あのアルビノカレーは一口しか食べていないはずだ。なのに何だろう、舌全体を囲むこのえげつない味は。かなしいべつ世界が広がりそうだ。
耐えることができなくて前歯に舌をこすって味を落とそうとするけど、毒におかされた場所が増えるだけだった。もう何をやってもムダな気がする。諦めたほうがよさそう。
カレーのインパクトのせいで今まで気づかなかったけど、わたしはいつから寝てたんだろうか、しかも口をあけて。のどがカラカラする。口の中をなめると、塩っぽい味がした。さらには、舌がなめたところにくっついた。やっぱり乾いている。
あらかじめ常備されていた水を飲むと、すこしはマシになった。
でもまだすこし痛い。それに体が痛い。特に足が痛い。すこしだけ楽しみにしていたけど、飛行機というのはあまり長旅にはむいていないみたいだ。機内は思っていたよりも狭いし。
でも、これだけはすごくいい。何って、ここは雲の上。だから光をさえぎるものなんてない。
朝の太陽が、わたしたちを照らしてくれるのだ。
「わああ、すごい!」
ふと、窓の外をみていた何人かの女子が感動の声をあげた。何だろうと思って、わたしも窓に近寄る。
窓からすこし下をみると、おもわず「うわぁ……」と声が出てしまう。頭の中で風景を表現する時間を省略して、ただ何も考えずにそれをみていたい気分になった。
いつも自分を包んでいる空は海となり、いつも見上げている雲は島となる。昔から人は言ってきた。「雲はわたあめのようだ」と。
でもそれはすこしちがう。だいたいそれでは、からまった糸みたいじゃないか。
下からみたらそうかもしれないけど、上からみたらそんなんじゃない。
さっきも言ったけど、島というのが一番それっぽいだろうか。たくさんの木々が生えてもり上がった島。しかし「島だ」とはっきり言うことはむずかしい。
それは、海を走る波にもみえる。そう表現するのも捨てがたい。
雲に包まれているのか、雲を包んでいるのかわからないけれど、どっちとも言える、説明しにくい所にある青い空。
確かにそれは海なのだけど、その下にもちいさく雲がみえる。その雲はたまたまほかの雲よりも角ばっていて、それがまた奇跡を生む。
その雲はまるで、水の中に沈んだ都市のようにみえた。
鳥が空を飛ぶとき、きっとこういった景色を見ているにちがいない。島の色にちがいはあるものの、そんなの気にならない。鳥たちにだけ許された景色をわたしたち人間はみている。
いや、こんなところ、鳥でも届かないか。
……思いついた。神の国だ。神だけが住むことを許される、天上の世界。
生きているうちに、こんな景色がみられてよかった。心が鳥肌を立ててふるえ、その振動が体に伝わっていくような気持ちだ。わたしはもしかして、とんでもないことをしてしまったのではないか。
人生で一番キレイな風景をこの場でみてしまったんじゃないだろうか。
何とか頭の中に浮かんだのはそんなことだった。
やがてみえたアメリカ大陸もたしかにきれいだったけど、やはり空の海、雲の島にはかなわない。
……ふと。窓の外の雲のほうに飛んでいった視線を左にそらした瞬間。わたしの体からいっきに冷や汗がふきだした。
飛行機の翼が、うちわの代わりに使われる下じきのようにゆれている。
ちょっと、大丈夫ですか翼さん。あなた鋼鉄でしょ!? しっかりしてくださいな!
飛行機のひ弱にみえる翼に、必死にエールを送る。翼はわたしの応援とは逆に、さらに激しく上下に動く。帰ってから、翼がゆれるのは折れないためだと聞くのだけど、このときのわたしはそんなこと知らない。
折れないで折れないで折れないで! と、ずっと祈りつづけ――いや、この表現はまずい。『折る』と『祈る』、かなり字が似ている。祈れば祈るほど折れやすくなるかもしれない、それは危険だ。
そんな意味不明なことまで考えるようになってしまった。
完全に日本人なわたしだった。
シートベルト着用命令のランプが光ると、そんなに急がなくてもいいだろうに、みんなあわててシートベルトをかたくしめた。何となくわたしひとりだけが遅れるのもイヤだったので、わたしもまた急いでしめた。
「今度は昨日みたいにならないぞ」と誓う。その強い想いにすがりつき、着地の衝撃をがまんする。
衝撃は何度も、大小ばらばらでおそってきた。お尻と頭が痛い。
窓の外は、まだはっきりとみえない。飛行機がはやすぎるためだ。
飛ぶ前に感じたゆれと聞こえた音がもどってきた。怖いものの、足がついたという安心感がある。でも同時に、不安も確かにあった。
(ちょっとこれホントに止まるの!?)
心の中で叫んだ。
わたしの頭の中で、「飛行機ってこわいんだ」と思わざるをえなくなる、飛行機の墜落事故の写真がぐるぐるまわっていた。
壊れた飛行機。火に食べられたかのように真っ黒になっていたり、真ん中くらいでまっ二つに折れていたりとさまざま。
しかしどれも、中にいたらただで済みそうにない。
ダン、と車輪が滑走路で跳ねるたびに、本当に車輪で跳ねているのかが心配になった。もしかして今ごろは機体で跳ねているんじゃないか。つぎの瞬間には飛行機が真横に一回転するんじゃないか。窓にオレンジの炎のペンキが塗られているんじゃないか。
想像すると現実になりそうで、こわくなった。役には立たないだろうけど、座席の腕を置くところにしっかりと爪を立てて握った。
飛行機は、子羊のようにおびえるわたしをの備えを裏切り、希望を裏切らなかった。さすがにあわれだったのかもしれない。
ふと、だんだんとゆれと音が小さくなっていくことに気づく。それからまもなく、静かに止まった。わたしの心臓も止まりそうだった。
飛行機を降りた瞬間、足をさらわれそうなほど強い風がわたしたちを歓迎してくれた。おかげでネクタイが飛び上がってわたしの顔に当たる。しまった、ネクタイピンを持って来るべきだった。
降りてしばらくは足元がフワフワしていて落ち着かなかったけど、すぐにそれは消えてなくなる。かわりに、元気がわきあがってくる。
アメリカに着いたときの最初の一歩は、じつにあっさりしたものだった。そして思ったよりもつらくはなかった。
さて、わたしは今とても困っている。すべての手続きを終えたあと、スーツケースをとりだすところに到着する。
そこで自分のスーツケースをゆっくり回るコンベアーから取り出すのだけど、見逃した。もちろんこれで荷物が取れなくなるわけじゃない。でも、大きくおくれてしまった。友だちはみんな、非情にも先に行ってしまった。
まわりには外国人ばかり。日本人がみえない。
みとめる。迷子だ。群れからはぐれた。
どうしよう。おそらくまわりからみたわたしは、いたって冷静にスーツケースを引っぱっている日本人女性だろう。
でも中身はおおあせり。まわりにあせっていることを悟られたくなくて、必死に営業スマイルにも似た笑顔で「空港の観光ですよ」とみせかけて、うろうろしている。
みんながシャツの下に流れる冷や汗に気づいていませんように。
こっちか、こっちだな!? と自分に尋ねて進むけど、ことごとく外れ。日本人は誰もいなかった。
ああどうしよう、だんだんと余裕がなくなってきた。顔が熱くなって冷や汗が出て、体が冷やされる。直後、寒くなったせいで体がふるえた。
だけど顔だけは熱くて、耳からインフルエンザ並みの熱を感じる。
「ミス宇佐見、ワット アー ユー ドゥイング?」
先生、センキューベリーマッチ。
常識的に、先生が生徒を見捨てるわけないですよね。
「ささ、ユア バッゲージをチェックです。アズ スーン アズ ユー キャン」
たぶん「はよチェックしてもらえ」ってことだろう。
不審物なんて持ってないけど、いちおうチェックされる必要はある。
「ささ、ゼアーですよ」
「あっちですよ」と言いたいのだろう。先生の指を指したほうをみると、確かに荷物チェックをしている外国人のかたがいた。
「ゴー。ミーはレストルームにゴーしますので」
「わかりました、どうもすみませんね」
「ノープロブレーム」
荷物チェックのカウンターに並び、心臓を落ち着かせようとがんばる。何か聞かれたら、とっさに反応できないかもしれない。そんなことなければいいけど……。
いろいろな事態を予想したせいで緊張する。そのせいで荒く息を吐いていると、ついにわたしの順番がまわってきた。
「は、ハロー!」
さあ来いイングリッシュ! こっちはエセ外人の先生と話したことがあるんだ。いまさら英語なんてこわくないやい!
思いっきり元気にあいさつしてやった。
こういうときは元気にやるといいと聞いたからだ。
今は降りるときだから関係ないけど、飛行機に乗る前に、荷物の重さを量られる。一定の量をこえると追加料金を払わないといけない。
しかし、相手は人間。印象のいい人としてあいさつすると、まけてくれるときもあるらしい。だからこういうカウンターに出くわした場合、かみつくように元気にあいさつすることにしていた。
「あ、こんにちは。日本人の方ですね?
飛行機は大変だったでしょう、おつかれさまでした。
さて、あまり後ろの方々をお待たせするのもよくありませんので、さっそくチェックさせて頂きますね、ちょっと失礼致します」
こういうときの脱力感。どう表せばいいんだろう。もう共通語日本語でいいんじゃないか。
空港を出るのにも時間はかかったけど、入るときほどじゃなかった。空港を出たところに同じ学校のみんながいてほっとした。気づけば先生もいた。やはりよくわからない人だ。
おそらくわたしだけは休む間もなく、あっという間に集合場所へと向かうバスに乗せられた。バスの運転手さんに荷物を渡すとき、「タノシンデキテネ!」と言われた。やはり日本語が上手だった。
やはり日本語は共通語にされるべきだ。
バスにゆられて一時間ほど――ちょうど眠たくなってきたころに、集合場所にたどり着いたと先生の声が聞こえた。あいかわらずテンションが高い。
バスの窓から、でっかいラグビーボール――失礼、お太りになったみなさんがたくさんみえた。
「外国人がいっぱいいる……」
めずらしい光景だった。
「ヒアではユーがフォーリナーですよ、ミス宇佐美」
……自分勝手ですいませんね。
「さ、ゲットオフ。ホストファミリーとミーティングです」
できればさけたかった緊張の時間がやってきた。
心臓が大きくはねる。
ラグ――大柄なみなさんと比べると、わたしのホストファミリーらしいおじさんは、やせている。比べると、だけど。
身長は190cmをまちがいなく超えていて、半袖の服にくっきりとかたそうな筋肉がうかんでいる。さらには横幅もわたしの二倍はありそうだ。だけど、太ってはいない。ほかの人と比べると脂肪と筋肉のちがいだけど、それが肥満とマッチョのちがいなのだ。このおじさんは後者。
かなりの巨体だ。
そのおじさんはわたしをみた瞬間ニッと笑い、大声であいさつをした。
「Nice to meet you !」
『はじめまして』という意味だ。日本語ならここは「はじめまして」で返すけど、英語なのだからそのまま返してはいけない。そのくらい知っている。
ばっちり決めてやろう。
「な、ナイストゥーミーチュー、トゥー」
はりきったらつっかえた。今のはかなり下手だった。ちゃんと発音の練習をしとくべきだった。
ずっと笑顔のおじさんは、「マイ ネーム イズ――」と名乗り、『君が蓮子だね?』と聞いてきたので、「Yes !」と答えようとする。けれど、なれない言葉がつっかえて「い、いえす」とかろうじてわかる程度に返した。
「ミス宇佐見、クールダウン」
今ごろノコノコやって来た先生は、笑いながらわたしの肩をポンポンと小さく叩き、おじさんに向かってなめらかな英語で何かを言った。
おじさんが親指を立てて「オーケー!」と言っていたから、『よろしくおねがいします』ということだと思う。
ふだんは変な人としか思わないけど、今日ばかりはすごく頼りになる。全国の英語教師を心からみなおした。先生すごい。
尊敬のまなざしを送られた先生は勝ち誇ったように微笑み、「そろそろセパレートです、エンジョイするんですよ!」と言う。
安心させるためか意味がないのか、おおきく手をふりながらわたしたち二人を見送ってくれた。ごくり、とつばを飲みこむ。
自分では見えないけど、わたしはひどく不安な顔をしていたと思う。性格のわるい友だちなら、これをダシにしばらくいじるにちがいない。相手が先生でよかった。あ、でもこの先生なら後でその話をしてくるかもしれない。けっきょくダメじゃん。
不安と、旅行のあとの悲劇がいっそう強くなっていくのを感じながら、おじさんについていく。スーツケースが、日本を出る前のように重い。
連れて行かれたところには、青い車があった。新車とは言いがたい。たぶんその理由は車全体にある傷だろう。ペンキがはがれて銀色の線がいくつも走っている。
なんだろうこれは、昔事故にでもあったんだろうか。
銀色の傷に顔を近づけていたわたしをおじさんが呼び、「イエス」と返事をしてそちらを向くと、おじさんが扉を開けてくれていた。そしててのひらを車の中に向けたので、お礼を言いながら乗り込んだ。
遠いのか、わたしがつかれているだろうと思っての気遣いか、どっちかはわからない。でもどっちにしても、車はありがたい。飛行機にのっていたせいか、足がちょっとおかしいのだ。
車から集合場所を見ると、先生がこちらに向かって手をふっていた。えらく大げさだ。
こらこら、そんなことよりほかの生徒を見てあげてくださいよ。なんか話しかけられて、顔真っ赤にしながら焦ってる子いるじゃないですか。
……でも。
「ありがとうございます」
ぼそっと言った、おそらくきこえていない一言。でも先生は「グッドラック!」とおそらく言ったのだろう、親指をたててくれた。
「はあ、離れるとなるとすこしさびしいな。けっこういい人だったしなー」と永遠の別れのようなことを思った。
もし最後のわかれなら、もっとあいさつは工夫したかな。いや、やっぱこれでいいか。担任だし。
と、思ったけどよくなかった。
耳がいいらしいおじさんに「What ?」と聞きかえされた。頭に返事の英文を用意していない状態で話しかけられる、するとどうなるか。答え、無茶苦茶な英語でかえす。そしてつっかえる。
おじさんはハイテンションな笑いかたをしていた。帰りたい。
<つづく>
次回はメリー出るかなー。
ぁ、どこかで
役にたたないが訳に立たないになってましたよ。
早く続きー