※何百年も昔のおはなし。
黒猫がいた。
黒猫は、あまりにも長く生きているうちに、自分の名前も忘れてしまった。
もっと昔は誰かに飼われていたのかもしれない、ただ普通の黒猫だった。
そして、名前の代償と言ってはなんだが、黒猫は年月をかけて妖力を得ていた。
妖力を得た黒猫は、2本目の尾を手に入れた。
山に住む生まれながらの化け猫たちは、2本目の尾を持つことを成人の証とされるのに、
成り上がりの妖怪猫が2本目の尾を持つことは、あってはならぬことであった。
黒猫は山を追われた。山を追われて、人里に逃げ込んだ。
言うまでもなく、人間も妖力を持った猫を飼おうと思うはずもない、すぐに追い出した。
結局、黒猫は誰からも嫌われていた。
住んでいたところから、あの手この手で追い出され、
新たな地でも指差され、追い掛け回され、追い出された。
いつしか、黒猫は知った。
世界には、敵と餌しかいない。
自分を恐れるものは餌であり、自分が恐れるものは敵なのだ。
その法則は、まだ頭のよくなかった黒猫にも、十分に理解できるほど易しいものだった。
餌を喰らい、敵から逃れる。
それだけを繰り返せば自分は生きていけるのだと、黒猫は知った。
それからしばらくの年月が流れた。
黒猫は必死に生きていた。
しかし、黒猫の命の灯火は、今まさに消えようとしていた。
餌を喰らおうとすれば、敵に傷を負わされる。
敵から逃れようとすれば、餌を喰らうこともままならない。
最後には飢えと疲労と傷跡だけが残るのだった。
なんとか身を隠すには都合のいいススキ畑にもぐりこんだが、もう立つ力も残っていない。
もう夕暮れ。夜になればこの辺にも妖怪が下りてくる。
さすれば、自分が喰われることは容易に想像がつく、しかしどうすることもできない。
薄れゆく意識。
吹き抜ける冷めた風が、黒猫から熱を奪う。
ざわざわと揺れるススキは、黒猫をあざ笑っているようにも見えた。
最後まであざ笑われながら、黒猫はそのまぶたを閉じた。
日が地平線の彼方に消えてしまった。
黒猫は目を覚ました。
生きていた。暖かかった。
頭をあげると、粗末な蝋燭の灯りが見えた。
ひとしきり目で辺りを詮索すると、どうやらここは民家の中であった。
しかし、自分1人というわけでもなさそうだ。どこからか人間の匂いがする。
「んー、生きてたの?」
声がした。おそらく、その人間であろう。
「死んでたと思って拾って来たのに」
黒猫の前に、声の人間が現れた。
人間は、少女であった。赤い髪をした、少女の人間であった。
本能的に、黒猫はできる限りの威嚇をした。
赤い目で睨み、毛を逆立て、近づいたら噛み殺すと分からせようとした。
「何よ、助けてやったのにそんな態度を取るの?」
少女は黒猫の背中をつまんで持ち上げ、囲炉裏の近くに下ろした。
実際、黒猫には、もう噛み付くだけの余力もなかったのである。
「あんた、傷だらけね。本当は、あんた、うちの夕飯になるはずだったんだけど、
そんなんじゃ可哀想で食べられないったらありゃしないわよ」
少女は、囲炉裏にかけてあった鍋から、汁をすくって器にいれると、黒猫の前に置いた。
「食べな。魚も肉もはいってないけど、うちではご馳走なんだから」
少しばかりの野草のはいった、薄味の汁だった。
しかし、黒猫もこの何日、水すら口にしていない。
器をひっくり返さん勢いで野草を食べ、汁を飲み、最後の一滴までなめ尽くした。
川に泳ぐ魚を食べたときよりは、まだまだ腹は減っていた。
けれど、黒猫は今まで、こんなにも暖かい食事にありついたことはなかった。
「ん、もう食べたの?まったく、もう」
少女はもう1杯、汁をくれた。黒猫はそれも刹那に飲み干した。
できればもう少し食べたかったが、少女は鍋を片付けてしまった。
「もうないわよ。あんた、私の分まで食べちゃったでしょう」
あの1杯はこの少女の分だったのか、と黒猫はなんだか決まりが悪くなった。
この少女が寝静まったら殺して喰おうと思っていたのだが、やっぱりやめた。
なんだか、不思議な心地が心の奥にうまれたが、
(またきっと飯がもらえるから、そのためだけに生かしておくんだ)
と、自分に言い聞かせて、なんとかその心地に蓋をした。
その心地は、黒猫がかつて経験したことのないものであった。
この少女は、餌ではない。しかし、敵でもない。では何なのだろう。
その答えがそこにあり、黒猫は答えを見ることを恐れ、蓋をした。
夜だけが過ぎていった。
黒猫はそこで一夜を過ごすことにした。
自ら蓋をしたその答えの正体を見ずにここを後にするのは、勿体無い気がしたのだ。
「あんた、どうしてそんなに傷だらけなの?」
少女は黒猫の体を見回しながら言った。
黒猫は、返事してやるかどうか迷ったが、短く、にゃあと鳴いてやった。
「分かんないわよ」
少女はそう言うと、立ち上がり、寝床の準備を始めた。
寝床と言っても、ワラでできた簡素なものだった。
そもそも、黒猫が見たところ、この家にはおかしなところが多すぎる。
家は、ボロだらけ。隙間風は吹き放題。家具も粗末なものばかり。
無論、手入れは行き届いているのだが、最初から粗末なものだったのだろう。
それに、この家はススキ畑のまんなかにあった。それも、たった一軒で。
これでは、妖怪に襲われてもおかしくない。人里に住めば、もっと安心できるだろうに。
「なに難しそうな顔してるのよ。さ、こっち来なさい」
少女は黒猫を抱えて寝床にはいった。
黒猫にとって、寝床は常に1人でないと落ち着かないのだが、
本意を裏切って、今夜はこの少女と寝ることにした。
眠っている間に殺されないかとも思ったが、その時は返り討ちにしてやるだけさ、と自分をたしなめた。
日の光が、壁の隙間から差し込んで、黒猫は目を覚ました。
少女は既に起きていて、何やら準備をしていた。
「こら、いつまで寝てるの」
少女がワラを引っ剥がし、黒猫は思わず身を縮めた。
まだ朝も、かなり早い朝である。
黒猫は、こんなに朝早く行動する人間は見たことがなかった。
「うちにいるなら私の手伝いをする、分かった?」
少女はそう言うと、手にした槍を連れ、家の外に出て行った。
黒猫も、他に何もすることもないので、少女について行ってやることにした。
少女はススキ畑を掻き分けながら、妖怪の住む山へと向かっていった。
「うちはね、狩猟で暮らしてるの。あんたの仲間を捕って殺すの。できる?」
黒猫は少女を軽く睨んだ。馬鹿にするな、という2つの意味をこめたのだ。
1つ目の意味は、自分はこの少女が生まれる昔から狩りをして生きてきたのだ、ということ。
2つ目の意味は、自分には仲間などいない、ということ。
少女がそれをどう受け取ったのかは分からないが、どう受け取っても山に行っただろう。
無論、黒猫も。
狩猟はとても好調にいき、6羽の兎を獲ることができた。
この狩りは、おそらく少女と黒猫、それぞれ片方だけでは成り立たなかっただろう。
少女はこの辺の地理に精通していて、どの辺で獲物が獲れるかを知っていた。
兎は、人間よりも速く走れたが、黒猫には敵わなかった。喉笛を噛み千切られ、死んでしまった。
「あんた、けっこうやるわね」
今日の獲物を袋にいれた少女が言った。
黒猫は少しばかり誇らしくなったが、それ以前に楽しみであった。
今晩の飯のことだ。これだけ兎を獲れば、さぞ豪華な飯になるだろうと期待していた。
そして、今度ばかりは、少女に自分の兎を1羽くらい分けてやろうとも思っていた。その根拠は分からなかったが。
夕日に染まるススキは、少女の髪と同じくらい赤く見えた。
「あんた、名前はなんて言うの?」
少女は黒猫に問いかけた。黒猫は詰まった。
自分の名前など、考えたこともなかった。1人で生きるのに、名前はいらなかった。
「まあ、いいわ。そのうちつけてあげる」
少女が言ったそれは、黒猫にちっとも期待をさせなかった。
きっと肉で頭がいっぱいだったのと、名前なんて無価値だと思っていたのと、どっちだろう。
家に帰ると、少女は、獲った兎を、骨と肉と皮に分けた。
血の匂いを嗅いでしまっては、黒猫の食欲も増していく。
「どう?美味しそうかい?」
少女は兎の肉を黒猫に見せた。
黒猫は、今にも飛びかかろうとする前足をじれったそうに抑えた。
「でも、これは私たちの喉を通ることはないのよ」
少女は肉と皮と骨をそれぞれ別の袋にいれていった。
日が沈んだ頃、1人の男が現れ、その袋を全部持っていってしまった。
「私を恨んでるなら筋違いよ」
背を向けて拗ねてしまった黒猫に、少女はそう言った。
「うちは、獲ったものは全部あげなくちゃいけないの」
飯は、野草のおひたしだけであった。
「うちは代々嫌われている嫌われ者の家系だから、
ここに住まわせてもらっているだけでも感謝しなくちゃいけないんだとさ。おとうが言ってた」
欠けた皿におひたしを乗せて、少女はそれを猫につき出した。
「おとうは、狩猟の最中、妖怪に襲われて死んじまった。村の連中は、馬鹿だって笑ってたわね。
それで、私は1人で仕事をしなくちゃいけなくなったの。同情してほしいくらいよ」
嫌われ者、その言葉に黒猫は少しばかり同情とは違う心を寄せた。
思い起こせば、自分も筋金入りの嫌われ者であった。
あの、不思議な心地がした。この少女と自分は、どこかで繋がっているのかもしれない、と思えた。
すると、兎で満たされるはずだった腹は、文句をひっこめ黙り込んだ。
なぜだかは分からない。
昨日は、飯がもらえるから、と自分をなだめたが、それは嘘だった。
飯なんて、満足のいく飯なんてこれっぽっちも与えられないじゃないか。
なのに、自分はどうしてこの少女に腹を立てられないのだろう。
黒猫はしばし考えたが、分かったのは、この問題は自分には難しすぎるということだけだった。
おひたしが、美味しかった。
寝床で、黒猫は考えた。
理由が分からなかったのだ。
今日の狩猟で、獲物が獲れる場所が分かった。
そして、この家にいては満足のいく食事にありつけないことも分かった。
なのに、どうして自分はここを出て行こうとしないんだろう。
きちんと整理して考えてみれば、まったく不条理なことだとすぐ分かるのに。
「ちょっと、ゴロゴロうるさい」
少女は黒猫を叱った。
いつの間にか、喉を鳴らしていたらしい。
「お腹がすいて眠れないの?しょうがないわねぇ」
少女は黒猫を抱いて、歌い始めた。子守歌であった。
~赤い日の奥 穂影ちらちら
夕日の向こうに 穂の尾ゆらゆら
眠れや眠れ ぐっすり眠れ
明日もあの日が おがめるように~
聞いたことのない歌だった。
しかし、優しい歌だった。黒猫はまぶたを閉じた。
しばらくは、同じ日々が続いた。
すきっ腹は、苦ではなかった。
黒猫は、理由を求めて少女の傍にいた。
満足な食事を得ることはできなかった。
それは黒猫もそうだが、少女もそうであった。
やがて、ある朝、少女は病に倒れた。
黒猫には、病気の知識なんて微塵もない。
「大丈夫よ、こんなの、寝てれば治るから」
少女が強がって言ったそれは、虚勢以外の何物でもなかった。
黒猫は、何ができるか考えた。そして、家を飛び出した。
人間の村に行けば、薬屋があるだろう。そこから、薬を盗んで来られれば、と思ったのだ。
もちろん、ことが容易に運ばないことは覚悟のうえだった。
黒猫に、迷いはなかった。
村にはいると、大の男が弓やら槍やら持ち出して、黒猫を追い回した。
そこらの普通の猫ですら、縄張りを荒らされまいと黒猫に襲い掛かった。
村人は、犬も連れてきた。犬は匂いを頼りに、執拗に黒猫に牙をむいた。
それでも黒猫は逃げなかった。薬屋は容易には見つからなかった。
体中に、また傷ができた。
黒猫は、走った。
足がもげようが命尽きようが、逃げるつもりはなかった。
黒猫の戦いは、夕方まで続いた。
日が沈んでから、黒猫は、ススキ畑の家にたどり着いた。
体中にできた傷が、ずきずきと痛む。でも、薬草を1つ、くわえて来られた。
家のなかにはいってみると、少女は朝よりも衰弱していた。
それでも、黒猫が鳴くと、少女はなんとか身を起こした。
「───どこに行ったのかと、勝手に出て行ったのかと思ったら───」
少女は黒猫から薬草を受け取ると、それを握り締めた。
「──こんな、こんなもののためにッ」
少女はそれを、囲炉裏の中に投げ込んだ。
黒猫の前で、薬草は灰となり、囲炉裏の中に紛れていった。
黒猫は怯えていた。
少女が、自分が持って来る薬草を間違えたことに怒っているのではないかと、そう思った。
しかし、違った。少女は泣いていた。
泣きながら、黒猫をそっと抱きしめた。
「そんな傷だらけになってまで、薬草を手に入れても、私が喜ぶと思ったの?」
涙のしずくが、黒猫の傷に染みた。
痛くはなかった。何も感じなかった。
黒猫は、心がからっぽになってしまった。
「例えどんなにすごい薬でも、どんなにすごい医者でも、私にはあんた以上に大切なものはないのよ」
夜がこんなにも長いものだと、黒猫は思ったことはなかった。
再び寝床に戻った少女の傍から、黒猫は決して動かないと決めた。
ここにいる以外に、黒猫には何をしていいのか分からなかった。
「ねえ、あんたは、人間が死んだらどこに行くと思う?」
少女は天井を見ながら言った。身を傾けるのもつらかった。
「村や町のお寺さんじゃ、坊主が極楽浄土に行くために修行しているって言うけど、
もし、私が1つだけ頼むことができるとしたら、あっちには嫌われ者の里ってのがあったらいいと思うの」
黒猫は鳴くこともせず、黙ってその話を聞いていた。
「そこでは、私たち嫌われ者が、誰からも嫌われることなく暮らせるの。
きっと、おとうやおかあも、そこに住んでいるかもしれない。あんたも死んだら来なさいよ」
少女はまぶたを閉じた。
また1人、この世界から嫌われ者が消えた。
黒猫には、それ以外のことは難しすぎてよく分からなかった。
1人ぼっちの夜が、こんなにも長くて寂しくてつらいものだと、黒猫は思ったことはなかった。
粗末な蝋燭の灯りだけが、少女の亡骸をそこに照らしていた。
月が天の真上まで昇りつめた頃、黒猫は考えた。
この少女の亡骸は、どうなってしまうのだろう。
村の者に見つかったら、捨てられるかもしれないし、そこらの墓地に埋められるかもしれない。
捨てられたら、死骸を喰らう獣に喰われてしまうだろう。
墓地に埋められたら、また誰かに嫌われ、いじめられるだろう。
自分は、この少女に助けられながら、助けたことは1度もなかった。
せめて最期くらい、何か手を貸してあげたかった。
しばらく考えたあげく、黒猫は1つの決断をした。
粗末な蝋燭を、火を消すことなく、静かに倒した。
火は瞬く間に周りに燃え移り、数分もしないうちに、粗末な家は炎に包まれた。
少女の亡骸が誰の手にも渡らぬよう、黒猫ができた精一杯の手段であった。
炎は家を飲み込み、少女の亡骸を飲み込み、黒猫を飲み込み、ススキ畑にも手をかけた。
そして、静かな夜は、いつもの夕方のような朗らかな赤に囲まれていた。
やがて、燃え盛るススキ畑の端のほうに、少しずつ人間が集まってきた。
「火事だ、火事だぁ!」
「村に飛び火する前に消すんだぁ!」
ススキ畑の中から、黒猫はその様子を見ていた。
集まってきた村の人間たちは、川の水を汲んではススキ畑に投げ込んだ。
火の勢いは、徐々におさまろうとしていた。
「長老、ご覧の通り、火事はもうすぐで片付きそうです」
「ふむ、ご苦労」
大人たちの中に、長老と呼ばれる老人がいたのが分かった。
「しかし、このススキ畑の中には、あの小娘が住んでいたはずじゃが」
「この火事では助かるまい!馬鹿な小娘よ」
「勝手に死ぬのは結構だが、村を巻き込むとは、迷惑な話じゃのう」
大人たちは笑っていた。
黒猫は、何も思わなかった。
何かを思う前には、既に体が走り出していた。
ススキ畑の中から、人間の集団の中へ。
人間の誰かが黒猫に気づく前に、黒猫は笑っていた大人の1人を噛み殺した。
「ば、化け猫だぁ!」
誰かが叫んだ。間髪いれず、黒猫は次の獲物へと飛び掛った。
黒猫を動かすものは、少女を侮辱された怒りだけではなかった。
例え亡骸となってしまっても、少女をこのようなつまらない人間たちに渡したくなかった。
嫌われ者の少女を、少女を嫌う者たちから守ってあげたかったのだ。
黒猫は、ススキ畑の火を全身にまといながら、次々と大人たちを噛み殺した。
黒猫の火は、まだ燃えていなかったススキにも引火し、火は広がった。
大勢の大人が黒猫に噛み殺され、それよりも大勢の大人が火に飲まれて焼け死んだ。
最後の1人、長老を噛み殺したときには、黒猫以外誰も生きていなくなっていた。
黒猫は今になって、自分が1人ぼっちになったことを知った。
大勢の人間を噛み殺したからではない。あの少女を失ったからだ。
黒猫は叫んだ。ススキの穂の尾が炎に変わる様を見ながら、
燃え盛る炎の音にも負けぬような大きな声で、あの歌を、少女のために。
~赤い火の奥 火影ちらちら
猛火の向こうに 炎ゆらゆら
眠れや眠れ ぐっすり眠れ
きっとそのうち 出会えるように~
年月が過ぎた。
黒猫は、1人ぼっちだった。
黒猫は、何かを求めるように、かなりの距離を歩いた。
黒猫は、あの晩から火車の力を手に入れた。
黒猫は、死体や怨霊の言葉を理解するようにもなった。
黒猫は、誰からも恐れられた。敵は大分少なくなった。
しかし、やはり、世界には敵か餌しかいなかった。
火車の力を手に入れてからは、より一層嫌われ者になった。
黒猫の心は、あのときからずっとからっぽだった。
(うーん、うまくいかないなぁ)
黒猫は水面を覗き込んで、自分の顔を見た。
妖怪変化の練習を始めてみたのだが、どうにも不恰好で納得がいかない。
(ありゃ、ヒゲがなくなったと思ったら今度は耳が飛び出した)
すっかり人型に化けることができるようになったが、顔がうまくいかない。
(人の耳と猫の耳、耳が4つあるのは不恰好だよなぁ)
しかし、猫の耳さえなければ、それはあのときの少女の顔そのものであった。
意図してこうなったわけではない。人間の顔といったとき、黒猫の中にはこの顔しかなかったのだ。
赤い髪の黒猫、しかし髪をかきわけて猫の耳。
(うーん、やり直し)
もう1度変化をやり直そうと思ったとき、誰かが池の近くにやってきたのが分かった。
黒猫が振り向くと、いたのは妖怪少女であった。
「火車の人化粧とは、ずいぶん珍しいですわね」
妖怪少女の胸には、目があった。
何もかも見透かされた思いがして、黒猫は、その目が気に入らなかった。
「あんたはあたいが怖くないのかい?泣く子も黙る火車の力を手に入れた黒猫だよ?」
「なるほど、嫌われ者ですか」
妖怪少女はしばしの間、何かを考えていたようだったが、
「どうです?うちに来ませんか?地の底に、地霊殿という私の家があります。
私も筋金入りの嫌われ者でして、嫌われ者は嫌われ者同士、互いを嫌うことなく地底に住んでいるのです」
黒猫には、にわかにはその話は信じられなかった。
しかし、妖怪少女はそれをふまえて話を続けた。
「実は、怨霊の管理をする者を捜しているのです。あなたは火車の力を持つ、ちょうどいいでしょう」
「ほ、本当にあたいが行ってもいいの?火車だよ?火車の黒猫妖怪だよ?」
「ええ、歓迎します」
「じゃ、じゃあ…………行きます」
黒猫にとって、その提案は夢のようで、未だ自分がした返事の中身すら混沌としていた。
あまりにも唐突すぎて、何をしていいのか分からなかった。
地底がどのようなところかも分からないし、これから何をすればいいのかも分からない。
「あ、あの、とりあえず、この耳だけどうにかしていいですか?」
よくよく考えれば、誰も耳を咎める者などいないと分かるのに、この時の黒猫の慌てっぷりときたら。
しかし、妖怪少女は、そういうところまで寛大であった。
「ええ、気が済むまでどうぞ。急ぐことでもありませんから」
黒猫はすぐに、また池を見た。夢でないか、ちょっとだけ顔に水をかけてみたが、夢ではない。
とすれば、なんとか耳だけでもひっこめようと、色々やりながら、水面と睨めっこした。
すると、瞬きのうちに、頭から耳が消えた。黒猫はとっさに頭に手をやったが、こっちには猫の耳が残っている。
はて、と不思議な水面をもう1度眺めると、
向こうにいた自分──それはもう、昔会ったあの少女と何1つ変わりない面影だが──が、
『何ぼさっとしてるのよ。そんな耳、誰が気にするの。さっさと行っちゃいなさいよ』
と、怒鳴り込んできた。黒猫は突然怒鳴られて、肝がつぶれる思いをしたが、水面の少女は続けた。
『それと、あんたの名前、結局決めてあげられなかったわね。仕方ないから、私の名前をあげるわ。
私、おりんっていう名前だったの。あんたにあげる。姿も勝手に真似したんだから、名前も持っていっていいわよ』
黒猫は、横目で隣にいる妖怪少女を見た。
しかしこの妖怪少女には、水面の向こうには誰も見えないらしい。
『ちょっと、聞いてるの!?』
水面の向こうの赤髪の少女に叱咤され、黒猫は思わず背筋が伸びた。
『ただし、名前と姿を使うからには1つ、私と約束しなさい。
いつまでも、あんたはあんたらしく、悠々と生きなさい。家族っていうのは、とてもいいものよ。
あ、おとうが呼んでるわ。それじゃ、さよなら。短い間だったけど、ありがとう』
水面の向こうにいた面影の頭には、瞬く間に猫の耳が現れた。
自分の顔だった。瞬きをすれば、向こうも瞬きをする、ただのつまらない水鏡。
夢だったのかもしれない。でも、黒猫には、何をすればいいのかが分かった。
からっぽになった心を埋める手がかりもつかめた。
「あ、あの」
「耳はいいのですか?」
「……はい。あたい、おりんっていいます」
「おりん……いい名前ね」
妖怪少女は、優しい笑みを黒猫おりんにおくった。
「さあ、行きましょう。やってほしいことは山ほどあるの」
「はいッ」
おりんは、歩きだすまえに、もう1度だけ振り向いた。
池を囲むようにはえたススキたちが、ザワザワと揺れていた。
まるで、おりんを祝福しているようにも見えた。
(調子のいいやつ)
おりんは、ちょっとばかり可笑しくなって、笑った。
穂の尾は、日の光を受け、輝いていた。
黒猫がいた。
黒猫は、あまりにも長く生きているうちに、自分の名前も忘れてしまった。
もっと昔は誰かに飼われていたのかもしれない、ただ普通の黒猫だった。
そして、名前の代償と言ってはなんだが、黒猫は年月をかけて妖力を得ていた。
妖力を得た黒猫は、2本目の尾を手に入れた。
山に住む生まれながらの化け猫たちは、2本目の尾を持つことを成人の証とされるのに、
成り上がりの妖怪猫が2本目の尾を持つことは、あってはならぬことであった。
黒猫は山を追われた。山を追われて、人里に逃げ込んだ。
言うまでもなく、人間も妖力を持った猫を飼おうと思うはずもない、すぐに追い出した。
結局、黒猫は誰からも嫌われていた。
住んでいたところから、あの手この手で追い出され、
新たな地でも指差され、追い掛け回され、追い出された。
いつしか、黒猫は知った。
世界には、敵と餌しかいない。
自分を恐れるものは餌であり、自分が恐れるものは敵なのだ。
その法則は、まだ頭のよくなかった黒猫にも、十分に理解できるほど易しいものだった。
餌を喰らい、敵から逃れる。
それだけを繰り返せば自分は生きていけるのだと、黒猫は知った。
それからしばらくの年月が流れた。
黒猫は必死に生きていた。
しかし、黒猫の命の灯火は、今まさに消えようとしていた。
餌を喰らおうとすれば、敵に傷を負わされる。
敵から逃れようとすれば、餌を喰らうこともままならない。
最後には飢えと疲労と傷跡だけが残るのだった。
なんとか身を隠すには都合のいいススキ畑にもぐりこんだが、もう立つ力も残っていない。
もう夕暮れ。夜になればこの辺にも妖怪が下りてくる。
さすれば、自分が喰われることは容易に想像がつく、しかしどうすることもできない。
薄れゆく意識。
吹き抜ける冷めた風が、黒猫から熱を奪う。
ざわざわと揺れるススキは、黒猫をあざ笑っているようにも見えた。
最後まであざ笑われながら、黒猫はそのまぶたを閉じた。
日が地平線の彼方に消えてしまった。
黒猫は目を覚ました。
生きていた。暖かかった。
頭をあげると、粗末な蝋燭の灯りが見えた。
ひとしきり目で辺りを詮索すると、どうやらここは民家の中であった。
しかし、自分1人というわけでもなさそうだ。どこからか人間の匂いがする。
「んー、生きてたの?」
声がした。おそらく、その人間であろう。
「死んでたと思って拾って来たのに」
黒猫の前に、声の人間が現れた。
人間は、少女であった。赤い髪をした、少女の人間であった。
本能的に、黒猫はできる限りの威嚇をした。
赤い目で睨み、毛を逆立て、近づいたら噛み殺すと分からせようとした。
「何よ、助けてやったのにそんな態度を取るの?」
少女は黒猫の背中をつまんで持ち上げ、囲炉裏の近くに下ろした。
実際、黒猫には、もう噛み付くだけの余力もなかったのである。
「あんた、傷だらけね。本当は、あんた、うちの夕飯になるはずだったんだけど、
そんなんじゃ可哀想で食べられないったらありゃしないわよ」
少女は、囲炉裏にかけてあった鍋から、汁をすくって器にいれると、黒猫の前に置いた。
「食べな。魚も肉もはいってないけど、うちではご馳走なんだから」
少しばかりの野草のはいった、薄味の汁だった。
しかし、黒猫もこの何日、水すら口にしていない。
器をひっくり返さん勢いで野草を食べ、汁を飲み、最後の一滴までなめ尽くした。
川に泳ぐ魚を食べたときよりは、まだまだ腹は減っていた。
けれど、黒猫は今まで、こんなにも暖かい食事にありついたことはなかった。
「ん、もう食べたの?まったく、もう」
少女はもう1杯、汁をくれた。黒猫はそれも刹那に飲み干した。
できればもう少し食べたかったが、少女は鍋を片付けてしまった。
「もうないわよ。あんた、私の分まで食べちゃったでしょう」
あの1杯はこの少女の分だったのか、と黒猫はなんだか決まりが悪くなった。
この少女が寝静まったら殺して喰おうと思っていたのだが、やっぱりやめた。
なんだか、不思議な心地が心の奥にうまれたが、
(またきっと飯がもらえるから、そのためだけに生かしておくんだ)
と、自分に言い聞かせて、なんとかその心地に蓋をした。
その心地は、黒猫がかつて経験したことのないものであった。
この少女は、餌ではない。しかし、敵でもない。では何なのだろう。
その答えがそこにあり、黒猫は答えを見ることを恐れ、蓋をした。
夜だけが過ぎていった。
黒猫はそこで一夜を過ごすことにした。
自ら蓋をしたその答えの正体を見ずにここを後にするのは、勿体無い気がしたのだ。
「あんた、どうしてそんなに傷だらけなの?」
少女は黒猫の体を見回しながら言った。
黒猫は、返事してやるかどうか迷ったが、短く、にゃあと鳴いてやった。
「分かんないわよ」
少女はそう言うと、立ち上がり、寝床の準備を始めた。
寝床と言っても、ワラでできた簡素なものだった。
そもそも、黒猫が見たところ、この家にはおかしなところが多すぎる。
家は、ボロだらけ。隙間風は吹き放題。家具も粗末なものばかり。
無論、手入れは行き届いているのだが、最初から粗末なものだったのだろう。
それに、この家はススキ畑のまんなかにあった。それも、たった一軒で。
これでは、妖怪に襲われてもおかしくない。人里に住めば、もっと安心できるだろうに。
「なに難しそうな顔してるのよ。さ、こっち来なさい」
少女は黒猫を抱えて寝床にはいった。
黒猫にとって、寝床は常に1人でないと落ち着かないのだが、
本意を裏切って、今夜はこの少女と寝ることにした。
眠っている間に殺されないかとも思ったが、その時は返り討ちにしてやるだけさ、と自分をたしなめた。
日の光が、壁の隙間から差し込んで、黒猫は目を覚ました。
少女は既に起きていて、何やら準備をしていた。
「こら、いつまで寝てるの」
少女がワラを引っ剥がし、黒猫は思わず身を縮めた。
まだ朝も、かなり早い朝である。
黒猫は、こんなに朝早く行動する人間は見たことがなかった。
「うちにいるなら私の手伝いをする、分かった?」
少女はそう言うと、手にした槍を連れ、家の外に出て行った。
黒猫も、他に何もすることもないので、少女について行ってやることにした。
少女はススキ畑を掻き分けながら、妖怪の住む山へと向かっていった。
「うちはね、狩猟で暮らしてるの。あんたの仲間を捕って殺すの。できる?」
黒猫は少女を軽く睨んだ。馬鹿にするな、という2つの意味をこめたのだ。
1つ目の意味は、自分はこの少女が生まれる昔から狩りをして生きてきたのだ、ということ。
2つ目の意味は、自分には仲間などいない、ということ。
少女がそれをどう受け取ったのかは分からないが、どう受け取っても山に行っただろう。
無論、黒猫も。
狩猟はとても好調にいき、6羽の兎を獲ることができた。
この狩りは、おそらく少女と黒猫、それぞれ片方だけでは成り立たなかっただろう。
少女はこの辺の地理に精通していて、どの辺で獲物が獲れるかを知っていた。
兎は、人間よりも速く走れたが、黒猫には敵わなかった。喉笛を噛み千切られ、死んでしまった。
「あんた、けっこうやるわね」
今日の獲物を袋にいれた少女が言った。
黒猫は少しばかり誇らしくなったが、それ以前に楽しみであった。
今晩の飯のことだ。これだけ兎を獲れば、さぞ豪華な飯になるだろうと期待していた。
そして、今度ばかりは、少女に自分の兎を1羽くらい分けてやろうとも思っていた。その根拠は分からなかったが。
夕日に染まるススキは、少女の髪と同じくらい赤く見えた。
「あんた、名前はなんて言うの?」
少女は黒猫に問いかけた。黒猫は詰まった。
自分の名前など、考えたこともなかった。1人で生きるのに、名前はいらなかった。
「まあ、いいわ。そのうちつけてあげる」
少女が言ったそれは、黒猫にちっとも期待をさせなかった。
きっと肉で頭がいっぱいだったのと、名前なんて無価値だと思っていたのと、どっちだろう。
家に帰ると、少女は、獲った兎を、骨と肉と皮に分けた。
血の匂いを嗅いでしまっては、黒猫の食欲も増していく。
「どう?美味しそうかい?」
少女は兎の肉を黒猫に見せた。
黒猫は、今にも飛びかかろうとする前足をじれったそうに抑えた。
「でも、これは私たちの喉を通ることはないのよ」
少女は肉と皮と骨をそれぞれ別の袋にいれていった。
日が沈んだ頃、1人の男が現れ、その袋を全部持っていってしまった。
「私を恨んでるなら筋違いよ」
背を向けて拗ねてしまった黒猫に、少女はそう言った。
「うちは、獲ったものは全部あげなくちゃいけないの」
飯は、野草のおひたしだけであった。
「うちは代々嫌われている嫌われ者の家系だから、
ここに住まわせてもらっているだけでも感謝しなくちゃいけないんだとさ。おとうが言ってた」
欠けた皿におひたしを乗せて、少女はそれを猫につき出した。
「おとうは、狩猟の最中、妖怪に襲われて死んじまった。村の連中は、馬鹿だって笑ってたわね。
それで、私は1人で仕事をしなくちゃいけなくなったの。同情してほしいくらいよ」
嫌われ者、その言葉に黒猫は少しばかり同情とは違う心を寄せた。
思い起こせば、自分も筋金入りの嫌われ者であった。
あの、不思議な心地がした。この少女と自分は、どこかで繋がっているのかもしれない、と思えた。
すると、兎で満たされるはずだった腹は、文句をひっこめ黙り込んだ。
なぜだかは分からない。
昨日は、飯がもらえるから、と自分をなだめたが、それは嘘だった。
飯なんて、満足のいく飯なんてこれっぽっちも与えられないじゃないか。
なのに、自分はどうしてこの少女に腹を立てられないのだろう。
黒猫はしばし考えたが、分かったのは、この問題は自分には難しすぎるということだけだった。
おひたしが、美味しかった。
寝床で、黒猫は考えた。
理由が分からなかったのだ。
今日の狩猟で、獲物が獲れる場所が分かった。
そして、この家にいては満足のいく食事にありつけないことも分かった。
なのに、どうして自分はここを出て行こうとしないんだろう。
きちんと整理して考えてみれば、まったく不条理なことだとすぐ分かるのに。
「ちょっと、ゴロゴロうるさい」
少女は黒猫を叱った。
いつの間にか、喉を鳴らしていたらしい。
「お腹がすいて眠れないの?しょうがないわねぇ」
少女は黒猫を抱いて、歌い始めた。子守歌であった。
~赤い日の奥 穂影ちらちら
夕日の向こうに 穂の尾ゆらゆら
眠れや眠れ ぐっすり眠れ
明日もあの日が おがめるように~
聞いたことのない歌だった。
しかし、優しい歌だった。黒猫はまぶたを閉じた。
しばらくは、同じ日々が続いた。
すきっ腹は、苦ではなかった。
黒猫は、理由を求めて少女の傍にいた。
満足な食事を得ることはできなかった。
それは黒猫もそうだが、少女もそうであった。
やがて、ある朝、少女は病に倒れた。
黒猫には、病気の知識なんて微塵もない。
「大丈夫よ、こんなの、寝てれば治るから」
少女が強がって言ったそれは、虚勢以外の何物でもなかった。
黒猫は、何ができるか考えた。そして、家を飛び出した。
人間の村に行けば、薬屋があるだろう。そこから、薬を盗んで来られれば、と思ったのだ。
もちろん、ことが容易に運ばないことは覚悟のうえだった。
黒猫に、迷いはなかった。
村にはいると、大の男が弓やら槍やら持ち出して、黒猫を追い回した。
そこらの普通の猫ですら、縄張りを荒らされまいと黒猫に襲い掛かった。
村人は、犬も連れてきた。犬は匂いを頼りに、執拗に黒猫に牙をむいた。
それでも黒猫は逃げなかった。薬屋は容易には見つからなかった。
体中に、また傷ができた。
黒猫は、走った。
足がもげようが命尽きようが、逃げるつもりはなかった。
黒猫の戦いは、夕方まで続いた。
日が沈んでから、黒猫は、ススキ畑の家にたどり着いた。
体中にできた傷が、ずきずきと痛む。でも、薬草を1つ、くわえて来られた。
家のなかにはいってみると、少女は朝よりも衰弱していた。
それでも、黒猫が鳴くと、少女はなんとか身を起こした。
「───どこに行ったのかと、勝手に出て行ったのかと思ったら───」
少女は黒猫から薬草を受け取ると、それを握り締めた。
「──こんな、こんなもののためにッ」
少女はそれを、囲炉裏の中に投げ込んだ。
黒猫の前で、薬草は灰となり、囲炉裏の中に紛れていった。
黒猫は怯えていた。
少女が、自分が持って来る薬草を間違えたことに怒っているのではないかと、そう思った。
しかし、違った。少女は泣いていた。
泣きながら、黒猫をそっと抱きしめた。
「そんな傷だらけになってまで、薬草を手に入れても、私が喜ぶと思ったの?」
涙のしずくが、黒猫の傷に染みた。
痛くはなかった。何も感じなかった。
黒猫は、心がからっぽになってしまった。
「例えどんなにすごい薬でも、どんなにすごい医者でも、私にはあんた以上に大切なものはないのよ」
夜がこんなにも長いものだと、黒猫は思ったことはなかった。
再び寝床に戻った少女の傍から、黒猫は決して動かないと決めた。
ここにいる以外に、黒猫には何をしていいのか分からなかった。
「ねえ、あんたは、人間が死んだらどこに行くと思う?」
少女は天井を見ながら言った。身を傾けるのもつらかった。
「村や町のお寺さんじゃ、坊主が極楽浄土に行くために修行しているって言うけど、
もし、私が1つだけ頼むことができるとしたら、あっちには嫌われ者の里ってのがあったらいいと思うの」
黒猫は鳴くこともせず、黙ってその話を聞いていた。
「そこでは、私たち嫌われ者が、誰からも嫌われることなく暮らせるの。
きっと、おとうやおかあも、そこに住んでいるかもしれない。あんたも死んだら来なさいよ」
少女はまぶたを閉じた。
また1人、この世界から嫌われ者が消えた。
黒猫には、それ以外のことは難しすぎてよく分からなかった。
1人ぼっちの夜が、こんなにも長くて寂しくてつらいものだと、黒猫は思ったことはなかった。
粗末な蝋燭の灯りだけが、少女の亡骸をそこに照らしていた。
月が天の真上まで昇りつめた頃、黒猫は考えた。
この少女の亡骸は、どうなってしまうのだろう。
村の者に見つかったら、捨てられるかもしれないし、そこらの墓地に埋められるかもしれない。
捨てられたら、死骸を喰らう獣に喰われてしまうだろう。
墓地に埋められたら、また誰かに嫌われ、いじめられるだろう。
自分は、この少女に助けられながら、助けたことは1度もなかった。
せめて最期くらい、何か手を貸してあげたかった。
しばらく考えたあげく、黒猫は1つの決断をした。
粗末な蝋燭を、火を消すことなく、静かに倒した。
火は瞬く間に周りに燃え移り、数分もしないうちに、粗末な家は炎に包まれた。
少女の亡骸が誰の手にも渡らぬよう、黒猫ができた精一杯の手段であった。
炎は家を飲み込み、少女の亡骸を飲み込み、黒猫を飲み込み、ススキ畑にも手をかけた。
そして、静かな夜は、いつもの夕方のような朗らかな赤に囲まれていた。
やがて、燃え盛るススキ畑の端のほうに、少しずつ人間が集まってきた。
「火事だ、火事だぁ!」
「村に飛び火する前に消すんだぁ!」
ススキ畑の中から、黒猫はその様子を見ていた。
集まってきた村の人間たちは、川の水を汲んではススキ畑に投げ込んだ。
火の勢いは、徐々におさまろうとしていた。
「長老、ご覧の通り、火事はもうすぐで片付きそうです」
「ふむ、ご苦労」
大人たちの中に、長老と呼ばれる老人がいたのが分かった。
「しかし、このススキ畑の中には、あの小娘が住んでいたはずじゃが」
「この火事では助かるまい!馬鹿な小娘よ」
「勝手に死ぬのは結構だが、村を巻き込むとは、迷惑な話じゃのう」
大人たちは笑っていた。
黒猫は、何も思わなかった。
何かを思う前には、既に体が走り出していた。
ススキ畑の中から、人間の集団の中へ。
人間の誰かが黒猫に気づく前に、黒猫は笑っていた大人の1人を噛み殺した。
「ば、化け猫だぁ!」
誰かが叫んだ。間髪いれず、黒猫は次の獲物へと飛び掛った。
黒猫を動かすものは、少女を侮辱された怒りだけではなかった。
例え亡骸となってしまっても、少女をこのようなつまらない人間たちに渡したくなかった。
嫌われ者の少女を、少女を嫌う者たちから守ってあげたかったのだ。
黒猫は、ススキ畑の火を全身にまといながら、次々と大人たちを噛み殺した。
黒猫の火は、まだ燃えていなかったススキにも引火し、火は広がった。
大勢の大人が黒猫に噛み殺され、それよりも大勢の大人が火に飲まれて焼け死んだ。
最後の1人、長老を噛み殺したときには、黒猫以外誰も生きていなくなっていた。
黒猫は今になって、自分が1人ぼっちになったことを知った。
大勢の人間を噛み殺したからではない。あの少女を失ったからだ。
黒猫は叫んだ。ススキの穂の尾が炎に変わる様を見ながら、
燃え盛る炎の音にも負けぬような大きな声で、あの歌を、少女のために。
~赤い火の奥 火影ちらちら
猛火の向こうに 炎ゆらゆら
眠れや眠れ ぐっすり眠れ
きっとそのうち 出会えるように~
年月が過ぎた。
黒猫は、1人ぼっちだった。
黒猫は、何かを求めるように、かなりの距離を歩いた。
黒猫は、あの晩から火車の力を手に入れた。
黒猫は、死体や怨霊の言葉を理解するようにもなった。
黒猫は、誰からも恐れられた。敵は大分少なくなった。
しかし、やはり、世界には敵か餌しかいなかった。
火車の力を手に入れてからは、より一層嫌われ者になった。
黒猫の心は、あのときからずっとからっぽだった。
(うーん、うまくいかないなぁ)
黒猫は水面を覗き込んで、自分の顔を見た。
妖怪変化の練習を始めてみたのだが、どうにも不恰好で納得がいかない。
(ありゃ、ヒゲがなくなったと思ったら今度は耳が飛び出した)
すっかり人型に化けることができるようになったが、顔がうまくいかない。
(人の耳と猫の耳、耳が4つあるのは不恰好だよなぁ)
しかし、猫の耳さえなければ、それはあのときの少女の顔そのものであった。
意図してこうなったわけではない。人間の顔といったとき、黒猫の中にはこの顔しかなかったのだ。
赤い髪の黒猫、しかし髪をかきわけて猫の耳。
(うーん、やり直し)
もう1度変化をやり直そうと思ったとき、誰かが池の近くにやってきたのが分かった。
黒猫が振り向くと、いたのは妖怪少女であった。
「火車の人化粧とは、ずいぶん珍しいですわね」
妖怪少女の胸には、目があった。
何もかも見透かされた思いがして、黒猫は、その目が気に入らなかった。
「あんたはあたいが怖くないのかい?泣く子も黙る火車の力を手に入れた黒猫だよ?」
「なるほど、嫌われ者ですか」
妖怪少女はしばしの間、何かを考えていたようだったが、
「どうです?うちに来ませんか?地の底に、地霊殿という私の家があります。
私も筋金入りの嫌われ者でして、嫌われ者は嫌われ者同士、互いを嫌うことなく地底に住んでいるのです」
黒猫には、にわかにはその話は信じられなかった。
しかし、妖怪少女はそれをふまえて話を続けた。
「実は、怨霊の管理をする者を捜しているのです。あなたは火車の力を持つ、ちょうどいいでしょう」
「ほ、本当にあたいが行ってもいいの?火車だよ?火車の黒猫妖怪だよ?」
「ええ、歓迎します」
「じゃ、じゃあ…………行きます」
黒猫にとって、その提案は夢のようで、未だ自分がした返事の中身すら混沌としていた。
あまりにも唐突すぎて、何をしていいのか分からなかった。
地底がどのようなところかも分からないし、これから何をすればいいのかも分からない。
「あ、あの、とりあえず、この耳だけどうにかしていいですか?」
よくよく考えれば、誰も耳を咎める者などいないと分かるのに、この時の黒猫の慌てっぷりときたら。
しかし、妖怪少女は、そういうところまで寛大であった。
「ええ、気が済むまでどうぞ。急ぐことでもありませんから」
黒猫はすぐに、また池を見た。夢でないか、ちょっとだけ顔に水をかけてみたが、夢ではない。
とすれば、なんとか耳だけでもひっこめようと、色々やりながら、水面と睨めっこした。
すると、瞬きのうちに、頭から耳が消えた。黒猫はとっさに頭に手をやったが、こっちには猫の耳が残っている。
はて、と不思議な水面をもう1度眺めると、
向こうにいた自分──それはもう、昔会ったあの少女と何1つ変わりない面影だが──が、
『何ぼさっとしてるのよ。そんな耳、誰が気にするの。さっさと行っちゃいなさいよ』
と、怒鳴り込んできた。黒猫は突然怒鳴られて、肝がつぶれる思いをしたが、水面の少女は続けた。
『それと、あんたの名前、結局決めてあげられなかったわね。仕方ないから、私の名前をあげるわ。
私、おりんっていう名前だったの。あんたにあげる。姿も勝手に真似したんだから、名前も持っていっていいわよ』
黒猫は、横目で隣にいる妖怪少女を見た。
しかしこの妖怪少女には、水面の向こうには誰も見えないらしい。
『ちょっと、聞いてるの!?』
水面の向こうの赤髪の少女に叱咤され、黒猫は思わず背筋が伸びた。
『ただし、名前と姿を使うからには1つ、私と約束しなさい。
いつまでも、あんたはあんたらしく、悠々と生きなさい。家族っていうのは、とてもいいものよ。
あ、おとうが呼んでるわ。それじゃ、さよなら。短い間だったけど、ありがとう』
水面の向こうにいた面影の頭には、瞬く間に猫の耳が現れた。
自分の顔だった。瞬きをすれば、向こうも瞬きをする、ただのつまらない水鏡。
夢だったのかもしれない。でも、黒猫には、何をすればいいのかが分かった。
からっぽになった心を埋める手がかりもつかめた。
「あ、あの」
「耳はいいのですか?」
「……はい。あたい、おりんっていいます」
「おりん……いい名前ね」
妖怪少女は、優しい笑みを黒猫おりんにおくった。
「さあ、行きましょう。やってほしいことは山ほどあるの」
「はいッ」
おりんは、歩きだすまえに、もう1度だけ振り向いた。
池を囲むようにはえたススキたちが、ザワザワと揺れていた。
まるで、おりんを祝福しているようにも見えた。
(調子のいいやつ)
おりんは、ちょっとばかり可笑しくなって、笑った。
穂の尾は、日の光を受け、輝いていた。
お見事なりて。
お燐ちゃん可愛いよおりんちゃん。
お燐さんは幸せになって頂かないと……困る。
良いお話でございました。
悲しい話なのにちょっとほわっとしましたのぜ。
>1
シリアスは好きですが苦手なんです。
褒めてもらえて嬉しいです。
>2
ほのぼのメーカーの異名を持つ貴公からそんなコメントがもらえるとは……
ありがとうございます。
これからも時々、この手の話を投稿させてもらいます。(実は不安でした)
>3
ありがとうございます。
>4
ありがとうございます。
>ほわっと
嬉しい言葉です。