そのチャーハンを、八雲藍は絶望的な眼差しで眺めていた。
洗濯物は干した。
居間と台所と厠の掃除も終わった。
よし、これで午前中にやるべきことリストは全て片付いた。
藍はすっかり奇麗になった部屋と竿に一杯に干された洗濯物を見て、満足げに頷いた。
あとは主人にお昼ご飯を作り、午後は買い物と南東側の結界の測量と補修だ。
梅雨の真っ只中だが空はよく晴れている。
うん、洗濯物が乾かないということはなさそうだな。
空を眺め、気圧と湿度の変化から今日の天気を推測する。
梅雨の時期は本当に洗濯物が乾かないで困る。
この家には乾燥機という便利なものもあるが、乾燥機で乾かすとどうしても皺ができてしまうので藍はそれを使うことをあまり好まなかった。
とりあえず3日ぶりに洗濯もできたし、まだ使っていない衣服も合わせればまた明日からしばらく雨でも乾燥機を使わなくてもよさそうだ。
さて、と藍が割烹着をポンと一叩きし、主に昼餉を作るため台所へ移動しようとした正にその時である。
突然、物凄い音がした。思わず藍は首をすくめる。
今鳴り響いた音を、敢えて文字に表現するとすれば…
どんがらがっしゃーん
となるだろう。明らかに何かが崩れ落ちる音である。
いったい何が。
藍は首をかしげ音のした方向を振り向く。
元来が獣であるため、何処から音がしたのかを特定するのは容易い。
生まれつきの藍の聴覚は、それは台所から響いてきたと主張していた。
何で台所から。
紫様はどうせまだ寝ているはずだし、橙は朝早く出かけたはず…
はっ!
藍は突如としてある可能性を思い至った。
まさか、橙がいつの間にか帰ってきていて、何かをひっくり返したのではないか?
だとすれば…だとすれば…橙が危ない!
超高速頭脳の面目躍如と言った所だろうか。
音が鳴り響いてからここまでジャスト1秒でたどり着き、八雲藍は妖獣にしか許されない俊敏さで台所へと駈けた。愛する式を助け出すために。
「ちぇええええええええええん!大丈夫かああああああああああ!」
猪突も思わず避けそうな勢いで台所に飛び込む藍。
そこには上の棚から何かを引き出そうとした後と、そこに詰まっていたはずの普段は使わない大量のなべが、床で山となっていた。
「橙!今助けるぞお!!」
その山に彼女の愛する式が埋もれていると確信した藍は、がらんがらんと掘削機並みの速さでなべの山を崩していく。
やがてそこに埋もれていた人物が見えてきた。
しかし、だがそれは藍の愛する式神ではなかった。
出てきた人物に、藍は目を丸くする。
「ゆ、紫様?」
彼女の主八雲紫は何故か額を赤くしてなべの山の下に埋もれていた。
頭をぶつけたのか気を失っている様である。
慌てて紫の全身を山から発掘し、ゆさゆさと揺らす。起きない。
いったい何故紫様が、普段は起きないような時間に、台所でなべに埋もれているのだろうか?
藍が頭の上に疑問符をいくつも浮かべながら紫をゆすっていると、ようやく気付いたのか紫がゆっくりと目を開けた。
「紫様!大丈夫ですか?お怪我は御座いませんか?紫様!」
「う…」
紫は痛そうに額をさすり起き上がると、心配そうにしている藍におもむろ訊ねた。
「藍…」
「はい」
「あれ、何処?」
「あれ?」
「ほら、あれよ」
なんだろうか、と藍は首を傾げる。
紫が藍に求めてくる物…それも台所で…見当が付かない。
分からない時は素直に聞くに限る。
「なんでしょう、あれとは」
素直に訊ね返した藍に紫は呆れた様に言う。
「あれよあれ。式が主人の意を汲み取れなくてどうするのよ。ほら、あれ。えーと、あー、そう!中華鍋!中華鍋は何処にあるの?」
思い出した!とばかりに満面の笑みで中華鍋を所望する紫。
その笑みに、若干の不吉な予感を覚えつつ、藍は答えた。
「中華鍋なら…流しの下の棚に御座いますが…」
藍の答えを聞くと、よし、と言って紫は立ち上がり、早速流しの下の棚から中華鍋を引っ張り出してくる。
それから冷蔵庫を開けると、生卵とネギと鮭のフレークと昨晩の残りご飯を出し机に置く。
紫の様子に急激に不安を覚え始めた藍は恐る恐る訊ねてみることにした。
「あの、紫様?何をなさるおつもりで?」
もしも藍の勘が正しければ、紫はこれから神をも恐れぬ途轍もなく恐ろしい所業を行うつもりのはずだ。
「なにって、お昼ご飯を作るのよ。今日は私が作ってあげるわ。チャーハンでいいわね?」
出したネギを刻むために、包丁とまな板を用意しながら紫は答えた。
予想通りの紫の言葉に、思わず藍は即座に言い返してしまった。
「いえ、結構です。紫様はどうか居間の方でお待ちを。お昼は私がお作りいたします」
そしてその後でそれが最悪の間違いであったことに気付く。
紫は拗ねた様に眉をひそめると、藍に言い返した。
「なによ、人がせっかくたまには私が食事を作ってやろうと思って、わざわざ早起きまでしてきてやったのに」
まずい、と藍は思った。
これは非常にまずい。紫はなかなかに意固地なところがある。
ああ即座に否定してしまっては意地でも紫はチャーハンを作るだろう。
もっとこう、別のやり方が、遠まわしに紫の顔を立てつつやんわりと断る手段があったはずなのに!
だが、藍が脊髄反射的にそうしてしまった事も仕方のないことではあるのである。
前に紫が食事を作ると言ったときのことを藍は思い出す。
あの時は大変だった。
本当に大変だった。
なにしろその日の午後はずっと寝込む羽目になったからだ。
幻想郷の世間一般的なイメージと違い、紫は料理は上手い。本当に上手かったのだ。少なくとも見た目は。
具材を切ったり、下拵えをしたり、フライパンを返したりする様はプロの料理人にも決して引けはとらなかったろう。
しかし、だからこそ、だろうか。
普段料理をしている藍も、その時点ではまったく何の問題も感じることはなかった。
だが、紫が作り上げた料理、その時作ってくれたのは龍田揚げだが、ともかくそれを一口口に入れたときに、それはとんでもない間違いであったことを藍は思い知らされた。
不味いのだ。それもとんでもなく。
見た目こそまったく普通の龍田揚げなのに、一体なにをどうやってすればそれがこんな、10年物のヘドロに浄化槽の下水を流し込んだような味になるのか。
口の中で声高に自己主張する龍田揚げを自称しているらしいなんだかよく分からない物体を思わず吐き出してしまいそうになった時、それを作り出した主がそれをさも美味しそうに食している姿が目に映った。
まさか、これはいつもの紫様の悪ふざけか?
そう思い、失礼、と断って藍は紫の皿から同じ竜田揚げを箸でつまんで、一瞬躊躇してから口に放り込む。
ある意味安心できた。
その龍田揚げは藍のものと同様に不味かった。
「どうしたのよ藍。足りないの?」
実に不思議そうに訊ねる紫。
もちろん美味しそうに食べている主の手前本当のことなど言えるはずもなく、すぐに三角コーナーに、いや裏庭の生ごみ用の穴に直行させたい衝動を抑えつつ、藍はその龍田揚げに見せかけられた何かを最後の一口まで完食したのだった。
それも、実に美味しそうな顔をして。
ああ、美味しい。紫様がこんなにお料理をできるとは存じませんでした。ええ。本当に。紫様に並べるようこれからも精進いたします。
ですからお願いですからもう調理場には立たないで下さい、との言葉はすんでのところで飲み込む。
藍は純粋に紫のことが好きだったし、自分のために腕を振るってくれた紫の顔を曇らせるのはあまりにも忍びなかったのだ。
だがその代償として、案の定体験したことのない様な猛烈な差し込みに襲われ、紫に気付かれない様に厠との往復を繰り返した。
正にこれぞ式の鑑だろう。もしも橙がそれを見ていれば、優しいあの子はきっと涙を流してくれに違いない。
藍をしてそこまで自画自賛させるほどのそれは凄惨な出来事だった。
後で気付いたことだが、どうやら紫は料理が上手いことは上手いのだが、味付けが壊滅的に下手な様だった。
藍の見立てではその時の龍田揚げの不味さも、どうやら下拵えの時鶏肉を漬け込むタレの味付けに失敗したことに原因がありそうだった。
幻想郷でも有数のグルメと言って差し支えない紫が、何故自分の作った料理に対してだけここまでの不味さに気付かないのかが大きな疑問だったが、ともかくそれ以来、藍は一度として紫を調理場に立たせていない。
ところが今、紫は再びここに立とうとしている。
なんとしても阻止しなければならない。
さもなければ…悲劇が再来する。
「紫様…」
藍は今度は落ち着いて紫に話しかける。
「お気持ちは大変うれしいのですが、今日中に使ってしまわなければならない食材がいくつか御座いまして…」
「そんなもの夕飯にまわしちゃえばいいでしょ」
「そうすると夕飯がおかしくなります。今日のお昼はどうしても…あー、その、カレー、そうカレーを作らなければならないのです」
「チャーハンを作るわ」
藍の言葉を聞いた紫は、プイッと顔を逸らしネギを刻み始めた。
「いや、ですからね紫様」
「藍」
「はい」
「私を素人だと思ってるでしょう?カレーの材料なんて冷蔵庫に入ってないじゃない」
しまった、と藍は下唇を噛んだ。
ニンジンとジャガイモは昨日の肉じゃがで使い切ってしまっている。悲劇への恐怖感からかうっかり失念していた。そして紫は自分が得意だと思っている事で素人扱いされることをとても嫌がる。いや、これはなにも紫に限った話ではないが。
「今日のカレーはニンジンとジャガイモを使わないものを予定しています」
苦し紛れに言ったが、流石にニンジンとジャガイモの入っていないカレーなどある訳がない。それに、使わなければならない具材があるというさっきの言にも矛盾する。
「藍」
有無を言わせぬがんとした声で紫は命じた。
「私は今日のお昼にチャーハンを作る。藍はそこで見ていて、鍋の位置とか聞かれたことだけを答えること。これは私が料理を終えるまでの最優先命令。復唱」
藍にとっては死刑宣告に等しいが、こう言われてしまえば式神の立場である藍には拒否権はない。
自身の死刑執行命令書にサインする様な気持ちで藍は命令を復唱した。
「私は紫様が料理をしている間、鍋の位置など聞かれたことのみをお答えします」
「よろしい。じゃあさっき崩しちゃったなべでも片しておいて。すぐに美味しいチャーハンをご馳走してあげるわ」
そして紫は鼻歌交じりに嬉々として中華鍋を火にかけ始めた。
鍋がコンロで熱せられる。
十分に温度が上がり、白い煙が出てきた辺りで油を大匙一杯。
油をよく鍋に馴染ませたら、まずはとき卵を入れる。
半熟程度になったところで冷蔵庫に残っていた昨夜のご飯を投入。
しゃもじで切るようによくかき混ぜる。
ほどよくほぐれたら刻んだネギと鮭を入れ、あとはパラパラになるまで炒める。
こうして紫のお手軽鮭チャーハンは完成した。
配膳されたチャーハンを、藍は絶望的な眼差しで眺めていた。
悲劇は繰り返す、とはよく言ったものだ。
唯一の救いは、この場に橙が、あの素直で純粋で愛らしい子がいない事だ。
紫に対して敬愛の念しか抱いていないあの子がもしもこのさも美味しそうに湯気を立てている一見チャーハンにしか見えない物体を食したならば、きっとショック死してしまうに違いない。
ああ、でもその時は私がどんな料理でも美味しく食べられる式をあの子にかけてやればいいか。誰か私にもそんな式をかけてくれる人はいないだろうか。
「どうしたの藍?早く食べなさいな」
逃避からの強制的な帰還を果たした藍は再び現実の脅威と対決させられた。
恐る恐るレンゲでチャーハンをすくい、口元に持っていく。
最後の望みは…あの時のあの出来事が、あの時のみの出来事であったこと。
そう、きっとあの時は何かの間違いだったに違いない。きっと紫様は龍田揚げは苦手だったのだ。
それならばこのチャーハンは、とてもとても美味しいはずだ。きっとそうだ。そうだとも。どうかそうであってくれ。頼む。ああ、神様。
「いただきます」
ぱくり、とレンゲを口に入れた。
やはり、この世の物とは思えぬほど不味かった。
洗濯物は干した。
居間と台所と厠の掃除も終わった。
よし、これで午前中にやるべきことリストは全て片付いた。
藍はすっかり奇麗になった部屋と竿に一杯に干された洗濯物を見て、満足げに頷いた。
あとは主人にお昼ご飯を作り、午後は買い物と南東側の結界の測量と補修だ。
梅雨の真っ只中だが空はよく晴れている。
うん、洗濯物が乾かないということはなさそうだな。
空を眺め、気圧と湿度の変化から今日の天気を推測する。
梅雨の時期は本当に洗濯物が乾かないで困る。
この家には乾燥機という便利なものもあるが、乾燥機で乾かすとどうしても皺ができてしまうので藍はそれを使うことをあまり好まなかった。
とりあえず3日ぶりに洗濯もできたし、まだ使っていない衣服も合わせればまた明日からしばらく雨でも乾燥機を使わなくてもよさそうだ。
さて、と藍が割烹着をポンと一叩きし、主に昼餉を作るため台所へ移動しようとした正にその時である。
突然、物凄い音がした。思わず藍は首をすくめる。
今鳴り響いた音を、敢えて文字に表現するとすれば…
どんがらがっしゃーん
となるだろう。明らかに何かが崩れ落ちる音である。
いったい何が。
藍は首をかしげ音のした方向を振り向く。
元来が獣であるため、何処から音がしたのかを特定するのは容易い。
生まれつきの藍の聴覚は、それは台所から響いてきたと主張していた。
何で台所から。
紫様はどうせまだ寝ているはずだし、橙は朝早く出かけたはず…
はっ!
藍は突如としてある可能性を思い至った。
まさか、橙がいつの間にか帰ってきていて、何かをひっくり返したのではないか?
だとすれば…だとすれば…橙が危ない!
超高速頭脳の面目躍如と言った所だろうか。
音が鳴り響いてからここまでジャスト1秒でたどり着き、八雲藍は妖獣にしか許されない俊敏さで台所へと駈けた。愛する式を助け出すために。
「ちぇええええええええええん!大丈夫かああああああああああ!」
猪突も思わず避けそうな勢いで台所に飛び込む藍。
そこには上の棚から何かを引き出そうとした後と、そこに詰まっていたはずの普段は使わない大量のなべが、床で山となっていた。
「橙!今助けるぞお!!」
その山に彼女の愛する式が埋もれていると確信した藍は、がらんがらんと掘削機並みの速さでなべの山を崩していく。
やがてそこに埋もれていた人物が見えてきた。
しかし、だがそれは藍の愛する式神ではなかった。
出てきた人物に、藍は目を丸くする。
「ゆ、紫様?」
彼女の主八雲紫は何故か額を赤くしてなべの山の下に埋もれていた。
頭をぶつけたのか気を失っている様である。
慌てて紫の全身を山から発掘し、ゆさゆさと揺らす。起きない。
いったい何故紫様が、普段は起きないような時間に、台所でなべに埋もれているのだろうか?
藍が頭の上に疑問符をいくつも浮かべながら紫をゆすっていると、ようやく気付いたのか紫がゆっくりと目を開けた。
「紫様!大丈夫ですか?お怪我は御座いませんか?紫様!」
「う…」
紫は痛そうに額をさすり起き上がると、心配そうにしている藍におもむろ訊ねた。
「藍…」
「はい」
「あれ、何処?」
「あれ?」
「ほら、あれよ」
なんだろうか、と藍は首を傾げる。
紫が藍に求めてくる物…それも台所で…見当が付かない。
分からない時は素直に聞くに限る。
「なんでしょう、あれとは」
素直に訊ね返した藍に紫は呆れた様に言う。
「あれよあれ。式が主人の意を汲み取れなくてどうするのよ。ほら、あれ。えーと、あー、そう!中華鍋!中華鍋は何処にあるの?」
思い出した!とばかりに満面の笑みで中華鍋を所望する紫。
その笑みに、若干の不吉な予感を覚えつつ、藍は答えた。
「中華鍋なら…流しの下の棚に御座いますが…」
藍の答えを聞くと、よし、と言って紫は立ち上がり、早速流しの下の棚から中華鍋を引っ張り出してくる。
それから冷蔵庫を開けると、生卵とネギと鮭のフレークと昨晩の残りご飯を出し机に置く。
紫の様子に急激に不安を覚え始めた藍は恐る恐る訊ねてみることにした。
「あの、紫様?何をなさるおつもりで?」
もしも藍の勘が正しければ、紫はこれから神をも恐れぬ途轍もなく恐ろしい所業を行うつもりのはずだ。
「なにって、お昼ご飯を作るのよ。今日は私が作ってあげるわ。チャーハンでいいわね?」
出したネギを刻むために、包丁とまな板を用意しながら紫は答えた。
予想通りの紫の言葉に、思わず藍は即座に言い返してしまった。
「いえ、結構です。紫様はどうか居間の方でお待ちを。お昼は私がお作りいたします」
そしてその後でそれが最悪の間違いであったことに気付く。
紫は拗ねた様に眉をひそめると、藍に言い返した。
「なによ、人がせっかくたまには私が食事を作ってやろうと思って、わざわざ早起きまでしてきてやったのに」
まずい、と藍は思った。
これは非常にまずい。紫はなかなかに意固地なところがある。
ああ即座に否定してしまっては意地でも紫はチャーハンを作るだろう。
もっとこう、別のやり方が、遠まわしに紫の顔を立てつつやんわりと断る手段があったはずなのに!
だが、藍が脊髄反射的にそうしてしまった事も仕方のないことではあるのである。
前に紫が食事を作ると言ったときのことを藍は思い出す。
あの時は大変だった。
本当に大変だった。
なにしろその日の午後はずっと寝込む羽目になったからだ。
幻想郷の世間一般的なイメージと違い、紫は料理は上手い。本当に上手かったのだ。少なくとも見た目は。
具材を切ったり、下拵えをしたり、フライパンを返したりする様はプロの料理人にも決して引けはとらなかったろう。
しかし、だからこそ、だろうか。
普段料理をしている藍も、その時点ではまったく何の問題も感じることはなかった。
だが、紫が作り上げた料理、その時作ってくれたのは龍田揚げだが、ともかくそれを一口口に入れたときに、それはとんでもない間違いであったことを藍は思い知らされた。
不味いのだ。それもとんでもなく。
見た目こそまったく普通の龍田揚げなのに、一体なにをどうやってすればそれがこんな、10年物のヘドロに浄化槽の下水を流し込んだような味になるのか。
口の中で声高に自己主張する龍田揚げを自称しているらしいなんだかよく分からない物体を思わず吐き出してしまいそうになった時、それを作り出した主がそれをさも美味しそうに食している姿が目に映った。
まさか、これはいつもの紫様の悪ふざけか?
そう思い、失礼、と断って藍は紫の皿から同じ竜田揚げを箸でつまんで、一瞬躊躇してから口に放り込む。
ある意味安心できた。
その龍田揚げは藍のものと同様に不味かった。
「どうしたのよ藍。足りないの?」
実に不思議そうに訊ねる紫。
もちろん美味しそうに食べている主の手前本当のことなど言えるはずもなく、すぐに三角コーナーに、いや裏庭の生ごみ用の穴に直行させたい衝動を抑えつつ、藍はその龍田揚げに見せかけられた何かを最後の一口まで完食したのだった。
それも、実に美味しそうな顔をして。
ああ、美味しい。紫様がこんなにお料理をできるとは存じませんでした。ええ。本当に。紫様に並べるようこれからも精進いたします。
ですからお願いですからもう調理場には立たないで下さい、との言葉はすんでのところで飲み込む。
藍は純粋に紫のことが好きだったし、自分のために腕を振るってくれた紫の顔を曇らせるのはあまりにも忍びなかったのだ。
だがその代償として、案の定体験したことのない様な猛烈な差し込みに襲われ、紫に気付かれない様に厠との往復を繰り返した。
正にこれぞ式の鑑だろう。もしも橙がそれを見ていれば、優しいあの子はきっと涙を流してくれに違いない。
藍をしてそこまで自画自賛させるほどのそれは凄惨な出来事だった。
後で気付いたことだが、どうやら紫は料理が上手いことは上手いのだが、味付けが壊滅的に下手な様だった。
藍の見立てではその時の龍田揚げの不味さも、どうやら下拵えの時鶏肉を漬け込むタレの味付けに失敗したことに原因がありそうだった。
幻想郷でも有数のグルメと言って差し支えない紫が、何故自分の作った料理に対してだけここまでの不味さに気付かないのかが大きな疑問だったが、ともかくそれ以来、藍は一度として紫を調理場に立たせていない。
ところが今、紫は再びここに立とうとしている。
なんとしても阻止しなければならない。
さもなければ…悲劇が再来する。
「紫様…」
藍は今度は落ち着いて紫に話しかける。
「お気持ちは大変うれしいのですが、今日中に使ってしまわなければならない食材がいくつか御座いまして…」
「そんなもの夕飯にまわしちゃえばいいでしょ」
「そうすると夕飯がおかしくなります。今日のお昼はどうしても…あー、その、カレー、そうカレーを作らなければならないのです」
「チャーハンを作るわ」
藍の言葉を聞いた紫は、プイッと顔を逸らしネギを刻み始めた。
「いや、ですからね紫様」
「藍」
「はい」
「私を素人だと思ってるでしょう?カレーの材料なんて冷蔵庫に入ってないじゃない」
しまった、と藍は下唇を噛んだ。
ニンジンとジャガイモは昨日の肉じゃがで使い切ってしまっている。悲劇への恐怖感からかうっかり失念していた。そして紫は自分が得意だと思っている事で素人扱いされることをとても嫌がる。いや、これはなにも紫に限った話ではないが。
「今日のカレーはニンジンとジャガイモを使わないものを予定しています」
苦し紛れに言ったが、流石にニンジンとジャガイモの入っていないカレーなどある訳がない。それに、使わなければならない具材があるというさっきの言にも矛盾する。
「藍」
有無を言わせぬがんとした声で紫は命じた。
「私は今日のお昼にチャーハンを作る。藍はそこで見ていて、鍋の位置とか聞かれたことだけを答えること。これは私が料理を終えるまでの最優先命令。復唱」
藍にとっては死刑宣告に等しいが、こう言われてしまえば式神の立場である藍には拒否権はない。
自身の死刑執行命令書にサインする様な気持ちで藍は命令を復唱した。
「私は紫様が料理をしている間、鍋の位置など聞かれたことのみをお答えします」
「よろしい。じゃあさっき崩しちゃったなべでも片しておいて。すぐに美味しいチャーハンをご馳走してあげるわ」
そして紫は鼻歌交じりに嬉々として中華鍋を火にかけ始めた。
鍋がコンロで熱せられる。
十分に温度が上がり、白い煙が出てきた辺りで油を大匙一杯。
油をよく鍋に馴染ませたら、まずはとき卵を入れる。
半熟程度になったところで冷蔵庫に残っていた昨夜のご飯を投入。
しゃもじで切るようによくかき混ぜる。
ほどよくほぐれたら刻んだネギと鮭を入れ、あとはパラパラになるまで炒める。
こうして紫のお手軽鮭チャーハンは完成した。
配膳されたチャーハンを、藍は絶望的な眼差しで眺めていた。
悲劇は繰り返す、とはよく言ったものだ。
唯一の救いは、この場に橙が、あの素直で純粋で愛らしい子がいない事だ。
紫に対して敬愛の念しか抱いていないあの子がもしもこのさも美味しそうに湯気を立てている一見チャーハンにしか見えない物体を食したならば、きっとショック死してしまうに違いない。
ああ、でもその時は私がどんな料理でも美味しく食べられる式をあの子にかけてやればいいか。誰か私にもそんな式をかけてくれる人はいないだろうか。
「どうしたの藍?早く食べなさいな」
逃避からの強制的な帰還を果たした藍は再び現実の脅威と対決させられた。
恐る恐るレンゲでチャーハンをすくい、口元に持っていく。
最後の望みは…あの時のあの出来事が、あの時のみの出来事であったこと。
そう、きっとあの時は何かの間違いだったに違いない。きっと紫様は龍田揚げは苦手だったのだ。
それならばこのチャーハンは、とてもとても美味しいはずだ。きっとそうだ。そうだとも。どうかそうであってくれ。頼む。ああ、神様。
「いただきます」
ぱくり、とレンゲを口に入れた。
やはり、この世の物とは思えぬほど不味かった。
調理過程において、不味くなる要素が一切無いのだが。
…隙間パワーか何かだろうか。