前に一度だけ、お姉様に「どうしてお姉様は咲夜の血を飲まないの?」と訊いたことがある。
お姉様は笑って「美しいものには傷を付けたくないからよ」とだけ答えた。
遠い、昔の話だ。
咲夜がよく使っていたトランプを両手で弄ぶ。シャッフルしたり、ぱらぱらと捲ってみたり。もしかしたら以前は咲夜によって時間を止められていたものなのかもしれないが、今や魔道具でも何でもなくただの紙切れに成り下がってしまったトランプはもう随分とぼろぼろで、風が吹くだけで霧散してしまいそうなくらい儚いものに感じた。元は白かったであろう地の色は黄色みがかかり、パチュリーの図書館に置いてある蔵書のページを彷彿とさせる。そっと顔に近付けてみると、古い紙の良い匂いがした。私は昔から読書をするのが好きだったから、この匂いを嗅ぐと無条件で落ち着く。けれども同時にそれだけの年月がこのトランプには流れているんだと感じて、なんだかなあと思った。歳をとるのは人間だけじゃないってことか。
よくこのトランプを使って私は咲夜に手品を教えて貰った。彼女の呼び名は伊達ではなく、時止めなんてトリックを使わなくとも咲夜は充分に手品師であったし、奇術師でもあった。手先の器用さで言えば、私は咲夜以上のひとを今現在に至るまで見たことがない。咲夜は魔法なんて使っていないはずなのに、まるで魔法でもかけられたみたいにこのトランプが変幻自在に変化する様を見るのが私はとても好きだった。
イカサマも彼女に教わった技術の一つだ。運命を弄くって勝ってしまうお姉様に対抗する為に私が覚えたのが、咲夜がこれまた得意とするイカサマ。いかにポーカーフェイスで手札に細工をするか、相手に気付かれないように偽装するか。おかげで私のスカートのポケットの中にはハートのエースが五枚入っていた日もあったし、ジョーカーが三枚仕込まれているだなんてありえない状況になったりもした。まあ、三度連続でストレートフラッシュが出るなんてどう考えても異常なことなので、私のイカサマに美鈴やお姉様が首を捻ることもあったけれど、その度に私と咲夜はこっそり視線を合わせて笑い合ったりもした。多分、パチュリーは気付いていたのかもしれないけれど、見て見ぬ振りをしていてくれたんだと思う。いつだってカードをする私達の横で、興味なさげに読書をしているのがパチュリーの役目だった。たまに小悪魔に紅茶を運んでもらっていたり、負けて泣きついてきたお姉様を嗜めたりもしていた。そしてそんな様子を見て私と咲夜はまた笑うのだった。
ぱさり、と微かな音がした。見れば私の手の中にあったスペードのジャックがぼろりと崩れ、私の胸の辺りにはらはらと落ちている。気が付かない内に力を込めてしまっていたのだろうか。それとも古くなりすぎたトランプがそれ相応の末路を遂げただけなのだろうか。どちらなのか分からなかったけれど。
いずれにせよ、それは私の気分を高揚させるものではなく。
「……つまんない」
小さく呟いて、ぱたりと仰向けに寝転がったまま腕を真横に投げ出す。手のひらの中に残っていたトランプの残骸が指の隙間からこぼれ、ベッドのシーツの上に音を立てずに落ちた。ああ、また掃除のメイドの仕事を増やしてしまった。私の部屋に喜んで掃除に来るメイドなんかいないから、私の方も特に気にすることはないのだろうけれど。以前、咲夜が私の部屋を掃除してくれていた頃は、私もなるべく部屋を汚さないように務めていたし、玩具だって壊さないように気を付けていた。妹様、お召し物が汚れてしまいます。ちょっとしたことですぐに部屋を壊してしまっていた私にそう言う咲夜の口調は優しくて、私はそれだけでどんな苛々ももやもやも全部吹き飛ばすことが出来た。
けれども最近、少しずつ、私の脳みその中から咲夜の面影が薄れていっていることにも気付いている。以前はくっきりと思い出す事の出来ていた咲夜の声色、手のひらのぬくもり、表情。そんなものが少しずつ抜け落ちて朧げになっていって、そしてそんな自分に私は恐怖していた。私にとって絶対に忘れたくないことまで、自然に忘却の彼方に追いやろうとしている自分が許せなかった。人間ならこんな時、どうするのだろう。パチュリーや美鈴やお姉様は、咲夜のことをどんなふうに覚えているのだろう。咲夜の写真でも見ればもっと記憶を繋ぎ止めておくことが出来るかもしれないとも考えたのだが、生憎咲夜は写真に撮られることが嫌いだったので、咲夜の写真はお姉様の手元にすら一枚も残っていなかった。そのことが、また私の中の咲夜に靄のようなものを一層にかぶせていく。そういえば、咲夜はどうして写真を嫌っていたんだっけ。
……ああ、写真を撮られると魂まで取られるなんてありえない話を本気で信じていたんだ。咲夜は。
ここまでを思い出すのに数分間費やしていた自分が悔しくて、私は残りのトランプをくしゃりと握り締める。それらはとてもあっけなく、先程のジャックと同じ末路を辿ることとなってしまった。
代わり映えのしない天井をぼんやり眺めながら、咲夜の血を飲んでおけば良かったのかもしれないな、とふと思った。
今更のように瞳からこぼれた水滴が、じんわりとシーツに染みてゆく。
そう強く感じました。
咲夜さんがいなくなってしまった紅魔館、きっと、誰もが何とも言えない悲しみを抱くのでしょう。記憶は風化してしまうもの。わかっていても、やるせなさを感じてしまいます。
でもきっと、咲夜さんは彼女たちがいつまでも泣き続けていることを望んでいないだろうから、立ち直っていただきたいものです。
いい作品に出会えました。ありがとうございます。
いっそのこと、全部いっぺんに消えてくれたら楽なのに。
でも、それでも、残った思い出からその人のことを思い出すのは少し辛くも、とても楽しい/嬉しい。
人に限らず物や動物、出来事に至るまで。
物語の主軸とはズレますが、そんなことを感じたりしました。
あと、後書きの破壊力が卑怯。
妖怪と人間の差か……