☆このSSは、藍SSではなく油揚げSSの可能性があります☆
☆さらに、藍が壊れ気味です☆
八雲 藍は困っていた。困り果てていた。
どれくらい困っていたかと言えば、思索に耽るあまり、里の子供達が数人、尻尾にまとわりついているのに気づいていないくらいに困っていた。
『◎日から一週間、休業いたします』
青天の霹靂とはこのことだ。人里に一件だけ存在する豆腐屋。
その門戸に貼られた紙を見て、八雲の姓を頂く、最強の妖獣たる藍は勢いよく膝から崩れ落ちた。
この世に神はいなかった。え? 幻想郷には結構いる? 知らん知らん。断りも無しに豆腐屋を一週間の休業に追い込む神など認めない。今からそうなった。
別に、豆腐屋の営業日を神様が決めている道理は、おそらくどんな世界でも存在しないのだが。
豆腐屋の行き先を近所の住人に聞き込めば、なんとフルムーン旅行であるらしい。
それは、目出度い。
どうでもいい用件で店を空けるなら、地獄の底まで追いかけて首に縄を付けてでも引きずってくる所存だったが、円満な夫婦生活の末、たまにはゆっくりと羽を伸ばしたいと考えた夫婦を引き裂けるほど、藍は外道に堕ちてはいなかった。
思考は最初の段階まで戻り、今後一週間、どのようにして豆腐屋で仕入れていた食材を手に入れるべきかという点に至る。
おから、油揚げ、がんもどき、厚揚げ、油揚げ、はんぺん、油揚げ、油揚げ、油揚げ、油揚げ、ああ忘れてた、油揚げ。
ぶっちゃけると、油揚げ以外はどうでもいい。
そう、油揚げだ。
九尾の狐である自身が愛して止まない、至高にして嗜好の極み。その供給は、今まで里の豆腐屋に一任されてきた。
豆腐屋の作る油揚げは、味覚に関して一応の自信を持っている藍の舌を唸らせるにも十分な出来であったし、藍も乞われれば積極的に味のアドバイスをしたものだ。
しかして、私の愛した油揚げが手に入らない! 何故だ!!
『旅行だからさ』
何か幻聴が聞こえた気もするが、無視を決め込む。きっと関わるとロクな事にならない、脳内的な意味で。
多少の目眩を感じながらも、考えを続ける。
計算は得意なはずの藍であったが、一向に手立てが思いつく様子はない。
「そういうわけで油揚げなんです、紫様」
「今から、とても当たり前のことを言うわ。意味が解らないわよ」
ただいまとおかえりが交わされる前から、主従はベクトルのかけ離れた会話を交わしている。
「ですから、油揚げなんです」
「ええ、それは理解したわ。きっと疲れているのね、今日はゆっくり休みなさい」
己の式が買い出しから帰ってきたかと思えば、うわごとの様に『油揚げ、油揚げ』と呟いて。
問い質してみれば、やっぱり出てくるのは油揚げという単語。
里の打ち水にでもやられて式が歪んだのかとも考え、調べてみたが別段おかしいところはない。あるとすればのぞき見ることのできない、藍の脳内くらいのものだ。
働かせ過ぎたのかしら、と訝しむ紫。
一方の藍は、そんな主人の気遣いに気づけるような精神状態では無かった。
狐だからと言って、油揚げを一日二枚摂取しなければ死んでしまうという訳ではない。
しかし、考えてもみて欲しい。
いつでも食べられるはずの好物が、ある日を境に世界から消え去ってしまった時のことを。
奸智に長け、権謀術数をならした大妖の姿は、そこにはなかった。あるのは、油揚げに飢えた一匹の獣。
もちろん取れる手段はいくつかある。ひとつは主人に頼んで外の世界から入手して貰う方法。
この方法には理性と、八雲 紫に仕える者としての矜恃と尊厳がギリギリのところでストップをかけていた。
もうひとつは、豆腐屋が休業する以前に油揚げを買った客を探し出し、譲って貰う方法。
しかし、これも上と同様の理由で却下せざるを得ない。加えて、主人の格に傷を付けてしまいかねない暴挙でもあった。
油揚げが食べたい。しかし手に入れる方法がない。
藍の思考は、完全にメビウスの輪に突入していた。
「ふぅ、仕方ないわねぇ」
紫が、呆れ果てた様子で指を鳴らす。
その刹那、藍の中に巣くっていた激しい何かが消え失せた。憑き物が失せたようにぼんやりと紫を見つめる藍。
「紫様……これは?」
「理性と感情の境界をいじらせてもらったわ。今の貴女は、一時的に理性が強化された状態なの」
先ほどまで、自身の裡で猛り狂っていた感情が静まり、しっかりと、地に足をつけた思考が出来るようになっていた。
「さあ、藍。大体の想像は付くけどね。何があったのか詳しく話して頂戴」
※
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「なるほどねぇ。そういうこと」
「はい、我ながら情けない話です。紫様のお手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
藍は深々と頭を下げる。紫の手によって正気を取り戻すまで、豆腐屋に立ち寄ってからの記憶が曖昧だった。
それほどに、藍は油揚げを求めていたのだ。
「……謝る必要はないわ。自分の心を掴んで放さない存在が、ある日突然消え失せてしまったら、私でもどうなるか分からない」
「くしゅん!! 誰か噂してるわね……心当たりが多すぎて絞れないけど」
霊夢は境内の掃き掃除をしながら、鼻をすすりひとりごちる。そんなことを言う前に、腋を隠すべきだと思う。
「さて、落ち着いたところで本題に移ろうかしら。貴女も気づいているんでしょ?」
「はい。油揚げの入手手段が限られている以上、取り得る方法は多くありません」
「そうね、私が外から持ってきてもいいのだけれど、貴女はそれを望まないのでしょうし」
「もちろんです。これ以上紫様の手を煩わせては式の、いえ、八雲の名折れ。この問題は自分の手で解決してみせます」
藍の目に、かつての輝きが戻っていた。失われていたのが僅かの時間であることは、この際あまり関係がない。
「答えは出たようね。さすが私の式だわ」
紫は、満足げに微笑んだ。
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まずは機材と原材料集めからだ。
出来上がった物が手に入らないならば、自分で作ればいい。それが、藍の達した結論であった。
油揚げとは、薄く切った豆腐を油で揚げることにより完成する。つまり、油揚げが欲しかったら豆腐を作ればいいのだ。
機材の類は大抵納屋に流用できる物があったり、自分で作ることが出来た。濾し布も人里を巡って、ちょうど良い目の布を調達した。
だが、原材料集めに取りかかったとき、藍はある疑問に行き当たる。
『にがり』をどうやって手に入れればいいのだろうか?
にがりは豆乳を凝固させ、豆腐の形に寄せるために使われる液体のことである。
ご存じの通り、幻想郷には海がない。
一般的ににがりと呼ばれているものは、塩化マグネシウムが主成分で、古くは、塩田で海水から塩を作るときに、いっしょに抽出される副産物であった。
つまり、にがりを得るためには海水が必要不可欠だということだ。
おそらく、幻想郷のどこかには海水が得られる場所があるのだろう。なぜなら、そうでなければこの地の豆腐屋も、豆腐を作ることができないからである。
しかも、以前よりは安全になったとはいえ、数々の妖怪が跋扈する世界において、一般人である塩の業者がそれほど遠出できるとも思えない。人里にほど近い場所に、海水はきっとある。
探して回ることも考えたが、藍はもっとも手っ取り早い方法を採った。
「御免」
「はいはい……おお、これは八雲の」
「藍だ、忙しいところ失礼する。ここに豆腐屋へ卸す分の『にがり』は置いてあるかな。少量でかまわないので譲り受けたいのだが」
塩の問屋に直接交渉。なんかもう、いろいろと台無しである。前振りとか。
ともあれ、これで必要な材料が揃った。
後は、豆腐を作ることが出来れば、その後ろに控えている油揚げを引きずり出すことができる。
「くくく、待っていろよ油揚げ。もうすぐ貴様の元へたどり着いてやる!!」
グッと拳を握る藍に向かって、紫が指パッチン。精神の均衡が崩れ始めていたようだ。
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まず原料の大豆を、一夜(12時間ほど)真水に漬けておく。
翌朝、十分に漬けあがった大豆を適度に水を加えながら石臼でクリーム状に磨り潰す、このクリーム状に磨り潰された大豆のことを「呉」と呼ぶ。
次に呉をお釜に移し、適度に水を加えて濃度を調整し薪にて炊き上げる。この時、呉はサポニンの作用で激しく泡立つため、消泡剤として食用油に石灰を加えたものを適度に振りかける。
十分に炊き上がった呉を、布で濾して豆乳を木桶に取る。この豆乳が冷えないうちに凝固剤としてにがりを適度に加え、櫂と呼ばれる木の板で撹拌する。
知識としては知っていても、技能が伴わなければ意味がない。豆乳の濃度、温度、にがりの量、そして適度な攪拌。
その全てが揃って始めて、真っ当な豆腐が出来上がるのだ。
藍は努力した。ひたすらに努力した。幾度もの実験を繰り返し、配合を変え、攪拌時の空気の入れ方にまで気を遣う。
後に、紫はその時の藍の様子をこう語る。
「まるで、真理の探究を志す魔術師の様だったわ。食い意地は、あらゆる衝動に勝るのねぇ」
さもありなん。
作業開始から三日後の朝、ついにその努力が実った。
「出来た……出来たぞ! ふは、ふははははははぁぁぁ!!」
少し離れて見守っていた紫が、また指を鳴らそうとして、思いとどまる。もう、豆腐は出来たのだ。実質的に藍を阻む障害は存在しないことになる。
それならば、思いの丈を全てぶつけさせる為にも、ここは邪魔をするべきではない、という判断をしたからだ。
出来上がった絹ごし豆腐は、見た目も香りも一級品のそれで、薬味や醤油など無くてもきっと美味しいであろう出来映えだった。
指で突けばぷるん、と返りまるで橙の(検閲対象語句)
それを見つめ、満足そうにほくそ笑む藍。傍目には、いかにも危ない人である。
菜種油を熱した鍋に、ゆっくりと薄切りにした豆腐を沈めていく。
しゅわぁぁ、と小気味よい音を立てる油を、恍惚感溢れる表情で見つめる様は、傍目に見なくても十分危ない人である。まずよだれを拭け。
しばらくの時が経ち、豆腐の表面が、藍の髪のそれと同じ色へと変わってゆく。
その時、藍が口を開いた。
「紫様」
「……なにかしら」
「ここまで来られたのは、紫様のおかげです。どうか、どうかこの油揚げを一緒に食べては頂けませんか?」
紫は一瞬だけ目を見開いた。先ほどまであれほど油揚げに執心していた藍が、いざ食べる段になって私にそんなことを言い出すとは。
今回の一件で、藍は大きく成長したようだ。八雲の式としても、豆腐職人としても。
「よかったわね。この期に及んで私を仲間はずれにしようものなら、どうしてやろうかと考えていたところなのよ」
※
※
※
揚がった油揚げを網に上げ、あら熱をとり余分な油を切る。
主従は、それぞれ箸を持ち、いよいよ試食と相成った。
ぐぅ~~~。
鳴ったのは果たしてどちらの腹か。
「いただきます」
二人の声が揃い、出来たての油揚げを掴む。そこで紫は違和感に気づいた。
重い。
そう、重いのだ。
箸がへし折れるほどの重量、というわけではないが、一枚の油揚げで考えれば、それはあり得ないほどに重かった。
……いや、重さなど大した問題ではない。大事なのは味、味だ。紫は自分を騙しながらも油揚げを口に運んだ。
もに。
ありえん!
思わず、断定口調の心の叫びをしてしまう。もに? 揚げたての油揚げの食感はサク、もしくはフワッであるべきだ。
それ以外の感触を油揚げがもたらすことは、油揚げ自体のアイデンティティに抵触する行為であった。
ちらりと横目で式を見れば、好物を食べているとは思えない無表情で。
もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ、もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ。
もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ、もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ。
と、やっている。
とてもではないが、油揚げの咀嚼音では無かった。
噛み切ったそれの断面を見ると、内側に白い身が存在した。
馬鹿な、これでは厚揚げではないか。薄い厚揚げなど洒落にもなっていない。
紫は急いでスキマに手を突っ込み、油揚げに関する文献を取り出した。
今頃、紅魔館の図書館ではちょっとした騒ぎになっているだろうが、構っている余裕はない。
文献を開く、そこにはこう書かれていた。
『薄い豆乳で作った硬い豆腐』を、角もち状に薄く切り、110℃から120℃の低温の油で揚げ、さらに180℃から200℃の高温の油で二度揚げしてつくる。
なん……だと?
そう、事ここに至って紫は重大な過ちに気づいた。
油揚げとは、絹ごし豆腐ではなく、重しなどをして水分を抜いた木綿豆腐が使われるのだ。
もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ、もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ。
もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ、もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ。
式の咀嚼は続く。
もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ、もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ。
もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ、もっちゃもっちゃ、にっちゃにっちゃ。
もしかしたら藍の魂は、すでにこの場に無いのかもしれない。
せっかく食べることが出来た好物が、まったくの別物だったのだ。そのショックは計り知れない。
冷蔵庫にあったから、という理由で飲んだ麦茶がめんつゆだった時の比ではない。
紫は、おそるおそる藍に声を掛ける。
「ら、藍……だ、大丈夫よ。残った豆腐の水分をしっかり抜けば、ね?」
ごくん。
「いや、これはこれで」
紫は、盛大にずっこけた。
…でも、自分の大好きなものがある日突然手に入らなくなったら確かにこうなりそうだなぁ;
あ、あれ……ちぇ、橙は……?
それにしても色々酷いw(勿論良い意味で)
※7
熟年夫婦の旅行のことをフルムーン旅行と呼ぶらしいぜ
日本酒をくいっと飲むのが最近のお気に入り。
やっぱり八雲家は良いな。
ずっこけ紫ともちゃにちゃ藍が目に浮かぶ。