私の妹がずっとずっと小さかった頃の、お話。
ある日、私が森を散策していると、どこからかこどものすすり泣く声が聞こえました。
声のする方にそっと歩いて行くと、川に出ました。仄暗い川辺にしゃがみこんだ小さな女の子が、くすんくすんと泣いておりました。年の頃は私の妹と同じか、少し上のようでした。うっすらと瘴気が漂っておりましたが、八百万分の一といえど神である私には問題ありませんでした。
「おじょうちゃん、どうして泣いているの」
私はその子-小さな付喪神に話しかけました。びくりとしてふり向いたその子は人形のようにかわいらしく、しかし、ぽろぽろこぼれる涙がその魅力を隠してしまっています。
「…にんげんなの」
その子はひどく怯えておりました。私が違うわ、と言うと、ほっと息を吐きました。
人間というのは、自らの種族を偽ることだけはいたしません。その子は小さいながらそのことを知っているようでした。
「かなしいことがあったのなら、おねえちゃんと遊ぼう」
ただただその子に笑ってほしい一心で私は言いました。妹と同じくらいの女の子が泣いているのを放っておくなどできません。
けれどその子は首を振ります。どうして、と聞けば、その子はますますかなしそうな顔をしました。
「だって、わたしのそばにいたら、おねえさんもひどいめにあうよ」
その子はまた川の方を向いてしまいます。
ひどいめ、とはなんだろうと考えたとき、私はその子の腕や足が傷だらけであることに気付きました。服もぼろぼろでした。
そして私は理解したのです。ひどいめとは何か、を。
私はそのことには触れませんでした。
言ってしまったら、つけられたばかりの傷に触れてしまったら、その子はもっともっと泣いてしまうでしょう。
きっとその子にとって、いいえ、私たちにとって、その傷はどんな傷より痛むものなのです。
「おねえさんね、あなたがもうひどいめにあわなくなる方法、知っているわ」
私はその子の隣にしゃがんで、目線を合わせます。その子の碧い瞳が問いかけてきます。ほんとうに、と。縋るようなまなざしに、私はせつなくなりました。
「うそなんてつかないわ。神様だもの」
「かみさま?」
「そう。あなたとおんなじよ」
「でも、わたしはにんげんとようかいからはあくりょうってよばれるよ」
かみさまなんかじゃないわ。
その子はなかなか気が強いようで、私からふいと目をそらしてしまいます。
まだ、自分のことがわかっていないようでした。生まれて間もない付喪神にはよくあることです。わかっているのは、自分が人間でも妖怪でも、妖精でもないことだけ。それは、とても不安なことです。
私のように主と呼べる神がいるとそういった混乱はないのですが、その子は主となるような神もなく、人妖と触れ合うこともできなかったがために、自分が見えていないのです。
自分が見えていないとどうなるか。
神の力は人間にとってときに畏怖の対象となりますが、その子、生まれたばかりの厄神が悪霊と呼ばれ疎まれる所以はまさにそれでした。
自分の役目も力も理解していないその子は、当然力を使う、つまりしっかりと厄を集めることなどできず、勝手に吸い寄せられた厄を引き連れているだけ。これでは瘴気を纏った気味の悪い存在としかなり得ません。妖怪ならば避けるだけでしょうが、人間はそういったものに過剰に反応し、排除しようとするものです。まして厄神の力というのは、かなしいことに、人間に疎まれやすいものなのです。
本能のように、私たちは人間が好きなのです。そんな人間に、化けものだ、悪霊だと石を投げられたことは、その子の深い深い傷となっておりました。
「いいえ。あなたは厄神様っていう、立派な神様なのよ」
私がその子の手を握るとびっくりした顔をしましたが、手はきゅっと握り返してくれました。
妹もそうでしたが、小さな子というのはなにかを握ると安心するようで、ほんの少しだけ、その子の表情が和らぎました。
「かみさまがいうなら、そうなのかなあ」
その子はぎこちなく、笑いました。思ったとおり、かわいいかわいい笑みでした。私は、会ったばかりのその子が愛おしくてたまらなくなったのをよく覚えています。
「おねえさんのおうちにおいで。あたたかい飲みものと、新しい服をあげるわ」
本来ならば同種の神が世話を焼くのが筋なのでしょうが、生憎、この界隈には厄神様がおりませんでした。ならばと、私はその子が立派な神様になるためのお手伝いをすることにしたのです。力をうまく使えるようになれば、無闇に人間を怖がらせることも、石を投げられることもなくなります。そしていつか人間は気づき、信仰するでしょう。あの御方こそ厄神様である、と。
その子は嬉しそうにうなずきました。思いのほか、人懐っこい性格でありました。
その子は「おうち」というものに夢ふくらませておりました。あとで知ったことですが、その子は自分の社がどこかすら知らず、ずっと外で眠っていたのだそうです。
私の社では留守番をしていた妹が、姉が葡萄を採りに行ったきり帰らないものですから、さみしくなって泣いてわめいておりました。道すがら、あなたと年の近い妹がいるのよ、と告げると、その子は少し緊張していたのですが、この騒ぎのおかげでそれもほぐれたようです。散々な初対面だと妹は言うかもしれませんが、私はとても、良い出会いだったと思っております。
その子は妹ともすっかり打ち解け、まるでほんとうの姉妹のようでした。どちらが年上かでよく揉めておりましたが、私にしてみればどちらもかわいい妹です。何年かたってその子が充分に成長するまで、私たちはいっしょに暮らしておりました。
それからもうずいぶん永い時が流れましたが、葡萄が生るころのあの河原は、いつも私に思い出させるのです。
きっとふたりは覚えていない、あの秋のお話を。
ある日、私が森を散策していると、どこからかこどものすすり泣く声が聞こえました。
声のする方にそっと歩いて行くと、川に出ました。仄暗い川辺にしゃがみこんだ小さな女の子が、くすんくすんと泣いておりました。年の頃は私の妹と同じか、少し上のようでした。うっすらと瘴気が漂っておりましたが、八百万分の一といえど神である私には問題ありませんでした。
「おじょうちゃん、どうして泣いているの」
私はその子-小さな付喪神に話しかけました。びくりとしてふり向いたその子は人形のようにかわいらしく、しかし、ぽろぽろこぼれる涙がその魅力を隠してしまっています。
「…にんげんなの」
その子はひどく怯えておりました。私が違うわ、と言うと、ほっと息を吐きました。
人間というのは、自らの種族を偽ることだけはいたしません。その子は小さいながらそのことを知っているようでした。
「かなしいことがあったのなら、おねえちゃんと遊ぼう」
ただただその子に笑ってほしい一心で私は言いました。妹と同じくらいの女の子が泣いているのを放っておくなどできません。
けれどその子は首を振ります。どうして、と聞けば、その子はますますかなしそうな顔をしました。
「だって、わたしのそばにいたら、おねえさんもひどいめにあうよ」
その子はまた川の方を向いてしまいます。
ひどいめ、とはなんだろうと考えたとき、私はその子の腕や足が傷だらけであることに気付きました。服もぼろぼろでした。
そして私は理解したのです。ひどいめとは何か、を。
私はそのことには触れませんでした。
言ってしまったら、つけられたばかりの傷に触れてしまったら、その子はもっともっと泣いてしまうでしょう。
きっとその子にとって、いいえ、私たちにとって、その傷はどんな傷より痛むものなのです。
「おねえさんね、あなたがもうひどいめにあわなくなる方法、知っているわ」
私はその子の隣にしゃがんで、目線を合わせます。その子の碧い瞳が問いかけてきます。ほんとうに、と。縋るようなまなざしに、私はせつなくなりました。
「うそなんてつかないわ。神様だもの」
「かみさま?」
「そう。あなたとおんなじよ」
「でも、わたしはにんげんとようかいからはあくりょうってよばれるよ」
かみさまなんかじゃないわ。
その子はなかなか気が強いようで、私からふいと目をそらしてしまいます。
まだ、自分のことがわかっていないようでした。生まれて間もない付喪神にはよくあることです。わかっているのは、自分が人間でも妖怪でも、妖精でもないことだけ。それは、とても不安なことです。
私のように主と呼べる神がいるとそういった混乱はないのですが、その子は主となるような神もなく、人妖と触れ合うこともできなかったがために、自分が見えていないのです。
自分が見えていないとどうなるか。
神の力は人間にとってときに畏怖の対象となりますが、その子、生まれたばかりの厄神が悪霊と呼ばれ疎まれる所以はまさにそれでした。
自分の役目も力も理解していないその子は、当然力を使う、つまりしっかりと厄を集めることなどできず、勝手に吸い寄せられた厄を引き連れているだけ。これでは瘴気を纏った気味の悪い存在としかなり得ません。妖怪ならば避けるだけでしょうが、人間はそういったものに過剰に反応し、排除しようとするものです。まして厄神の力というのは、かなしいことに、人間に疎まれやすいものなのです。
本能のように、私たちは人間が好きなのです。そんな人間に、化けものだ、悪霊だと石を投げられたことは、その子の深い深い傷となっておりました。
「いいえ。あなたは厄神様っていう、立派な神様なのよ」
私がその子の手を握るとびっくりした顔をしましたが、手はきゅっと握り返してくれました。
妹もそうでしたが、小さな子というのはなにかを握ると安心するようで、ほんの少しだけ、その子の表情が和らぎました。
「かみさまがいうなら、そうなのかなあ」
その子はぎこちなく、笑いました。思ったとおり、かわいいかわいい笑みでした。私は、会ったばかりのその子が愛おしくてたまらなくなったのをよく覚えています。
「おねえさんのおうちにおいで。あたたかい飲みものと、新しい服をあげるわ」
本来ならば同種の神が世話を焼くのが筋なのでしょうが、生憎、この界隈には厄神様がおりませんでした。ならばと、私はその子が立派な神様になるためのお手伝いをすることにしたのです。力をうまく使えるようになれば、無闇に人間を怖がらせることも、石を投げられることもなくなります。そしていつか人間は気づき、信仰するでしょう。あの御方こそ厄神様である、と。
その子は嬉しそうにうなずきました。思いのほか、人懐っこい性格でありました。
その子は「おうち」というものに夢ふくらませておりました。あとで知ったことですが、その子は自分の社がどこかすら知らず、ずっと外で眠っていたのだそうです。
私の社では留守番をしていた妹が、姉が葡萄を採りに行ったきり帰らないものですから、さみしくなって泣いてわめいておりました。道すがら、あなたと年の近い妹がいるのよ、と告げると、その子は少し緊張していたのですが、この騒ぎのおかげでそれもほぐれたようです。散々な初対面だと妹は言うかもしれませんが、私はとても、良い出会いだったと思っております。
その子は妹ともすっかり打ち解け、まるでほんとうの姉妹のようでした。どちらが年上かでよく揉めておりましたが、私にしてみればどちらもかわいい妹です。何年かたってその子が充分に成長するまで、私たちはいっしょに暮らしておりました。
それからもうずいぶん永い時が流れましたが、葡萄が生るころのあの河原は、いつも私に思い出させるのです。
きっとふたりは覚えていない、あの秋のお話を。
あとロリ雛様最高や!
すばらしい作品ですな。