《軟膏》
空が漸く白み始めた早朝。
永遠亭の月兎、鈴仙・優曇華院・イナバは、自室で机に鬼気迫る表情で向かっていた。
長い髪はところどころが跳ね、服はパジャマのまま。耳はへにょっている。
鉛筆を持つ手は忙しなく動き、ノートには単語が羅列されていた。
因みに、『サリチル酸メチル<インドメタシン<フェルビナク』と書かれている。
頁の隅から隅までを埋め、はふ、と一息。
次の頁に移る――前に、鈴仙は机の引き出しを開いた。
普段は少し散らかっているが、パッと見、今は綺麗に保たれている。
当然ではあった。何故か。昨日も同じように手を止め、完璧に整理整頓を行ったからだ。
所謂、現実逃避。
指をすぅと縁に這わせ、眼前に持ってくる。
「む。まだちょっと汚れているわね」
「自分で姑みたいな事してどうすんのさ」
「聞こえない、聞こえなーい!」
首を振りながら喚く鈴仙。
「って、わ!?」
頭がくらりとし、鈴仙は椅子ごと倒れそうになる。
支えたのは、地兎、素兎、詐欺兎こと――。
「てゐ、ありがと」
――因幡てゐ。
「ん。二回目だけど、おはよ、鈴仙」
「おはよう。……って、あんた、何時からいたのよ!?」
「声かけたのに気付かなかったのはそっちだよ。……課題か何か?」
だからって勝手に入るのはどうなのよ。
捲し立てようとする鈴仙だったが、てゐの問いに、どんよりとした空気を肩に纏う。
「うぅん、テスト。湿布剤とかそこらの。はふ……」
「昨日言われたの? それはちょいと酷いね」
「一週間前だよ?」
ぴっ、と人差し指をあげる鈴仙に、てゐは額を押さえる。
「計画的にやりなよ、鈴仙。徹夜なんてしてたら、体にも悪いしさ」
素っ気ない言い方だったが温かみを感じ、鈴仙は視線を逸らした。
「えと。うん、そうだよね。徹夜はいけないよね。うん、てゐの言う通りだ」
おいこら。半眼を投げつけるてゐ。
「だって! しょうがないじゃない! 眠くなっちゃったんだもん!」
「『もん』じゃない。……じゃあ、布団引っ張り出して寝たんだ?」
「うぅん、違うわ。引っ張りだしはしたけど、潜らなかったもの」
「胸張って言う事じゃないって。あれ、結局、寝てない?」
「ふふん、机でダウンしたのよ」
腰に手を当て、鈴仙は高らかに宣言する。何故か得意げだった。
てゐは笑う。あはは。
鈴仙も笑う。うふふ。
あははははうふふふふ。
一拍後。
椅子から飛び出し逃げようとする月兎。
地兎はすかさず腕を掴み、体の方向を変えた。
つまり、鈴仙は床へと跳躍する――ほふっ。
「やー!? なんだかわかんないけどいやー!」
布団の上でじたばたともがき喚く鈴仙の服をまくり、てゐは顔を顰めた。
「あー、やっぱり。ちょっと黙ってて」
ポケットから小さな瓶を取り出す。指でくるりと蓋を回し、すくい取り、塗る。
「その前に離しひゃぁんっ!?」
無駄に艶のある悲鳴があげられ、やはり、てゐの顔は更に険しくなった。
「だから、黙ってって」
「ひぅ、冷た……や、あつぅ、い……ん……ぁっ」
「あぁもぉ! 口を閉じろ、この鈍感敏感兎! 軟膏の一つも塗れやしない!」
鈴仙は椅子に座り、寝ていた。故に、肩に張りが、腰に赤みが残っている。
「……なんで腰に痕があるのよ」
「私、寝相悪いから」
「椅子なのに!?」
椅子なのに。
「――テストだけどさ。
勿論、成分とかも大事だろうけど、使い方とかも覚えておきなよ。
永琳本人は無駄知識蓄えこんでるけど、結構そういう実践的な事を重視してるようだし」
軟膏を指腹につけ、患部にそっと触れる。
厚塗りしないようさらりと一撫で。
擦り込みさえしない。
所謂、単純塗布法と呼ばれる塗り方だ。
「あんぅ、は……っ、ひぅっ、はぅ、ふぁぁ……」
一切合財関係なく、鈴仙は悶え続ける。てゐにして、耳に毒な声だった。
「だからぁ」
「ふぅぅ……てゐ、塗るの上手だね。足もお願い」
「あぁ、まぁ。昔、ちょっとね。――足位自分でやりなって何故脱ぐ!?」
足を伸ばしズボンを下ろしていた鈴仙は、頬を掻き、笑う。
「てゐのが上手だもん。気持ちいい」
えへへと笑う。毛玉の様な尻尾も揺れていた。
数秒後。
苦悶を押し殺し、てゐは無表情で軟膏をつけた指を這わせる。
月兎の柔らかくも引きしまった腿は、あげられる嬌声は、永遠亭の素兎にして応えるようだった。
《スプレー》
太陽がまだ上がりきっていない朝。
男は布団からむくりと起きあがった。
昨夜睡眠についたのが遅かったからだろう、目覚めたと言うのにぼぅとしている。
こめかみをトントンと掌で数度叩くが靄の様なだるさは取れず、頭を振りながら床を静かに後にした。
洗面所に赴き、冷水で顔を洗う。
水滴は、八分が弾かれ、二分が皮膚に吸い込まれた。
中々に心地よい感覚だったが、それでも完全な覚醒には遠く、どうしたもんかと彼は首を捻る。
あぁ、そう言えば――男は妙案を思い付き、洗面所にあった缶の一つを手に取り、外へと出た。
まだ早い為か、往来に人はいない。
男が首を回した限りでは、道筋の店々も閉まっていた。
別の筋にある豆腐屋は開いているだろう――思いつつ、大きく腕を伸ばす。
生温い空気はけれど、濡れた頬の冷気を増す。
伸びもほどほどに気持ちがよかった。
しかし、まだ足りない。
足りないのだ。
だから、男は缶を向けた。
片手で引っ張っているズボン、そして――。
ぷしゅー。
「ぃよっしゃーーーーーー!!」
絶対に真似しないでください。
「店先で、何、やってるのよ……」
「目覚めの一発。何ならお前も、あ、駄目だ。粘膜には」
「粘膜って言うな――部位も言わなくていい! じゃなくてぇ……こんの大馬鹿ぁぁぁ!」
――ストラディヴァリウゥゥゥス!
少女と女性の境の女の一撃を受け、男は奇声を上げながら吹っ飛んだ。
騒動に、早起きの爺や婆が顔を出す。
「おやまぁ、相変わらず仲の良い」
「ありゃ、娘さんは拳で愛を示す主義じゃなかったっけ?」
「ほら、騒霊の……何と言ったかね、長女さん公認の模造品らしいよ」
「樫の木で作られているそうだ。揃って愛好家だもんねぇ」
「うぅん、やっぱり仲の良い。良きかな良きかな」
その程度には、日常茶飯事であった。
ごろごろと転がる男を止めたのは、人の里の端をどうと言う事もなく連れとぶらついていた少女。
「よっ……と。少年、お前さんも大概に頑丈だね」
「いてて。あ、お二人とも、おはようございます。――あー、少年は止めて欲しいんですが、妹紅さん」
‘少女っぽいモノ‘蓬莱人、藤原妹紅。
妹紅は挨拶を返し、ふむと唸る。
「それもそうね。旦那でいいかい?」
「そいつぁ照れくさいですね」
「じゃあ、青年だ。ところで」
いや、名前で呼んでくださいよ――苦笑と共に口を開こうとした男だったが、妹紅の質問により言葉を変える。
「今日はなんで吹っ飛ばされたの?」
「あぁ、痛み止めのスプレー剤をですね。こう、眠気覚ましに」
「なるほど。そりゃぁ怒られても仕方ない。青年、お前さんが悪いよ」
ついぞこの手の話題には理解のあると思っていた妹紅に非難され、男はばつの悪い表情を浮かべる。
からからと笑いながら、妹紅は続けた。
「だって、それは粘膜につくと駄目だろ? 花におしべをつけられなくなるじゃないか」
理解があり過ぎる。
「うっわ、流石に妹紅さん、それは俺でもどうかと思います!」
「いやいや、花も恥じらう娘でもあるまいし。花はあるがね」
「いや、いや! 妹紅さん、そこまで――」
あっはっは。
快活に笑う妹紅に、男は震えながら声をかけた。
そう、男は震えている。浮かぶ表情は恐怖以外の何物でもない。
男の視線の先には、妹紅の連れがいた。
「ね、慧音?」
「お、ま、え、はぁ!」
「はが、がふっ、ふがぁぁぁ!?」
慧音――上白沢慧音の渾身を込めた三撃により、妹紅は悲鳴をあげ、彼女の膝は地についた。その様は正に惨劇。
まったく――手を払い、慧音は男に顔を向ける。
「お前もだ。あまり、あの子に心配をかけるような事をするな」
「や。スプレーよりもあいつの一撃の方がよっぽど効いたんですが」
「だから、それは粘膜に着くと――んぅ、つまり、そう言う事だ。いいな」
こくりと頷く男。畏敬からではなく、元教え子故の反応だった。
「あ。慧音も私と同じ事考えてたんだ。やーらしー」
ごす。
鈍い音と共に、起き上がりかけていた妹紅は沈黙した。
勢いに任せてのヘッドバッド。
重く、強い。
「い、痛そ……」
「なに、妹紅もお前と同じく頑丈だからな」
「妹紅さんと比較される俺をどうかと思わないでもないです。じゃなくて」
男は中腰になり、スプレーを妹紅に向ける。
「ちょいと動かないで下さいね。痛み止めを今……」
「あぁ、止めておけ。意味がないどころじゃない」
「其処まで痛みつけたんですか」
若干身を引く男に、慧音は苦笑した。
「私に薬は効かないよ。それに――」
代わりに応える妹紅だったが、途中で口を閉じる。
何処となく落ち着きのない慧音に気付いたのだ。
そわそわしている様は珍しい。
「ねぇ、慧音?」
可笑しく思いつつ、妹紅は慧音に話を振った。
「う? うむ」
咄嗟の問いかけに相槌を打ち、慧音はそのまま、男に語りだす。
「スプレー剤は、と言うか、薬全般だが。
目の周囲は避けるように記載されているんだ。
缶の側面を見てみろ。書いているんじゃないか」
言われるがまま、男は缶を回し、眺めた。言葉の通りであった。
「ほんとだ、書いてますね。先生、ありがとうございます」
頭を小さく下げる男に、慧音は相好を崩し、手を振る。
そんな連れの様に、妹紅は小さく笑みを浮かべた。
男は慧音の元教え子であり、彼女の寺子屋の卒業生だ。
だが、卒業したからと言って、彼女にとって可愛い生徒である事に変わりはない。
恐らく、男が老人になった後でも変わらないんだろう。
くっくっ――小さく笑う妹紅が起き上がろうとした時、視界に入ったのは缶だった。
「うむ。では、実践してみよう」
ぷしゅー。
「目がぁぁぁぁぁ!?」
「あぁ!? も、妹紅、すまない!」
変にテンションあがっちゃったんだろうなぁ――痛みの中、妹紅は思う。
ごろごろ転がる妹紅。
あたふたと妹紅の目を撫でる慧音。
体を張った教えと、体を張らせた教えに、男は呆然としつつ、言った。
「絶対に真似しません」
<幕>
うどんげ無防備すぎるぞ流石にw
それはそうと自分も鈴仙に軟膏を塗りたいのですが
危うく凍死しかけた俺が来ましたよ。スプレー剤マジヤバいw
俺きめぇwww
なんか妙にしんみりしてしまった