見上げればあるのは満月。
見渡しても青々とした竹ばかり。
獣道とも呼べないような藪の中、私はただ一人立っている。
何をするでもなく、ふらふらと夜の散歩に出ただけだ。
住処の庵から一服するほどの時間も歩かない場所だが、人の入るような竹林でもないので荒れ放題に荒れている。
周囲からは、人はおろか他の生き物の存在さえ感じらえない。
それでいい。
手に持った篠笛を構える。
歌口を唇に当て、両手の指でそれぞれの穴を押さえた。
余った指で笛を固定し、細く強い息を吹きつける。
果たして、思ったとおりに音を出せるだろうか。
無聊の慰みに手に入れた笛ではあるけれど、殺し合いに忙しく久しく吹くこともなかった。
ところが近頃は輝夜との殺し合いも都合が合わず、もう何か月と顔を合わせていない。
殊更急ぎの用事でもないので気にしたこともなかったが、どうも手持ち無沙汰でいけない。
そこに丁度この篠笛のことを思い出し、気紛れに吹いてみようかと思い立った。
こうして夜中に篠笛を供に散歩に出かけたのだが、慣れないもので緊張している。
たかが散歩に緊張も何もあったものではないと苦笑するけれど、何もない日々というのも久方ぶりであるし仕方ない。
以前、人里の祭りに請われて囃子方として参加したことがある。
祭りの一月前から子供たちに交じり笛の練習をし、祭りの当日は山車について吹いた。
篠笛を吹いたことはあっても、調子は土地ごとに異なるもので覚えるのには時間がかかる。
一通り音が出せることを確認してから、節を思い出そうと適当に指を動かしてみる。
すると、吹き始めはなんとか曲になるのだが、次第に別の曲と混ざって滅茶苦茶になってしまう。
やはり指が覚えるまで吹いておけばよかっただろうか。
仕方がないので口で節をなぞってみる。
とひゃららとろろ、とひゃららとろろ。ちゃらとろろ、ちゃららとろろ。
ここまでは覚えている。
とろろろちりら、ちりちゃーららとろろ。とろろろちるちーるら。ちゃりり、ちるちゃりとろ、ちゃーららとろろ。
この先が、どうしても出ない。
民謡の伴奏なのだが、指を度忘れしたせいでどうにも吹くことができない。
歌は、歌える。自慢じゃないが里の人間にも評判がいい。
昔、野良仕事の手伝いをしながら近所の人が口ずさんでいるのを聞いていたので覚えていた。
その人は付近でも有名な歌い手だったらしく、よく通る見事な声だった。
一緒に歌ったこともある。筋がいいとほめられた。
そんなわけで、民謡なら得意だ。
お祭りの時に囃子方とは別に花代が出たくらいだから、気に入ってもらえたのだろう。
花代をくれたお年寄りから「えらく古い節を知っている。母を思い出した。懐かしい」とうるんだ瞳で声をかけられた時は、何故だか少しだけ胸が痛んだ。
さておき、お祭りで歌うような民謡は大体歌える。
踊りもそこそこ覚えた。
もっとも手踊りの方はまだまだと言われる。
それはそうだろう。踊りに関しては年季が物をいうのだし。
私よりも、小さなころから踊っている子どもたちの方が余程うまい。
野良仕事をしながら歌うことは出来ても、踊るのは無理な話だしな。
さておき、笛だ。
いっそ歌ってしまえばついでに思い出すかもしれない。
トぉしぃぢぃなぁあぁあぁあぁあぁぁ、おオおォおぉンばァあこぉオォおおォおなァあぁアぁドォ。
ナァアァあにぃしいィいぃにぃいいィい、ハァナこナァあぁアどぉを、サアァあしィいぃてェえぇコぉナァあアあ。
そうだ、この節だ。
思い出したところで笛を吹くと、すらすらと指が動く。
初めて覚えた歌で、初めて吹けるようになったのもこの曲だ。
いつもは前奏が吹ければ全部吹けるのだけど、今日は調子が違ったようだ。
一曲思い出したのを皮切りに、他の囃子も次々に思い出す。
他の曲はきちんと指を覚えていた。
気分が乗ってきたので歌も一通り歌ってみる。
久方ぶりに歌ったが、こちらは気持ちよく歌えた。
一通りさらい終えたところで庵に帰ろうと振り向くと、上白沢慧音がぽかんと口を開けて私を見ていた。
……。
…………。
………………。
見られた。
恥ずかしい。
顔が熱い。
見なくても分かる。今の私は顔が真っ赤になっているに違いない。
今なら術なんて使わずに炎を出せる。
一月に一度の満月の夜、角を生やして竹林の見回りに来てみれば。
一人っきりで笛を吹き、思いっきりコブシを回して気持ちよさげに歌っている蓬莱人がいた。
そりゃ、唖然とするのも無理はない。
とりあえず、顔を引きつらせながらなんとか微笑んでみる。
彼女は、冷や汗を垂らしながらも頬笑み返してくれた。
ああ、なんていい子だろう。
彼女の瞳は、何もおかしいものは見ていないと告げている。
口元は引き攣っているけれど、瞳だけは真正直に私を見ている。
いつもの彼女らしい、凛とした視線。
大丈夫。何もおかしくなんかないよ。満月だもの。ちょっと開放的になって民謡を心の底から熱唱するくらいあたりまえじゃないか。
彼女は瞳だけでそうフォローを入れてくれる。
なんて心優しく、思いやりにあふれた視線だろう。
しかし……。
その視線には、とても……。
耐 え ら れ な い 。
そして私は彼女に背を向けると満月に向かって全速力で逃げ出した。
願わくは、彼女が無かったことにしてくれますように。
見渡しても青々とした竹ばかり。
獣道とも呼べないような藪の中、私はただ一人立っている。
何をするでもなく、ふらふらと夜の散歩に出ただけだ。
住処の庵から一服するほどの時間も歩かない場所だが、人の入るような竹林でもないので荒れ放題に荒れている。
周囲からは、人はおろか他の生き物の存在さえ感じらえない。
それでいい。
手に持った篠笛を構える。
歌口を唇に当て、両手の指でそれぞれの穴を押さえた。
余った指で笛を固定し、細く強い息を吹きつける。
果たして、思ったとおりに音を出せるだろうか。
無聊の慰みに手に入れた笛ではあるけれど、殺し合いに忙しく久しく吹くこともなかった。
ところが近頃は輝夜との殺し合いも都合が合わず、もう何か月と顔を合わせていない。
殊更急ぎの用事でもないので気にしたこともなかったが、どうも手持ち無沙汰でいけない。
そこに丁度この篠笛のことを思い出し、気紛れに吹いてみようかと思い立った。
こうして夜中に篠笛を供に散歩に出かけたのだが、慣れないもので緊張している。
たかが散歩に緊張も何もあったものではないと苦笑するけれど、何もない日々というのも久方ぶりであるし仕方ない。
以前、人里の祭りに請われて囃子方として参加したことがある。
祭りの一月前から子供たちに交じり笛の練習をし、祭りの当日は山車について吹いた。
篠笛を吹いたことはあっても、調子は土地ごとに異なるもので覚えるのには時間がかかる。
一通り音が出せることを確認してから、節を思い出そうと適当に指を動かしてみる。
すると、吹き始めはなんとか曲になるのだが、次第に別の曲と混ざって滅茶苦茶になってしまう。
やはり指が覚えるまで吹いておけばよかっただろうか。
仕方がないので口で節をなぞってみる。
とひゃららとろろ、とひゃららとろろ。ちゃらとろろ、ちゃららとろろ。
ここまでは覚えている。
とろろろちりら、ちりちゃーららとろろ。とろろろちるちーるら。ちゃりり、ちるちゃりとろ、ちゃーららとろろ。
この先が、どうしても出ない。
民謡の伴奏なのだが、指を度忘れしたせいでどうにも吹くことができない。
歌は、歌える。自慢じゃないが里の人間にも評判がいい。
昔、野良仕事の手伝いをしながら近所の人が口ずさんでいるのを聞いていたので覚えていた。
その人は付近でも有名な歌い手だったらしく、よく通る見事な声だった。
一緒に歌ったこともある。筋がいいとほめられた。
そんなわけで、民謡なら得意だ。
お祭りの時に囃子方とは別に花代が出たくらいだから、気に入ってもらえたのだろう。
花代をくれたお年寄りから「えらく古い節を知っている。母を思い出した。懐かしい」とうるんだ瞳で声をかけられた時は、何故だか少しだけ胸が痛んだ。
さておき、お祭りで歌うような民謡は大体歌える。
踊りもそこそこ覚えた。
もっとも手踊りの方はまだまだと言われる。
それはそうだろう。踊りに関しては年季が物をいうのだし。
私よりも、小さなころから踊っている子どもたちの方が余程うまい。
野良仕事をしながら歌うことは出来ても、踊るのは無理な話だしな。
さておき、笛だ。
いっそ歌ってしまえばついでに思い出すかもしれない。
トぉしぃぢぃなぁあぁあぁあぁあぁぁ、おオおォおぉンばァあこぉオォおおォおなァあぁアぁドォ。
ナァアァあにぃしいィいぃにぃいいィい、ハァナこナァあぁアどぉを、サアァあしィいぃてェえぇコぉナァあアあ。
そうだ、この節だ。
思い出したところで笛を吹くと、すらすらと指が動く。
初めて覚えた歌で、初めて吹けるようになったのもこの曲だ。
いつもは前奏が吹ければ全部吹けるのだけど、今日は調子が違ったようだ。
一曲思い出したのを皮切りに、他の囃子も次々に思い出す。
他の曲はきちんと指を覚えていた。
気分が乗ってきたので歌も一通り歌ってみる。
久方ぶりに歌ったが、こちらは気持ちよく歌えた。
一通りさらい終えたところで庵に帰ろうと振り向くと、上白沢慧音がぽかんと口を開けて私を見ていた。
……。
…………。
………………。
見られた。
恥ずかしい。
顔が熱い。
見なくても分かる。今の私は顔が真っ赤になっているに違いない。
今なら術なんて使わずに炎を出せる。
一月に一度の満月の夜、角を生やして竹林の見回りに来てみれば。
一人っきりで笛を吹き、思いっきりコブシを回して気持ちよさげに歌っている蓬莱人がいた。
そりゃ、唖然とするのも無理はない。
とりあえず、顔を引きつらせながらなんとか微笑んでみる。
彼女は、冷や汗を垂らしながらも頬笑み返してくれた。
ああ、なんていい子だろう。
彼女の瞳は、何もおかしいものは見ていないと告げている。
口元は引き攣っているけれど、瞳だけは真正直に私を見ている。
いつもの彼女らしい、凛とした視線。
大丈夫。何もおかしくなんかないよ。満月だもの。ちょっと開放的になって民謡を心の底から熱唱するくらいあたりまえじゃないか。
彼女は瞳だけでそうフォローを入れてくれる。
なんて心優しく、思いやりにあふれた視線だろう。
しかし……。
その視線には、とても……。
耐 え ら れ な い 。
そして私は彼女に背を向けると満月に向かって全速力で逃げ出した。
願わくは、彼女が無かったことにしてくれますように。