陽光を反射してきらめく砂浜。
広大な空は眼前に迫る暴力的な青。
遠くの入道雲はあまりにも白く、その巨体を想像させる。
地平線の彼方までも青の色だけで、その境界が霞んで見えた。
だけれど、判る。
空の境界線の下から、足元まで戻ってくるこの青は――。
「海だよ!」
初めて見たその果てのない水溜りに、古明地こいしは衝動的に叫びを上げていた。
□
私は靴を脱ぎ、濡らさないようにスカートの裾を少したくし上げて、海に足を踏み入れた。
上下する波の感覚と冷たさは水遊びにも似ていて、けれどそれよりずっと開放的だった。
水を蹴り上げる。光が飛沫に反射して眩しい。
跳ねて口に入った水は話に聞いたとおり、味がしょっぱい。
「……すごい」
身体に感じる海に、思わず感嘆の息が漏れる。
私は、興奮が収められずにいた。そして、この興奮を誰かと共感したくなった。
振り返る。その姿を見つけて、私は手を振る。
「ねえ――フラン、こっちにおいでよー!!」
名前は判らないが、南国的な木の集まる森。その手前の影の下、フランドール・スカーレットは膝を抱えて座っていた。
どこか憂鬱そうな顔で。
「……私は、いいよ」
「ええ、何でー!?」
フランは、砂にのの字を書きながら、答えた。
「だってほら、水だし日差し強いし……」
□
あまりにも乗り気ではないフランの元まで戻る。
「ねえー行こうよー。せっかくの海なんだしさあ……」
「いいよ。私はこういうのに憧れない」
フランはむすっとした表情で砂を見詰めていた。私は心躍っているというのに、どうしてそんなに詰まらなそうなのか、判らなかった。
誰か私の代わりに彼女に海の良さを伝えてくれる人はいないのだろうか?
そう考えた時、視界の端に影が生まれた。
その影を落とすものを、見る。
金の髪に、目がふたつ付いた深い帽子を被った少女の姿。
それは、山の神社の神様――ええと……洩矢諏訪子だ。彼女は口を開く。
「大丈夫。海の波は流れているんじゃなくて、水がその場で上下しているだけなのよ」
「だって! 諏訪子がこういってるんだから、きっと大丈夫だよ」
けれど、フランは諏訪子を一瞥しただけで、目線を砂に戻し、またのの字を書き始める。
「日差しの問題が解決してない……」
……えーと、それは。
「ほら、夜になれば大丈夫だよ」
「そんなこともいわれても、嫌なものは嫌」
フランは私のいうことを聞いてくれなかった。
……けれど、夜になったら気が変わるかもしれない。だから、それまで我慢我慢。
「……うーん、私じゃ駄目だったみたいだね。――まあ、私は行くよ」
いって諏訪子は海に向かって走り出した。きっと泳いで行くのだろう。
――そこで、ふと、疑問が浮かんだ。
「蛙って海水でも泳げるのー?」
私の質問に、諏訪子は手を挙げる動きで答えた。
直前で跳躍、一回転して海に飛び込む。飛沫が高く上がった後、海面から顔を出す。
「大海を知る蛙の神様だからねぇ。海でもどこでも泳げるよ」
そういって諏訪子は背泳ぎで地平線に向かって泳ぎ出した。
「神様ってすごいんだね!」
ああ、そうさー、と答える諏訪子の姿はどんどん遠くなって、最後には見えなくなった。
□
夜が訪れたというのに、フランは木陰から動こうとはしなかった。月光の下にすら出てこなかった。
「ねえ、海だよ。きっと楽しいよ?」
そう私がいっても、
「楽しくない」
フランは表情一つ変えなかった。
――どうして判ってくれないのか。私にはそれが、とても腹立たしかった。
彼女の手を無理矢理取る。引っ張って立たせて、そして砂浜を走り出す。
「――止めて!」
「そんなこといわないで! 海は楽しいところだから。きっとフランにも判るから――」
「止めてっていってるでしょっ!!」
フランが逆に私の手を引いた。その力が強くて、私は手を放した。
そして、フランはそこに立ち尽くした。私もそうするしかなかった。
しばし沈黙。
耐え切れなくなった私は、問う。
「どうして判ってくれないの……?」
彼女は、答える。
「それはこっちの台詞だよ! 私は嫌なの。強い日差しも、海も苦手なの。――こんなところ、私は居られない!」
「でも、きっと楽しい……」
「楽しくなんかないよ!!」
ぴしゃり、と扉が閉ざされてしまったような感覚。それがどうしてか悔しかった。
私は反論する。
「でも……あんなところに閉じ込められているよりずっとマシだよ!」
私は思う。広い紅魔館の地下にあるフランの部屋は、狭くて、窮屈な場所だ。息が詰まりそうな場所だ。
それよりも、ここの方がずっと開放的で素敵だ。
「あんなところより、ここの方がずっといいに決まってる……!」
けれどフランは、頭を振る。
「あの部屋は、私が唯一皆と繋がりを持てる場所なの」
フランは私を見詰める。その表情は、怒りというより、悲しみだった。
「ここは、誰も居ない。ずっと寂しいところだよ……」
フランの言葉と共に、強い風が吹いた。
私を横殴りにするような風が、私の被っていた帽子を遠くに吹き飛ばしてしまった。
「……私は、嫌だ」
嫌だ、という、エコーのかかった声が聞こえた。フランは、口を開いていなかったのに。
嫌だ嫌だいやだ……と続く声が、頭に響いて離れない。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だいやだ……、フランは俯いた。
軽い眩暈を覚えた。が、それでも私はフランに判ってもらえないことが、どうしても悔しかった。
「ねえ、フランは一緒に居てくれないの――?」
私の問いに、フランは答えなかった。
嫌だ、と続く声が続き、そして。
「――嫌だっ!」
一際大きな声に、私は尻餅を突いてしまった。
何が起こったのか、判らなかった。まるで正面から体当たりされたようだった。
フランは砂を蹴り、空に飛び出した。月明かりだけの空に、歪んだ翼が羽ばたいた。
――このままだと、私はひとりになってしまう。
「待って、待ってよ……!」
私も、飛ぼうとする。が、足が引っ張られた。
見る。
足元は黒の粘液に姿を変えていた。それが足に絡み付いて、私を引きずり込もうとしていた。
――待って。このままだと、私はひとり、取り残されてしまう。
けれど、その勢いは強く、抵抗する間もなく私の太腿まで飲み込んでいた。
私は沈んでいた。
フランの姿は、夜空の星のひとつと同じになって、どれがどれだか判らなくなっていた。
フランを探しているうちに、私の身体はどんどん沈んでいく。
空が、遠くなる。
森も、姿を消してしまった。
海など、もう黒の粘液で見えない。
そして私は、ここにひとりになってしまう。
――その考えが頭を過ぎったとき、私は一つの感情を覚えた。
それは、寂しい、という感情だった。
――フランのいうとおり、ここは寂しいところだった。
後悔できたのも僅かな時間だけで、黒の波は私を頭のてっぺんまで飲み込んだ。
□
目が覚めると、ベッドの上だった。
隣には、フランが眠っていた。
それから、紅を基調とした見覚えのある家具が目に入ったので、ここがフランの部屋だと判った。
……あれは、何だったのだろう?
フランの寝顔を見ると、目元から一筋の涙が伝っているのを見つけた。おもむろにそれに触れようとして。
「――嫌だっ!」
声に、手を引いた。
けれど、フランは眠ったままだ。じゃあ、聞こえたフランの声は、一体何なのか。判らない。
鼓動は激しく、胸が張り裂けそうだった。
――心を埋め尽くす感情は、恐怖だった。
「ひっ――」
嗚咽が、漏れた。上手く呼吸ができないのは、私が泣いているからだった。
私は胸元の瞳に触れる。
見ると、それは半分だけ目蓋を開いていた。
「――」
手で覆い隠す。
それは、ゆっくりと目蓋を閉じる。
固く閉じて、また見えなくしてしまう。
そして、フランの頬を流れるものに触れる。あの声は、もう聞こえなかった。
「……もう、大丈夫、だから……」
それから、ベッドの上に無造作に置かれていた一冊の小冊子を見つけた。
表紙は、白い砂浜と青い海と空で彩られている。
それは私が守矢神社でもらったものだった。諏訪子には外の世界にあるという海の話をたくさん聞かせてもらった。
私にとってそれは楽しかった。
けれど、フランに話すと、彼女はとても詰まらなそうな顔をした。
――私は、その理由が知りたくなったのだ。
理由は簡単だった。私が今、涙を流しているのが答えだった。
「ごめんね……私の話、つまんなかったよね……」
上を空に、前後を海と森に閉ざされた空間は、とても窮屈だった。
そして、どうしようもなく寂しかった。
□
上下するフランの胸に、顔を埋める。
――次に目が覚めたときに、彼女は私を許してくれるだろうか。
そのことよりも。
――次に目が覚めたときに、私は彼女に許しを請うことができるだろうか。
きっと、何も思わないのだろう。何も思わず、何か行動を起こすこともないのだろう。
そして私は、辛い思いをしない。
けれど、と思う。それはまた、寂しいことだと。
――もしも、この瞳が――。
言葉の続きは、思いつかなかった。
取りあえず、小冊子を彼女の目の付かないベッドの下に滑り込ませた。
そして、私は彼女の隣に横になる。
……これで、お互いが痛まないで済むのだろう。
少しだけ安心して、私は目蓋を閉じた。
しかしなんで一緒に寝てるフランとこいしw
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