「いい天気ねぇ」
天子は高い高い空を見上げて呟いた。
寝ころんでいるのは屋敷の屋根の上だった。時々涼しい風が通り抜けていくので、気持ちがいい。
照る日差しは雲で途切れ途切れ。それも丁度良いくらいだった。
天界から見上げても空は果てしない。ここよりも高い位置に雲が漂っているし、わたあめのような雲を除けば、水色の絵具をぶちまけたキャンバスのようだ。
――不意に胸が痛んで、天子は眉をしかめた。
黙って一人でいると、時々こういうことが起きる。心臓を何かが締め付けるような痛みだ。蠢く靄が心臓に纏わりついて、鼓動を阻害するような不快感。
「……霊夢」
ぼそりと呟いてみる。
何故だろうか。
こういう時に彼女の名前を口にすると心の痛みが柔らんで、ほんのりと甘い安心感が胸に広がる。
「……私何いってんのよ!?」
そして激しい羞恥心に駆られる。ころころと転げ回ってもまだ足りない。
うつ伏せに帽子を深々と被って、足をばたつかせながら真っ赤になった顔を隠してう~と唸る。
この頃、妙な衝動に駆られて困る。
何故、あの巫女のことを考えると胸が痛くなるのか。
人の意識に入り込んでくる図々しさは流石幻想郷の巫女であると言えよう。
その上精神面にもダメージを与える。今まで味わったことのない攻撃方法だ。正直参る。
それよりも何故、あの巫女の名前を口にすると安心するのか。
呟くだけでも、胸がほこほこと温かくなり、気持ちがいいのだ。まるで危ないお薬である。
しかし副作用はキチンとあるようで、羞恥心にストライクな爆弾が炸裂する。
そして極めつけは何と、毎晩夢に出てくるのだ。しかも色々なパターンがある。今のところは百五十種類をコンプリートしている。毎朝しっかり夢日記を書いているので忘れることがなく、安心だ。たった三日の日記も続けられない天子が、信じられない程のモチベーションを維持している。
代替はロマンチックな風景で、霊夢がお弁当と食べさせてくれたり、甘えてきたり――時にはとても人には言えない様な内容の夢まで見てしまう。
そんな感じの苦悩に悶えて、天子は日々を送っていた。
ここまで頑張ってきたが、もう耐えられそうにない。段々と胸が苦しくなるし、発作の回数も増えてきている。そもそも何故高貴な自分があんな地上人に悩まされなくてはいけないのか。
「もしかして、変な呪いにでもかかったのかしら」
天子はがばっと起き上がった。
そうだ、そうだとしか思えない。
自分があんなぐうたら巫女に屈するなど、あってはいけないのだ。
「ならば呪いを解いてもらわないと、ね」
天子は地上に向かった。
向かっている途中これで霊夢に会う口実が出来たと喜んでいる自分に気がついて雲の上を転げ回ってから向かったので、博麗神社に到着したのは昼過ぎになってからだった。
――――
「……と言うことよ。私に何かしたのなら素直に言いなさい。許してあげなくもないわ」
「いや、特に何もしてないけど」
「嘘を言わない」
霊夢はいつも通りのほほんとお茶を啜っていた。無邪気な瞳に天子を映している。
「……症状は?」
「だから、あんたのことを考えると、その」
霊夢は曇りのない目で、真っ直ぐに天子を見据えている。
天子は少しの恥ずかしさを覚えて目を逸らした。
「その、胸が苦しくなって、温かくなって、ふわふわして、恥ずかしい」
「ふうん」
天子が視線を霊夢に戻すと、ピントが合わなかった。
いつの間にか、目の前に霊夢がいた。鼻と鼻がふれ合いそうな距離だ。真黒の瞳が、天子を飲み込んでいる。
天子は頭の中が真っ白になって、ごくりと唾を飲み下した。
「あんた」
じっと天子を覗き込んでくる。
天子はまた視線を逸らした。このまま目を合わせ続けると、霊夢に取り込まれそうで怖かった。
「あんた私に言いたいことない?」
「な、何もないわよ。あと、近い。離れてよ」
霊夢は一旦顔を離した。天子は息を吐きだせて、ほっとした。
霊夢は首を傾げた。無表情だった。
何を言うつもりだろうか。
天子は不安だった。この巫女が次に何を言うのか。
この巫女のことは本当に分からない。
次に何を言うのか、そもそも今何を考えているかもわからない。なぜ自分はこんな奴を――いや、呪いのせいだったか、危ない危ない。
天子は鼓動を押さえようと呼吸を整えた。心臓は音が聞こえるくらいに脈打っている。霊夢に聞こえてないだろうかと不安になった。
霊夢は無表情でお茶を啜る。落ち着いた様子だ。
これでは自分が馬鹿みたいではないか。
天子は息をついて、正座を直そうとした。
「あんた、私のことが好きなの?」
ぽえ、と霊夢は何気なく言った。
眼前に広がる風景が、一気に氷結した。
「……は?」
完全に不意、死角からのやり、意識の外側からのストレート。奇襲されてしまった。天子の脳はその単語の意味を理解するのにたっぷり五秒費やする。
そして、感情が大爆発した。
「な……ばっ!? 意味わかんない!」
見る間に顔を真っ赤に染まって、泣きそうな表情になる。
「信じられない! 何て事聞くのわけわかんない!」
顔を見られない様に、そのまま突っ伏して捲し立てた。
急に沸騰した頭を冷ますために、言葉として熱源を吐き出す。
同時に熱い涙が頬を伝って言った。
恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだった。むしろ死んだほうがましだった。
心の一番見られたくないところを覗き見られてしまったような気がして、もう何もかもが嫌だった。子どもの頃に考えた怪獣を全国配信されたような屈辱感だった。
「ねぇ天子、ちゃんと言ってよ。私のこと好き?」
「いや……いや……!」
天子は耳を押さえて首を振った。
答えたくなかった。こんなムードも何もない告白なんて真っ平御免だった。
当たり前だが、天子だって子供じゃない。この気持ちが呪いだなんて本気で思ったことは一度だってなかった。だからこそ、日々想像していた好意の告白をこんな形で行うのは嫌だった。
「ねえ天子」
天子は顔を上げると、霊夢は笑っていた。そう言えば今日霊夢の笑った顔を見たのは初めてだった。
「あんたは私のどこが好きなの?」
「うう……」
怖かった。天子は霊夢に怯えていた。前に見た笑顔はお日さまのように温かくて安心する笑みだったのに、今回は違った。別の――機械のような無機質で冷たい目をしていた。
霊夢は天子の背中に手を回して、ゆっくりと撫でてきた。
天子は反射的に霊夢を振り払おうとしたが、力を発揮する前に、霊夢の唇が唇を覆ってきた。
「や……やうっん!? ん……んは……はう……んく、ん……」
世界が真っ白く、あるいは真っ黒く染まる。次に襲ってきたのは嫌悪感だった。
拒絶反応を起こして初めこそ抵抗したものの、蹂躙するような舌の動きに天子の行動は制限されていった。
「は……んふ……んく……ちゅ、はぁ」
どろどろとした何かに、体が沈んでいくようだった。強制的に、嫌悪感が削られていく。
頭が急速に思考を放棄していき、快感だけを取り入れる様になる。
半分眠っているような心地よさ、ぬるぬるとした感触に勝手に震え出す背中。まるで温かいプールを漂っているような気持だった。
「ふ、中々可愛い顔するじゃない」
霊夢はぺろと口の周りを舐めった。
唇同士が離れてもなお、舌や口内の神経が甘ったるい痺れを脳に送り続けてくる。
天子は喘ぐので精いっぱいだった。
「私ね、一番初めに私に好きって言ってくれた人の物になろうって決めてたの。あんたがもし素直に私のことを好きって言ってくれたら、あんたの物になってあげるわ」
霊夢はにこっと微笑んで言った。
天使のような笑みと言うのだろうか。可愛かった、恐ろしく。
そう、まさに恐ろしかった。霊夢の笑顔も、息使いも、甘ったるい匂いも。
天子は苦しそうに喘いでいたが、息が落ち着いてくるとぼろぼろと涙を零した。
「う……うぇっく……だれが……グスッ、あんた何か大っ嫌い!」
「あ、ちょっと」
天子は絶叫して霊夢を振りほどいて、逃げだした。
零れ落ちる涙の意味も分からずに。
霊夢は天子がスカートを翻して飛んで行くのをぼーっと見つめ、何か閃いたように台所に入って行った。
―――――――
「うっ……うっ……」
天子は部屋の片隅で泣いていた。膝といっしょにお気に入りの兎のぬいぐるみを抱えて。
嗚咽を漏らしながら、鼻を啜る。
あんなことをされるとは思わなかった。
あんな奴だとは思わなかった。
天子は一度目を擦った。
そして、別れ際のセリフを思い出す。
(私ね――――あんたの物になってあげるわ)
ドクンと胸が張り裂けそうになって、また大粒の涙を落とす。
鮮やかな赤色のカーペットに、涙は滲むようにして消えていく。
天子は何故自分が泣いているのか、今だに理解できていなかった。
心は痛んでいない。天子が思い込んでいるほど、天子自身の心は傷ついてはいないのだ。
それなのに出る涙――これは、驚きと幸せが混じって出る涙だった。
気が付いていない、自分の幸せに気が付かない振りをして、反抗している。これ以上の幸せを求めるために駄々を捏ねる子供。
所詮、甘やかされて育った天子にはまだ成長していない部分もある。それだけだ。
だから、初めての経験や身に起こる変化に疎く、自分は偉いのだから望んでも罰は当たらないと思っている。
しばらく泣いていると、玄関からノックの音が聞こえてきた。
天子は真っ赤になった目を再度擦って、立ち上がった。
「……衣玖? ごめん今都合が悪いの」
枯れた声を出すまいと出来るだけ抑揚を利かせて言う。
ここは比那名居の本家ではなく、天子が小さい時我がままで作ってもらった小さな家だった。今は廃れた秘密基地のようなものだ。
そして小さいと言っても民家の家と何ら変わらない。ここに来ることはもうほとんどないが、家臣に掃除くらいはさせてある。
ここの存在を知っているのは衣玖くらいだった。
トントン。
ノックは治まらない。
天子は苛立って、声を荒げた。
「都合が悪いって言ってるでしょ!? 今日は帰ってよ!」
ダンダン。
天子の声に合わせて、音も大きくなる。
天子は立ち上がって玄関まで行き、怒鳴った。
「いい加減にしてよ!!」
刹那に、ピタリと音が止む。
諦めてくれたのだろうと天子はほっと一息ついた。こんな顔は見せられない。
踵を返すと、真後ろにいた人物と、ばっちり目が合った。
その人物は大きなリボンを揺らしながら、言った。
「私は衣玖なんて名前じゃないわよ?」
天子は吃驚して飛びのいて、尻もちをついてしまった。
「あ……ああ!?」
霊夢は風呂敷を片手に持って、そこに佇んでいた。
機嫌が好さそうだ。柔らかな太陽のような笑顔だった。
「あ……貴方どこから……」
「そこ」
霊夢は何もない空間を指さした。その先には壁があるだけだ。
「だから……どこよ」
「そこよ、その空間」
空間と聞いて、天子は思い出した。
どこかの隙間妖怪ほどではないが、この巫女も瞬間移動のようなものを扱えるのだ。盲点だった。
「何てずるい……うう……」
大分納まっていた涙が、再び流れだす。
「よく泣くわね。それよりほら、おやつ作ってるの。美味しいわよ」
霊夢は風呂敷をよこした。天子は反射的にそれを手で払う。
風呂敷はガコガコと耳障りな音を立てながら廊下を転がった。
「帰ってよ! もう帰って! 二度と顔も見たくない!」
ヒステリックに叫んで、天子は蹲った。
霊夢は動じずに転がった風呂敷を拾いに行った。
ちらと腕の間から薄眼を開けて、霊夢の様子を見る。霊夢は至って笑顔で、風呂敷をひっくり返していた。
その横顔を見ているとどこか安心して、落ち着いてくる。
「……どうして?」
ぽつりと、問う。
「ん?」
「どうしてここって判ったの?」
霊夢は一瞬の間を置いてから、あっけからんと言い放った。
「左手小指から伸びた糸を辿ったの」
ボン! と天子が沸騰する。
「馬鹿! 死ね!」
それを霊夢はどう受け取ったのか分からないが、笑い飛ばして言った。
「あはは、嘘よ。何騙されてんの」
「分かるわそれくらい! 真面目に答えてよ!」
「ん~と、それ」
霊夢は天子の背中を指さした。
天子は背中に腕を伸ばす。
「何これ……御札?」
「発信機」
「何が赤い糸よ!」
天子は札を引きちぎった。
あの時に、背中に張ったのだろう。何と手グセの悪い巫女だ。
天子は僅かな期待を裏切られたようで、憤慨した。
「誰も赤い糸何て言ってないじゃない」
ぼそりと霊夢はつまらなそうに、呟く。
ズキンと心が、鋭い針が刺さったかのような痛みを訴えた。
霊夢の顔はお日さまではなくなっていた。下らないものを見た時のように、使えない玩具を手に取った時のように、完全に興味を失った冷たい目をしていた。
ガラガラと、唐突に心の支えになっていた何かが崩れていく。
結局そうなんだ。霊夢にとってはただ遊んでいるだけなのだ。そう天子は失望した。
「そう、糸が赤くなるのはこれからよ」
一転して霊夢の双眸がきらりと輝く。左手で拳を握りしめていた。
「……ちょっとそういうこと!? がっかりした私が馬鹿みたいじゃない!」
自分はこの巫女に右へ左へとうまく誘導されている気がしてならないと天子は思った。
崩れた分だけ、幸せと安堵が心に広がって行くのを止められない。
「がっかりしたの?」
「うるさいうるさい!」
霊夢は風呂敷を広げた。
中には重箱が一つ。
「おやつよ」
「さっき聞いたわ。でも中身はからでしょ」
さっき払った時に気が付いた。中身は入っていない。
重箱は異常に軽かったし、落ちた時の音も中が空洞であることを表していた。
それに自分を追ってくるのが速すぎる。料理してたのなら、もっと時間がかかるはずだ。
「ん、いや。そろそろのはず」
ぴぴぴぴぴ。
突然、電子音が聞こえてきた。
「何の音?」
「これよ」
霊夢が重箱を開く。中身は二枚の御札だった。
一枚はしゅーと煙を上げながら、音を発している。
「それ……なに?」
「だから、『作ってる』って言ったじゃない」
霊夢はそれをすぐに破り捨てた。音が止む。
そしてもう一枚の札に手を置いた。
「はい」
「……小指?」
「指切りよ」
「何でそんなこと」
「早く」
天子はおずおずと霊夢の小指に自分の小指を絡ませた。左手だった。
不意に、霊夢から甘い匂いがした。霊夢の匂いではない。香ばしい匂いだった。
霊夢はにこっと笑うと、右手で印を結んだ。
「オンバザラダラマキリクソワカ」
刹那に火花が散って世界が暗転した。
天子は突然のことに叫び声をあげる暇もなく、歪んだ世界へ放り投げられた。
必死に指を動かして、小指の感触を確かめる。そこには確かに霊夢がいた。
「何ぼけっとしてるのよ」
「え? ええ?」
霊夢に突かれて我に返るとそこはもう小屋ではなかった。神社の台所だった。
「今のはどうやったの?」
「距離があると隙間移動できないから、目印を付けておくのよ」
床についた手に、重箱に入っていたのと同じ御札があった。と言うことは、あの小屋には重箱が転がっているままなのだろうか。
霊夢は古びているこの台所には似つかわしくないオーブンから、焼きたてのクッキーを取り出した。
香ばしい香りが狭い台所に広がった。
「ほら、クッキー。美味しいわよ」
「う、うん」
天子はまだ空間の移動という術に頭が付いていかず、混乱した思考の中でそれを手に取った。
熱かった。その焼き菓子はまだ熱を持っていた。
家で出されるのはいつも冷たいクッキーだったから、新鮮だった。
一口、まるで誘われるように齧った。
特別味が良いわけではない。
家で出されたクッキーよりも味は劣っていたし、形も悪かった。
よくよく見てみれば、少し焦げているところもある。
バニラエッセンスの苦さも舌先を突いた。
でも、美味しかった。
「美味しいでしょ?」
霊夢は笑顔で問いかけてくる。
天子は光の籠った眼で、欠けたクッキーを眺めた。
そして、迷わずに言った。
「美味しい」
味は良くない、形は悪い、焦げている、苦い。
いいところは大よそなかったが、迷うことはなかった。
このクッキーは確かに美味しかったのだ。
美しい味だった。
今まで自分に作られていた形だけの偽物ではなかった。
物の良いコピーではなかった。
大量生産の、大した気持ちも籠っていないどうでもいいものではなかった。
霊夢は天子のことを想い、天子のことを考えて、精一杯の愛情を込めて、これを作ったのだ。
それが、十分に伝わってきた。
「でしょー? 私が作ったものだし、美味しくないわけがないわ……うえ苦っ」
霊夢はクッキーを口に放り込み、軽くむせた。
そして納得いかない様な表情でクッキーとにらめっこをし始めた。
「おかしいわね、アリスに言われたとおりに作ったはずなのに。どっか違ってたかしら? ん~」
霊夢は天子からの視線に気が付くと、しゅんと頭を垂れた。
頭のリボンが弱々しく揺れる。
その姿が、天子にはとても可愛らしく見えた。
「ごめん、失敗しちゃったみたい」
「ん、全部食べる」
「いいわよ、無理しなくても」
「私に作ってくれたんでしょ」
「まあ、そうだけど」
天子はクッキーをもう一つとって、口に放り込んだ。
今度の奴は、先ほどのように形は悪くなかったが、ひどく苦かった。焦げていたのだろう。
もう一つとって、口に入れる。
今度のは形は酷かったが、焦げてはいなかった。そのかわり独特の苦みがある。バニラエッセンスを入れてから、よく混ぜなかったせいだろう。
更にもう一つ。今度のは素直に美味しかった。今までで、一番美味しかった。形もよかった。焦げてもいなかったし、苦くもなかった。
「ねぇ、もういいわよ」
霊夢は明らかに落ち込んでいた。目も伏せがちだったし声にいつもの張りがなかった。
霊夢だって落ち込むのだと、初めて天子は気が付いた。
あの強かった霊夢が、超人のような精神力を持っているように見えた霊夢が、こんな些細なことで気落ちするのだ。
その事実に、天子は驚いた。
何て事はない。
幻想の蝶も――ただの人間なのだ。
脆くて弱い、人間なのだ。
「美味しかったって言ってるじゃない」
「美味しいわけないでしょ、こんなの」
そうだ。味は良くない。でも、天子にはこのクッキーを捨てることができなかった。
何個か食べてみてわかったのだ。このクッキーは霊夢なのだと。
味も形も安定しないこのクッキーは、霊夢そっくりだ。いつも落ち着いているように見えて、内心では焦って怯えて混乱して。思い立ったことはすぐに行動する単純さ。当然、巧くいかなくて泣きそうな心境。
この焼き菓子は霊夢の性格を丸ごと写し出しているようだった。
これを捨ててしまうことなんて、とてもできなかった。
「霊夢」
「何よ」
「次はもっと美味く焼いてよね」
「……わかった」
霊夢は小さく首を上下させた。
天子は残ったクッキーを口にまとめて放り込んで、言った。
「夜、ご馳走してあげるわ」
「……何で急に」
「クッキーのお礼」
天子は口いっぱいに頬張ったものをがしゅがしゅと噛み砕いた。
霊夢は「ありがと」と短く答えた。
その表情が、何か気に入らなかった。まるで期待してない様な、どうでもよいと言う様な。
せっかく、自分が御馳走してやると言っているのに。
天子は口に入っていたものを全て飲み込んだ。
「……霊夢」
天子は返事を待たずに霊夢の肩を掴んで引き寄せた。
そして、唇を触れ合せた。
触れ合うだけ――ただ触れ合うだけの行為の、何と甘美なことか。
「……甘いでしょうが」
霊夢は目を見開いた。
今度のキスは、あまり恥ずかしくなかった。
「甘いでしょう。私が愛情を込めたからよ」
「私だって込めた」
霊夢は唇を尖らせて、そっぽを向いた。
叱られている子供――――まるで自分を見ているようだ。
「いつ聞いたかも忘れたような曖昧な記憶で美味いもんが出来れば、お菓子職人何てこの世にいらないのよ。反省しなさい」
「……今までは適当でもうまくやれた」
「いいわけしない」
なまじ何の努力もなしに上手くやってきたために、こういう時の対処が出来ないのだ。
天子も何か努力したことがあるわけではなかったが、その分霊夢の考えていることが大体理解できた。
こんな自分でも、人を説教することができると知ったのは、いい経験だと天子は思った。
霊夢は未だに納得できずに、そっぽを向いていた。
「それじゃあ」
霊夢は天子に視線を戻した。
「私のどこを好きになったのか、言ってくれたら私も反省する。今度からは一生懸命やる」
「本当に?」
「嘘はつかないわ。私は巫女だもの」
ついさっきは死ぬほど恥ずかしい質問だったのに、今度は全然恥ずかしくなかった。
むしろ、落ち着いていた。
「私はね……その」
霊夢はじっと天子の目を見つめている。
「最初は……貴女の真っ直ぐな目が気になったんだと思った。けど違った。貴女の目は真っ直ぐだけど……どこか無機質なの。人を飲み込んで虜にすることはできるけど、人を惹きつけることはできない」
霊夢は動かない。天子は続ける。
「次は貴女の才能と言うか、器量に憧れを抱いているのだと思った。でも違った。貴女は確かに才能があるけど、それは人を退ける力。器量は広い、けど広すぎる。空白の部分があまりにも大きくて、頼ってきた人を支えるどころか、不安にさせる」
霊夢の無機質な目からつう、と一滴の熱が流れ落ちた。
「だから迷ったの。私は本当にあなたが好きなのか毎晩毎晩……どれだけ苦しめれば気が済むのよって。夢にまで出てくるし。日常生活には支障をきたすし。貴女を手に入れても、私じゃとても釣り合わないかなって思ったの。……でもわかったわ、やっと。今やっとわかった」
狭い台所で、天子は己の声が反響するのを聞いた。
「貴女――弱いのよ」
ガシャン。
霊夢がふら付いて、傍にあったコップを落とした。
ガラスは割れて粉々になった。
天子はそれを見据えて、続ける。
「強いくせに、誰よりも弱いのよ貴女。私が惹かれたのはそこなのよ」
霊夢はまたふら付いて倒れそうになった。
天子は霊夢を支えて、御姫様抱っこで持ち上げた。
足もとのガラスで傷つけることがない様に。
霊夢の体から、ドクドクという激しい鼓動を聞いた。霊夢は天子の服をギュッとつかんで、震えていた。
「霊夢、好きよ。あなたが欲しい。私がずっと護ってあげる。弱いあなたを護ってあげる。虐められないように、寂しくならない様に、辛くならない様に、苦しくならない様にずっと傍にいてあげる。だから――」
天子は目を細めた。
「――泣かないで」
「うっぐ……うぁぁ……うあぁぁぁぁぁ」
悲痛な嗚咽が響く。
霊夢はこんなに小さかったのかと、こんなに軽かったのかと天子は今になって思った。
こんなに小さく軽い女の子の両肩に、幻想郷という世界の重みが圧し掛かっていたのだ。
しかし、天人の自分なら、幻想郷を持ち上げる霊夢を、下から纏めて持ち上げてやれる。自分は強いのだ。
だから――
「もう大丈夫。大丈夫だから」
震える背中を擦ってやる。
きっと、こんな風に慰めて貰えたこともないのだろうと不憫に思う。
春先にしてはやけに冷たい風が、台所に吹き付けてきた。
天子は霊夢に自分の帽子を被せて、深く抱きしめた。
ずっとそうしてやった。
嗚咽が止むまで。
――――
それは、本当にあったことなのかと天子は我ながらに疑問をもった。
欠伸をして、まさか私がねぇとひとりごちる。
青空を見上げながら、ぼーっと数週間前のことを思い出していたのだ。
気持ちの良い風が、頬を撫でる。
「なんだか信じられないなー」
たった数週間前の出来事なのに、もう自分の記憶を疑い始めている。
霊夢があの時泣いた理由も、もう忘れてしまった。聞こうと思えば聞けるのだろうけど、それも何だか憚られる。
と言うことは忘れてしまった方がいいのだろう。そう思うことにした。
あの後、何度やってもクッキーは美味しくならなかった。服は甘い匂いが付いて取れないし、クッキーにも飽きてしまった。
どんな奴にも、苦手と得意が共存しているのだなあと感慨にふける。
不意に強い風が吹いて、膝の上に乗っている大きなリボンを揺らした。微かな寝息が、続いている。
「まあいっか、どうでも」
終わりよければ全てよし、結果が良ければ全てよし。
天子は神社の縁側で、果てしない大空に向かって呟いた。今私は幸せである、と。
空は雲ひとつなく、どこまでも青い。
温かい風に乗って一枚の、桃色の花弁が舞い降りた。
季節はすっかり、春である。
天子は高い高い空を見上げて呟いた。
寝ころんでいるのは屋敷の屋根の上だった。時々涼しい風が通り抜けていくので、気持ちがいい。
照る日差しは雲で途切れ途切れ。それも丁度良いくらいだった。
天界から見上げても空は果てしない。ここよりも高い位置に雲が漂っているし、わたあめのような雲を除けば、水色の絵具をぶちまけたキャンバスのようだ。
――不意に胸が痛んで、天子は眉をしかめた。
黙って一人でいると、時々こういうことが起きる。心臓を何かが締め付けるような痛みだ。蠢く靄が心臓に纏わりついて、鼓動を阻害するような不快感。
「……霊夢」
ぼそりと呟いてみる。
何故だろうか。
こういう時に彼女の名前を口にすると心の痛みが柔らんで、ほんのりと甘い安心感が胸に広がる。
「……私何いってんのよ!?」
そして激しい羞恥心に駆られる。ころころと転げ回ってもまだ足りない。
うつ伏せに帽子を深々と被って、足をばたつかせながら真っ赤になった顔を隠してう~と唸る。
この頃、妙な衝動に駆られて困る。
何故、あの巫女のことを考えると胸が痛くなるのか。
人の意識に入り込んでくる図々しさは流石幻想郷の巫女であると言えよう。
その上精神面にもダメージを与える。今まで味わったことのない攻撃方法だ。正直参る。
それよりも何故、あの巫女の名前を口にすると安心するのか。
呟くだけでも、胸がほこほこと温かくなり、気持ちがいいのだ。まるで危ないお薬である。
しかし副作用はキチンとあるようで、羞恥心にストライクな爆弾が炸裂する。
そして極めつけは何と、毎晩夢に出てくるのだ。しかも色々なパターンがある。今のところは百五十種類をコンプリートしている。毎朝しっかり夢日記を書いているので忘れることがなく、安心だ。たった三日の日記も続けられない天子が、信じられない程のモチベーションを維持している。
代替はロマンチックな風景で、霊夢がお弁当と食べさせてくれたり、甘えてきたり――時にはとても人には言えない様な内容の夢まで見てしまう。
そんな感じの苦悩に悶えて、天子は日々を送っていた。
ここまで頑張ってきたが、もう耐えられそうにない。段々と胸が苦しくなるし、発作の回数も増えてきている。そもそも何故高貴な自分があんな地上人に悩まされなくてはいけないのか。
「もしかして、変な呪いにでもかかったのかしら」
天子はがばっと起き上がった。
そうだ、そうだとしか思えない。
自分があんなぐうたら巫女に屈するなど、あってはいけないのだ。
「ならば呪いを解いてもらわないと、ね」
天子は地上に向かった。
向かっている途中これで霊夢に会う口実が出来たと喜んでいる自分に気がついて雲の上を転げ回ってから向かったので、博麗神社に到着したのは昼過ぎになってからだった。
――――
「……と言うことよ。私に何かしたのなら素直に言いなさい。許してあげなくもないわ」
「いや、特に何もしてないけど」
「嘘を言わない」
霊夢はいつも通りのほほんとお茶を啜っていた。無邪気な瞳に天子を映している。
「……症状は?」
「だから、あんたのことを考えると、その」
霊夢は曇りのない目で、真っ直ぐに天子を見据えている。
天子は少しの恥ずかしさを覚えて目を逸らした。
「その、胸が苦しくなって、温かくなって、ふわふわして、恥ずかしい」
「ふうん」
天子が視線を霊夢に戻すと、ピントが合わなかった。
いつの間にか、目の前に霊夢がいた。鼻と鼻がふれ合いそうな距離だ。真黒の瞳が、天子を飲み込んでいる。
天子は頭の中が真っ白になって、ごくりと唾を飲み下した。
「あんた」
じっと天子を覗き込んでくる。
天子はまた視線を逸らした。このまま目を合わせ続けると、霊夢に取り込まれそうで怖かった。
「あんた私に言いたいことない?」
「な、何もないわよ。あと、近い。離れてよ」
霊夢は一旦顔を離した。天子は息を吐きだせて、ほっとした。
霊夢は首を傾げた。無表情だった。
何を言うつもりだろうか。
天子は不安だった。この巫女が次に何を言うのか。
この巫女のことは本当に分からない。
次に何を言うのか、そもそも今何を考えているかもわからない。なぜ自分はこんな奴を――いや、呪いのせいだったか、危ない危ない。
天子は鼓動を押さえようと呼吸を整えた。心臓は音が聞こえるくらいに脈打っている。霊夢に聞こえてないだろうかと不安になった。
霊夢は無表情でお茶を啜る。落ち着いた様子だ。
これでは自分が馬鹿みたいではないか。
天子は息をついて、正座を直そうとした。
「あんた、私のことが好きなの?」
ぽえ、と霊夢は何気なく言った。
眼前に広がる風景が、一気に氷結した。
「……は?」
完全に不意、死角からのやり、意識の外側からのストレート。奇襲されてしまった。天子の脳はその単語の意味を理解するのにたっぷり五秒費やする。
そして、感情が大爆発した。
「な……ばっ!? 意味わかんない!」
見る間に顔を真っ赤に染まって、泣きそうな表情になる。
「信じられない! 何て事聞くのわけわかんない!」
顔を見られない様に、そのまま突っ伏して捲し立てた。
急に沸騰した頭を冷ますために、言葉として熱源を吐き出す。
同時に熱い涙が頬を伝って言った。
恥ずかしくて恥ずかしくて死にそうだった。むしろ死んだほうがましだった。
心の一番見られたくないところを覗き見られてしまったような気がして、もう何もかもが嫌だった。子どもの頃に考えた怪獣を全国配信されたような屈辱感だった。
「ねぇ天子、ちゃんと言ってよ。私のこと好き?」
「いや……いや……!」
天子は耳を押さえて首を振った。
答えたくなかった。こんなムードも何もない告白なんて真っ平御免だった。
当たり前だが、天子だって子供じゃない。この気持ちが呪いだなんて本気で思ったことは一度だってなかった。だからこそ、日々想像していた好意の告白をこんな形で行うのは嫌だった。
「ねえ天子」
天子は顔を上げると、霊夢は笑っていた。そう言えば今日霊夢の笑った顔を見たのは初めてだった。
「あんたは私のどこが好きなの?」
「うう……」
怖かった。天子は霊夢に怯えていた。前に見た笑顔はお日さまのように温かくて安心する笑みだったのに、今回は違った。別の――機械のような無機質で冷たい目をしていた。
霊夢は天子の背中に手を回して、ゆっくりと撫でてきた。
天子は反射的に霊夢を振り払おうとしたが、力を発揮する前に、霊夢の唇が唇を覆ってきた。
「や……やうっん!? ん……んは……はう……んく、ん……」
世界が真っ白く、あるいは真っ黒く染まる。次に襲ってきたのは嫌悪感だった。
拒絶反応を起こして初めこそ抵抗したものの、蹂躙するような舌の動きに天子の行動は制限されていった。
「は……んふ……んく……ちゅ、はぁ」
どろどろとした何かに、体が沈んでいくようだった。強制的に、嫌悪感が削られていく。
頭が急速に思考を放棄していき、快感だけを取り入れる様になる。
半分眠っているような心地よさ、ぬるぬるとした感触に勝手に震え出す背中。まるで温かいプールを漂っているような気持だった。
「ふ、中々可愛い顔するじゃない」
霊夢はぺろと口の周りを舐めった。
唇同士が離れてもなお、舌や口内の神経が甘ったるい痺れを脳に送り続けてくる。
天子は喘ぐので精いっぱいだった。
「私ね、一番初めに私に好きって言ってくれた人の物になろうって決めてたの。あんたがもし素直に私のことを好きって言ってくれたら、あんたの物になってあげるわ」
霊夢はにこっと微笑んで言った。
天使のような笑みと言うのだろうか。可愛かった、恐ろしく。
そう、まさに恐ろしかった。霊夢の笑顔も、息使いも、甘ったるい匂いも。
天子は苦しそうに喘いでいたが、息が落ち着いてくるとぼろぼろと涙を零した。
「う……うぇっく……だれが……グスッ、あんた何か大っ嫌い!」
「あ、ちょっと」
天子は絶叫して霊夢を振りほどいて、逃げだした。
零れ落ちる涙の意味も分からずに。
霊夢は天子がスカートを翻して飛んで行くのをぼーっと見つめ、何か閃いたように台所に入って行った。
―――――――
「うっ……うっ……」
天子は部屋の片隅で泣いていた。膝といっしょにお気に入りの兎のぬいぐるみを抱えて。
嗚咽を漏らしながら、鼻を啜る。
あんなことをされるとは思わなかった。
あんな奴だとは思わなかった。
天子は一度目を擦った。
そして、別れ際のセリフを思い出す。
(私ね――――あんたの物になってあげるわ)
ドクンと胸が張り裂けそうになって、また大粒の涙を落とす。
鮮やかな赤色のカーペットに、涙は滲むようにして消えていく。
天子は何故自分が泣いているのか、今だに理解できていなかった。
心は痛んでいない。天子が思い込んでいるほど、天子自身の心は傷ついてはいないのだ。
それなのに出る涙――これは、驚きと幸せが混じって出る涙だった。
気が付いていない、自分の幸せに気が付かない振りをして、反抗している。これ以上の幸せを求めるために駄々を捏ねる子供。
所詮、甘やかされて育った天子にはまだ成長していない部分もある。それだけだ。
だから、初めての経験や身に起こる変化に疎く、自分は偉いのだから望んでも罰は当たらないと思っている。
しばらく泣いていると、玄関からノックの音が聞こえてきた。
天子は真っ赤になった目を再度擦って、立ち上がった。
「……衣玖? ごめん今都合が悪いの」
枯れた声を出すまいと出来るだけ抑揚を利かせて言う。
ここは比那名居の本家ではなく、天子が小さい時我がままで作ってもらった小さな家だった。今は廃れた秘密基地のようなものだ。
そして小さいと言っても民家の家と何ら変わらない。ここに来ることはもうほとんどないが、家臣に掃除くらいはさせてある。
ここの存在を知っているのは衣玖くらいだった。
トントン。
ノックは治まらない。
天子は苛立って、声を荒げた。
「都合が悪いって言ってるでしょ!? 今日は帰ってよ!」
ダンダン。
天子の声に合わせて、音も大きくなる。
天子は立ち上がって玄関まで行き、怒鳴った。
「いい加減にしてよ!!」
刹那に、ピタリと音が止む。
諦めてくれたのだろうと天子はほっと一息ついた。こんな顔は見せられない。
踵を返すと、真後ろにいた人物と、ばっちり目が合った。
その人物は大きなリボンを揺らしながら、言った。
「私は衣玖なんて名前じゃないわよ?」
天子は吃驚して飛びのいて、尻もちをついてしまった。
「あ……ああ!?」
霊夢は風呂敷を片手に持って、そこに佇んでいた。
機嫌が好さそうだ。柔らかな太陽のような笑顔だった。
「あ……貴方どこから……」
「そこ」
霊夢は何もない空間を指さした。その先には壁があるだけだ。
「だから……どこよ」
「そこよ、その空間」
空間と聞いて、天子は思い出した。
どこかの隙間妖怪ほどではないが、この巫女も瞬間移動のようなものを扱えるのだ。盲点だった。
「何てずるい……うう……」
大分納まっていた涙が、再び流れだす。
「よく泣くわね。それよりほら、おやつ作ってるの。美味しいわよ」
霊夢は風呂敷をよこした。天子は反射的にそれを手で払う。
風呂敷はガコガコと耳障りな音を立てながら廊下を転がった。
「帰ってよ! もう帰って! 二度と顔も見たくない!」
ヒステリックに叫んで、天子は蹲った。
霊夢は動じずに転がった風呂敷を拾いに行った。
ちらと腕の間から薄眼を開けて、霊夢の様子を見る。霊夢は至って笑顔で、風呂敷をひっくり返していた。
その横顔を見ているとどこか安心して、落ち着いてくる。
「……どうして?」
ぽつりと、問う。
「ん?」
「どうしてここって判ったの?」
霊夢は一瞬の間を置いてから、あっけからんと言い放った。
「左手小指から伸びた糸を辿ったの」
ボン! と天子が沸騰する。
「馬鹿! 死ね!」
それを霊夢はどう受け取ったのか分からないが、笑い飛ばして言った。
「あはは、嘘よ。何騙されてんの」
「分かるわそれくらい! 真面目に答えてよ!」
「ん~と、それ」
霊夢は天子の背中を指さした。
天子は背中に腕を伸ばす。
「何これ……御札?」
「発信機」
「何が赤い糸よ!」
天子は札を引きちぎった。
あの時に、背中に張ったのだろう。何と手グセの悪い巫女だ。
天子は僅かな期待を裏切られたようで、憤慨した。
「誰も赤い糸何て言ってないじゃない」
ぼそりと霊夢はつまらなそうに、呟く。
ズキンと心が、鋭い針が刺さったかのような痛みを訴えた。
霊夢の顔はお日さまではなくなっていた。下らないものを見た時のように、使えない玩具を手に取った時のように、完全に興味を失った冷たい目をしていた。
ガラガラと、唐突に心の支えになっていた何かが崩れていく。
結局そうなんだ。霊夢にとってはただ遊んでいるだけなのだ。そう天子は失望した。
「そう、糸が赤くなるのはこれからよ」
一転して霊夢の双眸がきらりと輝く。左手で拳を握りしめていた。
「……ちょっとそういうこと!? がっかりした私が馬鹿みたいじゃない!」
自分はこの巫女に右へ左へとうまく誘導されている気がしてならないと天子は思った。
崩れた分だけ、幸せと安堵が心に広がって行くのを止められない。
「がっかりしたの?」
「うるさいうるさい!」
霊夢は風呂敷を広げた。
中には重箱が一つ。
「おやつよ」
「さっき聞いたわ。でも中身はからでしょ」
さっき払った時に気が付いた。中身は入っていない。
重箱は異常に軽かったし、落ちた時の音も中が空洞であることを表していた。
それに自分を追ってくるのが速すぎる。料理してたのなら、もっと時間がかかるはずだ。
「ん、いや。そろそろのはず」
ぴぴぴぴぴ。
突然、電子音が聞こえてきた。
「何の音?」
「これよ」
霊夢が重箱を開く。中身は二枚の御札だった。
一枚はしゅーと煙を上げながら、音を発している。
「それ……なに?」
「だから、『作ってる』って言ったじゃない」
霊夢はそれをすぐに破り捨てた。音が止む。
そしてもう一枚の札に手を置いた。
「はい」
「……小指?」
「指切りよ」
「何でそんなこと」
「早く」
天子はおずおずと霊夢の小指に自分の小指を絡ませた。左手だった。
不意に、霊夢から甘い匂いがした。霊夢の匂いではない。香ばしい匂いだった。
霊夢はにこっと笑うと、右手で印を結んだ。
「オンバザラダラマキリクソワカ」
刹那に火花が散って世界が暗転した。
天子は突然のことに叫び声をあげる暇もなく、歪んだ世界へ放り投げられた。
必死に指を動かして、小指の感触を確かめる。そこには確かに霊夢がいた。
「何ぼけっとしてるのよ」
「え? ええ?」
霊夢に突かれて我に返るとそこはもう小屋ではなかった。神社の台所だった。
「今のはどうやったの?」
「距離があると隙間移動できないから、目印を付けておくのよ」
床についた手に、重箱に入っていたのと同じ御札があった。と言うことは、あの小屋には重箱が転がっているままなのだろうか。
霊夢は古びているこの台所には似つかわしくないオーブンから、焼きたてのクッキーを取り出した。
香ばしい香りが狭い台所に広がった。
「ほら、クッキー。美味しいわよ」
「う、うん」
天子はまだ空間の移動という術に頭が付いていかず、混乱した思考の中でそれを手に取った。
熱かった。その焼き菓子はまだ熱を持っていた。
家で出されるのはいつも冷たいクッキーだったから、新鮮だった。
一口、まるで誘われるように齧った。
特別味が良いわけではない。
家で出されたクッキーよりも味は劣っていたし、形も悪かった。
よくよく見てみれば、少し焦げているところもある。
バニラエッセンスの苦さも舌先を突いた。
でも、美味しかった。
「美味しいでしょ?」
霊夢は笑顔で問いかけてくる。
天子は光の籠った眼で、欠けたクッキーを眺めた。
そして、迷わずに言った。
「美味しい」
味は良くない、形は悪い、焦げている、苦い。
いいところは大よそなかったが、迷うことはなかった。
このクッキーは確かに美味しかったのだ。
美しい味だった。
今まで自分に作られていた形だけの偽物ではなかった。
物の良いコピーではなかった。
大量生産の、大した気持ちも籠っていないどうでもいいものではなかった。
霊夢は天子のことを想い、天子のことを考えて、精一杯の愛情を込めて、これを作ったのだ。
それが、十分に伝わってきた。
「でしょー? 私が作ったものだし、美味しくないわけがないわ……うえ苦っ」
霊夢はクッキーを口に放り込み、軽くむせた。
そして納得いかない様な表情でクッキーとにらめっこをし始めた。
「おかしいわね、アリスに言われたとおりに作ったはずなのに。どっか違ってたかしら? ん~」
霊夢は天子からの視線に気が付くと、しゅんと頭を垂れた。
頭のリボンが弱々しく揺れる。
その姿が、天子にはとても可愛らしく見えた。
「ごめん、失敗しちゃったみたい」
「ん、全部食べる」
「いいわよ、無理しなくても」
「私に作ってくれたんでしょ」
「まあ、そうだけど」
天子はクッキーをもう一つとって、口に放り込んだ。
今度の奴は、先ほどのように形は悪くなかったが、ひどく苦かった。焦げていたのだろう。
もう一つとって、口に入れる。
今度のは形は酷かったが、焦げてはいなかった。そのかわり独特の苦みがある。バニラエッセンスを入れてから、よく混ぜなかったせいだろう。
更にもう一つ。今度のは素直に美味しかった。今までで、一番美味しかった。形もよかった。焦げてもいなかったし、苦くもなかった。
「ねぇ、もういいわよ」
霊夢は明らかに落ち込んでいた。目も伏せがちだったし声にいつもの張りがなかった。
霊夢だって落ち込むのだと、初めて天子は気が付いた。
あの強かった霊夢が、超人のような精神力を持っているように見えた霊夢が、こんな些細なことで気落ちするのだ。
その事実に、天子は驚いた。
何て事はない。
幻想の蝶も――ただの人間なのだ。
脆くて弱い、人間なのだ。
「美味しかったって言ってるじゃない」
「美味しいわけないでしょ、こんなの」
そうだ。味は良くない。でも、天子にはこのクッキーを捨てることができなかった。
何個か食べてみてわかったのだ。このクッキーは霊夢なのだと。
味も形も安定しないこのクッキーは、霊夢そっくりだ。いつも落ち着いているように見えて、内心では焦って怯えて混乱して。思い立ったことはすぐに行動する単純さ。当然、巧くいかなくて泣きそうな心境。
この焼き菓子は霊夢の性格を丸ごと写し出しているようだった。
これを捨ててしまうことなんて、とてもできなかった。
「霊夢」
「何よ」
「次はもっと美味く焼いてよね」
「……わかった」
霊夢は小さく首を上下させた。
天子は残ったクッキーを口にまとめて放り込んで、言った。
「夜、ご馳走してあげるわ」
「……何で急に」
「クッキーのお礼」
天子は口いっぱいに頬張ったものをがしゅがしゅと噛み砕いた。
霊夢は「ありがと」と短く答えた。
その表情が、何か気に入らなかった。まるで期待してない様な、どうでもよいと言う様な。
せっかく、自分が御馳走してやると言っているのに。
天子は口に入っていたものを全て飲み込んだ。
「……霊夢」
天子は返事を待たずに霊夢の肩を掴んで引き寄せた。
そして、唇を触れ合せた。
触れ合うだけ――ただ触れ合うだけの行為の、何と甘美なことか。
「……甘いでしょうが」
霊夢は目を見開いた。
今度のキスは、あまり恥ずかしくなかった。
「甘いでしょう。私が愛情を込めたからよ」
「私だって込めた」
霊夢は唇を尖らせて、そっぽを向いた。
叱られている子供――――まるで自分を見ているようだ。
「いつ聞いたかも忘れたような曖昧な記憶で美味いもんが出来れば、お菓子職人何てこの世にいらないのよ。反省しなさい」
「……今までは適当でもうまくやれた」
「いいわけしない」
なまじ何の努力もなしに上手くやってきたために、こういう時の対処が出来ないのだ。
天子も何か努力したことがあるわけではなかったが、その分霊夢の考えていることが大体理解できた。
こんな自分でも、人を説教することができると知ったのは、いい経験だと天子は思った。
霊夢は未だに納得できずに、そっぽを向いていた。
「それじゃあ」
霊夢は天子に視線を戻した。
「私のどこを好きになったのか、言ってくれたら私も反省する。今度からは一生懸命やる」
「本当に?」
「嘘はつかないわ。私は巫女だもの」
ついさっきは死ぬほど恥ずかしい質問だったのに、今度は全然恥ずかしくなかった。
むしろ、落ち着いていた。
「私はね……その」
霊夢はじっと天子の目を見つめている。
「最初は……貴女の真っ直ぐな目が気になったんだと思った。けど違った。貴女の目は真っ直ぐだけど……どこか無機質なの。人を飲み込んで虜にすることはできるけど、人を惹きつけることはできない」
霊夢は動かない。天子は続ける。
「次は貴女の才能と言うか、器量に憧れを抱いているのだと思った。でも違った。貴女は確かに才能があるけど、それは人を退ける力。器量は広い、けど広すぎる。空白の部分があまりにも大きくて、頼ってきた人を支えるどころか、不安にさせる」
霊夢の無機質な目からつう、と一滴の熱が流れ落ちた。
「だから迷ったの。私は本当にあなたが好きなのか毎晩毎晩……どれだけ苦しめれば気が済むのよって。夢にまで出てくるし。日常生活には支障をきたすし。貴女を手に入れても、私じゃとても釣り合わないかなって思ったの。……でもわかったわ、やっと。今やっとわかった」
狭い台所で、天子は己の声が反響するのを聞いた。
「貴女――弱いのよ」
ガシャン。
霊夢がふら付いて、傍にあったコップを落とした。
ガラスは割れて粉々になった。
天子はそれを見据えて、続ける。
「強いくせに、誰よりも弱いのよ貴女。私が惹かれたのはそこなのよ」
霊夢はまたふら付いて倒れそうになった。
天子は霊夢を支えて、御姫様抱っこで持ち上げた。
足もとのガラスで傷つけることがない様に。
霊夢の体から、ドクドクという激しい鼓動を聞いた。霊夢は天子の服をギュッとつかんで、震えていた。
「霊夢、好きよ。あなたが欲しい。私がずっと護ってあげる。弱いあなたを護ってあげる。虐められないように、寂しくならない様に、辛くならない様に、苦しくならない様にずっと傍にいてあげる。だから――」
天子は目を細めた。
「――泣かないで」
「うっぐ……うぁぁ……うあぁぁぁぁぁ」
悲痛な嗚咽が響く。
霊夢はこんなに小さかったのかと、こんなに軽かったのかと天子は今になって思った。
こんなに小さく軽い女の子の両肩に、幻想郷という世界の重みが圧し掛かっていたのだ。
しかし、天人の自分なら、幻想郷を持ち上げる霊夢を、下から纏めて持ち上げてやれる。自分は強いのだ。
だから――
「もう大丈夫。大丈夫だから」
震える背中を擦ってやる。
きっと、こんな風に慰めて貰えたこともないのだろうと不憫に思う。
春先にしてはやけに冷たい風が、台所に吹き付けてきた。
天子は霊夢に自分の帽子を被せて、深く抱きしめた。
ずっとそうしてやった。
嗚咽が止むまで。
――――
それは、本当にあったことなのかと天子は我ながらに疑問をもった。
欠伸をして、まさか私がねぇとひとりごちる。
青空を見上げながら、ぼーっと数週間前のことを思い出していたのだ。
気持ちの良い風が、頬を撫でる。
「なんだか信じられないなー」
たった数週間前の出来事なのに、もう自分の記憶を疑い始めている。
霊夢があの時泣いた理由も、もう忘れてしまった。聞こうと思えば聞けるのだろうけど、それも何だか憚られる。
と言うことは忘れてしまった方がいいのだろう。そう思うことにした。
あの後、何度やってもクッキーは美味しくならなかった。服は甘い匂いが付いて取れないし、クッキーにも飽きてしまった。
どんな奴にも、苦手と得意が共存しているのだなあと感慨にふける。
不意に強い風が吹いて、膝の上に乗っている大きなリボンを揺らした。微かな寝息が、続いている。
「まあいっか、どうでも」
終わりよければ全てよし、結果が良ければ全てよし。
天子は神社の縁側で、果てしない大空に向かって呟いた。今私は幸せである、と。
空は雲ひとつなく、どこまでも青い。
温かい風に乗って一枚の、桃色の花弁が舞い降りた。
季節はすっかり、春である。
次回は咲霊などをお願いできますか?
私的にはリクエストの中の幽霊(霊夢×幽々子)が見てみたいですな。
完璧な天霊だ。
最後で弱気になった霊夢が可愛らしいです。
次回作も首を長くしてお待ちしております!
ようするに「いいぞもっとやれ」ということです
前半と後半の話の構成がとても上手でした。
天子は子供っぽくてかわいいと思っていたけど、後半の天子からは強い母性のようなものが感じられました。
霊夢も誰かに支えて欲しかったんだなぁって…
ありがとうございます!
次は勇儀萃香霊夢を考えていたのですが、ネタが思いつかなくて。何本か書いてみたのですが。
見送りになりそうです。リクエストしてくれた方、すいません。
2さん
咲夜霊夢は一番初めに中途半端にやってしまって、よい構成が思いつかなくて。すいません。
一番初めのリクエストですから、がんばります! 待っていてください!
3さん
ありがとうございます!
幽々子霊夢のプロット立ててみます!
4さん
ありがとうございます!
5さん
恐縮です!
次もこれより良い作品を目指します!
6さん
コメントありがとうございます!
もっとやらせていただきます!
7さん
読んで下さり、ありがとうございました!
8さん
ありがとうございました!
次も見てやってください!
9さん
ありがとうございます!
がんがんやらせていただきます!
10さん
甘いのは苦手なのですが、がんばります!
11さん
そこまで読んで下さるとは、冥利に尽きます!
文章に隠された布石や、心理が読み取れる描写があって素敵だと思いました。
最後まで読んでみれば「あなたのものになってあげる」という発言が弱さから来ているものであることがうかがえるし、天子に瞳や器の大きさに惹かれたわけじゃなかった。って告げられてるときに不安で動揺していることにも弱さが表れていて、無機質で恐ろしいように見えて、その実脆い少女な霊夢がとても上手に表現されていたように思いました。
…その文章力が羨ましいですな…(´・ω・`)