※地霊殿クリア直後辺りと思ってください
灼熱地獄の途中に見慣れたペットが落ちていた。
「にゃぁ」
「化けたままよ」
「あはは、そうでしたァ」
赤いおさげを地面に散らばしたまま、彼女は陰のない笑顔で寝転がってけらけらと声を響かせていた。
燐の頭のすぐわきにしゃがみ込み、ところどころ焦げた服の端を指の腹で撫でて、さとりは燐の顔を覗き込んだ。
手を伸ばしてはみたが、さてその手で何をすればいいのかに困ってしまう。こういうのは慣れていないのだ。
「さとり様、怒ってます?」
「呆れてるわ」
歯を見せて笑う燐は目の奥をぐるりと悪戯そうに光らせた。
さとり様だ、前に会ったのいつだっけ、出てきていいのかな、おなか減った、まだ体痛いな。ばらばらになって思念が伝わってくる。
相変わらず考えることがころころと移り変わっていて、さとりは少しばかり安心した。あんまりに離れ過ぎて、もう自分が知っている彼女なんてどこにも残っていないかと思っていた。
「久しぶりね」
猫はすぐどこかに行く。首輪をあげても頭を撫でても服を着せても、ふらりといなくなっては思い出したように気まぐれに帰ってくる。
餌を一人で取れるようになってからはこれだった。こうなると飼っているというより、名前をつけただけな気がしてくる。
もっとも燐だけが特別な訳ではない。言葉を覚えたペットからさとりの元を離れていくのは、地霊殿ではよくある話だった。
二度と帰ってこなかったペットもいれば、お燐やお空のようにたまに顔を見せにくるペットもいた。
心を読まれる事を嫌がるペットたちの気持ちもわかるから、別段さとりは止めはしなかった。ただいつ帰って来てもいいように、食料の備蓄と扉を常に開けておくことは忘れなかった。
「さとり様もお元気そうで」
「まあ、ね」
「……ごめんなさい、さとり様にまで迷惑かけちゃって」
目を伏せて、珍しくすまなさそうに燐はつぶやく。燐の言う迷惑とは、多分地霊殿にやってきたあの巫女達のことだろう。
何百年ぶりにあった生身の人間は、心を読まれてもいい気分はしなかったらしいが逃げたり命を狙おうとまではしてこなかった。
人もしばらく見ないうちに変わったのか、自分がそういう人間もいると知らなかっただけなのか、どちらにせよ面白い刺激ではあった。
「大丈夫よ、特に怪我もしてないし。少し屋敷が散らかったくらい」
それよりも心配なのは、燐の怪我の方だった。読み取った思念の中に痛みや不快感を訴えるものはなく、どうやら疲れて倒れているだけだったらしい。
安心して、さとりは息を吐いた。彼女が今度の事で命を落としてしまったら、と想像しただけで胸が詰まるように痛くなる。
どんな気持ちで、どんな顔をして、この猫は怨霊を地上に送りこんでいたのか。
「あたいは、さとり様に会うのが怖かったです」
ぽつりと呟かれる。予想もしていなかった燐の言葉に、さとりは息を飲んだ。
ぐる、と喉を鳴らして猫がいたずらそうに笑う。赤い目がすうっと細まった。
「……どういう、こと?」
「いつだって不安なんですよ、あたいは。いつ嫌われないか捨てられないか、さとり様と違ってあなたの考えてることなんてこれっぽっちも読めないんで」
一息で唄うように言ってから、お燐は顔から笑いを消した。泣く寸前の子供のような顔で、服を掴んでくる。すぐに振り払えるような弱い力の手が、少しでも楽に服を掴めるようにさとりは腕の位置を下げた。
「本当に好きで好きで仕方無いんです、さとり様も、勿論こいし様もお空も。地霊殿が好きなんです」
そう言い切ってから、お空を捨てないでやってください、と燐は蚊の鳴くような声で呟いて、それがボロボロの体に残っていた最後の力だったかのように変化を解いた。
地面に落ちていた少女はあっという間に尻尾が二本の弱々しい猫に戻った。さとりは思わず拾い上げて、抱え込むように抱きしめる。
「捨てる訳ないじゃない」
腕の中にすっぽりと収まった猫は、力を抜いてなめらかな黒い毛並をすりよせてくる。むにゅうと口を笑ったように歪ませてから、燐はざらつく舌で頬を舐めてきた。
「そんなこと言われても、あたいやっぱり心配なんですよ」
にゃぁ、とわざとらしく一声鳴いて黒猫が体を預けてきた。
思い出した。遠い昔、初めて会った時もこうやって彼女を抱きあげたのだ。灼熱地獄の更に底辺、ごみ溜めのような場所で必死でにゃあにゃあと声を上げていた。
「お燐」
「はい」
「どこに行ってもいいから、帰ってきて」
「……はい」
「あと、怪我も無茶も出来るだけしないでちょうだい」
「すみません」
「誰一人いなくなって欲しくないのは、私も同じよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
燐の顔に落ちる水滴で、自分が泣いている事にさとりは気がついた。涙を流したのは何年振りだろう。ひょっとしたら地獄に来て初めてかもしれない。
はたはたとこぼれ落ちる涙は、猫の毛皮に吸い込まれてはすぐに蒸発していく。黒く滑らかな毛に鼻をうずめれば、噎せ返りそうな程にけだものと死体の匂いがした。
「まだ言いたいことはあるけど、続きは家に帰ってからね」
「はい……」
燐の声は次第に小さくなって、目を閉じれば次第に寝息が聞こえてきた。あの魔法使いや巫女と何度も戦って、よほど疲れていたのだろう。
すぐに屋敷に連れ帰って怪我の手当てをして休ませたいのだ、が。
「ごめんね、少し待ってて、燐」
さとりは燐を抱えたまま地を蹴った。もう一匹、溶岩の傍で倒れているであろうペットを迎えに行かなければならない。
声をかけて拾い上げて抱きしめて、顔を合わさなかった時間を力ずくで埋めなければならないのだ。
灼熱地獄の途中に見慣れたペットが落ちていた。
「にゃぁ」
「化けたままよ」
「あはは、そうでしたァ」
赤いおさげを地面に散らばしたまま、彼女は陰のない笑顔で寝転がってけらけらと声を響かせていた。
燐の頭のすぐわきにしゃがみ込み、ところどころ焦げた服の端を指の腹で撫でて、さとりは燐の顔を覗き込んだ。
手を伸ばしてはみたが、さてその手で何をすればいいのかに困ってしまう。こういうのは慣れていないのだ。
「さとり様、怒ってます?」
「呆れてるわ」
歯を見せて笑う燐は目の奥をぐるりと悪戯そうに光らせた。
さとり様だ、前に会ったのいつだっけ、出てきていいのかな、おなか減った、まだ体痛いな。ばらばらになって思念が伝わってくる。
相変わらず考えることがころころと移り変わっていて、さとりは少しばかり安心した。あんまりに離れ過ぎて、もう自分が知っている彼女なんてどこにも残っていないかと思っていた。
「久しぶりね」
猫はすぐどこかに行く。首輪をあげても頭を撫でても服を着せても、ふらりといなくなっては思い出したように気まぐれに帰ってくる。
餌を一人で取れるようになってからはこれだった。こうなると飼っているというより、名前をつけただけな気がしてくる。
もっとも燐だけが特別な訳ではない。言葉を覚えたペットからさとりの元を離れていくのは、地霊殿ではよくある話だった。
二度と帰ってこなかったペットもいれば、お燐やお空のようにたまに顔を見せにくるペットもいた。
心を読まれる事を嫌がるペットたちの気持ちもわかるから、別段さとりは止めはしなかった。ただいつ帰って来てもいいように、食料の備蓄と扉を常に開けておくことは忘れなかった。
「さとり様もお元気そうで」
「まあ、ね」
「……ごめんなさい、さとり様にまで迷惑かけちゃって」
目を伏せて、珍しくすまなさそうに燐はつぶやく。燐の言う迷惑とは、多分地霊殿にやってきたあの巫女達のことだろう。
何百年ぶりにあった生身の人間は、心を読まれてもいい気分はしなかったらしいが逃げたり命を狙おうとまではしてこなかった。
人もしばらく見ないうちに変わったのか、自分がそういう人間もいると知らなかっただけなのか、どちらにせよ面白い刺激ではあった。
「大丈夫よ、特に怪我もしてないし。少し屋敷が散らかったくらい」
それよりも心配なのは、燐の怪我の方だった。読み取った思念の中に痛みや不快感を訴えるものはなく、どうやら疲れて倒れているだけだったらしい。
安心して、さとりは息を吐いた。彼女が今度の事で命を落としてしまったら、と想像しただけで胸が詰まるように痛くなる。
どんな気持ちで、どんな顔をして、この猫は怨霊を地上に送りこんでいたのか。
「あたいは、さとり様に会うのが怖かったです」
ぽつりと呟かれる。予想もしていなかった燐の言葉に、さとりは息を飲んだ。
ぐる、と喉を鳴らして猫がいたずらそうに笑う。赤い目がすうっと細まった。
「……どういう、こと?」
「いつだって不安なんですよ、あたいは。いつ嫌われないか捨てられないか、さとり様と違ってあなたの考えてることなんてこれっぽっちも読めないんで」
一息で唄うように言ってから、お燐は顔から笑いを消した。泣く寸前の子供のような顔で、服を掴んでくる。すぐに振り払えるような弱い力の手が、少しでも楽に服を掴めるようにさとりは腕の位置を下げた。
「本当に好きで好きで仕方無いんです、さとり様も、勿論こいし様もお空も。地霊殿が好きなんです」
そう言い切ってから、お空を捨てないでやってください、と燐は蚊の鳴くような声で呟いて、それがボロボロの体に残っていた最後の力だったかのように変化を解いた。
地面に落ちていた少女はあっという間に尻尾が二本の弱々しい猫に戻った。さとりは思わず拾い上げて、抱え込むように抱きしめる。
「捨てる訳ないじゃない」
腕の中にすっぽりと収まった猫は、力を抜いてなめらかな黒い毛並をすりよせてくる。むにゅうと口を笑ったように歪ませてから、燐はざらつく舌で頬を舐めてきた。
「そんなこと言われても、あたいやっぱり心配なんですよ」
にゃぁ、とわざとらしく一声鳴いて黒猫が体を預けてきた。
思い出した。遠い昔、初めて会った時もこうやって彼女を抱きあげたのだ。灼熱地獄の更に底辺、ごみ溜めのような場所で必死でにゃあにゃあと声を上げていた。
「お燐」
「はい」
「どこに行ってもいいから、帰ってきて」
「……はい」
「あと、怪我も無茶も出来るだけしないでちょうだい」
「すみません」
「誰一人いなくなって欲しくないのは、私も同じよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
燐の顔に落ちる水滴で、自分が泣いている事にさとりは気がついた。涙を流したのは何年振りだろう。ひょっとしたら地獄に来て初めてかもしれない。
はたはたとこぼれ落ちる涙は、猫の毛皮に吸い込まれてはすぐに蒸発していく。黒く滑らかな毛に鼻をうずめれば、噎せ返りそうな程にけだものと死体の匂いがした。
「まだ言いたいことはあるけど、続きは家に帰ってからね」
「はい……」
燐の声は次第に小さくなって、目を閉じれば次第に寝息が聞こえてきた。あの魔法使いや巫女と何度も戦って、よほど疲れていたのだろう。
すぐに屋敷に連れ帰って怪我の手当てをして休ませたいのだ、が。
「ごめんね、少し待ってて、燐」
さとりは燐を抱えたまま地を蹴った。もう一匹、溶岩の傍で倒れているであろうペットを迎えに行かなければならない。
声をかけて拾い上げて抱きしめて、顔を合わさなかった時間を力ずくで埋めなければならないのだ。
地底世界はアットホームなのが良いですね。