Coolier - 新生・東方創想話ジェネリック

文霖。新聞 第9刊

2009/07/06 23:44:49
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※作品集29から31、36にかけて連載している、文霖。新聞の続きです。


















 いつものように、鴉達のけたたましい鳴き声で起こされた私は、いつものように朝風呂を楽しむ。
 この変わらぬ日常が与えてくれる退屈、そして安寧。
 一見、相反するようで、どちらも長い妖怪の生には欠かすことが出来ない。

 退屈が生み出すもの、それは好奇心。
 飽くなき知識への渇望であり、妖怪が成長するための原動力。
 好奇心を失ったとき、妖怪は消えるように死んでいく。

 安寧が生み出すものは余裕。
 平凡な日常に浮かぶ、僅かな変化を際立たせ、世界をいっそう豊かに魅せてくれる。
 だから私は、いつまでも飽きる事無く、幻想郷を飛び回る事が出来るのだと思う。

 そんなありふれた朝に少しだけ感謝しながら、私は家を発つ。
 いっぱいに広げた翼を、大きく一つ羽ばたき、滑昇風に乗って高度を上げる。
 最短距離を最高速で飛ぶのも悪く無いが、ふらふらと風に身を委ねて飛ぶ方が私は好きだ。
 全身に日差しを浴びるように、私はゆっくりと身体を廻す。
 目には空の青と夏の深緑が交互に映る。
 高空の冷たく希薄な空気と、ちくりと刺す日差しのコントラストが一層心地良い。
 嗚呼、今日も呆れるくらい、暑い夏になるだろう――。

「それでも、去年よりはずっとマシかしらね」

 風の流るるまま、近づいたり、遠ざかったりしながら、私は人里を目指していた。
 一直線に向かってしまうと、私の翼ならあっという間だ。
 それでは、あまりに余裕が無いし、面白味にも欠けてしまうので、あえてまわりくどい道を選ぶ。
 得てして、まわり道は偶然に恵まれる道である。
 妖怪は、何事にも『遊び』を持って行動するべきなのだ。

「そんな台詞、今は言えたもんじゃないわね……」

 新聞記者の命綱、文花帖を読みながら、ううむと、唸る。
 とても『遊び』がある状況とは言えない。
 今月はまだ一度しか、新聞を発行していないのに、もう半月が過ぎてしまった。
 最低限、月二回は出すという目標すらも危うい。

「霊夢もさっぱり動かないしなぁ……」

 何しろ暑いので、誰も動かない、異変も起きない、事件もおきない、巫女も動かない、記事出来ない。
 ないないないの、ない尽くし。
 困っているのに、何故だか楽しい。
 仕事に余裕はないけれど、心に余裕があるからだろう。

 ――ああ、少し暑くなってきたかな。







 日差しはいよいよ強くなり、気持ちが良いなんて言えない時間になった。
 上昇気流ばかりが強く、いつまでたっても着きそうになかったので、いい加減、真っ直ぐに向かう事にする。

 人里の中心街。
 多くの商店が並ぶ大通りに、私は降り立つ。
 米屋、道具屋、茶屋、鍛冶屋、何でもござれの商店街。
 人間の生活必需品は、全部揃う。
 私の新聞を除けばだけれど。

 通りの中間にある、開けた場所は、夜に屋台が立ち並ぶ。

 日本酒、洋酒、ビールに、枝豆、おでんに、串焼き、夜鳴き蕎麦。
 焼鳥だけは大反対。
 匂いにつられて、呑みたくなるのが困り者。

「さて、何か新商品でもないでしょうか」

 何か目新しい商品、店でも増えてないかと、調べて歩く。
 何しろ人間は世代交代も早ければ、気も早い。
 お気に入りのメニューが、十年そこらで消えてしまったなんて事は、ざらである。
 幻想郷で流行るモノの中には、外の世界で廃れてしまったものが少なくないだろう。
 
 でも、幻想郷でも廃れてしまったものは、一体どこへ行き着くのだろう。
 うーん……あれとか、これとか、また食べてみたいのになぁ。

 そんなことを考えながら歩いていると、通りがかりの老婦人が、私を見て恭しく挨拶をしてきた。

「おはようございます、天狗様」
「おはようございます」
 
 それを受けて、私も丁寧に挨拶を返す。
 こんな事も、今では街中いたるところで見られる光景だ。
 妖怪と人間が、自然と挨拶を交わすだなんて、幻想郷のあり様も変わったのだと、改めて思う。

 変わり始めたのは、博麗大結界が出来てからだろうか。
 百年前、私が新聞記者を始めた頃の人里は、もっと小さくて、みすぼらしくて、何より殺伐としていた。
 人間が妖怪と遭遇すれば、ある者は泣き叫んで腰を抜かし、ある者は悠然と立ち向い、火花を散らす。
 それが何千年も前、私が生まれるよりも前から続く、人間と妖怪の関係の筈だった。

 やがて、妖怪が里の人間を襲わない事が判ると、恐る恐るではあるが、二者に交流が生まれた。
 こんな時、世代交代の早い人間の方が、妖怪よりも変化に強い。
 たちまち、妖怪相手に商いを始める者が現れ、私の新聞にも興味を示す人間も現れた。
 あの老婦人も、そんな過渡期に生まれた人間だろう。

 そんな時代の変遷を、私はどんな妖怪よりも近くで見てきた。
 今の人妖の関係が、幻想郷にとって、本当に良い事なのかどうか、その答は百二十年足らずでは見えないだろう。
 新聞記者としての私は、只その行く末を見守るだけである。
 だが、組織の一員としての私、天狗としての私には、見極めなければならない事もある。

 ――新しい時代の中、我々天狗は如何にあるべきか。

 その答を見出す事こそ、人里に最も近い天狗、射命丸 文の真の使命であると考える。

 取り残され、忘れ去られてはいけない。
 引き吊られ、堕落してはいけない。
 
 そして何より、私達の山を守らなきゃいけない。







 中心街を抜け、里の東端まで来ると、見るからに真新しい家屋がある
 寺小屋と呼ばれるその建物は、人間の子供に教育を受けさせるための施設だ。
 随分寄り道が長くなってしまったが、今日、人里に来た目的は上白沢慧音に会う事だ。

「あら、今日は授業してないのかしら?」

 いつもは退屈そうに、眠たそうに授業を聞いている子供達が、寺子屋の周りで元気良く遊んでいた。
 球を投げる子、逃げ回る子、追い掛け回す子、隠れる子、叫ぶ子。
 よく見ると、人間に混じって、妖精も一緒になって遊んでいる。

「こんにちは。ねぇ、慧音さんどこかしら?」
「あ、天狗のお姉さん、こんにちは!」

 元気そうな黒髪の女の子が足を止めて、元気に挨拶をしてきた。
 周りの子供達も何か珍しいモノでも見るように、好奇心に溢れた目で私を見たり、挨拶したりする。
 その目には、全くと言って良いほど恐怖や畏怖なんていう感情は無い。
 挨拶にかろうじて、年長者への敬いが伺えると言った程度だ。
 ……まぁ、記者としてはこれでも良いのかな。(将来、購読者になってくれるかもしれないし)

「はいはい、楽しそうに遊んでいるところ、お邪魔して御免なさいね。ええと、慧音先生は寺子屋の中?」

 適当にあしらいつつ、居場所を聞き出す。
 子供達の視線の先を追うと、どうやら天狗のカメラが気になって仕方ないらしい。
 レンズをベタベタ触られたりしたら――と考え、少しだけ危険を感じる。
 この年齢の人間は、無邪気で、残酷で、そこらの妖精となんら変わりが無い。
 だからある意味、大人よりもずっと扱い辛いのだ。
 子供や妖精相手にムキになるのは、器が狭い証拠なのだから。
 流石に、弾幕を撃ってくるような子供になるとアレだけど。

「うん、日曜もずっと寺子屋にいるよ。――あ、いました」
「ありがとうね」

 女の子は思い出したように、途中で敬語に言い直した。
 教師への敬意だろうか、それとも私への敬意だろうか。
 別にそれはどちらでもいいのだが、ところで、日曜とは、外の世界から持ち込まれた文化で、七日間を日、月、火、水、木、金、土の七曜になぞらえる。
 どういった理由かは判らないが、幻想郷の寺子屋は日曜がお休みと決められている。
 七という数字では、太陽暦の一年、三百六十五日も、一月、三十から三十一日も割り切る事が出来ず、いつを基準に始まっているのかも判らない。
 せめて五であれば少しは便利な気がするのだが、一度馴染んでしまったものは、切り捨てることも出来無い。
 最近では、私達妖怪の間にも一週間と言う単位が大分浸透してきた。
 尤も、妖怪によっては今日が月曜だったり、河童は水曜が三日間あったり、星曜だの地曜だのを追加したりと、やりたい放題である。
 
 ――慧音の居所もわかったし、そろそろ行こうかな。

 私が去るとすぐに子供達は遊びを再開し、きゃっきゃと甲高い声をあげて走り回っていた。







「毎度お馴染み射命丸です。慧音さんいらっしゃいますか?」

 寺小屋の引き戸を開けると、新築の家屋の良い匂いが漂う。
 その事からも判るように、この学び舎が建ったのはつい最近の話である。
 更に言うなら、慧音の人里への献身的な態度に感銘し、人里の住人が無償で建てたものだ。
 永夜異変の際に、慧音はその身を挺して、妖怪から人里を守ったとも言う。

「あら、お久しぶりですね」
「どうもどうも」

 奥の教室から顔を覗かせた慧音は、少し汚れた割烹着に頭巾をつけていた。
 掃除の真っ最中だったらしい。
 この寺子屋は、彼女の職場兼住居でもある。

「お忙しかったですか?」
「いいえ、別に構いませんよ。休憩しようと思っていましたから」
「ではちょっと失礼します」

 慧音は柔らかな笑みを浮かべて言う。
 割烹着を着たその姿は、若い人間の母親のようにも見えて、なんだか可笑しい。
 だが、彼女は実は純粋な人間ではない。
 あの店主のように、その身の半分は妖怪で出来ている。
 だというのに、純粋な人間で、妖怪退治を生業とする霊夢よりも、よほど人間の信頼を得ているように、私には見えた。
 むしろ、巫女の方が人間離れしているのだろうか。

「ところで、今日はどんな御用です?」

 頭巾を外しながら慧音が問う。
 綺麗な結び目が解けて、青灰色の長い髪の毛が一瞬ふわりと広がる。

「ちょっとばかり、貴方の知識を拝借したいと思いまして」
「ふむ、天狗の貴方がですか?」

 慧音は少しだけ、不思議そうな表情を浮かべる。

「知識と言っても、私が貴方に教えられるような事なんて、あまりないんじゃない? 人間の歴史なんて、興味無いでしょう」
「んー。それはそうなんですが、今回貴方にお聞きしたかったのは、湖の事についてなのですよ」
「湖って言うと……。あの湖?」
「そう、あの湖です」

 この幻想郷で湖といったら普通、霧の湖のことを示す。
 山の新しい神様が、外から持ってきた湖もあるが、そもそも見た事のある者が少ないし、その存在を知る者も、山の妖怪と、他一部だけである。

 そして慧音は、いっそう不思議そうな顔をする。
 きっと、あの湖が人里よりも、山に近いからだろう。
 慧音は私よりもずっと若いが、幻想郷でも有数の知識人である。
 そして、幻想郷では稀少な、生真面目な性格の持ち主でもある。
 だから、意外と単純な理屈に引っ掛かるもので、次の台詞も予想がついた。

「湖なら、私よりも山の妖怪、特に河童なんかが、とても詳しそうに思えるのだけど……」
「私もそう思って、昨晩、知り合いの河童に訊いてみたのです」

 私はやや大げさに、残念そうな表情を浮かべて喋る。

「ですが知っての通り、河童達は信じられないほど臆病なものでして。あの湖はヘンだ、おかしいと言って調べた者はいないそうです」
「確かにあれは奇妙な湖ではあるけど……。つまりそれで――」
「そう、そこで貴方の素晴らしい能力を使ってですね、湖の歴史ってヤツを教えて欲しいのですよ」

 慧音の身体に混じる妖怪――白沢は歴史を司る妖怪である。
 しかし妖怪と言っても、人間を襲ってその肉を食らう訳でなく、白沢が人から食べるモノは歴史だ。
 実害も無く、権力者にとっては、むしろ都合の良い力にもなるので、古来から聖獣として扱われている。
 妖怪ではあるが、人間以上に人間側の存在であると言ってもいい。
 更に慧音自身の振る舞いを見るに、彼女は人間以上に人間を愛しているとすら思える。

「……なるほど。それに付け加えるなら、他の天狗に記事のネタを取られたくない、かな?」
「ま、それもあります」

 私は少し照れくさそうに笑ってみせる。
 すると、慧音もしょうがないなと言った感じで、少し微笑んだ。

 例えば私が調べている話を、誰か他の天狗が嗅ぎ付けたとしよう。
 最初の天狗は、湖は怪しい、でもつまらない、としか思わないかもしれない。
 では、その天狗が、誰かにそのつまらない話を漏らしたとしよう。
 恐らく、次の天狗には、湖に金銀財宝が眠るなんて言う話が伝わるだろう。
 不思議なことに、誰かを通すたびに、話はあっちへこっちへ、どんどん膨らんで行く。
 その次の日には、新聞と言う新聞が、湖について好き勝手書くに違いない。
 これでは後で私がどれだけ良い記事を書こうとも、情報の海に沈んでしまうというものだ。

「うーん、特に断る理由はないのですが……」

 そう前置きをして慧音は続ける。

「貴方は、私の能力を些か誤解しているようですね」
「え?」

 具体的なところは訊かないと判らないが、つまりは無理と言う事だろうか。

「貴方には、どんな風に伝わっているのかしら、私の能力は?」
「ええと、歴史を食べてしまうとか、歴史を創ってしまうとか、でしょうか。加えて言うなら、幻想郷の全ての妖怪の歴史を知り尽くしているとか」
「知り尽くしているは、大袈裟過ぎる気がするけど……。貴方が考えている程に、歴史と言うものは、真実でもなければ、万能でもありません」
「ふむ?」
「誰も知らない事、瑣末な出来事、そんなものは歴史として残らないのです。つまり――」
「ああ、大体、言いたい事が判りました……」

 私は慧音の能力、というよりも歴史というモノを誤解していたようだった。
 そもそも歴史と言う概念は、人間特有のものなのだ。
 故に、人間の知りえない事は歴史にならない。
 そして湖の正体なんて、誰も知らない。
 誰も知らないものが、どうして歴史になんてなるだろうか。

 少し考えれば判りそうな事だったのに――。
 茹だるような暑さが、思考を鈍らせているのかもしれない。
 そう言う事にしておこう。

「うーん、そうだよねぇ……。忙しい中、お手数をおかけしました」
「あ、待って待って」

 私は勝手に納得したように呟いたが、慧音に呼び止められる。

「能力は役に立たないでしょうけれど、教師としてはお手伝い出来るかもしれませんよ」
「教師として、ですか?」
「ちょっとだけ、湖について判った事もありましてね。取材の役に立つかどうかは判らないけど」
「ああ、それは是非お聞かせください」

 慧音が僅かに微笑む。
 持ち上がった口端からは、少しだけ自信が溢れているように感じた。
 その様子は、どこか薀蓄を嬉しそうに語るあの店主を彷彿とさせて、何だか可笑しい。
 一般に半妖は個性的で、変わり者が多いと言うが、語りたがりなのは共通なんだろうかと思えてしまう。

「うん、それじゃあ――」
「ああ、ちょっとその前にちょっとお昼にでも行きませんか? いい時間ですし。勿論、私の奢りですから」
「いいけど、お酒は呑まないよ……?」
「うふふ、ご心配なく。仕事中は私だって呑みません。それにお話を頂くのにタダって言うのもなんですし」
「借りは作りたくない、か。貴方らしいね」
「いえいえ、流石に昼飯一回でチャラにしようなんて思ってませんよ。サービスです、サービス」
「ふふ、別にチャラで構いませんよ。私も好きで首を突っ込むわけだし。あ、着替えるので少し待っていてください」

 そう言って慧音は着替えるために一旦、奥の部屋へと入っていった。

 本当にサービスで良かったのだけれど。
 人里のお金なんて、人里でしか使えないのだし、私にとっては惜しくも無い。
 山の中では貸した、借りたが基本である。
 信頼無くしては成り立たず、『価格』の維持に苦心する。
 そんなシステムが、時に窮屈で煩わしく、時に有難く、お金なんて言う味気の無いものより私は好きだ。

 どうしても返すアテがない時?

 そんな時はお酒がまあるく解決してくれる。








 ここにしましょう、という慧音の言葉で選んだのは、カフェテラスと呼ばれる西洋風喫茶店だ。
 慧音が知ってか知らずかは定かでないが、この店は『私のお得意様』であり、『私がこの店のお得意様』でもある。
 珈琲の主張の強い苦味は人を選ぶが、それが何故だか自分に似合っている気がした。
 ブラックでは少しくどいので、私はミルクを少し加えて飲むのが好きだ。
 こんなにも暑い日は、良く冷えたアイス珈琲が、爽やかで良い気がする。
 このカフェテラスは珈琲だけでなく、簡単な食事も置いてあるので、こんな時には丁度良い。
 でも、特にお腹も減っていた訳でもないので、私はシンプルなトーストを頼んだ。
 ここのパンはこの店の手作りで、中々美味しい。

「貴方も、意外と似合いますね」

 独り言とも、話しかけているともとれない口ぶりで、私は呟く。
 慧音が頼んだ飲み物は、私と同じトーストとアイス珈琲。
 しかし、砂糖もミルクも加えない。

 彼女がカフェテラスを選んだ事を、私は意外に感じていた。
 真面目でお硬い、と言う彼女の性格のせいだろうか。
 もっと、お茶とか団子とか、純和風のものを好みそうな印象をもっていた。
 しかし、不思議な事に、彼女がアイス珈琲を飲む姿を見ると、ああ、これも似合う、とも思えたのだ。

「ん?」

 珈琲を片手に持ったまま、不思議そうに顔をあげた慧音に、私はただ笑みを返す。

「さて、慧音さん。そろそろ、先ほどの話の続きをしませんか」
「ああ、そうですね」

 では、と断りを入れて、慧音は珈琲をテーブルに置く。
 カフェテラスは夜よりも、昼のほうが人が多く、周りも騒がしい。
 なのに、どうしてか相手の話が良く聞こえ、落ち着いて喋れる雰囲気を、私は気に入っている。

「去年の冬に起きた異変、貴方は良くご存知でしょう」
「それは勿論。私もスクープ狙いで『巫女をかつぎ』ましたから」
「妖怪に言われてやっと動くだなんて、相変わらず、あの巫女はのんびりし過ぎている……」

 慧音は、呆れたように一つため息を吐く。
 私は合間を埋めるように、パンを口にする。

「それで、昨年末の異変が湖と、どう関係してくるんです?」
「直接、関係が有るという訳じゃないんだけれど。幻想郷の地下深くに、鬼の住む都があるそうですね」
「ああ、旧都の事ですね」

 わざわざ霊夢をけしかけて送り込んだのは、その鬼達に会いたくなかったからだった。

「旧都の存在を知らなかった訳ではないけど、地下空洞からある事を思い出したんです。私は職業柄、外の文献にも良く目を通すのだけど――」
「ええと、それは存じてますが、どうも湖から離れていってませんか?」
「それは、これから繋がります」
「あ、すいません」

 おほん、と、一つ咳払いをして、慧音は話を続ける。

「カルデラ、という言葉を聞いた事があるかしら?」
「いいえ、初耳ですわ。日本語には聞こえませんが……」
「ええ、日本語ではありません。ちなみに、私が読んだ本には、語源は『鍋』という意味のスペイン語だと書いていたわ」

 慧音は両手を使って、空中に鍋を描く。

「はぁ、お鍋ですか……」

 異変、旧都、外の文献、鍋――。
 脈絡の無い流れに、ますます、慧音が何を話したいのかが判らない。
 しかし恐らくは、私に会話の主導権を握らせない、そんな意図も含まれているのだろう。
 どんなに和やかに会話をしていても、慧音は人間側で、私はあくまで妖怪なのだ。
 いつだって慧音は、私から価値のある情報を得ようと考えている。
 それは異変の前兆であったり、人妖のことであったり、会話の節々から漏れ出る小さな情報だったりもする。
 尤も、山とって脅威とならない情報であれば、私にとってはどうでも良い事ばかりだが、そこは浮世の摂理、「取らんと欲する者は先ず与えよ」と言う事だ。
 つまるところ、私と慧音は、『とても良好な関係』であると言える。

「ここで言うカルデラは、その鍋にそっくりな地形の事でね。その成り立ちに、地下の空洞や、火山の活動が大きく関わっているのよ」
「お鍋のような地形……」

 私はお気に入りのペンを回しながら、少し考える。
 慧音はそんな私の様子を見て、次の言葉を待つように、珈琲を口にした。
 傍から見ると、この構図は出来の悪い生徒と、教師と言った具合に見えるのではないだろうか。
 そう考えると、少しだけ悔しく、なんとしても慧音の意図を掴んでやりたくなる。

「えっと、そのお鍋に水を注いだものが、あの湖だとか?」
「そう、それをカルデラ湖と言うの。火山の近くや、標高の高い場所に多い湖なのです」
「ああ、良かった。次はエスペラント語で、とか言われたらどうしようかと思っていました」
「ふふ、では、ご理解いただけたところで話を続けましょうか」

 正解に顔を綻ばせる慧音を見ていると、根っからの教師なんだと津奥思う。
 駆け引きだと考えていた会話の中にも、彼女の教師としての本能が混じっていたのかもしれない。

 そっと珈琲に口をつける。
 香ばしい匂いを纏った苦味が口の中に広がると、ぼやけた意識が水平線のようにはっきりとする。

「火山の火、マグマがどこから来るかご存知かしら?」

 慧音が問う。
 その答えは、少し前に見たばかりで、良く憶えている。

「地獄ですね。旧都よりもさらに地下深く、灼熱地獄の炎で溶けたモノです」
「そんなに深くまで潜ったのですか?」
「ええ、まぁ。でも、噂に言われてるほど深い場所でもなかったですよ。日帰りで行ける範囲です。私は遠慮したいけど」
「生きているうちに、非想非非想天から、地獄にまで行くなんて……。取材していて、貴方も楽しいでしょう?」
「まぁまぁ、ですね」

 それにしても、地獄の話なんてするから、せっかく忘れかけていた、夏の暑さをふと思い出してしまった。
 このカフェテラスは、元々薄暗い。
 薄暗いと言っても、どこかの陽の当たらない店とは違い、お洒落な雰囲気がする。
 今日はそのカフェテラスが、いっそう薄暗く感じた。
 強い日差しが作る、コントラストのせいだろう。

「話を戻すわね。今、貴方の言った通り、マグマは地下深くで生まれて、噴火という自然現象により地表に噴き出すの。火山の地下には、大きな空洞があり、そこに常に大量のマグマが蓄積されているの。
 そこをマグマ溜まりと言うわ」
「じゃあ、私達の山の地下にもあるのでしょうか」
「多分、そうですね。この目で見た訳じゃないけれど。ああ、そう考えると、これから先の話は、貴方のような山の妖怪には、少し怖い話になるかもしれないね」
「怖い話、ですか?」

 カルデラ湖、噴火、マグマ溜まり――。
 そして、私達にとって怖い話。
 少しではあるが、それらの繋がりが私にも何となく感じ取れた。
 今、私が想像通りだとすると、その成り立ちは、とても複雑で、大規模で、恐ろしい。
 なるべく、気の抜けた返事で応えてはみたものの、ペンを握る手に力が入る。
 慧音の次の言葉を聞くまでの間が、妙に長く感じられた。

「大規模な噴火が起きると、マグマ溜まりが、巨大な空洞と化してしまう事がある。すると、その上に聳え立つ山は――」
「……崩れるように陥没して、カルデラになってしまう?」
「そう、それがカルデラの正体なのです。火口のあった場所は、盛り上がって島になったりもしますね。丁度、あの湖の中島みたいに。
 こうして出来たカルデラに、水が溜まって湖になるのです。こういう湖は、水深が深くなる傾向があるわ」

 ああ――。
 一番恐ろしい予想が、的中してしまった。
 脳裏を過ぎったのは、私達の山が崩れ落ち、永遠にその雄大な姿を失ってしまう、そんな光景だった。

 千年余りの間、私達の山は穏やかな姿を保ってきた。
 幸いな事に、私は生まれてこの方、あの山の噴火には立ち会った事は無い。
 しかし、百年ほど前から再び、火山活動が活発化してきた兆候が見られるようになった。
 最も判り易い兆候は、噴煙をあげるようになった事だ。
 それだけで収まってくれれば良いのだが。

「――文さん?」
「……あ、すいません。ちょっと、暑くてぼーっとしてました」

 私を見る慧音の眼は、心配気味に見えた。
 鏡が無いから判らないが、顔に出してしまうほど、私は恐怖していたのかもしれない。

「カルデラが形成されるような大噴火は、滅多には起こらないはずです。万が一、山でそんな大噴火が起きれば、この里も壊滅してしまうでしょうね」
「杞憂であって欲しいですわ」

 やはり顔に出ていたらしい。
 慧音のフォローに、私はいつもの余裕を顔に出して返した。

 慧音は滅多に起こらないとは言ったものの、私達、天狗の寿命は普通の妖怪と比べても長い。
 大天狗の中には、十万、数十万という歳月を、過ごしてきた者もいる。
 あの山で生まれた者ばかりでもない。
 むしろ幻想郷に越してから、住み着いた者のほうが多いだろう。
 もしかすると、自分の棲んでいた山が、崩れ落ちる瞬間を見た天狗もいるのかもしれない。

「うーん、大変興味深いお話でしたが……」
「どうかしました?」

 湖の成り立ちが、興味深いと思ったのは本心である。
 しかし、この話では新聞記事にならない。
 私が本当に知りたいことも、恐らく新聞の読者が期待する事も、カルデラの話ではないはずだ。

「一番の不思議は、やはり霧じゃないでしょうか?」
「うーん、確かにそうですね」
「湖の大きさが変わるのも、何も無いのに迷うのも、全部あの霧が関係しているような気がします。……単なる勘ですけど」

 慧音はうーんと、首をかしげ、腕組みをして考える。
 その仕草はいかにも、思考を巡らせてる感じは出せるのだが、大抵、その努力は報われない。
 なぜならあの仕草は、知っている事を思い出すときの仕草だからである。

「カルデラ湖だから、霧が発生すると言うわけでも無い。ましてや、大きさを変えたりする事も無い。湖の成り立ちと霧は、関係が無いわね……。あとは、妖精の仕業とか、かしら」

 ため息を吐きながら、慧音が呟く。

「道に迷わせるのは、確かに妖精の十八番ではあります。妖精が多い場所ですし、そう言うケースもあるでしょう。でも、あの霧は……。何と言うか、もっと神々しいもののニオイがするんです。確証はないんですけど」
「それは天狗の鼻かしら?」
「新聞記者の嗅覚、とでも言いましょうか」

 くすりと、慧音が笑う。

「残念だけど、私には見当がつかないわ。そもそも、誰も知らないと思うけど」
「私もそう思います。だからこそ、記事のネタになるのですわ」
「貴方はいつも楽しそうで、羨ましいね」
「よく言われます」

 気が付くと、慧音も私もトーストを食べ終えていた。
 私は、うんと一つ、背を伸ばす。
 外は相変わらず、真夏の太陽に照らされて、うんざりするほど眩しいのだが、ここにいたって新聞は出来無い。
 ふぅ、と息を吐く。

「何か判ったら、私にも教えてくださいね」
「それなら、幻想郷一早くて素敵な情報を伝える、文々。新聞の購読をオススメします」
「それは記事の出来次第ですね。さて――、これ以上お引止めするのも悪いですし、そろそろ出ましょうか」
「約束通り、お代は私が支払いますね」
「ご馳走様でした」

 慧音は手を合わせ、ゆっくりと一礼をした。







「うっ……」

 カフェテラスを出た私は、突き刺さるような夏の陽射しに、少したじろぐ。
 土が剥き出しの街道は、陽射しを反射して、余計に熱い。
 たまらず、私はその場で飛び上がり、思い切り風に乗る。
 雲でもあれば少し休憩が出来そうなのだが、全天、見渡す限りの快晴だった。
 陽射しこそ厳しいものの、上空の空気はまだ涼しく、地上よりマシである。

「こんな時こそ湖ですかね」

 昨日の水の心地良さを思い出し、私は霧の湖へと向かう。
 湖の畔だけが、まるで別天地のように、涼しく快適だった。
 また靴と靴下を脱ぎ、つま先を水につけて足を冷やす。
 そして、ふう、と一つ息を吐いて、目を瞑った。

「さて、どうしたものでしょう……」

 今一度、状況を整理して見る。
 慧音の話は、確かに興味深かった。
 しかし、あの話が記事になるのかと言えば、また別の話である。
 この湖がカルデラ湖であるかどうかなんて、読者が求めている情報とは、違うものだろう。
 そもそも、カルデラなんて言う単語を知る者が殆どいない。

 では、私は一体何を記事にしたいのだろうか。

 そもそもは、湖底に眠る宝の噂が、今回の取材の切っ掛けだった。
 信じているわけではないが、幻想郷の住人で霧の湖の存在を知らない者はいないし、古くから財宝の話は人妖を惹きつけて止まない。

 人は目も眩むような富を求めて。
 妖怪はそんな人間達を誘い込むために。

 思えば天狗の新聞にも、そんな側面が存在した。
 まだ鬼が山を支配し、人と妖怪が激しく争っていた時代の話だが。
 鬼の蓄えた金銀財宝の話を、天狗が流布し、命知らずで勇敢な人間達を鬼が歓迎すると言う訳だ。
 それが天狗の新聞の原点である。

「鬼、か……」

 新聞のことを考えていたはずなのに、不意に鬼がいた時代を懐古してしまった。
 そして整理する筈の思考はむしろ、どんどん脇道に逸れていく――。
 これも霧のせいなのだろうか。

「涼しいなぁ……」

 その日、私は日が暮れるまで、湖畔で羽根を休めた。
 ひとたび回想を始めると、それだけで時間が過ぎ去ってしまう。
 次の日も、その次の日も、太陽は燦々として、私の翼を湖へと運んだ。
 何をするでもなく、ただ霧の中で翼を休めた。









 ようやく思考が纏まり始めたのは、その次の日。
 心地の良い曇天の日だった。
 こんなに長く、取材をサボってしまったのは、この百年でも初めてかもしれない。
 サボっていたと言う自覚があるのは、調べるべきところは、最初から明確だったからだろう。

「さて、困りましたね」

 では、一体、湖の底なんてどうやって調べれば良いのか。
 いやいや、それが判れば、最初から慧音のところまで聞きに行ったりしないでしょう――。

 でも、私はそれが出来そうな者について心当たりがある。
 そもそも、私を取材に駆り立てたのも、彼女の言葉だった。

 ただ――。

「簡単には動いてくれないわよね……」

 にとり。
 やはり水の事は、河童のあの子が詳しい。
 私とも仲が良いし、泳ぎだって得意だ。
 しかし、胡瓜をいくら持ってこようと、珍しい道具をあげようと、この件に関しては、臆病な彼女は協力を拒むだろう。

「潜ってもらうのは無理そうだけど――」

 それでも尚、最も頼りになりそうなのは彼女なのであった。

「多分、空を飛んだり、地底に潜るよりは簡単でしょう」





「にとり、いるかしらー?」

 工房入り口から、奥にいるであろうにとりに呼びかける。
 しかし、返事は無い。
 まぁ、いつもの事ね。

「一応、呼んだから私は悪く無いわね」

 そう呟いて、工房に立ち入る。
 ここにはいつだって、鉄や木、奇妙な油や火薬の臭いが漂っている。
 鉄の臭いと言えば、血の臭いを連想するが、ここの臭いはもっと無機質で、似て非なるものである。
 全く、あの子はこんなところで、よくも昼夜を過ごせるものだと思う。

「ふんふん、ふむふむ……。なるほど……」

 案の定、にとりは工房の中にいた。
 まだこちらには気づいていないようで、全くいつもの通り、機械を弄っている。
 最近変わったのは、弄る機械が外の道具になった事、前より楽しそうになった事。
 面白いので、私は後ろからそっと近づき、様子を伺う。
 真後ろまで来ても、まだ気づかない。

「うーん……。そろそろ休憩するかな」

 にとりは腕をぐっと上に伸ばしてあくびをする。
 そう言えば、もう一つ大きく変わった事があった。
 息抜きが上手くなった事だ。
 以前は見ているこちらが心配になるほど、長期間発明に没頭する事が多かった。

「さて、食事でも――ひゅい!?」
「こんにちは、にとり」

 後ろを振り返ったにとりは、盛大に驚いて、奇妙な叫び声をあげた。

「驚かさないでよ! あーもう! 一声かけてくれって、いつも言ってるじゃないか!」
「ちゃんとかけたんですけどね」
「聞こえなかったよ!」

 両手を腰に当てて、不機嫌そうに応えるにとり。
 恥ずかしかったのか、少しだけ顔が赤くしている。
 このオーバーな反応が楽しみで、気配を殺していたのは事実だけれど。

「随分遅い昼食ねぇ、もうお八つなのに」
「工房にいると、時間の感覚が良く判らないんだよ……。それに時間がおかしくたって、お腹は減るしさ」
「邪魔する気はないわ」

 私達は食べなきゃ死ぬって訳じゃない。
 しかし、空腹は精神の安定にとって非常に悪いものだ。
 にとりは胡瓜を四本ほど持って来た。
 しゃきりと、あの独特の音を立てながら、実に美味しそうに食べている。

「それで、今日はどうしたのさ?」
「ええ、ちょっと湖の事で頼みたい事があってね」

 にとりは目を大きく見開いて驚く。

「御免こうむるよ。私は止めといた方が良いって言ったじゃんか……」
「そういうネタだから調べたくなるのです」
「はぁ……。やっぱり逆効果だったのねぇ。そんな気がしてたよ。でもね、いくら文の頼みでも、私は絶対に潜らないよ」

 にとりは、予想通りと言うか、至極当然の反応を見せた。
 私だって無理強いはしたくない。

「それくらい解ってますって。私も、にとりに潜ってもらおうなんて思って無いわ」
「うん? じゃあ何をするんだい」
「これを遠隔操作で潜れるようにして欲しいのです」

 そう言って、私が取り出して見せたのは、カメラだった。

「カメラ?」
「そう、湖底さえ写真にすることが出来れば、誰も潜らなくたって良いのよ」
「文に頼まれた仕事の中には、ヘンなものが多かったけど、その中でも一番おかしな依頼だね……」

 にとりはむむむと唸って考え込む。

「ほら、昨年の末に地底に潜ったじゃない。あの時のアレを使って、遠隔操作をすればいいんじゃないかしら」

 地底の異変では、私と霊夢は紫が改造した陰陽玉を、にとりは自分作った珠を使って魔理沙と交信していた。
 話すだけじゃなく、周りの様子も見る事も出来るので、探索にはうってつけだ。

「まだ、引き受けるとは言って無い」
「そこを何とか、このままじゃ今月、記事が出せなくて困るのよ」
「ふーん、でも外の道具の解析もまだだしなぁ……」

 ……この河童ふっかけるつもりだ。
 私達の取引は信用を元にした、『貸し』と『借り』である。
 借りる相手が困っているほど、貸す相手が忙しいほど、その価値が上がる。

「お願いよ、私とにとりの仲じゃないの」
「そうだねぇ、他ならぬ文の頼みだもんね。でも、今月中に記事を出すなら、もう十日くらいしかないよ?」
「多少雑でも文句は無いわ」
「うーん、雑でもってのは、私の主義に反するけれど。……まぁ、そんな困り顔しないでよ、頑張ってみるからさ」
「さすがにとり! ありがとう!」

 私は愛すべき友の手を握り締めて、ぶんぶんと振った。

「いや、でもねぇ、正直言うと、ちょっぴり自信が無いんだよねぇ……」

 にとりは少し困ったような表情を浮かべる。

「一応頑張るけどさ、もし期限内に出来なかった時のために、予備の記事は用意しといてよ」
「あー……。ええ、わかりました」

 それが簡単に出来るのなら苦労は無いのだが、何とか捻り出さねばなるまい。

「湖底がどれだけの深さにあるのか、まだ誰にも判らない。光も届かぬ水底は、私ら河童の泳ぐ世界とは別世界なんだ」
「なら、灯りも付けなくちゃいけないですね」
「それだけじゃあない、目下の問題は水圧だよ。私らの創ったカメラは、水中でも動くけど、深く潜るように設計していないからね……。耐圧ケースにしようか、それともカメラ自体を改造しようか」
「それならケースが良いわ」

 流石に改造中、カメラをずっと預けると言う訳にもいかない。
 予備の記事を作ると言うのなら、尚更である。

「あとは遠隔操作の手段か……。まあ、アレが使えるなら何とかなるかねぇ」
「そういう事は全部任せるわ」
「うん、あんまり口出しされてもやり難いし。使用目的も定まってるわけだからね。まぁ、任せてよ」
「じゃあ、お願いね」
「それじゃ予備の記事でも書いて待ってて」
「あはは、……まぁ、がんばるわ」

 にとりは大きな紙(防水)を広げて、何やら色々と書き始める。
 こうなると、完成するまで私は邪魔なだけなので、足早に工房を後にした。



 ――さて、この借りはどうやって返そう。

「うーん、胡瓜だけじゃダメだよねぇ。……香霖堂から何か持って来ようかしら」

 それも店頭に並んでるようなものじゃなくて、あの店主の秘蔵コレクションに入るようなモノじゃないと、割に合わないだろう。
 では、どうやってあの倉庫を開けさせよう、間違いなくふっかけてくる店主をどうしよう。

 山に連れて行ってあげた時の貸しを使うべきだろうか。

「霧のせいかしら。最近、悩みが尽きないわ……」

 私はぐるぐる回りながら、曇り空を飛ぶのだった。














 月の終わり。
 久しぶりに、雲の合間から太陽が覗く。
 それまでの猛暑に負けじとばかりに、一週間ほど曇りや雨が続いた。
 自然には奇妙なバランス感覚があるように、僕は思う。
 暑い日が続いたかと思えば、同じだけ寒い日が続いて、大体帳尻を合わせる。
 その帳尻が合わない年は、暑い年、寒い年と呼ばれる訳だ。
 そして暑い年が続けば、同じだけ寒い年が続くといった具合に、帳尻合わせは更に大きな単位になって持ち越される。
 古い妖怪が言うには、一年の次に大きな単位は、百年ではなく六十年だそうだ。
 仙人でも無い限り、幻想郷の健康な人間の寿命は六十といったところである。
 とびきり長生きな人間でも、不思議と百二十前でぱたりと逝ってしまう。
 あれも一つの帳尻合わせなのだろうか。

「毎度お馴染み射命丸です。霖之助さんいますか? 居ない訳無いですね」
「何だい、その変な挨拶は……」
「ところで、原稿は仕上がりましたか?」
「もう出来てるよ」

 そう言えば、文が香霖堂にやって来たのも随分久しぶりのような気がする。
 天気が良すぎたり、悪かったりしたせいもあるかもしれないが、ずっと記事にするネタを求めて飛び回っていたのだろう。
 僕は机から出来上がった原稿を取り出し、文に手渡す。

「ありがとうございます。ふむふむ、成る程……」

 手渡された原稿を、文は頷きながら、さらりと流し読み、チェックを行う。
 チェックといっても、ただ一言、二言感想を述べる程度である。
 今日もいつもの通り、文が最初の読者として僕のコラムを読み、感想を言う。
 時に文は、意味の判らない場所で面白い、おかしい、なんて言う感想を出す。
 それはきっと天狗の文化と、僕の文化の違いのせいだろうけれど、そんなギャップが中々面白い。
 そんな光景も見慣れたものだ。

「――とまぁ、今回はこんな感じでしょうか」

 チェックが終えて、文は机を使ってトントンと原稿用紙を揃える。

「そろそろ一年か」
「ああ、そう言えばそうですね」

 そう、僕がコラムを書き始めたのは去年の夏の暮れ。
 もうすぐ一年が経つのだ。
 と言っても、僕や文のような妖怪にとっては、一年なんて言うのは大した時間ではないのだが。
 僕にとっては生活の小さな転機として、記憶に強く残っていた。

「これからもよろしく頼むよ」
「まだ、たった一年ですよ」

 充実した時間というのは、短いようで長いか、長いようで短い。
 その見方によって、どちらも真と感じられる、不思議な時間である。
 故に、没頭してしまうと、本当の時間を忘れてしまう。
 だから節目を見て、振り返り、今の時間を確認する必要があるのだ。
 あれだけ長寿な木々たちが、示し合わせたように一斉に開花を始めるのは、きっと年輪があるからだろう。

「そうそう、一年を記念してっていう訳じゃないんですけどね。今日私がここに来た理由は、原稿を取りに来ただけじゃないんです」
「ん、なんだい?」
「ちょっと珍しい道具が手に入りましてね、もし興味があるなら見てみますか?」
「へぇ、それは気になるね」

 好奇心の象徴たる天狗の口から『珍しい道具』と言われれば、僕だって心が動かぬ筈が無い。
 一体何を取り出すのかと、期待していると、文が口を開いた。

「じゃあ、霧の湖まで来てください。大体、西側の湖畔にいますから」
「今からかい?」
「ええ。興味あるかと思って、一応知らせに来ただけですから。私はそろそろ行きますね」

 文はそれだけ告げて、原稿を手に抱えてそそくさと飛び立つ。
 その様子を見ていると、どうも文もその道具に期待をかけているように思えた。

「ふむ……」

 僕は一つ頷いて、直後に出かける準備を始めた。
 準備といっても、閉店の札を掲げるだけだ。
 香霖堂から霧の湖までは、然程離れてはいないが、先日まで降り続いた雨のおかげで、道はぬかるんでいる。
 困った事に、にとりのバイクはこういう道で使うには危険なのだ。
 湿地帯で暮らす河童の乗り物として創っていた割には、酷く間の抜けた感じがする。
 便利な道具に慣れてしまうと、いざそれが使えないとき、非常に憂鬱な気分にさせられるものだ。










「さてと――」

 霧の湖に辿り着いたのは良いが、肝心の文がまだ見つからない。
 大体、湖の西側とは言っているが、大まかに分ければどんな物でも、東と西で半分である。
 何せ天狗と言うのは大雑把なもので、文も例外ではない。
 飛べる彼女にしてみれば、西と東と言うだけで、すぐに見つけられるのかもしれないが、僕は濃霧の中を、湖に飛び込まぬよう慎重に歩いて探さなければいけない。

「はぁ……」

 ……段々、本当に西側を歩いているのかどうか、自信が無くなってきた。
 もう既に半周して、東側まで行ってしまったのではないだろうか。
 そんな風に思い始めた頃に、やっと見知った者の姿を見つけた。

「……ああ、やっと見つけた」
「ひっ!? って……あれ? なんだ、店主じゃないか。驚かせないでよ……」
「悪かったね。でも、この霧じゃ仕方ないだろう」
「ああ、全くだよ……」

 霧の中にいたのは、以前、僕が山に入った時に訪れた工房の主、河城にとりだった。
 僕を見つけたにとりは大きく安堵の息を吐く。
 水棲の妖怪であるというのに、霧の中がどうも苦手らしく、いつまでもキョロキョロと辺りを見回している。
 
「ところで何やってるんだい、こんなところで」
「文さんに、珍しい道具が手に入ったって言われて来てみたんだが……。もしかして、そいつかい?」
「うん、多分そうだね」

 にとりの足元に置かれていたそれは、まるで鉄で出来たアンコウの様に、口の大きな魚の人形だった。
 その額からは、何やら鬼灯の様なものが吊り下げられ、背中からは、見るからに丈夫そうな紐が飛び出している。
 紐は非常に長く、アンコウの側でとぐろを巻いていた。
 その末端は、十本ほどの細い紐に枝分かれしている。

「不細工だけど、結構、愛嬌ある顔してるだろう?」

 僕の能力によると、この道具の名前は『提灯アンコウ』、用途は水中を自在に泳ぐ事。
 どうやら、かなり深いところまで潜ることが出来るらしいとも、僕の能力は告げていた。

「提灯アンコウねぇ、図鑑でしか見たこと無いが」
「私も実物は見たこと無い」

 しかしまた、にとりは何を考えてこんな魚をモデルにしたのだろうか。
 アンコウは深海に潜む魚で、そのグロテスクな外観とは裏腹に、大変美味であると言われている。
 アンコウではなく、提灯アンコウの方が食べられるのかどうかは知らないが。
 少なくとも目の前のコイツは食用には見えない。
 顔を眺めていると、ふと目が合った気がした。
 
 しかし、本当に不細工な顔だ。
 あまりまじまじと見ていると、思わず笑いが込み上げてしまいそうなので、僕は目を反らした。

 湖畔にびゅう、と風の音が鳴る。
 少し遅れて、このパーティーの主催者のご到着のようだ。

「お待たせしました!」

 霧の中に、少し元気の良い声が響く。
 文はいつだって活発な妖怪ではあるが、今日の彼女は一際目を輝かせているように見えた。
 呼んだ場所について、文句の一つでも言ってやりたい気分だったのに、その気も削がれる。

「何だか随分楽しそうじゃないか」
「ああ、やっと来た! 文、もう準備は出来てるよ」
「ありがとう。あ、記念に一枚」

 パシャリ。
 アンコウを抱えたにとりを、文が撮影する。

「あ、ちょっと止めてくれよー! ……なんか恥ずかしいからさぁ」
「うふふ、よく撮れたと思いますよ」

 さらに一枚、写真が撮られる。
 恥ずかしがり屋の河童はアンコウで顔を隠す。
 その影から覗く視線は、僕に助けを求めてるようにも見えた。

「あー。盛り上がってるところすまないが――」
「ああ、御免なさい。なんでしょう?」
「僕にも教えてくれないかな? その道具で一体何をするのか」
「この魚人形を使って、湖の底を探るんです」
「湖底? そんなとこに何があるんだい?」
「さぁてね」

 文は首をかしげ、大袈裟に手を広げてみせる。

「目も眩むような金銀財宝、かしら? それとも伝説の怪獣、モケーレムベンベかもしれませんね」
「何も無いかもしれないのに?」
「そうかもね。でも、こんなに奇妙な湖ですわ」

 文は湖の方へ、くるりと振り返った。
 つられて僕も、文の視線の先を追うが、霧しか見えない。
 彼女は視線の先、霧のかなたに何を見ているのだろう。

 ――きっと何かあるでしょう?

 そう、文が言ったような気がした。

 天狗と言う妖怪は、まるで好奇心の塊である。
 その好奇心と翼をもって、古今東西、あらゆる知識を集め、数多の妖術を伝承すると言う。
 彼らが噂好きなのも、彼らの翼が比類なきものであるのも、きっと飽くなき好奇心のせいなのだろう。

 その天狗たちの中でも、文はとりわけ好奇心が強い。
 裏の取れない情報は記事にしない。文が良く口にする言葉だ。
 それだけを聞くと、天狗らしからぬ殊勝な心がけにも思えよう。
 しかし、それは百パーセント、彼女自身のための言葉である。

 抑えられぬ好奇心故に、自分の目で見なければ、自分の耳で聞かなければ文は気が済まないのだ。

 付き合いが深くなって判ったことだが、それが文という妖怪の本質だと、僕は思う。
 だから彼女は、幻想郷の誰よりも速く飛べるのだろう。

「――っと、にとり、これでいいかしら?」

 ふと見ると、にとりが持つアンコウの口に、文はカメラを入れていた。
 大きく開いた口は、カメラを入れる場所のようだ。
 
「うん、いいよ」

 アンコウの口が閉まると、外からカメラはまるで見えない。
 これで一体どうやって、撮影するのかとにとりに問うと。

「アンコウの目に映る映像を、カメラに送るんだ」

 と、返答があった。
 おそらく、潜望鏡のようなものだろうと考え、なるほど、と僕は頷いたが、詳しい事は良く判らない。
 聞きたいのは山々だが、忙しそうに準備する二人を見ていると、邪魔をせず、黙っているほうが良さそうだ。

「――んでね、シャッターを切るときは、そっちの紐を引っ張って」
「泳がせるには?」
「こっちの八つの紐を引っ張ったり押したりするんだけど……。難しいから私がやるよ」
「マリオネットみたいね」
「ふふん、そんなちゃっちいモノじゃあない、中身は精巧なからくり人形さ」

 にとりが紐を一本、引っ張ると、アンコウの尾びれが左右に揺れる。
 加えて一本、二本と掴むと、まるで生き物のようにアンコウが跳ねた。
 それを見て、文は満足そうに、にんまりと微笑む。

「任せたわね」
「店主は、そうだなぁ。まぁ、何もしなくていいや、見ててよ」
「ああ、そうするよ」

 面倒が無くて良かったと思う反面、少し寂しい。
 元々、二人でやる予定だったのだろうから、僕の仕事が無いのは当然だけれど。

「さあて、そろそろ進水させましょうか」
「忙しないねぇ……」
「そりゃそうよ。何か見つけるまでは記事が出来無いからね。記事を作って印刷する時間もあるし」
「それって何か見つけるまで、私も解放されないってこと? はぁ……先が思いやられるなぁ……」

 にとりがまた、紐を引っ張ると、提灯アンコウの提灯が、蛍の光のように音も無く灯る。
 湖面にアンコウを沈めても、光は霞むこと無く輝く。
 水中生活を営む河童らしい、照明だ。

「さ、出発進行かな」

 にとりが八本の紐を繰ると、アンコウはまるで本物の魚のように、水中へと潜っていった。








「へぇ。意外と水中でも遠くまで見えるものなのねぇ」
「ああ、霧の中よりも断然視界がいい」

 僕達は、地面に置かれた鏡のようなものを通じて、魚の見る世界を拝見していた。
 にとりは見慣れた光景だろうけど、僕は外の世界の写真でしか見たことの無い、美しく青い光景だ。
 湖の浅いところでは、水草が畑のように立ち並び、岩場には玄武の沢のような四角い岩が覗いていた。
 この光景だけでも、来た甲斐があったと僕は思う。

「なるほど、昔は火山だったってのもわかる話ね」
「それはカルデラ湖のことかい?」
「なーんだ、知ってたの。つまんないですねぇ」
「詳しくは知らないが……」

 天狗と言うのは物知りで、猛烈な教えたがりでもある。
 風の噂を、わざわざ新聞にして広めるのも、その性格故だろう。
 他人としては迷惑でしかなく、倦厭される行為だが、親しければ天狗ほど心強い味方も無い。
 天狗と上手に付き合うコツは、程ほどに彼らの衒学趣味を満たしてやる事が大事だ。

「魚もちらほらいますねぇ」
「あれは鰻かな?」

 灯りがあると言っても薄暗く、時折魚の影が見えるものの、種類までは特定出来無い。
 流石に鰻くらい特徴があるなら、影で見分ける事も出来るが。

「見えにくいけど、あれは鯉かな?」
「この湖は大きな魚が釣れる事で有名ですからね。あれは人間より大きいかも」
「それは言いすぎじゃないか?」

 登竜門という言い伝えにあるとおり、鯉は滝を登ると、龍になれると言う。
 勿論、これは物の例えであって、本当に鯉が滝を登るような事は無い。
 ただ、それだけ大きくなる魚だと言うことだ。
 魚釣りの趣味は無いが、あんなものを釣り上げようとするのだから、この湖に来る太公望達は、余程度胸が有るのだなと思った。
 逆に水中に引きずりこまれて、餌にされてしまいそうだ。
 ……まぁそれ以前に、妖怪の餌になってしまう事のほうが多そうだが。

 文はそんな魚影を見るたびに、紐を引っ張り、写真を撮る。

「湖底まで行かなくても、この写真だけで十分に記事に出来るかもしれませんね。ちょっとつまらないけど」
「天然色ならともかく、白黒にしたら、味気ない写真になると思うよ」
「そうなんですよね」




 退屈しないかと問われると、正直なところ苦しい。
 珍しい光景ではあるのだが、早くも飽きてきた。
 空には遷ろう雲がある、地には四季の花がある。
 しかし、この湖にはたまに映る魚の影以外何も無い。
 変化と言うものが、何も無いのだ。
 退屈な光景に、口数が少なくなる。

「まぁ、こんなもんだよ。深い場所は夏でも水温が低いからね」
「もう水草も生えていませんね」

 流石ににとりは予想していたらしく、変わらぬ調子で、紐を繰る。
 文はシャッターを切る紐こそ離してはいないが、先ほどまでの調子が嘘のように、静かになっていた。
 僕も欠伸をしたり、にとりが紐を巧みに操る姿を見たりする事が多くなった。

「それにしても……本当に深いなぁ」
「そんなものなの?」
「幻想郷にはここしか湖らしい湖がないけど、私が昔住んでた地域の湖は、あんまり深くなかった」
「ふうん、今は大体どれくらいの深さなの?」
「水圧から計算して、大体五十メートルかな。でも、まだ鍋の底ではないね」

 文はうん、と頷くが、僕は百メートルと言われてもすぐにはピンと来なかった。
 そんな反応の違いに僕は少しだけ戸惑う。
 いつの間にか山の妖怪にまでもが、外の世界の、それも人間の使う単位を普通に使っている事に、違和感を感じたのだ。
 彼らは僕が想像している以上に、変化に適応する力が高いのかもしれない。

 ふと文の顔を見ると、少し不安げな表情を浮かべていた。
 それはそうだろう、ずっと岩肌だけの殺風景が続くのだから、こんなところに何が有るのかと、不安になるはずだ。
 水深が深くなると、生物の気配と言うものが、一切感じられない。
 提灯の灯りが照らす範囲、岩の大地と、星のない新月の夜で出来ていた。
 そしてより不気味さを増すのが、斜面の所々に点在する、倒木である。
 湖が一昼夜で出来るとは思えないし、一体、いつの時代の樹木なのだろうか。
 まるで全てが滅亡してしまった後の世界を見ているようで、僕はぞっとした。
 そして恐らく文も、もっと楽観的に考えていて、こんな世界は予想していなかったに違いない。

「水深、百メートル。水温、およそ五度。光も差さぬ水底は、水温も上がらず水流もない。本当に穏やかだね」

 僕が来た時は、心細いとぼやいていたにとりが、今は一番落ち着き、冷静であるように見えた。
 ここにいる三人の中で、最も無機質な世界に一番強いのは、彼女なのだろう。

 からくりの魚は、尚も勇ましく無の世界を進み、湖底へと向かうのだった。



「傾斜が無くなった。ここが鍋の底かな?」
「今まで特に変わりはないわね」

 鏡を通して見る限りでは、全く変化が無いと言ってもいい。
 平衡感覚が無いので、湖底も傾斜も全く同じ映像にしか見えないのだ。
 唯一、にとりだけが、操作している事もあって傾斜を把握できるらしい。

「……文、続ける?」
「当然よ。まだまだ始まったばかりじゃない」

 にとりの問いに、文はいつもの調子で応えるが。
 その表情には、不安の色が隠せない。
 文の言う通り、僕達が見た湖の姿は、全体からすると極々一部に過ぎないだろう。
 見あたらないのも、生物の気配だけであって、金銀財宝には関係無い。
 ただ、これだけ準備をしたにも関わらず、何も見つからなかった時の事を考えると、気が気ではないのだろう。

「なあに、きっと何かありますって!」

 乗り気で無いにとりに、笑顔を作りながら文は言う。
 それはにとりにあてたものでなく、彼女自身への慰めの言葉だったのかもしれない。





 その後も、魚から送られてくる映像にはなんら変化が無く、いつの間にか僕は木に寄りかかって眠りこけていた。
 湿気こそ酷いが、涼しく、太陽の光も程好く遮られるせいで、妙に寝心地が良い。
 五月蝿い蝉の声も、霧に遮られて子守唄のように聞こえる。
 
 霧がかかった太陽はまだ天上にあるが、何時間かたったようだ。
 うっすら開いた眼を開けてみると、文はまだ食い入るように鏡を覗き込んでいた。
 特に何か見つけたと言う訳じゃ無さそうだが、決定的瞬間を見逃すまいと、集中を切らさないでいるのだろう。
 

「何か見つかったかい?」
「いいえ、残念ながらまだ何も……」

 文は悲しそうに、大きくため息を吐く。

 ――余計なお世話だったかな。

 確かに、僕はこの件に関して、あくまでも見物しているだけであり、部外者だ。
 しかし、一人だけ何もせずにいるのは居心地が悪いものだ。

「何か手伝えることはないかな?」
「いんや、特に無いよ。操縦も私じゃないと出来ないしさ」

 文とは違い、特に疲れた様子もなく、にとりが応えた。
 手伝える事も無く、特に見ている意味も無い。
 文の様子に何か後ろ髪を引かれる思いに駆られながらも、僕は帰ろうと考えた。

 丁度その時だった。

「あれ?」

 言葉を発したのは、鏡を覗き込んでいた文だ。

「どうしたのさ?」
「にとり、ちょっと左側のほう見てくれる?」
「あいよ」

 文が何かを見つけたらしく、にとりに指示を出す。
 僕もどれどれと、鏡を覗き込みに近づく

「うん、このあたり、ストップストップ」
「何かあるのかい?」
「何も見えんよ?」

 文は興奮気味に、何かあると言うが、僕には何も映ってるようには見えなかった。
 代わり映えの無い、岩と、暗闇が続いているだけだ。
 にとりも僕と同じらしく、頭に疑問符を浮かべて、魚を直進させる。
 ただ、文だけが、紅い瞳を見開いて、食い入る様に鏡を見つめていた。

「あれは……。祠かしら?」
「んん……? あら? 本当だ、何かある」
「ああ、祠に見えるね」

 文が暗闇の先に見つけたもの、それはとても小さな、人間一人も入れぬような、祠だった。
 祠とは神社と同じで、神を祀るものである。
 違うのは大きいか、小さいかの規模だけだ。

 文は久しぶりにシャッターの紐を引き、祠を撮影する。

 木造のそれは、書かれた文字こそ読めなくなっているが、腐りもせず、立派に原型を留めて、湖底に建っていた。
 まるで、最近建てられたように見えるほど、綺麗に出来ている。

 いや、まさかそんなことは――。

 しかし、湖が出来る前からここにあったものだとすると、この湖は意外と新しく出来たものだという事になる。

「いつ頃に出来たものだと思う?」

 僕は文に尋ねる。

「さあ、見当がつきません。腐っているようにも、痛んでるようにも見えませんし」
「腐ってないのは温度が低いせいかな。氷室や冷蔵庫みたいなもんだね。そんな事より、何の神様が祀られてるんだろ? 霧の神様とか?」

 そう言われても、そもそもこんなところに祠があったこと自体、初めて知ったのだから、何の神が祀られているかなんて、知る由も無い。
 何の神が祀られていたのかは、判らないが、今この神社がどんな状態であるか、それは想像に難くなかった。

「もうここには何もいないんじゃないかな」

 八百万の神は、信仰をはじめるとすぐに生まれ、信仰を失うとすぐに消えてしまう。
 実は幻想郷には、こうして名も忘れられた神を祀る祠がいくつも存在する。

「にとり、こういうところに祀られている神様に、深く探りを入れるのは良くないわ」
「どうしたの? 文」
「封印された祟り神かもしれないからね」

 忘れられた神々は、決して良いものとは限らない。
 祟りを止めるために、あえて人里離れた場所に祀り、忘れる事もある。
 もしもこの祠が、そういった理由で建てられたものだとすると、余程忘れ去りたい神様だと言う事だ。

「……なんか、おっかないなぁ」
「はぁ……。折角見つけたネタなのに、これは危なっかしくて記事に出来ません」
「文、やっぱりこんな所はもう離れよう」
「臆病ねぇ。もし祟り神だとしても、多分もう消えてますよ。記事には出来無いけれどね……」

 にとりは落ち着かず、文は落胆の色を隠せない。
 ただ、確信はもてないものの、僕にはこの祠に、祟り神が祀られているようには思えなかった。
 祠は小さいが、立派なものであるし、霊夢が封印に使うような御札も付いて無い。

 とすると、やはり湖の霧に関係する神様でも、祀られているのではないだろうか――。

「さて、気を取り直して、まだ何か無いか探しましょうか」
「文も諦めが悪いねぇ……あれ? なんかおかしいよ」
「どうしたの?」
「何がだい?」

 鏡を覗き込むが、特に変化はない。

「違う、鏡じゃない、霧だよ、霧!」

 そうにとりに言われて辺りを見渡すと、先ほどよりも霧が格段に濃くなっていることに気づいた。
 それも、十歩先も見えないような、とても濃い霧である。

 ――まさか、僕達が祠を見つけたせいだろうか。

「落ち着いてにとり、霧は襲い掛かったりしないわ」
「でも、見る間に濃くなってるじゃないか! こんなに近くにいるのに、顔すら……!」
「確かにこいつは異常だが――」

 しかし、この霧では無闇に歩きまわる事も出来無い。
 対応を考えているうちに、霧は僕の足までも包み込み、霞ませてしまった。
 ぞくり、と、得体の知れない霧に対する恐怖が、僕の中に生まれる。
 足の先が見えない。
 まるで、存在を消されているような錯覚に陥る。

 ――文、一旦空に逃げよう!

 にとりの声が聞こえた。
 だが、その声は妙に遠くから聞こえてきたような気がする。
 さっきまで、手の届く範囲にいたはずなのに

 ――え……? にとり、霖之助さん、どこにいったの?

 文の声。
 この声もやはり遠い。
 僕は一歩も動いていないし、彼女らが動いた気配も無い。
 こんな馬鹿な事が起こりうるのだろうか……。

「文! にとり! 僕はここだ!」

 恐怖に駆られて、僕は力一杯声をあげた。



 なのに返事が無い。



「――おい! 聞こえているなら、返事をしてくれ!」

 視界は、骨のように薄気味の悪い白一色に染まっていた。
 もう、自分の肩さえも見る事が出来無い。
 手で二人を探っても、何かに触れる事もなかった。

 足は怖くて動かす事も、座る事も出来無い。
 まるで、空を歩いているような、そんな気分だった。

 湖畔の森でなく蝉の声も、いつの間にか聞こえなくなっていた。



 ――変わりに、聞こえてくるのは、激しく脈動する僕の心音。


 ――恐怖に震える息の音。


 そして――















 轟々と吹き荒れる、風の音――。








「うわっ!?」

 次の瞬間、僕は目を開けていられないほど、力強い風圧と陽の光を感じた。


「見つけた!」


 懐かしい声が聞こえた次の瞬間、僕の身体は宙に浮いていた。

(ああ、助かった……!?)

 そう考えると同時に、僕はぐんと加速する感覚に襲われ――


 そのまま気を失ってしまった。






















 エピローグ1

 残暑と言うには、相応しく無い、暑い日が続く。
 今年はまさに暑い年と言っていいようだ。

 あの湖の事件から、一週間がたった。
 霧が濃くなった時、僕は文に助けられたものの、天狗の加速に耐える事が出来ず失神し、気が付くと香霖堂の椅子に座っていた。
 後で、あんなに速度を出す必要はあったのかと、文を問い詰めてみると

「いやぁ、ちょっと無茶しすぎましたね」

 と、笑って返されたので、少し腹が立った。
 しかし、文の表情が曇ったままなので、責める気にもなれなかった。

 それもそうだろう。

 張り切った割に成果が無く、あの取材を基に記事を書く事も出来無いので、文は止むを得ず予備のやっつけ原稿を載せる事にした。
 一応、一ヶ月に二回以上という、彼女が自身に課したノルマを達成する事は出来たが、プライドの高い彼女には堪えたようだ。

 そして、文にとって何よりも大きな損失。
 相棒のカメラを失ってしまったのだ。
 霧は一時的なもので、あの後、すぐに元の湖に戻ったらしいが、その場に置いてきたはずの鏡と、操縦用の紐が、忽然と消えてしまったと言う。
 カメラはアンコウの中に入ったままなので、恐らく今もあの祠の側にあるのだろう。
 記事よりも、そちらの方がダメージが大きかったらしく、取材活動もお休み中らしい。


 しかし、一体あの霧は何のために発生したのだろう。
 誰があの紐を、鏡を盗んだと言うのだろうか。

 順当に考えるなら、あの祠に祀られていたのはやはり霧の神で、僕達がその神の怒りに触れるような事をしたために、神罰を与えたと言う線だろう。

 では、何が一体、神の怒りに触れたのだろうか。
 僕が想像したシナリオは、単純ではあるがこのようなものだ。

 霧が象徴するもの。
 それは『謎』である。
 ならば、湖の謎を暴こうとしていた文は、霧の神の領域を侵す者であり、なるほど神罰の対象にもなりえよう。

 ただ不思議なのは、どうして、あんな所に祀られていたのか、という点に尽きる。

 霧だけなら、忘れ去りたくなるほど酷い祟りとは言えまい。
 そもそも、あの霧は不気味ではあるが、普段は優しく、夏は畔を訪れる人妖にとって有り難いものですらある。
 この国に住む人妖はそういった、不可思議な自然現象に対して神々しさを感じ、無意識に信仰をしてしまうものだ。
 信仰が尽きることも、疎ましがられる事もあるまい。

 もしかして、僕達を襲った霧の神と、あの祠に祀られていた神は、関係の無い別の神なのだろうか。

 すると、僕の中に一つの仮説が浮かび上がってきた。
 まず、最初にカルデラがあって、次に祠が建てられ、最後に湖が出来たのではないだろうか。
 カルデラの出来る要因、それは火山の活動である。そして、カルデラが出来た後だって、火山が噴火する事はあるのだ。

 あの祠は、湖の底にあるはずの、火口を封印するための祠なのでは――。

 そう考えると、祠が新しく見えた理由も、湖の成り立ちについても説明が付く。
 祠が水没した理由、あれは恐らく、人為的なものなのだ。
 そもそも、あの湖の水源は山から流れ来る川である。
 川を引き込む事が出来れば、短期間で湖を作る事が出来るはずだ。
 さらに湖は、祠を覆い隠し、人妖の記憶から忘れさせる事が出来る。

 僕はもう二度とあの祠を見る事は無いだろうし、この先、あの祠を見つけるものもいないだろう。
 だから、本当のところはどうなのか知る術は無いが、また一つ、幻想郷の謎を解き明かした気分になり、僕は満足だった。



 ――カランカラン

「毎度お馴染み射命丸です。今日からまた、文々。新聞も再開ですわ」
「いらっしゃい……って、ちょっとやめてくれよ」

 カシャリと、カメラの音がした。
 やはり彼女に辛気臭い雰囲気は似合わない。
 多少五月蝿くとも、いつもああであって欲しいものだ。



 しかし、僕の気のせいだろうか。
 あの、湖に消えたカメラと、全く同じものの様な気がするのは――。















 エピローグ2


 あの日、カメラを失った私は、暫く途方に暮れていた。
 気力を振り絞って、予備の記事を発行したものの、直後から寝て、起きて、呑んでの生活が続いた。

 こんなに気力を失ったのいつ以来だろう。
 こんなに後悔したのはいつ以来だろう。

 私の無理を聞いて、取材に協力してくれたにとりは

「そんなに落ち込まないでよ、カメラなんかまた創ってやるから」

 と、優しい言葉をかけてくれた。
 しかし、私はありがとう、と短く答えたあと、「欲しくなったら頼むわね」と付け加えた。
 魚人形の借りすら返せていないのに、これ以上借りを作ってしまったら、二度とにとりには頭が上がらない気がする。

 それもあったが、あの時の私は、一種の自暴自棄になっていたと言える。
 他人に話すと、くだらないと笑われそうで言えないのだが、あの時の私は、何よりも、失ったカメラを惜しんでいた。
 何度も改造、修理を施したものではあるが、百年来の相棒でもあった。

 新聞記者としての私は、あのカメラと供にあったのだ。

「ぷはっ……」

 また、今日も朝から風呂で自棄酒である。
 しかし、悲しいかな――。
 天狗の身の上は、簡単に酔い溺れる事を許してくれない。
 私に与えられたのは、酔っぱらいの道化を演じる権利だけだ。
 それでも、何もしないよりはマシに思えた。

「さぁて、神社でもいきますかね~。たまには山の方の神社にでも」

 カメラが無ければ記事も出来無い。
 いや、カメラが無い時代にも新聞はあったのだが、今更昔に戻る気にもなれない。
 私が新聞記者を始めた頃には、既にカメラはあったのだし。

 一升の酒を飲み干すと、ぱっぱと軽く着替えて、守矢の神社へと向かう。
 八坂様は未だに胡散臭さの抜けない神様だが、一緒に呑んで割と楽しい山の仲間であるのだ。








 守矢神社。
 突如として湖と供に山に現れ、私達天狗や河童とひと悶着起こした、迷惑な神様が祀られている神社。
 ――と言うのも、今は昔。
 突如として湖と供に山に現れ、私達天狗や河童とひと悶着起こし、更には地底にまで野望を張り巡らせる、とても迷惑な神様が祀られている神社だ。

「何で朝から酔っ払ってるんだい、お前は」
「へへ、おはようございます、毎度お馴染み射命丸です。今日は八坂様と一杯のつもりで」
「んーまぁ、いいけどね。神様なんて普段は暇なだけだし」
「うふふ、知ってます。今、この山には暇妖怪と暇神様しか住んでないわ」

 そうねぇと、本殿の方から高い声が聞こえて来た。

「いつも忙しそうなのは、貴方くらいだものね。貴方が暇をしてたら、夏に雪が降るんじゃないかと思う」

 奥のほうからひょっこり、のっそりやって来たのは、この神社のもう一人の神様、洩矢様だった。
 八坂様と違って、こっちは割り落ち着きがあると言うか、常識神である。
 どうしてか、山に来た当初、八坂様は洩矢様の存在をひた隠しにしてきた。
 仲が悪い風にも見えないのだが、何しろ謀りごとの大好きな八坂様であるが故、何か企みがあったのだろうとは思う。
 今となっちゃ、どうでもいいけどね。

「あれ、こちらの巫女はどこへいきました?」
「ああ、最近は良く、人里へ行ってるよ。私らの威光を知らしめるんだって言ってね」

 八坂様は少し、寂しそうに呟く。

「周りが呑んだくればかりだから、早苗もまともな人間が恋しいんでしょう。もうすぐ二年は経つのに、まだどこかぎこちないから」
「あの子、下戸ですからねぇ」
「外の世界じゃ下戸と言う程でもないんだがね。幻想郷の、特にこの山の平均値が高すぎるだけよ」

 こんな世俗染みた言葉を交わしていると、妖怪も、人間も、神様も、違う様で似た様なものだなと、思う事が良くある。
 酒を飲めば酔っ払うし、騙したり、騙されたりもする。
 卑怯な振る舞いをする事もあれば、仁義を立てる事もある。
 この二柱も、早苗の事を非常に可愛がっている節がある。
 ただ、二人の早苗に対する扱いには微妙な差異があった。
 私の目から見ると、八坂様は自身に仕える従順な巫女として、洩矢様はまるで我が子の様に可愛がっているような気がするのだ。

「大事なのは全体の平均より、個人の最大値でしょう?」
「あらまぁ、朝から私と飲み比べしようというの?」
「いえいえ、そんなつもりは。ですが、八坂様が呑めと言われるのであれば、私は断りませんけど」
「まあ、口の減らない天狗だこと。いいでしょう、相手をなさいな」
「お酒はゆっくり呑むのが、良いものだと思うんだけどね」

 洩矢様はそう言って、私達の飲み比べを見物するのが好みの様だった。
 そんな切っ掛けで始まった飲み比べは、同じ様に暇をしていた天狗や河童達を引き寄せる。
 陽が落ちる頃には、神社はまるでお祭りのような熱気に包まれていた。
 そんな中で八坂様との勝負は、有耶無耶になり、私は暫くカメラの事を忘れて過ごす事が出来た。






「ああ、もう、境内を散らかしちゃって。お前たちと呑むといつもこれだ」
「いいじゃないですか、信仰が集まりますよ」
「そうだけど、片付けに何人か出してくれよ。早苗が死んでしまう」

 何杯目かも判らない酒を、杯を注ぐ。
 陽が落ちた後、松明の光で呑む酒は、不意に心を溶かしてしまう事がある。
 今日は、杯に映った、自分の楽しそうな顔を見て、突然何かがぐらりと来た。

「……はぁ」
「なんだい、ため息なんかついて」
「いえね、大した話じゃないんですが。百年来の相棒を失ってしまったんです」
「ああ、もしかして、お前がいつも持ってた――」
「そう、カメラです。お陰で新聞記者は休業中」

 ぐいっと、杯を空にする。

「ふうん、どうして失くしたの?」
「麓にちょっと大きな湖があるでしょう?」
「ええ」
「あの湖に住む神様を、どうやら怒らせちゃったようなんですよ。それで不覚にも、カメラを取りあげられてしまってね」
「気難しいヤツもいるからね」

 八坂様は、私の杯に酒を注ぐ。
 どうもと応えて、また飲み干す。

「たかが道具なのに、こんなに落ち込めるなんて。自分でも吃驚ですわ」
「そんなの、取り返せばいいじゃないの」
「深い湖の底に沈んだものをですか? どうやって?」
「どうやってって……。そりゃ、謝ればいいんじゃないの?」

 あっさりと応える八坂様に、私は思わずキョトンとしてしまった。

「あれ、判らない? ほら、私と天狗も最初は仲が悪かったじゃないか、でも――わっ!?」

 気が付くと、私は八坂様の両手を握り締めて、ブンブンと激しく上下に振っていた。

「八坂様、ありがとう、早速行ってきます!」

 私は勢い良く立ち上がり、近くにあった満杯の酒樽を持ち上げて、全速力で空へと飛び出した。









 夜霧の湖。
 湖畔の森からは、秋の虫達の合唱が響き、薄ぼんやりとした霧が漂う。
 昼よりも薄くはあるが、広く漂う霧は、いかにも幻想郷らしくて、どこか優しかった。

「申し訳ないのですが、私は貴方の名前を存じません――。巫女でもないので、姿の見えない貴方の声を、お聞きする事も出来ません」

 私は大きく一つ、息を吸い込み、湖畔に正座して、謝罪の言葉を吐く。

「だからどうして、貴方の怒りに触れたのかも、良く解っておりません。ただ二度と、みだりに貴方の領域に踏み込んだりしないと、誓います」

 そよ風が、森を揺らし、湖にかかる霧がほんの少し動いた気がした。

「これは、天狗の里で造られた銘酒です。何杯呑んでも、何年呑んでも飽きの来ない、最高のお酒ですわ。よろしければ、仲直りの証に、私と呑んでいただけませんでしょうか?」

 勿論、返事は聞こえない。
 しかし、動いた霧の隙間から、ちらりと月が覗いた。

「――ありがとう。では、お注ぎいたしましょう」

 私は酒樽を抱えて、湖畔に身を乗り出す。
 ざぶ、ざぶ、ざぶ、と天狗の酒が湖に注がれる。

「いい呑みっぷりで」

 私も杯を取り出し、酒樽から直に汲み上げる。
 そのまま、湖畔に胡坐をかいて座り、ぐいっと一気に飲み干した。

 ――ああ、美味い。

 湖と、湖畔で呑む酒は、神社で呑んでいたものと、同じ酒であるのに、何故だか冷たく、とても爽やかな味に感じられた。

「美味しいでしょう。もう一杯、いかがです?」

 その時、目の前の水面に、何かがぷかりと浮んで来た。

「あれ、まさか……」

 青白い月の光を浴びて輝くそれは、縄ごと消えたあの不細工な魚の人形に間違いなかった。
 私は慌ててそれを拾うと、大急ぎで口を開ける。

 当然、そこにあったのは、百年来の相棒の姿だった。

「あはっ! ありがとうございます! さぁ、今夜は一緒に呑み明かしましょう!」

 そう言って私は、じゃんじゃんと、神の杯にお酒を注ぎ、一方的に話かけながらの呑み会を続けた。

 これだけ気の良く、誰にも優しい神様が、名前も知られず祀られもせずに放置されている姿に、私は一抹の不安を覚える。
 神様の数は八百万。
 飽和状態だと言うのに、幻想郷には巫女の数が圧倒的に足りてないような気がする。
 人間の巫女の数は、たったの二人。
 しかも、一人は稀に見るぐうたらで、一人は二柱の専属と来ている。
 これでは、神様も神託を伝えることが出来ず、人妖の信仰を集めることが出来なくて当然だろう。
 だから、神様が自ら仮初の肉体を使って、人妖の信仰を集めようと苦労している姿が、幻想郷の各地で見られる。

 ――次の新聞では、この神様を贔屓にしてみようか。


 満月を映す霧の湖は、本当に美しくて、私は何度もシャッターを切った。
気が付けば、2009年も既に半分が過ぎていて。
大変長らく間が開いて申し訳ありませんでした。

話としては、終わっているわけではないのですが、いろんなキャラクターを書いてみたいと言う事もあって、文霖。新聞は一旦休刊でございます。
エピローグと書いてもいますが、これで終了と言うわけでもありません。気まぐれに再開したりするかもしれません。

よく見ると、第1刊を投稿したのが、去年の7/7、危うく一年、おお、危ない……
千と二五五
コメント



1.与吉削除
読んでいる間どきどきが止まりませんでした!
こういうお話を読みたかったんだなあとつくづく思います。
出てくるキャラクターが皆すごく魅力的で……何て言ったら良いんだろう。
ええい、言葉はまとまりませんが、この連載、大好きです。
一周年、おめでとうございます!
2.名前が無い程度の能力削除
お待ちしておりました。
相変わらずのとても良い雰囲気、堪能させていただきました。
次回作も楽しみにおります。
3.名前が無い程度の能力削除
待ってました。
いつ読んでも幻想的な雰囲気な文章で、大好きです。
4.名前が無い程度の能力削除
待ってました、の一言に尽きます。久しぶりに続きが読めていい気分で眠れそうです。
一周年おめでとうございます&次回作や続編も楽しみに待ってます!!
5.名前が無い程度の能力削除
ああ、素晴らしい 清々しい読後感
登場人物が光っています、本当に
休刊のお知らせとのことですが、また別の作品と、のちの復刊もたのしみにお待ちしております!
6.名前が無い程度の能力削除
魅力的な登場人物、それを取り巻く環境、どこまでも幻想郷らしい物の考え方
なんか、全部が考察されまくっていて凄い…
7.名前が無い程度の能力削除
いいですねぇ。素晴らしい。
こんな言葉じゃ言い表せないくらい良い作品ですね。
8.名前が無い程度の能力削除
久しぶり~だけど慧音って半妖じゃなくて半獣でしょ。
妖と獣じゃ性質全然違うし
9.名前が無い程度の能力削除
後半になればなるほど引き込まれるこの感じはすごいなぁ
10.名前が無い程度の能力削除
霧の場面のぞくりとするところとエピローグ2の幻想郷らしさがツボに入りました。
11.名前が無い程度の能力削除
まってました。
忘れられた神様も、考察に考察を重ねる霖之助もカメラを失くして凹んでる文も
酔っ払いな八坂様も、みんな魅力的ですばらしかったです。
霖之助と文のコンビもしばらくは見られないと思うと残念ですが
更なる創作楽しみにしています。
12.名前が無い程度の能力削除
居ない訳無いですねってその通りだけどw
新作も楽しみにしてます
13.名前が無い程度の能力削除
なんとも幻想郷らしい、いいオチでした。
14.久我拓人削除
面白かったです!
なんだかちょっぴり切なくなる感じのお話。
胸の辺りがじんわりと温かくあんるお話。
顔が自然とほころんでしまうお話。
文とにとりと霖之助が大好きになるお話。
なんか、もう、こう、物書きとして情けないけど、表現できない嬉しさがあります。
千と二五五さんの作るお話が大好きです。
できれば、ず~っと読んでいたい位ですが、休憩は大事ですよね。
また文霖。新聞が読める事を、どこかの神様に祈ってます♪
15.名前が無い程度の能力削除
いい話ですねぇ~・・・
16.名前が無い程度の能力削除
湖の謎が解明されないままってのも幻想的で面白かった。

封印された祟り神って言葉に姿が見えない魅魔様はこんなところに居たのかって思ったのは俺だけじゃないはずだ!
17.名前が無い程度の能力削除
プチの長さではないきがする
18.名前が無い程度の能力削除
私も久我さんと同じく、貴方の作品が読みたいです。
いずれ、読めると楽しみに待っていますね。
19.名前が無い程度の能力削除
あやたんかぁいいよぉ
20.名前が無い程度の能力削除
すごく綺麗な作品だと思った
こんなに引き込まれた話は久しぶりかも
21.名前が無い程度の能力削除
なんだか、映画を見ているような感覚でした。
とても面白かったです。