澄んだ空気に囲まれているわけではなく、実際には京都の明かりのせいで本当に僅かにぽつぽつと見える程度の星だけれど。それでも、きれいなものを見れば綺麗だと感じるのが人間の性だ。
もしこの世界に生きる全ての人間が、この星を見上げた時に何も感じないようになってしまったら、その時の私達はもうきっと、取り返しのつかないところまで進みすぎてしまっているのかもしれない。
「おお、八時半ジャスト」
私は思い切り蓮子の頭をはたいた。
「人が感傷に浸ってる時にそういうのまじやめてほんとやめて」
「星見てどんな感傷に浸るってのよ。メリーってばロマンチスト」
「ああもう全てが疲れる……」
結局私達はあの後二人してだらだらと時間を過ごした後、あげくには思い切り寝入ってしまい、目が覚めた時にはもう日が沈んで久しかった。手付かずのレポートの件はもう諦めることにして、レトルトの簡単な夕食を家で摂ったばかり。なんだかんだで蓮子には差し入れを大量に頂いたという恩があるので、途中まで私が送ってあげることにした。七割方明日の朝食の買い物のついでなのだけれども。
蓮子は差し入れと称して持ち込んだ麦酒を数本空けたために若干酔っていて、まるでステップを踏むかのような軽やかな足取りで帰路を歩いている。正直な話隣を歩きたくはないが、その辺の路上でまた眠り込まれたりでもしたら後々面倒臭い。まあ、そこまで酔いが回っているわけではなさそうだから大丈夫だろうけれども。
しかし本当にどうして蓮子はあんな大量の差し入れまで持って私の部屋に来たんだ。私がしばらくレポートの為に籠っていたことは知っていたはずなのに。蓮子と一緒に完全に昼寝をしてしまった輩が言えることではないから、さすがに邪魔されただなんて思わないけれど。
「メリーィ」
「その呼び方気持ち悪い」
「星ってさ、本当に願いを叶えてくれると思う?」
足を止める。
私より数歩進んだ後、蓮子も足を止めてこちらを見た。
「どうしていきなり止まるのよ」
「いやだって、今の何よ」
「んー、言葉通りの意味だけど」
いや、その「言葉通り」が分からない。第一蓮子ってそんなキャラだっけ。私の知ってる蓮子は例え獅子座流星群を肉眼で目の当たりにしても無感動に「零時十五分二二」とか言ってのけるような奴だ。というか実際に言われた。実はお前は蓮子じゃないんじゃないかという疑いの視線に気付いたようで、蓮子は肩をすくめて私を見る。
「いやね、ちょっと不思議じゃない。星なんて所詮どっか遠くにある天体、ってか主に恒星のことでしょう。そんなものに願いをかけるなんて地球人独自の風習、ちょっと不思議だと思わない。そもそもいつからあるんだか」
「少なくとも星の正体が明らかになるずっと前からじゃない?科学なんて概念が存在しなかった時代の人達にとっては、星は綺麗な光の粒でしかなかったんだし。綺麗なものにはついつい願掛けしたくなるのが人間なんでしょ」
「はあ、そんなもんかしら」
蓮子は首を傾げると、また歩き出した。それに呼応するように私も歩みを進める。
そんなに遅い時間帯でもないのだが、辺りに人の影はまばらだった。そのまばらな人影の大半は帰宅途中のサラリーマンのようで、私達のような年代の人物は見受けられない。また一人、やや足早な中年の男性が私達の横を擦れ違っていくのを横目で見送る。帰宅することのみをただ考えているであろう彼はふとこの星を見上げた時に、何を考えるのだろうか。
「蓮子なら」
「んー?」
「願掛けするなら、何をお願いするのよ」
「さてね。出来うるならお財布の中身がもう少し豊かになってほしいなあ」
「月旅行は?」
「あれは願掛けするまでもなく私達の力で叶えるもの」
いつも通りの、他愛もない会話。
いつの間にか、別れ道まで差し掛かっていたらしい。蓮子のアパートのすぐ近く。私はもう少し進んで、コンビニで適当に食品でも買い込んで帰るつもりだ。
じゃあね、と私は蓮子に言う。蓮子は頷くと一、二歩歩きかけ、それからふと何かに気付いたように振り返った。
「ところで、メリーなら何にするの?願掛け」
「そうねえ。ひとりでにペンが動いて勝手にレポートを仕上げてくれますようにってお願いする」
私の言葉に蓮子は笑った。「じゃあね」と片手を挙げて歩いていく蓮子。
黒い帽子が遠ざかっていくのを見ながら、私はしばしそこに立ち止まったままだった。今の言葉に嘘はないしレポートが仕上がってほしいのは本当だけれど、でも、たったひとつ願掛けをするのなら、私は何を願えば良いのだろうか。
温い夜風が髪をふわりと浮かせる。それを手で押さえながら、私は今一度空を見上げてみた。通りがかりのこれまたサラリーマンが私の姿を不思議そうに一瞥し、それからまた顔を背けて歩いて行く。夜の街のネオンに照らされたか細くしか光っていない小さな星が点々と散らばる程度の夜空は、確かにお世辞にも見栄えがするとは言えないけれど。
まあ、ジョン・レノンが世界平和なんて壮大な願いごとをするわけではないんだし、一介の大学生がささやかでちっぽけな願掛けをするくらいには充分事足りるかもしれない。
私は小さく笑った。
「決まってるじゃないの」
願わくば彼女と過ごすこの最高の日々が、いつまでも続いてくれますように、だ。
ずっとこうならいいのに。
きっと、なにやらせてもかわいい。
だからもっと色々やらせry
真夜中にパソコンの前でニヨニヨしてしまった。
夏の都にいると、概ねこんな感じの暑さとどろりんとした熱気に悩まされます。
近未来で首都に返り咲いてもやはり暑いんでしょうねぇ。